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きょう8月6日は、広島の<原爆の日>です。81年の歳月が経過して、遠
い昔のことになってしまったが、家族から聴かされた話は忘れることな
く思い出されます。
我が家も建物疎開に
当時、自宅は広島市の土橋(どばし)という市内電車の道路に面した所に
あった。広島市内にも空襲が想定され、我が家も「建物疎開」(延焼を
防ぐために家を取り壊し道幅を拡張)されることになった。
それで、父は、若い頃からの後見人であり、当時は上司でもあった広島
市役所・助役の柴田氏の邸宅に姉と二人同居させてもらうことになった。
母と男3人兄弟は父の実家である愛媛県の内子村に疎開した。4月頃から
本土への空襲が頻繁になり、乳幼児~小学生は疎開が許可された。疎開
しない子どもたちは小学校に通った。中学生~高等女学生は、建物疎開
作業や軍需関係の作業に従事していた。
現在の土橋(どばし)の電車道

父の被爆
8月6日朝、父は勤務先の市役所に自転車で出掛けた。柴田氏の自宅は市
内・中広町にあり、勤務先まで約3kmの道のり。途中、空襲警報が鳴っ
ていないのに青空に飛行機を見て自転車を止めた。強烈な閃光に、とっ
さに傍にあったコンクリートの防火水槽に身を伏せた。爆風で崩れた家
屋が身体を覆った。

姉の被爆
姉は、進徳高等女学校の一年生(16歳)だった。当時、広島中央電話局に
軍属として勤務していた。主な任務は、敵機情報を市役所に伝達(空襲警
報の発令)したり、軍司令部と電話交換をしたりしていた。
学徒動員と違い、給料は出るが空襲があっても持ち場を離れないように
命じられた。
前日が夜勤だったので、8月6日は午後2時からの勤務だった。起床して
からの一番目の仕事は、防空壕の水(一升瓶)を新しい水に交換すること
だった。邸宅は広く、庭の一角に地下防空壕があり、食料品・医薬品・
毛布などが備えられていた。その後、トイレ掃除、廊下の拭き掃除をし
ていたら、窓の向こうに飛行機雲が見えた。警報サイレンが鳴っていな
いのにおかしいと思い、先生(柴田氏)に伝えようと母屋に走って行った
ら寝ておられた。地震のようにガラガラと大きな音がしたので、一瞬、
裏の変電所がショートを起こしたのかと思った。
被爆後の中央電話局

現在の中央電話局前の石碑

柴田助役のこと
柴田助役は、8月5日の夜から市役所の勤務についていた。夜半に空襲警
報が発令されたが、B29の編隊がいつも通り市の上空を通過しただけだ
った。夜3時頃に空襲警報は解除された。その後、県警部長から福山空襲
の情報を受けた。今後の対策を相談し、朝4時過ぎに自転車で中広町の自
宅に帰り就寝した。
ドンという音で熟睡から覚めた。裏庭に出ると、妻が血に染まって庭先
に倒れていた。同居の娘さん(姉)が駆け寄って来た。二人で防空壕に担ぎ
込み、身体を調べてみると至る所から血を出しているが、致命的な負傷
はなかった。無傷の娘さん(姉)に妻の看護を頼んで、家の裏手の堤防の上
に出て被災状況を眺めた。
(以後、助役の柴田氏は市役所に出向いて、亡くなられた市長の代行とし
て、人命救助、救護所の設置、食料の調達など精力的に手腕を発揮され
ていく。現在の市役所玄関前の資料展示室に尽力された数々の実績が紹
介されている。父は柴田氏を「先生」と呼んで深く尊敬していた。
Doremifaの名付け人でもある。)
現在の広島市役所前には水が供えられている

市役所地下の原爆資料館

無事だった父
姉が、柴田氏の奥さんを看病していると、父が「れいこ! れいこ! 」と姉の
名を叫びながら戻って来た。帽子のない顔は真っ黒で血みどろ。白い半そ
でシャツはぼろぼろに破れ血で汚れている。ズボンは半ズボンのように千
切れていた。防空壕に連れて行き消毒をして包帯を巻いた。
父は、倒壊した家の下敷きから、どう抜け出したかは記憶にないようだ。
ただ、這い出したら屋根の上に出ていたと言う。もう、道はなく、屋根伝
いに歩いて戻ってきたようだ。父はカバンと自転車を失ったことを気にし
て姉に告げている。
爆心地から約600mという近距離の屋外で助かったのは奇跡的なことだっ
た。というのも、爆心地から約500mの距離にある土橋で建物疎開作業を
していた県立第一高等女学校一年生223人は全員亡くなられているからだ。
あのコンクリートの防火水槽が偶然にも傍らにあったのが幸運だった。

大きな骨は先生ならむ そのそばに
小さなあたまの骨 あつまれり
広島の歌人 正田篠枝
にんげん だれでも 平穏な日常が いちばんの宝物です
無数の尊い命の犠牲のうえに こんにちがあることを 忘れないようにしたい
ご覧いただきありがとうございました。