サンクラブリーからカンチャナブリを経由して、フアヒンに到着したのは午後19時を過ぎた頃だった。丸々一日かけての移動に疲労困憊していたが、目当てにしていた宿がまったく見つからない。Booking.comのマップを何度見直してみても、その場所に宿らしきものはまるで見当たらなかった。
こういうことはままあるのだが、夜分に加えてフアヒンはリゾート地なので宿代も高く、飛び込みで安宿を見つけるのは至難の業だった。しかしそう悠長に宿探しに時間をかけている暇もなく、仕方なく目についたホテルに飛び込んだ。
その思わず飛び込んだ「Damrong Hotel」が正解だった。wifiこそ無いものの、バストイレ付きダブルルームが1泊250バーツである。これなら目当てにしていた宿よりかえって安くつく。気のいい華僑が経営するこの宿で、私は大いに満足して荷物を下ろしたのであった。
宿はマーケットに面しており、ナイトマーケットもすぐ近くにあってロケーションもバッチリだ。そして500mも歩けば海である。この日は早朝から何も食べずに移動を続けたので、屋台でつまみを買って軽くビールを飲むと、そのままベッドの上で泥のように眠り込んでしまった。
移動の疲れもあってグッスリと眠り込んだおかげか、翌朝はスッキリとしたさわやかな目覚めだった。さっそく腹ごしらえに裏手にあるマーケットに行ってクイティアオを食べる。これが30バーツで具もたっぷり入ってうまかった。海辺のリゾート地であっても、こうしたローカルマーケットなら現地価格で食べられるのでとてもありがたい。
海辺に行く前に、マーケットの近くにあるワット・フアヒンに立ち寄ってみた。
フアヒン近辺にもきっと色々と見どころはあるのだろうが、生憎と事前に下調べはしてこなかった。今いる宿ではwifiも繋がらないので、当初の目的どおりここでは観光は抜きにして、ただひたすら海を眺めながら過ごそうと思っている。ここしばらくはカンチャナブリやサンクラブリーで観光に勤しんできたので、これもまたリラックスしたひとときを過ごすいい機会なのだった。
砂浜に出て、青々とした壮大な南国の海を臨む。海といってもここはタイランド湾であり、水平線上には対岸にあるパタヤが霞んで見える。まだ雨季も明けきらないためか雲も多いが、久方ぶりにみる海は胸のすく思いがした。
しばらく忘れていた東南アジアのもうひとつの顔。南国のビーチと空と海。元来、カナヅチである私は、東南アジアと聞いて真っ先にイメージするのは南の島などではなく、山と少数民族と民族衣装である。それでも時にはこうしてビーチリゾートなぞに足を運んでみたくなるときもあるのだ。
浜辺といえば貝がらの土産物。
波打ち際に点在する漂着クラゲ。
ヤドカリだって、ヤシの木に次いで南の島には付きモノだ。
そして蒼い空に広がる、モクモクとした白い雲。私は特に広大な入道雲を眺めるのが大好きだ。空の本当の広さや深さは、広大な雲があってこそ引き立つのである。
しかし、そんな私のビーチリゾート気分はそう長くは続かなかった。やはり雲が多過ぎるのである。晴れ晴れとした爽快な気分で波打ち際を歩いていると、徐々に面積を増した雲はいつのまにか空一面を覆い尽くし、そのうちポツリポツリと雨が降り始めた。
雨は徐々に勢いを増していき、しまいには激しいスコールとなって勢いよく地面を叩き始めた。這々の体で最寄りのコンビニに避難したのだが、雨の勢いはとどまることを知らず路上の水かさはどんどん増していき、そうしてあっという間に路面が冠水してしまった。
コンビニに逃げ込んだはいいものの、そのコンビニの中にまで冠水した水が入り込んでくる。店員たちは路上のバイクを移動させ、入り口に土づめの袋を幾重にも重ねて急ごしらえの堤防を築いた。しかし路上に車が通るたびにその勢いで波が押し寄せてきて堤防越しに水が入り込んでくる。そこをなんとか必死で堰き止めて、侵入した水をモップで掻き出していく。避難してきた客も加わってコンビニ内はてんてこ舞いである。
不安そうに外の様子をうかがう女性従業員。
