陰徳と死神 | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

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幸せ言葉
ついてる 楽しい 幸せです 愛します 許します 感謝します
ありがとう うれしい 
やってやれないことはない やらずにできるわけがない

ごきげんよう どろんnです

いつもいいねならびにフォローありがとうございます

ーからーす なぜなくの からすは やまーに という歌と

ーもしもし かめよ かめさんよ せかいのうちに おまえほど

あゆみの のろい ものはない どうしてそんなにのろいのか

という通称ーほっとけやw シリーズは短文の割りに実に趣が深く

童謡の中に古来の日本文化を承継させている風にも思えます

心に強く訴えかけるほど赤く染まった大きな夕日と郷愁の念

移ろいやすい世界とその中で着実なるものの真理とは

形や色は違えど 同じことを訴えている気がいたします

 

 

ーそんなの理屈なんてないんだよ ただやってる 

ひたすらやってるんですよね 

こういうやれるものを持ってる これに対する感謝

今世の中で何を皆探しているかって言ったら

追えるものを持ってるか どうかの戦いでしょ

そう思えたときに -ああ俺はついてるな

 

ー最初はビートルズに憧れて 音楽したくて 

女にキャーキャー言われたくて ええかっこうしたくて

スタートしたんだけど 本当に僕は音楽が好きだったんですよ 

本当にその上っ面の事だけだったら とっくに神様は終わらせてますよ

もう辞めな って言っていると思う

 

                 ーイチローと矢沢の対談より

 

 

ー人生生涯小僧の心

 

千日回峰行の塩沼さんがその本のタイトルに選んだ言葉が

このタイトルになります

当時読んだときは

 

このー小僧の心 とは何ぞや 

 

というわけで まさにお寺の門前で丁稚奉公よろしくほうきを持って

路傍を掃き清めるいっきゅうさんを思っておりましたがw これは

 

ー行を通じて学ぶ 普遍的な空としての心の在り方

 

とぼんやり理解してくると その意味と重さがわかってくるものです

 

ーそれは簡単なようで 人間の業に照らしあわすと生半可なものではない

 

それはおごりであったり 怠慢であったり 欲であったり 執着であったり

といった

 

ー身 口 意 (しん く い)を行を通じて 洗い清める

 

といった性質に近いもので 

 

ーそれをすることに およそ おわりがないものです

 

 

ー八卦見はひざを叩いた 

その晴れ晴れした心があんたの相を変えたのだ

相を変えただけでなく 夜中に陰徳を積むことによって 運勢まで変えてしまった

 

 ~なにがいいといっても 便所掃除という誰にでもできるー行 が 人の運命を

転換させたという単純明快さがいい しかも このー作り話には -徳 ということを

おしつけるときに伴いがちな一種の暗さもなく おおらかであるという点がいい

 

~いうまでもなく 禅は このほか作務を貴ぶ 

どちらかといえば 座禅や看経(読経)より重視されるといってもいい

 

~このお寺は なにかある と私はにらみ 特に用を足したいことはなかったが 

便所をのぞきに行って さすが と打たれた 隅から隅まで 磨きあげられただけでなく

小のほうの便器に 青々とした 杉ッ葉が入れてある

 なんという心憎い気遣いであろうか 見た目のさわやかさ だけではない

ーしぶきがはねかえって 客がつい汚してしまうということにまで 

心をくばっているのである

この便所の掃除は 雲水まかせではなく たぶん 一山をあずかるお師家さんみずから

なさるのであろう と思った 

それに違いないと思った 禅寺は そうでなければならない

 現在 永平寺の貫守であり 曹洞宗管長でもあった秦慧玉禅師は やはり 

十三歳の年から正眼僧堂で修行をなされたそうだが このときの師家であった 

川島隠老師は 率先して便所掃除に精を出しておられた それが 身に染みていたらしい 

永平寺にあがって副貫主になられてからも作務をおこたらず とりわけ 便所掃除には 

入念にやられるので 侍者や行者が困ったという話しがある

 この場合 困ってもらっては困るのである 一山の管長といえども禅僧は禅僧であり

日頃 作務をおこたらないでこそ禅僧ということには 変わりはないのである

 吉峰寺を再興された 田中仏心和尚も 永平寺の便所掃除を亡くなるまで続けられた

旅に出るときは 便所掃除用の雑巾を油紙に包み どこの家 どこの宿に泊まっても

夜間 こっそり 便所掃除をしたという

ー随所に主となる である

 仏心和尚にとっては 行く先々 みんな修行場所だったのである 便所掃除をしない

禅僧なんて禅僧の形をしているだけで ヌケガラみたいなものである

 

