18切符の旅②空の駅 | 私立聖祥学園 勇者倍

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フィギュアで遊ぶブログです。購入品の報告や茶番、日常生活にアニメキャラを織り交ぜていくちょっと痛いブログ笑

仕事が忙しくなってしばらく記事をかけなくなっていた間に、北陸新幹線が延伸してしまったw


前回の続き。





ついに餘部に到着。天にそびえる全高41.5メートルの橋梁のスケール、そして、橋梁の上から臨む日本海の荒波に圧倒されました。

現在の橋梁は2代目で2010年から供用を開始したもので、先代の赤い橋脚の方が印象に残っている方の方が多いでしょうか。







旧橋梁は部分的に橋脚が保存されています。また、




線路脇には旧線の1部と、展望台に続く通路があり、橋梁の上から日本海を一望できます。

が、これが中々の恐怖。




爆音注意

というのも、日本海側からの凄まじい強風が吹き、煽られそうになる程の突風に達することもあるため、展望台はもとより、地上ですら長居をすると命の危機を感じます。

勇気を出して河口付近から撮影したものです笑

瀬戸内とは正反対の大荒れの海とセットで体感するとより恐怖感が増大します。天候が崩れやすく風も強い冬に行ったのがそもそも間違いだったと後悔するも時すでに遅し。

あべのハルカスを克服してドヤ顔していた高所恐怖症気味のゴダイゴ母、下が見える状況下で防風壁なしでは40メートルと言えどもさすがにギブアップ。

ちなみに駅ができたのは鉄橋の完成から40年以上もあとのことで、それまでここの住人が山陰本線を利用する場合は、鳥取方面の線路まで山道を登ったあと、列車の運行の合間を見計らって鉄橋を豊岡方面へと渡り、トンネルを抜けて鎧駅まで歩いていたとの事。後述する風の脅威を考えると命の危険があるため、駅の設置はこの地区に住む人々にとって悲願であったと言えるでしょう。


風がヤバイのは冗談抜きの話です。鉄道に詳しい方ならご存知かも知れませんが、餘部鉄橋に吹き付ける強風が列車を転落させる事故が実際に起きています。

1986年、お座敷列車「みやび」が回送中にこの区間を通過した際、33m/sの突風に煽られて牽引車であるDD51を残して客車が転落。乗務中の車掌並びに、落下地点にあった水産加工工場の女性従業員が○亡するという痛ましい事故です。現場には慰霊碑が。



爆音注意その2

事故の原因となった強風は今でも橋梁を渡る列車に容赦なく襲い掛かります。

動画は大阪行きのかにカニはまかぜの通過を撮影したものですが、ご覧の通り橋の中間付近まで走行したあたりで両手で握りしめたスマホが飛ばされそうなるほどの突風に襲われました。今は防風壁がありますが、走行中にこれだけの風が吹いていると思うと、正直車内であっても不安です。

また、海から吹き付けてくる風には塩水が含まれており、橋脚の塗膜や鋼材を腐食させるため保守の観点からも脅威となっていました。

新しい橋脚に変わっても、その脅威は変わらず鉄筋の腐食を考慮してコンクリートは厚めに盛られているそうです。







近くには餘部鉄橋に関係する資料を集めた道の駅があります。トンネル掘削の技術が未熟だった明治時代、山陰本線を開通させるために標高の高い位置からトンネルに入るルートで鉄道を敷設した結果、餘部は地表付近を走ことができなくなってしまいました。

それでも、出雲今市駅(現:出雲市駅)から京都に向かうための最速手段が、境~舞鶴間を航行していた所要時間丸一日の鉄道連絡船の乗り継ぎルートだったため、何としてでも餘部を超える必要がありました。

難工事の末に鉄橋が掛られ、山陰本線が開通したことで所要時間は約12時間と半減したため、いかにこの橋梁が当時の交通インフラの発展に寄与していたかがよく分かります。



浜坂方面からやってきた列車で折り返さなければ日没までに城崎温泉駅へ帰ることが出来なかったため、滞在時間は1時間程でした。それでも、歴史を知って身をもって難所たる所以を体感することが出来たので非常に濃厚な1時間であったと思います。

この記事が出来上がった日は、風の強い日ではありましたが、これを餘部の風を体験していると、大阪の強風も遥かにマシに思えてしまいます笑

この区間はまた通過してみたいです。今度は風が穏やかな季節にね💦