モン族の住む国境の町 | フーテンの無職 〜無職の大将放浪記〜

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日本社会のレールから外れて、気の向くまま風の向くままプラプラと、あてどもなく彷徨う。そんな刹那的な人生を邁進中。


人生、酒と旅と本があれば、それで良い・・・


   カンチャナブリを9時に発ったローカルバスは、午後4時にサンクラブリーのバスターミナルへと到着した。移動に思いのほか時間をとられてしまったので、そのまま脇目も振らずに予約していた「Grandma's Home Sangkhlaburi」に真っ直ぐに向かう。



   サンクラブリーはリゾートという位置付けのためか、なかなか安宿というものが見つからない。その中でこの宿はシングル1泊250バーツという安さだった。ここもカンチャナブリで泊まった宿と同じく一般の民家を少し広げたような造りの宿で、システマチックなホステルに比べると気楽に過ごせる安堵感がある。私はここで3泊することに決めていた。



   唯一の難点は宿が町の中心から1.5キロほど離れていることで、町と宿とを行き来するのに延々と田舎の一本道を歩く必要があることだ。今日はもう日も傾きかけているので、軽く周辺を歩くだけで夜になってしまうだろう。私はまず町のシルボルでもあるモーン・ブリッジに行ってみることにした。









   モーン・ブリッジとは、サンクラブリーとモン族たちの住む村とを結ぶ長さ444mの木製の橋で、これがサンクラブリーの目玉の一つとなっている。橋の周辺にはこうした水上家屋が辺り一帯に広がっていた。バスの道中でも車窓から水上に浮かぶ村々を目にしたので、この周辺ではこうした水上生活が一般的に営まれているようである。



   水上家屋へと続く橋があったので、試しに橋の上をゆるりと歩いてみた。






   橋は木の板や枝を集めて作った簡素なもので、足を踏み出すと橋がグラグラと揺れて非常に不安定だ。この橋の上を村の人たちは器用にひょいひょいと渡っていく。













   人間の生活様式にはいろいろなスタイルがあるのだなあ。こうした水上家屋はミャンマーのインレー湖やマレーシアのペナン島など東南アジアの各国で目にするが、陸を避けてあえて水上を選ぶのは何故なんだろうか?  難民などの土地の所有問題など、色々とフクザツな事情があるのかもしれない。そういえばカンボジアのトンレサップ湖も水上生活者の大半はベトナム難民で構成されているものなあ。



   水上家屋は傍にあるモーン・ブリッジに沿うようにして伸びていた。どうやら今は雨季ということもあって水かさが増しているようで、モーン・ブリッジの高さはあまり実感できなかった。




   モーン・ブリッジの向こう側にはモン族たちの住む村があり、その中でチェディ・ブッダガヤー寺院が頭ひとつ飛び出している。なかなか面白そうだが今日はもう日没も近いので、橋の向こう側は明日のお楽しみにとっておくことにする。








   

   モーン・ブリッジの上には結構な人だかりができていた。地元の人から観光客まで多くの人々で賑わっている。サンクラブリーはリゾートにしては随分寂れていると感じていたが、ここを訪れる観光客はそれなりにはいるようだ。しかし、どうも宿泊施設は供給過多に思える。町中を歩いていても、目にするホテルはどこもほとんど客の気配を感じなかった。

   外国人の姿もほとんどないが、これは20キロ先にあるミャンマーとの国境が昨年閉鎖されたせいもあるだろう。カンチャナブリの近くにプーナムロン国境があるのに、わざわざサンクラブリーまで時間をかけて往復するモノ好きはそうそういないものと思われる。まあその方がローカルの雰囲気を味わえるので個人的には有り難いのだが…。



   しばらく橋のたもとで過ごした後、市場付近に引き返したときにはすっかり日も落ちて夜のとばりが下りていた。だが有り難いことに、カンチャナブリに引き続いてサンクラブリーでもささやかなナイトマーケットが開かれていた。









   ナイトマーケットにはミャンマー定番のモツの煮込み屋台もある。サンクラブリーはやはりタイよりもミャンマー色が濃く、町中ではタナカを塗ってロンジーを履いた住民を多く見かける。私が投宿している宿の女主人もシャン州のタウンジー出身だと言っていた。

   サンクラブリーには以前滞在した国境の町メーサイや、そのミャンマー側のタチレクよりものどかなミャンマーの田舎の風情を感じる。私も屋台で串焼きを買ってビールを呑みながら味わったが、なによりもこのミャンマーの空気感がいちばんのご馳走なのであった。






