ご訪問ありがとうございます。
命のバトンは偶然で
過日、近隣に住む孫娘に長男が生まれたので、抱かせてもらいに出掛け
た。
孫娘から「〇真は、四人のじいじ、ばあばに抱いてもらい幸せ、私も幸
せ!」とメールが来た。

ふと、考えさせられた。
孫娘にとっては、じいじ・ばあばであるが、〇真くんにとっては曾祖父
四人に抱かれたことになる。
昔だと考えられないことで、長寿の時代だから出来たと思われる。


私を起点として考えると、祖父からひ孫まで6代で約140年の命の
バトンを見たことになる。それは偶然で、命のバトンは繋がらなかっ
たかも知れない。
祖父は1883年(М16年)頃の生まれである。私が小さい頃、折々、
昔話をしてくれた。「山の上の敵と戦って勝った」と嬉々として語って
くれた。日本は戦争に負けたのに変な話だと聴くだけで終わった。
これは、日露戦争(1904年・М37年~)のことだった。山の上の敵とは、
203高地の激戦地のことで、乃木大将率いる日本兵は約15,400人の死者
を出している。祖父は日露戦争を生き抜いたようだ。
父は1904年(М37年)生まれ。子どもの頃、愛媛県内子村の神社の
森へ遊びに行ったときのこと。小鳥を捕まえるワナを仕掛けたのを見に
行き、猟師に雉と間違えられて散弾銃で撃たれた。散弾が胸、腹、足な
どに命中し、それから数日間、危篤状態が続いたと言う。80歳の晩年
に入院した折、レントゲン写真を診た医師が白点数個にびっくりしたよ
うだ。どれも急所を外れて運が良かったですねと告げられた。
私の子どもの頃は戦争中で、1945年(S20年)春、広島市内にも近々空襲
があるからと、幼児~小学生は学童疎開が勧められた。父方の実家に母
と子(兄弟三人)が疎開した。疎開先が無い子どもは学校に通うことにな
った。広島市内に残っていたら直接被爆に遭っていた。
原爆投下前に一度、広島市内に戻ったが、父は直ぐに田舎に戻るよう手
配した。父の好判断で家族の命が救われた。
にんげん 生かされている
こういう命の危機は誰にでもあるもので、<生まれたから生きている>
と言うより、<生かされている>と思える。
戦後80年の節目の年が終わります。
過去の戦争の惨禍で尊い命を亡くされた方々に思いを寄せ、今、生か
されていることへの<感謝の気持ち>を忘れないように過ごしたい。

我が家のお正月は、長男夫婦と孫二人がやってきます。
年に一度、家族全員が揃うのはありがたいです。
大晦日の午前中は最後の買い出し。
午後からは「コンサートへどうぞ」と、優しい声掛けがありました。

皆様には、良いお年をお迎えください。
この一年間、拙いブログを訪ねていただき、ありがとうございました。