わやわやと急場をしのぐ対策を練るも、一向に妙案は浮かんでこない。その間にも路上の水とともに、周辺にいたゴキブリの難民までもがコンビニに避難してくる。それらを追い払うために殺虫剤を吹き散らす。そうしているうちに今度は何処からか水が漏れはじめ、そのうち店内の床の半分以上が水浸しになってしまった。
なんとか状況を打開しようとマネージャーに電話で指示を仰ぐ女性従業員たち。しかしなかなか良い指示が飛んでこないのか、事態は一向に好転しない。雨はまったくやむ気配はなく、堤防もそのうち溢れた水に突破されてしまいそうだ。そんな中、さまざまな対応策をせまられる女性従業員たち。あげくは停電まで起きてレジの機能までもがストップする始末。一体どうするのかと、その後の成り行きを静かに見守る。
どうやらお手上げのようだ。万策は尽きたらしい。もうどうにもならないと踏んだらしく、すっかり対策をあきらめた従業員たちはキャッキャと楽しそうに遊び始めた。満面の笑みでポーズをとって自撮りを楽しむ女性従業員たち。みんな揃って記念写真など撮ってはこの状況を無邪気に楽しんでいる。緊張感や緊迫感、あるいは切迫感といったものは微塵もなく、みんなゆるりとした雰囲気の中で働いているのがよくわかる。
同じコンビニでも、タイと日本でここまで働き方のゆとりに差があるものなのかと呆気にとられてしまった。これが南国気質とでもいうのか、給料以上に無駄な責任を背負うようなことはせずに、あくまでマイペースを貫いている。きっと日本のように理不尽に耐える必要はないのだろう。そんなゆとりあるタイ人の性格を心底羨ましく思った。
結局、フアヒン滞在中は毎日のように雨に降られて、気分よくゆったりと海を臨むような日々はほとんど過ごせなかった。仕方なく海は早々にあきらめて、折りたたみ傘片手にマーケット付近をくまなく散策してみたのだが、あまり楽しい滞在にはならなかったというのが実情である。
フアヒンがいまいち楽しめなかった理由はなにも天気のせいばかりではなく、なんとなく街の雰囲気が好きになれないせいでもあった。その理由はフアヒンにはやたらとガールズバーが多く、しかも白人の老人とタイ人少女のカップルがあちこちで目につくせいである。私はこのテの輩が大嫌いなのだ。
「街を歩けばジジイに当たる」と言っても過言ではないほどフアヒンには白人のジイさんが多い。真っ昼間といわず朝からバーにたむろしているのは、どれも頭のハゲあがった白人のジイさんばかりである。しかも年甲斐もなく若い女の腰に手を回したりして見るに堪えない。
だらしない顔して自分の孫ぐらいの少女のシリを追いかける様はもはや人として終わっている。これは一体なんなんだろうか? まあジイさんもジイさんなら、そんなジジイのフトコロ目当てに計算高く近づいていく女の方にも問題はあるが。
私はこのテの連中の、オノレのドス黒い欲望を微塵も隠そうとはせずにアケスケと周囲に撒き散らす公害のような連中が、とにかく嫌で嫌でたまらないのだ。まあ所詮は他人事であり別に実害があるわけではないのだが。ジイさんも少女も互いに割り切って納得してるなら、それはそれでいいのかもしれないが、私にはどうにも不快で仕方がない。
ただ物価が安いからと、わざわざアジアの途上国まで来て、カネにモノ言わせて若い女を釣り上げようとするその魂胆が気に入らないのだ。女が欲しいなら自国で漁れよと思う。せめて成熟したオトナの女を相手にしろよ、と。そんな甲斐性もないからアジアまで来て非力な子供をダシにするのだ。
貧しい国の少女の弱みにつけこんで、カネで釣って自分の欲望を満たすなんて単なるクズではないか。日本人の中にもこのテのくだらん連中が山ほどいるが、私はそうした奴らを心の底から軽蔑している。
しかし、私はなにも白人男性とアジア人女性のカップルが嫌いというわけではない。同年代の白人とアジア人のカップルはむしろ微笑ましく思っている。現地に根をおろした白人とそれを支える妻、なんて良いではないか。しかしその逆のパターンはあまり見かけない。大抵は白人男性とアジア人女性、と相場は決まっているようだ。
