0か1かと思うこと自体が制限ということ。 | ラーメンの人がノートを通して自己対話を始めた結果。

ラーメンの人がノートを通して自己対話を始めた結果。

大人になって生きづらい人生をどうにかしようと悪戦苦闘した結果、ノートで自己対話を始めたら、少しずつ生きやすい環境へと変化していったという話。

前回、

 

で完璧主義も制限とは思ったんですが・・・

まだまだ考察が足りなかったようで。

 

 

完璧主義って、

「0から1に行くとき、1でなければ全てダメ」

みたいな考え方も含まれるのではないかと思ったのです。

 

前回考えていた完璧主義は、

「Aという結果を出すために、全ての行程をこなさなければならない」

というニュアンスだったのですが・・・

 

今回考えたのは、

「0から1に行くとき、

1という結果が得られていない時点で、

全て0と等しい」

みたいな。

 

 

私は、理系なので・・・

こういった哲学的?なことを考えるときに、

数学的に証明する?ことが出来ると納得しやすい頭のようで・・・。

 

 

要は、

「0から1に行くとき、

1という結果が得られていない時点で、

全て0と等しい」

というのは、0と1を整数で捉えるならば、0と1しか存在しない。

 

でも、小数(分数でも良いんですが・・・)も含むと考えれば、

例え0.1でも、0とはイコールではないし、

0よりは1に近づいているということです。

 

 

その感覚が実は非常に重要ではないかと思うのです。

 

例えば、お金の考え方で

「お金は循環しているものである」

というのがありますよね。

 

これに関して、私は言っていることは理解出来るんですけど・・・

本当に私が使ったお金が私の元に戻ってきているのか?

という物質的な視点で考えてしまうんですよ。

 

つまり、どういうことかというと。

 

諭吉に私のサインを書いたとします。

そして、それを買い物とかで使い手放します。

そのサイン付きの諭吉が、巡りに巡って本当に私の元に戻ってくるのか?

という話です。

 

可能性としては0ではないのは分かりますが、

可能性としてはかなり低いと思っているし。

「お金は循環しているものである」

とは、そもそも物質的に考えることなのか・・・?と言われるかもですが。

 

私が持っている循環というイメージが物質的な循環なので、

物質的に納得出来ないと、すっきりしないんですね。

 

だから、私がすっきりしていない時点で、

「お金は循環しているものである」

はずっと心の中で納得できないままです。

 

つまり、

「お金は循環しているものである」

が納得出来れば、1に行ける訳ですが。

納得しなければ1ではないから、

0のままになってしまう。

 

これが制限になっているということです。

 

「お金は循環しているものである」

ということが何となく分かるけれども、

納得は出来ていないと言っている時点で、

 

「お金は循環しているものである」

という考え方を全く理解できない0とは

違うポジションにいるんです。

当然、完全に納得している1とも違う所ですが・・・。

 

したがって。

0と1の間を認めてあげることが、

実は制限をなくすという考え方の一つではないかと思っています。

 

では、その間をどう捉えておくかですが。

 

「納得出来ていないけれど、お金が循環していても良い。」

 

要は、開き直りですね。

これだと、お金が循環していることに許可は出せています。

 

自分では納得は出来ていないし、

自分の中にある確固たる考え方ではないけれども、

その考え方を認めてはいる状態に変化していると思うんですよね。

 

”納得できないから、認めない”

という0の状態とは明らかに違う状態にいます。

そして、確実に1に近づいているんですよね。

 

0に限りなく近い状態だったとしても、

0に比べたら1には近いですから。

 

 

今日の脳内ミュージック

 

 

0と1の間には無限の数字が存在するし、

それらは全て0とは違う。