ご訪問ありがとうございます。
今日も<梅雨の戻り>のような空模様になりました。
首相の挨拶と正田篠枝さんの歌
先日は、広島と長崎が80回目の「原爆の日」を迎えました。
石破首相は、挨拶で「被爆の実相を世界へ伝えていくことは、
私たちの責務です」と述べ、最後に、広島の歌人・正田篠枝
さんの歌
大きな骨は先生ならむ そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり
を、万感の思いをもって嚙み締めると、二度も繰り返してよ
み挨拶を終えました。
これまでの首相挨拶とは少し違った持ち味があり、共感でき
るものだった。
原爆投下による教師と児童・生徒の被災は悲惨なものになり
ました。8月6日当日、広島では市内6ケ所で、延焼を防ぐ
ための<建物疎開作業>があり、主に旧制中学校の1、2年生と
高等女学校の生徒約8,200人が動員され、屋外での作業に取り
掛かっていました。小学生は疎開が許されていましたが、そ
れが出来ない子どもたちは学校に通いました。
原爆直下・旧制本川小学校の被災
爆心地から410mと、もっとも近い所にあった小学校です。
鉄筋コンクリートの3階建て校舎は頑強でしたが、外壁を残
して全焼、壊滅しました。教職員10名、児童400名が犠
牲になり、無事だった児童は1名でした。
始業前で、児童は校庭で遊んでいたと考えられていますが、
現在に至るまで彼らの最期の様子を知る人はいないとのこと
です。
被爆前の旧制本川小学校

被爆後の校舎内

現在の本川小学校 2017年8月3日に訪問

被爆校舎の一部が平和資料館として残されていた 入館可

奇跡的に、ただ一人生存
居森清子さんの手記
私は朝、両親と弟に見送られ、元気いっぱいに「いってきま
ーす」と言って学校に向かいました。近所に住んでいた同い
年の青原和子さんもいっしょでした。私たちが鉄筋コンクリ
ート3階建ての校舎の1階の角にある靴脱ぎ場で上履きに履
き替えようとした瞬間、まわりが真っ暗になりました。不思
議と音も光もありませんでした。爆心地に近かったせいも知
れません。しばらくの間は何も見えませんでした。まわりが
少し明るくなってから、何が起こったのか分からないまま和
子さんといっしょに校庭に出ました。すると見渡すかぎり、
広島全体が火の海でした。ふりかえると校舎のすべての窓か
ら炎がふき出していました。
ふと、全身黒こげの人がふらふらと私に近づいてきました。
気味が悪いのでしりぞきながら「あんただれ?」と聞くと、
弱々しい声で「高木です」と答えます。仲良しの同級生の
高木さんでした。運動場で遊んでいて被爆したようです。私
がぼうぜんとしていると、職員室の方から女の先生二人が走
り出てきて、「早く川には入りなさい」といいます。そこで
私と和子さん、二人の先生は重症の高木さんを小舟に横たえ
本川に入りました。高木さんはそれからまもなく亡くなりま
した。
絵・川に逃れる被災者

私たちは火の粉が飛んできてどんどん熱さがせまってくるの
で、頭から水を被りながら長い時間じっと水につかっていま
した。夏とは言えずっと水を被りながらつかっていると、寒
くてたまりません。川底に足が届かず、ほとんどの子が力つ
きていました。私たちはいかだにつかまり。「友達の分まで
がんばろう」と言い聞かせました。死体がすぐそばを次々と
流れていきましたが、必死だったので怖さは感じませんでし
た。午後3時過ぎ、火の手が少し収まった頃、和子さんと二
人で校庭にあがりました。そこに黒い雨がふってきました。
二人の先生と高木さんの亡骸がどうなったかはどうしても思
い出せません。
その後、どこかわかりませんが、和子さんといっしょに町内
で決められていた避難所にトラックで連れていかれました。
1週間程そこにいたのですが、何も食べることが出来ず、吐
いてばかりいました。熱も高かったように思います。後から
考えると、原爆の影響だったと思います。和子さんはお父さ
んが連れて帰られましたが、まもなく亡くなったと言うこと
を大人になってから知りました。和子さんは生きていると思
っていたので、それを知ったとき、とてもショックでした。
爆心地から逃れ手当を受ける被災者 御幸橋附近

正田篠枝さんの歌
「ピカッ ドン 一瞬の寂(じゃく) 目を開ければ
修羅場と化して 凄惨(せいさん)のうめき」
「子をひとり 焔(ほのお)の中に とりのこし
わればかり得たる命と 女泣き狂う」
「食べたいと 言いしトマトを 与えざりし
児のうつしえに 母かこち泣く」
にんげんにとって、平穏な日常は、いちばんの宝物です。
核兵器のない、戦争のない世の中にしていきましょう。
長くなりました。
最後まで、ご覧いただきありがとうございました。