それにしても、フアヒンはどうにも白人の老人天国的な世界観がプンプン臭ってきて好きにはなれない。私は前述の理由からバンコクにいるときもナナをはじめとする夜の歓楽街には行かないし、パタヤにも行ったことはない。どうせパタヤも同じ雰囲気なんだろうなと思っていると、なんのことはない、パタヤとフアヒンはフェリーで繋がっているのだった。さもありなん、と思う。
特にこれといった思いもなく、フアヒンを後にした私はふたたびバンコクに戻ってきた。そろそろ次の行き先を決断しなければならない。カオサン界隈にある「Sweety guest house」に身を寄せると、またしてもカオサンでの頭を悩ます日々が始まった。
当初の予定ではタイのあとにラオス、カンボジアを通り抜けて一路ベトナムを目指すつもりであった。ベトナムには前々から強く興味を抱いており、これを機にホーチミンからハノイまでの約1800キロを自転車で縦断する計画を立てていた。
しかし、やはりネックなのは私の自転車に対する知識や技術の無さとバックパックで、自転車に適さないバックパックを担いで、しかもインスタントな知識だけでベトナムを縦断するのはほとんど無謀な行為に思えた。カンチャナブリでパンクしたレンタル自転車を修理する際に、修理屋が車輪まわりやチェーンなどの微妙なバランス調整に四苦八苦しているのを見て、これは思いつきでやるのは無理だな、と思った。
それならば、と。カンボジアで3ヶ月のベトナムビザを取得して、バスを乗り継いでじっくり時間をかけて縦断することも考えたが、それだと今ひとつ旅のインパクトに欠けるのだった。バスを使っての旅なら過去にホーチミンからフエまでは縦断している。さて、どうしたものか、とこうしてバンコクに戻ってからも旅の計画に頭を悩ませるのであった。
私は来る日も来る日も、ボウォーンニウェート寺院で本を読んだり、仏陀像を眺めたりしながら日々を過ごしていた。そしてその時にふと気づいた。そういえば、私はこうして寺院に浸り込んで仏像を眺めるのは好きだが、しかし肝心の仏教や仏陀に関する知識はほとんど無い。そもそも仏教とは何なのか、仏陀とは一体どういう人物だったのか。
タイやラオス、ミャンマーなど仏教国に対して強い関心を持ち、仏教を厚く信奉する人々に心惹かれつつも、その肝心の仏教のことをまったく知っていないことに気づかされたのだった。しかし、知らないまでもこうして日々寺院に通って仏像を眺めるということは、どこかで心の琴線に触れるものがあるのだろう。それを自分のなかで明らかにしてみたい。
ブッダガヤに行こう、と思った。これまでインドには何度も行こうと思いながらも、なかなかその機会がつかめなかった。インドはベトナムとは違って私にはまだ未知の領域である。自転車で横断などという大それたことはできないが、今ならば、このバンコクからミャンマーを通り抜けてインドまで、ブッダガヤへと陸路で辿ることが可能である。旅の好奇心がムクムクと自分のなかで膨れあがるのを感じていた。
だが問題もあった。仮に陸路でブッダガヤまで行くとなれば、ミャンマーを横断してインドのセブンシスターズを通り抜け、バンコクからブッダガヤまで遠路はるばる3500キロの道程である。当然日数もかかれば、それまでの滞在費用だって嵩んでくる。カネのない私にとって、それはフトコロに大きな痛手であった。
空路を調べてみると、バンコクからコルカタまでが片道9000円。なんとバンコクからガヤまでの直行便もあるが、これはインドのアライバルビザが取れないため利用はできない。空路を使えば僅か9000円でインドに到着することができ、さらにコルカタからガヤ行きの夜行便に乗れば明後日にはブッダガヤに着くことができる。これが最も安く、しかも最短でブッダガヤに行ける最上の選択であることは明白であった。