~嘘ではない と確信をもってこたえる そして

ーそういえば あんたの顔にも死相があらわれておるぞ 

と真顔でつづけることにしている

 この言葉は かなりこたえるらしい そうであろう お前は 今夜か明日 

死ぬかもれないといわれて心地よい人はいるまい しかも 

それは決してー嘘ではない のである

そうではないか 生死事大 無常迅速である 人は 誰も 明日の命を

保証されていないのである

今夜 ぽっくり死ぬかもしれないのである

~人の命は つねにそうなのである 

 人はいつもー死相をおもてにして歩いているといっても 決していいすぎでは

ないのである

ーだから 便所掃除をせよ

とまではいわない せめて その娘にあやかりたかったら 便所を掃除してみよ 

自分もさっぱりした気になり これで人にも喜んでもらえると思ったら 

これにまさるよろこびはあるまい

これこそー徳のよろこびであり このよろこびを味わったら 明日にも死すも可なり

であろう

 

~おそらく 社長が便所掃除をはじめてから 社員たちは気もそぞろになり

 やがてはらをくくってみんなで便所掃除をよろうと自発的にいいだしたとき 

それが 唯一の社長に迎合する道であるという理解におちついたにちがいない

~しからば 徳とは何ぞや

 徳には陽徳と陰徳がある 平ったくいえば お寺に寄進するように表向きの

徳を積むのと人知れず おおやけの場所の塵を拾ったりして 陰でこっそり

させていただく徳である

便所掃除は 後者でなければならぬ いや 便所掃除こそ そうでなければならぬ

 私の師の頑牛は 伊深の僧堂時代から ずっと便所掃除をしてきたが なるべく人目に

つかないようにやるのがその工夫だった できたら 人の来ない早朝とか夜がよい 

しかし禅堂の日課の関係で やむを得ず昼間やらなければならぬときは 人の姿を見るとサッと隠れたという

 いうまでもない 隠徳とはあくまでも人の陰でやってこその陰徳であり 

人にかくれてやるべきであって 人に見られたら徳そのものが霧消するぐらいの

心がけでなければならぬ 

人に見られることによって 人には 人情として 

-おれはこんなにいいことをしている どうだ

という 自己を誇るこころが生じるであろう その慢心がすべてを帳消しにする

 不浄所の清掃という行いは いわば諸刃の刃である

 

 

 ~私は そういう彼をすこしもいたわらず 朝早くからすこしもいたわらず 

朝はやくから叩き起こし禅堂へ連れて行き 儀軌どおりの座禅をさせた 

警作には 手心を加えなかった

昼は 作務を命じた 彼は 入山した当初 坂道を昇りおりしてひたむきさで 

けんめいに 箒を操った

 そのとき私は 周利槃特の話しを思い出した 

お釈迦様当事の話である お弟子に周利槃特という男がいた

この男 生まれながらの愚鈍で 大人になって 読み書きもできない状態だった

そういう人物が 覚者の門弟のなかにいた ほかの門弟たちは いぶかった

 なぜあんな男をー弟子として遇しているのかと口に出して聞くものもあったが 

お釈迦さまはとりあえず その槃特に対して 箒を渡して 

ー塵を払え 塵を払え

といいながら 掃除をするように命じた

 槃特はいいつけ通りにした 明けても暮れても 人もいようがいまいが 彼は

ー塵を払え

と呟きながら 箒を動かしつづけた はじめのうちは みんな槃特に注意していたが

そのうちに 誰も見向きもしなくなった 槃特はしかし 掃除をつづけた

 そんなある日 お釈迦さまは ぽつんといわれた 

ー私の多くの弟子のうち 周利槃特の心境に至るものは いないであろう

 

~しかし 現実にノイローゼの少年に箒を持たしてみて はじめて 釈尊の言葉が

わかったような気がした そんな 理屈っぽいものではないのである 

地上の塵と心の塵とを 比ゆ的に 対比的にとりあげて はじめてわかるという

世界ではないのである 理由もなんにもなしに

ーわかった

という世界なのである

 ノイローゼの彼には なぜ 庭の掃除ばかりさせられているのかという懐疑はない

ーなぜ という問いかけはない もし彼にーなぜ という問いかけがあったら 彼は

もっと早くなぜ 飯が食えないのか なぜ お寺の坂道を登り下りするのか 

なぜ 夜間 廊下を徘徊するのか

という質問を自分自身に投げかけていたであろうし そのとき彼は

 いわゆるー常人 に戻ることができたであろう

 そういう問いかけが あるかないか 

という一点が その一点だけが 彼をこのような山のなかへお寺へ追いやったのであり 

そこで私のやらせたことは 故意にーなぜ に覚醒させることではなく 懐疑を

欠如させたまま 一つの運動律のなかに旋回せしめようというのであった

結果的には そういう理屈になった

 その運動のなかでの 彼の美しさは どうであろうか

私は 彼の美しさの中にー仏 を見た 

もし私が 感激家であったなら そのー仏性に手を合わせて拝んでいたかもしれず 

あるいは思わず拝跪していたかもしれない 

 

