気付かぬうちに感じていた時間の使い方への罪悪感。 | ラーメンの人がノートを通して自己対話を始めた結果。

ラーメンの人がノートを通して自己対話を始めた結果。

大人になって生きづらい人生をどうにかしようと悪戦苦闘した結果、ノートで自己対話を始めたら、少しずつ生きやすい環境へと変化していったという話。

最近、24時間の時間の使い方を見直す機会がありました。

 

自分の心地良さを選択する一環で、

時間の使い方も満足度を上げていくということをする意図があったのですが。

 

例えば、休日の過ごし方において、

所謂、ダラダラする時間・・・

・アマプラでアニメを見る

・Web漫画を読む

・ネットサーフィン

・Youtubeを見る

・昼寝

・読書

など。

 

私の中でこの時間に関する満足度が低いんですよね・・・(´•ω•`; )

 

何故なら、私的にあまり良い時間の使い方だと思っていないから。

することがないから、何となくしている時間みたいな扱いで、

要は、暇つぶし的な時間の使い方

 

あ。

別に、意識高い系になりたいとは全く思っていないです(笑´∀`)ヶラヶラ
NHKだから、そういうのが無理なのは自分で分かっています。

 

 

こういう暇つぶし的な時間の使い方をすると、

決まって、

「あー・・・なんと無駄な時間の過ごし方をしたのだろう」

といつも一日の終わりに後悔してしまうんです。

 

 

観たいアニメ動画を見て。

観たい漫画を読んで。

溜まった疲れを取るために、お昼寝をして。

 

”自分のしたいこと”をしているはずなのに、

罪悪感を感じてしまう。

 

では、この罪悪感はどこからやってくるのか・・・?

ということを分析していたら。

 

自分でも気付かぬうちに、

しっかり者でない自分に罪悪感を感じていた

と言うことに気付いてしまいました・・・Σ(OωO )

 

 

しっかり者、もしくは、ちゃんとしていること=母親の望む姿

なんですが、詳しいことは↓から。

 

 

何でもかんでも母親のせいにするつもりもないんですが(´ㅂ`; )

 

ちなみに。

母親に、

「勉強しなさい」とか「宿題やりなさい」

みたいなことを言われることは無くて、

自主的にやっていたタイプです。

 

だから、

母親が望む姿になるよう無意識に考えてしまうし、

こうしておけば安牌だろうと、気付かぬうちに選択してしまう

というのをずっと続けてきたわけです。

 

そういうのが私の中に根付いているので、

ダラダラする時間を過ごすと言うのは、

しっかり者、もしくは、ちゃんとしているに反するわけです。

だから、罪悪感に襲われてしまう・・・。

 

 

もう、母親の望む姿でいる必要もないのですし。

私の休日なのだから、

自分が過ごしたいように過ごせばいいわけで・・・

肯定的?積極的?な休養を認めてあげる

という許可を出すことにしました。

 

 

意識高い系なら、7つの習慣の如く、

休日こそ自分を高めることをするのだ!!!

となるのでしょうけど。

 

(20代半ばまでは、この7つの習慣に感化され、

意識高い系をやろうと頑張ろうとしたこともありましたが、

悉く挫折しましたよw

フランクリンプランナーも持っていました(*′艸`))

 

 

何もしない、生産性のない時間の使い方さえ、

認める、許可する。

 

だから、休日は胸を張ってダラダラします ォーホッホー(´0ノ`o)ォーホッホー

 

 

・・・とは言ってみたものの。

東京から帰ってきてから、実はダラダラする時間がなくて・・・。

バリ取りの仕事は忙しいし、休日はなんだかんだで予定が入っていて、

ダラダラする時間を欲しておりますの、ワタクシ(・ε・`*) ...

 

そんなこともあり。

ポンコツな私は、

積極的な休養の時間を適度に取らないと、

他のパフォーマンスが下がってしまうということにも

気付かされました・・・(;´ρ`) グッタリ

 

 

というわけで。

今回の罪悪感に関しては、

亡くなっても自分の中で母親は生きている

ということを再認識した事象でもありました。

 

 

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