しかし、私にはなかなかその選択肢を選ぶことができなかった。なるほど空路を使えば明後日には目的地のブッダガヤに着くことができるし、何万円もの旅費を損なわずに温存することもできる。しかしそれで本当にいいのだろうか? 点と点を結べば、その間はスッポリと空白になってしまう。そこにはきっと数々の出会いや経験、あるいは発見があって、そして自分だけの物語があるはずだった。それを通り越して、ただ単純に目的地に着いてしまっては一体なんのための旅なのか。私のココロの奥底でバックパッカーの虫がうずくのだった。
普段であれば私は空路を決して否定はしないが、この時ばかりは陸路にこだわりたい心境だった。私はただブッダガヤに「行きたい」のではなくて「辿り着きたい」のだ。目的地よりもその過程を大事にしたい。そしてこのボウォーンニウェート寺院を起点にブッダガヤまで、旅をしながら仏教について少し学んでみるつもりだった。
思い立ったが吉日、私はすぐにスクンビットに行って仏教に関する本を数冊買い込んできた。仏教には大乗仏教から上座部仏教、それに密教など多くの教えがあるが、私がもっとも関心があるのは「生身の人間としての仏陀」であった。なので経典の中でも最も成立が古く、仏陀自身の言葉により忠実と思われる経典「スッタニパータ」をはじめ、「ダンマパダ」「ウダーナヴァルガ」など岩波新書の邦訳や、仏教2500年の歴史を辿る本などを購入した。これらを旅の合間に少しずつ読みながらブッダガヤを目指すのだ。
私はこれまで日本が仏教国であることにずっと懐疑的だった。その思いはタイをはじめとする東南アジア諸国を旅するうちに徐々に強まっていき、より確信的となった。そもそも私を含めて今の日本人のほとんどは仏典など一度も手にしたことがなく、日々の暮らしで仏陀やその教えを一片でも思い描くことすらないだろう。せいぜいお盆や葬式の時に手を合わせるぐらいで、日常的な信仰などおよそ皆無といっていい。それに日本には仏教=死・葬式、などの暗く偏ったイメージのみが定着している。それでなぜ仏教国なのか。寺の坊主も、葬式だの戒名だのと言っては遺族から何百万円もせしめるゴロツキにしか思えない。私は十代の頃に地元の大本山で年に数回、座禅を組む機会をもっていたが、そこにいる坊主どもは子供目からみてもナマグサなのは明らかで、お世辞にも敬意をもって接する対象とは言えなかった。
それにひきかえ、東南アジアの人々の仏教信仰の厚さはホンモノだった。信仰が日常生活に根付き、仏教的価値観、それに寺院や僧侶の在り方など、どれを取ってもみな真剣に仏教と向き合っているのがわかる。日本と違って仏教が生きているな、と心底思った。そんな東南アジアの人々を見ていると、日本が彼等と同じ仏教国を名乗ることはおこがましいこと、ほとんど詐欺のようにも思えた。
私もそんなエセ仏教徒の一人ではあるが、せめて仏典を読んで多少なりとも仏教を学び、仏教徒としての最低限の下地は築いておきたい。少なくとも正々堂々と仏教徒を名乗れるようにはなっておきたい。それにはこのブッダガヤへの旅は、私にとってまたとない機会でもあった。
先の計画がハッキリと定まると、残り少ないバンコクの日々を心穏やかに過ごした。ラオスのパークセーからタイに戻ってもうすぐ1ヶ月。なんだかんだと、日本を出てから2ヶ月あまりをタイで過ごしたことになる。バンコクを発つ前にはエラワン廟にも寄って、多くのタイ人や観光客たちとともに花輪片手に線香を捧げて旅の祈願をした。
ルートはバンコクからメーソート、ミャワディ、モーラミャイン、ヤンゴン、マンダレー、タムーを経由してのインド入りである。本当はプーナムロンからティーキーに出て、ダウェイを経由してモーラミャインに行きたかったのだが、遠回りなうえにヤンゴンでのインドビザ申請に日数を取られることもあって、再度メーソートからミャンマーに入国することにしたのだ。
タイで2ヶ月ほどを過ごすうちに東南アジアの雨季も開け、雨の激しいヤンゴンの空もそろそろ落ち着きを取り戻す頃である。セントラルワールドで残りのバーツをインドルピーに両替すると万事準備は整った。あとはメーソート行きの夜行バスに乗るのみだ。私は読みかけの仏典をザックに放り込むと、モーチット・バスターミナル行きの路線バスに乗り込んだのだった。