~彼は食欲が出てきた 麦飯も何度もおかわりするようになった 

昼 作務に没頭しているので夜はつかれて熟睡するものだから 廊下を

徘徊することもなくなり そのうちに 彼らの作務の仕方が変わってきた 

いままで ひたすら箒を動かすだけだった彼が 次第にー要領よくやる

ようになったのである これは 常人への復帰の兆しである 

その要領をおぼえることによって 彼の運動の範囲が驚異的にひろまった 

彼は 根っからの周利槃特ではなかったのである

 

~彼女は たまらなくなって 二歳になる子を負ぶって家出した 

あてもなく 熱海まで行ったそうである そこで 死ぬ気であった 

熱海は 自殺の名所だそうである そこで 件の断崖まで

行き 飛び込もうと下を覗き込んでいたら 背中の子

がーおかあちゃん こわい といったそうである 

それで 子供を道ずれにすることもできず 

ふらふらと実家へ帰ってきたところを

保護された その足で 吉峰寺へ連れて来たという

 ちょうど七月だった お寺は講習会やなんやかで忙しい 

しかし そういう事情ならば預からぬわけにはいかない 

そのうちに 彼女は 台所を手伝うようになり 座禅にも加わり

すると 機屋のおかみさんでなくても 生きて行く道がある

という簡単な道理がわかり

一月もせぬうちに すっかりー死神 が落ちた

その後 彼女は正式に機屋と離婚し やがて再婚した

 もう一人の男は 受験浪人だった 何度か目指す一流大学に

挑んでは 敗れた そして睡眠薬を飲んだ 助かったところを やはり

母親に連れられてやって来た

 この青年にもー死神がついていた 私は何もたずねなかったが 

おそらく彼の心中を言えば一流大学へ入れぬくらいなら 死んだほうが

マシとだというようなつもりらしい

 いまどきの青年に多い 視野の狭い それゆえに 一途さのある

若者なのだろう お寺では型どおりに座禅し 作務をした しかし 

何日たっても彼のー死神は 離れていかない

 ある朝の 暁天の座禅で 私は警作をもって歩いていた 座った

彼の上体が ふらふらと動いていた 私が前に立った この場合

 禅の作法で 合掌して 警作を受ける姿勢をとらねば

ならない 私は 手をそえ その姿勢をとらせ

ー喝!

と一撃を加えた 一撃を加えつつ

ー自殺するなんて

と怒鳴った 一撃

ー威張るな

一撃 彼は ほとんど飛び上がりそうになった

 飛び上がりそうになって しゃんと座った 彼は 目覚めたのである

一流大学以外にも大学はあること 一流大学を出なくとも 立派に

人間らしく生きている人がいるという平凡な事実とが わかったのである 

その後 彼はかなり長い間 吉峰寺にいたが

やがて 山を降りて行った

 暫くして 母親から手紙が来た 彼の勉強部屋をのぞいたら

ー自殺するなんて威張るな

と書いて貼ってあるという

 

 

以上w 豪快な禅僧の関大徹さんの食えなんだら食うな からでした

 

関さんの言葉で印象に残るはー生死一如

生とは死と向き合ってこそ はじめて輝く性質であり 死とはその生を 

輝かせ祝福するためにあるとした時 われわれ現代人の死生観 

-どうせしねばおわり という短絡的な見方を解脱し

一種の永遠性 古来からある 蘇りであり 輪廻 の意味が

少しずつ読み解けてきます

丁度米津玄師さんの新曲ー死神 が談志師匠のオチよろしく

フッと焦りもがき執着する

人間の今にも消えそうなろうそくの炎を微塵の慈悲もなく消すところが痛快ですがw

 -そうならないためには どうするべきか?

という人類の普遍的なテーマであるような気が致します

 

ー便所掃除をしない禅僧なんて

禅僧の形をしているだけで ヌケガラみたいなものである

 

ー便所を掃除してみよ 

自分もさっぱりした気になり これで人にも喜んでもらえると思ったら 

これにまさるよろこびはあるまい

これこそー徳のよろこびであり このよろこびを味わったら 

明日にも死すも可なり であろう

 

という短文にすべての死神にとりつかれた人類とw 徳のもたらす

効用が書かれている気もします

ー理屈ではなく 実際である -理屈は死んでいる 世間は生きている

といった言葉がありますが ー産むが易し -清水の舞台から飛び降りる 

という言葉のとおり

ー(案ずるな)先ずは一ぺん死んでみよ 

そしてその心で行に没頭すれば もはや そなたの死神はそこにおれずに辟易する

まさに -死して屍拾うものなし

それでは おあとがよろしいようで w

 

 

ー自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。

もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中で

するように、自分の前でラッパを吹きならすな。

よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられる

あなたの父は、報いてくださるであろう。