   翌朝、早くに目が覚めた私は早朝の爽やかな雰囲気を楽しみつつモーン・ブリッジへと向かった。そして遠巻きに橋を眺めやると、まだ朝も早いというのに橋の上では既に多くの人々で賑わっていた。














   

   橋の上では正装したモン族たちや観光客、それにタナカのスタンプを客の頰に押してまわる商売熱心な子供たちなど、まるで縁日のような賑わいである。

   おそらく正装したモン族たちは早朝の托鉢の帰りだろう。以前はこのモーン・ブリッジで托鉢が行われていたというが、今ではサンクラブリーから約3キロ離れたチェディ・ブッダガヤー寺院で毎朝の托鉢が行われているようだ。托鉢目当ての観光客が多く集まるので、それを目当てに商売人たちも早朝の橋の上にやってきて、実に賑やかな光景が展開されるというわけである。



   今日はこのままモン族たちの住む村を通り抜け、橋を軸にしてぐるりと周囲10キロばかりを歩き回ってみることにした。モーン・ブリッジを渡り終えると、そこはもうモン族たちの住む村の入り口となる。








   モン族の村といってもサンクラブリーの町並みとの違いはほとんどなく、橋の周辺には多くの土産物屋や食堂などが軒を連ねている。売っているのはロンジーやモン族などの民族衣装にアクセサリー、それにタイ製に加えてミャンマー製品も多い。


















   のどかな村の景色の中を通り抜ける。村の市場に学校、日常的な生活風景を見物しながら歩くだけでも楽しいひとときが過ごせてしまう。このモン族たちの住む村の中にもホームステイタイプの宿が数軒あり、ここならサンクラブリーの町中よりも割りかし安価で泊まれそうだ。

   サンクラブリー市内にはマーケットとコンビニがあるだけなので、このモン族の村まで足を延ばして宿泊するのもアリかもしれない。ここなら托鉢の行われるチェディ・ブッダガヤー寺院も近くにあって便利だ。



   モーン・ブリッジから2キロほど歩くと、眼前にチェディ・ブッダガヤー寺院が見えてきた。










   私はまだブッダガヤに行ったことはないが、この寺院はその名のとおりブッダガヤにあるマハーボーディ寺院を模したものだろう。モン族の村の規模に比べると大きな寺院だが、全体的には簡素な造りをしている。おそらくは住民のみんなで寄付を寄せ集めて建てたのだろう。









   内部はミャンマー式に曜日別の祭壇で四方をぐるりと取り囲んでいる。









   しかし、堂内に鎮座しているご本尊はミャンマー式のものではなく、インド・ネパール様式の本格的な造りをしていた。寺院の外観といい、どうやらモン族たちは自分の村の中にブッダガヤを築きたかったようである。

   ミャンマー人にはもともと敬虔な仏教徒が多いが、このモン族たちの信仰の厚さはひときわ際立っているようにも思える。中ではミャンマー人の団体観光客がガイドの説明を熱心に聞いていた。そして参拝に訪れる観光客もやはりミャンマー人が多い。








   モン族の村にはチェディ・ブッダガヤー寺院のほかにもミャンマー式の大きな僧院があって、ここにある回廊はちょっとした写真展のようになっている。












   そして、そこにはモン族をテーマとした数々の作品とともに、チェディ・ブッダガヤー寺院の完成当時の様子も捉えられていた。













   写真を見ていると、彼等がこの寺院の完成をどれほど待ち望んでいたかが直に伝わってくるような、そんな生き生きとした表情が捉えられていた。自分たちの住む村にブッダガヤができる、それがもう嬉しくて仕方がないといった様子だ。


   ミャンマーには数多くの少数民族が存在しており、各民族はそれぞれ誇り高く、独立心旺盛であることでも知られている。故にミャンマー国内では軍と部族間との衝突が後を絶たず、現在でもシャン州やカチン州などではしばしば戦闘が起きている。そんな中にあって、モン族たちもまたミャンマー国内では特に気高い民族として知られる。

   一説によると、ミャンマー国内に仏教をもたらしたのはこのモン族だとも言われている。モン族といえば中国南部やタイ、ラオス、ベトナムにも数多く住んでいるが、山岳民族である彼らと違ってミャンマーのモン族は平地民族であり、山岳民族のモンとはまた別の集団である。



