見放されし者と恩寵 | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

あなたと森羅万象すべてをつなぎます!

意気 真心 義理 人情を大切にしていきたいです。

幸せ言葉
ついてる 楽しい 幸せです 愛します 許します 感謝します
ありがとう うれしい 
やってやれないことはない やらずにできるわけがない

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね 並びにフォローありがとうございます

ドキュメンタリーが好きで 最近は落語の立川談志や

アチャコの弟子で阪神巨人の師である岡八郎

そして同じ喜劇役者の藤山寛美 と 天才であるが故の

晩年の苦悩をー老い というテーマで見ましたが

翻弄されつつもー芸 のことを一心不乱に心に定め

そこに自らの死に場所を置くー誠実さ と 客に対する

感謝 の念には頭が下がる思いですおねがい

 

 

椎名林檎と中村勘三郎さんの対談の中で

 

ー(恥ずかしさ プレッシャー)子役のときはなかったもん もう楽しかった

だって何かやると笑ってくれるし (で)それが本当にやろうとして

色気づいてくるでしょ そうなるとお客さんがものすごく怖いの

 

 

天真爛漫で無邪気な時代というのは 無欲でお客さんが何をしても

笑ってくれた しかし (笑わらせにかかろうとすれば) 何か下心を

見透かされたようで怖くなった 

 

 

晩年の不渡りと黒い繋がりから追放された松竹に復帰した藤山寛美は

 

ー捨てる神あれば 拾う神あり

 

で満州で拾った命からがらの命とは 自分の芸のー代償 やー見返り

としての遊興 のためにあるのではなく

 

ー人と人があってこそ (はじめて)自分がいる

 

と捉え直し ー感謝 と -(奉仕と恩の)もっと演技をうまくなりたい 

の一念で まさに一念発起 の再スタートを切ったのです

 

まさに暗く霧に包まれた空が晴れて 太陽が顔をのぞかせ

自らの為すべき事が見つかった瞬間 それは文字通り 地に足が

ついた瞬間だったのではないでしょうか

 

 

この世界は板の世界と同じ 水もの あらゆることは移り変わり 

いつも-同じ ということはありえない そんな不安と恐れの中で

見い出したことは天地神明に誓って

 

ー人事を尽くして 天命を待つ

 

 

それは芸の世界に限らず どんな世界にもいえることであり

幼子のあるべき姿である気がします 宮本武蔵と上杉鷹山の言葉で

 

 

ー神仏を尊びて 神仏を頼らず

 

 

ー為せば成る 為さねば成らぬ何事も

成らぬは人の 為さぬなりけり

 

 

どこかで良い事をしてもー見返り という代償を求めるこころ

何か悪いことが起これば -神の所為 だと責め 

たちまち病気になれば -神にすがる 無責任のこころ

 

 

そういったあざとさや無責任さは 板の客のように その下心が

ー見透かされる 

藤山寛美はせりふを覚えない共演者に

 

ー客に見せたってる商売とおもってるんちゃうか

見てもらってる商売やで 見てもらってる商売やったら

おぼえんかい!

 

それは自らが奢り 長い間勘違いしてから 悟り ようやく知り得た

境地であり 真髄だからこそ 厳しく彼がそれを言い放った理由が

わかるものです ヨガナンダは

 

 

ー他人の間違いを見て そのことで あなたが苦しむなら それはいつも

あなたが間違っているということを忘れないでください あなたが内面で

正しければすべては正しいのです すべては神の一部であることが

分かるからです
そのときあなたは 判断を加えることなく すべてをあるがままに受け入れ 

ひとりひとりに優しさと思いやりの目をむけることができるのです 

彼らがどんなに愚かであるかは重要ではありません

 

 

ある意味でー人間の原罪 とはー無知 に寄るもの といえるかもしれません

それは環境や他人(神)のせいにするものではなく 

 

ー自らが思い行い培うもの

 

自らの神に適う 思い 行い とは 様々な艱難辛苦をなめた後にようやく

たどりつく 一つの真理といえます  その中でおごりや自惚れとはその気付きを

遠ざけるー天敵 ともいえます されど だからこそ身に染み付いた真理とは

その人生を輝かせ もはや消えることのないものになりうる とも思えます

イエスは

 

 

ーおおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、

持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。


だから、彼らには譬で語るのである。

それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて

いやされることがないためである』。
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。

 

 

目が開くというのは 罪びとであるという原罪を抱えている人々であるから

といえます イエスは

 

 

ーさてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が
収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。
多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。
いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とは
どういう意味か、学んできなさい。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、
あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、
「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
すると彼は起きあがり、家に帰って行った。
群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。

 

 

それは家族に対する原罪 父母に対する原罪 自らに対する原罪

その立場における原罪 使役する者への原罪

 

むしろだからこそ 彼や彼女は自惚れる事はなく ありのままの状態や姿を

受け入れることができる といえそうです 元キャスターの古館さんは

 

 

ー自分自身がすごくできている人間かといえば、ロクなもんじゃない。
ロクでもねえ、ロクでもねえと常に思っていないと、他人が悪くて自分が
正しいと考えちゃうから。親鸞聖人は『善人なおもて往生をとぐ、
いわんや悪人をや』という悪人正機説を唱えている。
善人が往生できれば、ましてや悪人は往生できるというレトリックがある。
自分は100%善人と思ってるヤツなんか地獄に落ちる。
自分の中に悪を認めていれば、往生できるかもしれない

 

 

キャスターとして異国の紛争をどこかスマートにしゃべっている自分がいる

本当は伝えたい 取り上げたいニュースがあるのに伝えきれない葛藤がある

結局そういった自分の心は(自分に)見透かされてしまっている辛さと

葛藤の中にいる されどおごり勘違いするよりはまだマシかもしれない 

徳川家康の

 

 

ー人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず

 

ー心に望みおこらば困窮し足る時を思い出すべし

 

ー不自由を常と思えば不足なし

 

 

一貫して -おごり や -うぬぼれ を排斥するその心にー滅び という

一言が脳裏によぎります

 

 

されど それすらも自らの日々の行いや心がけ如何であると知れば 

平安と癒しの中で 周囲の人への思いやりと感謝を忘れずに あの世に

土産を持ってw 帰れそうです

見ているようで見ていない 聞いているようで聞いていない 

というのは 相手に対する見栄 義務や世間体 損得 上下を考えるがゆえに

入ってこないものです

本当にその心に響く言葉とは 中村久子さんが念仏と出逢ったときのように

 

ー苦しみ 見放され 絶望するからこそ

 

その心には -干天の慈雨 であったと形容されるものだと思えます

 

 

久子さんに念仏を教えた名もなき老婆のように ヘレンケラーに水という単語を

教えたアニーサリバンのように 天から見放されたと絶望したその時こそ

救いの道を歩み始める その一歩を踏み出す瞬間なのかもしれません

それはあなたの足元を照らす未来であり あなたの足元を確かにする過去であり

あなたを今に生かす神のほほえみと恩寵なのでしょう