恐れの代償 | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

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ありがとう うれしい 
やってやれないことはない やらずにできるわけがない

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね 並びにフォローありがとうございます

割とミニマリスト(ケチ)でシンプルを好む私ですがw

グーグルの検索画面のシンプルさやI phoneの機種変更

の際のデータ移行のラクチンさを気に入ったりしている

のですがw どうしても許せないのが たまになぜか 

偉いさんに直電しているsiri姉さんがいますwww

作業中に尻に入れたのが当たって直電してる模様ですが

ーそんなドッキリ今いらんねん Hey 尻! ゆうてな

と寒くてスイマセン笑い泣き笑い泣き

 

 

 

カタカムナや女性の台頭という古代の文脈が最近今に

なって 個人的テーマになっておりますが 詰まる所

 

 

ー自分らしく生きる

 

 

というのが見えてきます

でこの自分らしさとは一体何かと問うと

 

 

ー神と同期した自分 誇れる自分

 

 

というーお天道様に顔向けできない といった昔の

時代劇のフレーズが浮かんできますがw 

つまり 

 

 

ーややこしい自分や言い訳をしてどんどん矛盾が生じて

負の連鎖というストーリーがエンドレスに生じる

 

 

といった場合

 

 

ー結局 誰が責任を取るのか(覚悟を持たない自分にとって)

 

 

つまりそれは

 

 

ー誰かのフリであり こうあった方がいいんじゃないか

という誰得の思いやりだったり 恥を忍んだ為に起こった

結果あるあるではないのか

 

 

よく芸の世界の肥しと言えば 花街と博打といったフレーズを

思い出しますが

本来まじめで誠実な自分を無理に奈落に落とし込んで 生まれる

面白さとはいったい何なのかw

 

 

ーそれですら取り繕いの範疇を抜け出せず 何かを纏ってそれを

語ることで 自らの肩書を語っている様に過ぎないのではないか

 

 

と思えたりもします

 

 

 

 

ー愛の反対は無関心

 

 

といった本当のことはマザーテレサが神との遭遇の後 死ぬまで

一度もコンタクトがなかったことを言っているのよ ととある

マザーの近くにいた女性が語っていたのですが

 

 

ーどこかで自分が忌み嫌うものをジャッジしていた

 

 

とした時に それを避けるが余りに 反対にそれを意識し過ぎて

 

 

ー結果 自らの魔に取り込まれてしまう

 

 

というのはよくある話しで

 

 

ー子供のことを無邪気というように 天真爛漫さとは そういった

価値観を超越している

 

 

ことからもわかりえます  つまり

 

 

ー自ららしさをジャッジする中で 神と同期した際の自信や

誇りをいつのまにか失い 誰かのことや自分のことが気になりだす

 

 

という人間の恐れと欺瞞のシステムが見えてくるものです

 

 

ーそれは深い水の中に落ちていくモガキや足掻きの姿勢に似ています

 

それは助けてくれようと手を差し伸べてくれる人まで 自分が

助かるのであれば 押しのけてないし 道ずれにするかのようにです

 

 

聖書にあるように

 

 

ーあなたは自分の命を失うのを恐れるがあまり

反対にそれを失っている

 

 

それとは命であるというのは当然ですが その本質は

 

 

ーあなたらしさを失っている

 

 

ということが今回の話しです

 

 

ー野に咲く花や空飛ぶ鳥が 刈ることもせず蒔くこともせず

怖れも持たずに 地球と同期して 神に養われている

 

 

ーパンや衣服は人間の命(その使命)より大きい訳がなく

その為にその命を失っては何の意味があるのか

 

 

イエスの真心と思いやりとは神の在り方であり 誰かにみせる

ものでもなく その報いを求めるものではないと続きます

 

 

ー見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意

しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで

報いをいただけないことになる。

 

 

契約社会とは縛りを必要とします 

悪魔の契約とは望む結果の対価を必要と

するものです

 

しかしながら 本来自然界の対価とは存在しえない

という事がわかります 生きているだけで恵みであり

その世界に生きる 生きとし生けるものはすべてその恵みの

享受者であり そして同じ仲間であるという事です

 

 

つまり 契約とはーあなた(神)を信頼しない という前提の

下に 当事者間で利益享受とし ないしはその反古の際には

法律という更なる縛りの中で 制裁と法的拘束を余儀なくする

ものであるとしります

 

 

よく一杯のコーヒーを飲むのに何万人の飢餓や殺戮に加担している

恐れがある というのは 資本社会の効率性という低賃金の連鎖と

劣悪な労働環境に付帯する末端の人の犠牲を伴うという事に

起因しているといえます

 

 

上位1パーセント未満の富裕層の為に 多くの人間の血と汗という

労働とその結果として 疫病 飢餓 紛争 麻薬 誘拐 人身売買

といった 負の連鎖のドラマという 豊かさの矛盾が積み重なることに

なっているものです

 

 

しかしながら富裕国では多くの人は上位に少しでも上がろうとしその中で

家庭を築き子供を設けて人類に貢献したとしても 貧困国ではその影で

その1家族を養うために 何十 何百の家族が飢餓や疫病の中で

尊い命を犠牲にしている 

とどのつまり 資本主義のからくりとは

 

 

ー自分らしくもない自分を養うたびに誰かが死んでいる社会

 

 

という構造を目の当たりにした時 どんな美辞麗句やスーツで決めて

レッドカーペットを歩いたとしても それは

 

 

ー(どこかで誰かが)ただその報いを受けている

 

 

と知るのみであるという事です 

 

 

 

ーだから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』

と言って、思い悩むな。 

それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに

必要なことをご存じである。 

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 

だから、明日のことまで思い悩むな。

明日のことは明日自らが思い悩む。

その日の苦労は、その日だけで十分である。

 

 

 

ー人が恐れを纏う時 神の国と神の義は廃り果て

これらのものは全て奪われ剥奪される

 

 

これは ーあなたらしさ のはなしでもあります

 

 

 

その一つのかごには、はじめて熟したような非常に

良いいちじくがあり、ほかのかごには非常に悪くて

食べられないほどの悪いいちじくが入れてあった。 

 

主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。

わたしは、「いちじくです。その良いいちじくは非常によく、

悪いほうのいちじくは非常に悪くて、食べられません」

と答えた。

 

主の言葉がまたわたしに臨んだ、 

「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所から

カルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、

わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。 

わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、

彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。 

わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。

 

 

主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤと

そのつかさたち、およびエルサレムの人の残って

この地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、

この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。 

わたしは彼らを地のもろもろの国で、忌みきらわれるものとし、

またわたしの追いやるすべての所で、はずかしめに会わせ、

ことわざとなり、あざけりと、のろいに会わせる。 

わたしはつるぎと、ききんと、疫病を彼らのうちに送って、

ついに彼らをわたしが彼らとその先祖とに

与えた地から絶えさせる」。

 

 

 

恐らく人類がパンデミックを経験し 世界が新たな状況に

陥っている今という時代の転換期だからこそ

一人一人が神の世界を取り戻し 自分らしさを取り戻す

きっかけになるものと信じます

近代の人類が作ったシステムは早晩崩壊し

神の古来のシステムが戻った時 あらゆる知恵と忍耐と

希望は人類の脳裏に描かれ ユートピアを描くようになるのでは

と思います