   ミャンマーに於けるモン族の歴史は古く、東南アジアでは最も古い先住民族のひとつといわれ、紀元前1500年頃には現在の東南アジアに到達していたとされる。伝説によると紀元前300年頃にはスワンナプーム王国を建国し、以後も数世紀にわたって数々の王国を建国し続け、中でもペグー王朝は現在もバゴーの名で世に知られている。

   モン族の築いた文明は東南アジアの文化発展にも影響を与え、現在使われているビルマ語など東南アジアの文字の形成にも多大なる役割を果たした。そうした数々の歴史もあってモン族たちは非常に気位が高く、こうして国境を越えてタイと同化した今も独自の文化を保ち続けているのだろう。










   寺院を後にして、なだらかなカーブを描く山道をまわりこんでいくと、そこはモーン・ブリッジを遠巻きに見渡せる展望スポットになっている。
















   サンクラブリーは閑静な田舎町で、橋と寺院以外には特に見るべきものもないが、だからこそ日頃の雑踏から離れてゆっくりと気分を落ち着けるにはもってこいのスポットだと思った。湖周辺にはボートトリップがあり、湖上にもいくつかの寺院が点在しているが、私はこの景観とチェディ・ブッダガヤー寺院だけで十分に満足であった。





   翌日。サンクラブリーでミャンマーの雰囲気をたっぷりと味わった今となっては、やはりこのまま国境を見ずにサンクラブリーを去るわけにはいかず、バスターミナルからソンテウに乗って約20キロ先にある国境へと向かってみることにした。











   タイとミャンマーの国境はまさに国の辺境といった感じで、ここまで来るとタイらしい雰囲気はもはやほとんど失われる。喉が渇いたので近くの雑貨屋に水を買い求めにいくと、店員はミンガラーバーと挨拶してきた。町には簡素な工場がいくつも点在しており、そこではロンジーを履いたミャンマー人たちがせっせと手仕事をしている。こうして毎日国境を越えてタイ側で仕事にありついているのだろう。町中で見かける看板はあのシャボン玉の泡のようなミャンマー文字で溢れていた。





   サンクラブリーの国境にはこのスリー・パゴダ・パスというシンボルがある。外国人の来なくなった国境で唯一、目を引くものであるが規模はとても小さい。周辺には土産物屋がひしめいているが、どこも閑古鳥が鳴いていた。




   国境の雰囲気はタチレクやメーソートとは比較にならないほど長閑だ。このような不便な国境は物流としての需要もないのだろう。柵の向こうはミャンマーのパヤトンズである。その肝心の柵には隙間があいており、現地人はそこをひょいとすり抜けては国境を行き来している。国境警備の張りつめた緊張感もなく、イミグレーションもほとんど周囲には注意を払っていない様子であった。




   タチレクやメーソートには「川」という明確明瞭な国境線があるが、このサンクラブリーとパヤトンズの間は互いの村々で繋がっており、よそ見しながら歩いているとうっかり不法入国してしまいそうになる。






   この板切れ一枚がタイとミャンマーを隔てる国境線である。見張りなど当然おらず、村の路地裏をふらふら歩いていると無意識のうちに跨いでいきそうな、そんな周囲の風景にあまりにも溶け込んだのどかな国境線だった。

   これまで数え切れないほど国境を越えてきたが、ここまで国境らしくない国境を見るのは初めてかもしれない。周辺ではヒヨコがピヨピヨ、ニワトリがコケコッコーと鳴いている、そんな生活感あふれる国境線である。しかし、やはり外国人には越えられない高い壁として聳える国境なのであった。






   こうして3日間のサンクラブリー滞在は瞬く間に過ぎていった。サンクラブリーのあとはプーナムロンには行かずに一旦バンコクに戻ることにしたが、その前にビーチリゾートであるフアヒンに立ち寄ってみることにした。なぜ急にフアヒンなのかというと、ただなんとなく海が見たくなったから、という単純な理由である。

   思えばタイという南国にいながら、私はバンコク以南に足を運ぶことはほとんどなく、もっぱら北部の山岳地帯や平野部ばかりを旅していた。2年前にサメット島に行って以来、タイではまったく海を見ることはなかった。

   「まあ、たまにはタイで南国気分を味わってみるのも悪くはないか」と、そんな風に気まぐれに思ってみたまでのことである。なんとなくボンヤリと水平線を眺めながら今後の計画について考えてみよう。そうすればなにか面白いプランでも思いつくかもしれない。そんな不確かな淡い期待を抱きつつ、サンクラブリーからカンチャナブリへと戻った私はそのままフアヒン行きのミニバンに乗り込んだのであった。