香港ドール21 最終回 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

少し考えて出したしんさんの結論は持ち越しだった。

もうすぐしんさんのセーターも編みあがる。これが出来上がったらいったん日本に帰る事にしよう。少なくとも私の連絡先を置いて、いつでもしんさんからの連絡が付くようにすればよい。
領事館に出頭してどうなるのか一抹の不安はあった。

こちらに来てからのいろいろを詳しく話さなければならないのだろうか…もう何もかも済んだことだし、しんさんに繋がることを詳しく語ったら、しんさんの身になにが起こるかわからない。

だとしたら、余りおかしな格好をしていくわけにはいかない。
「じゃぁ、何か外に着ていけるような服を用意してもらえるかな」
しんさんは黙っていた。


すっかり編み物に慣れてしまった手は、目を割ることも落とすこともなくどんどん編みあがっていく。

自分自身で着々と今の生活を終わらせていくような気持ちだ。しんさんが連絡をくれるのかどうかも分からない。これでしんさんとは終わりなのかもしれない。もしかしたら私がまたここに来て今度はしんさんを探し出すのかも知れない。

でもその時はちゃんとパスポートを持って自分の意志で来る。そこからなにか始まるのかも分からなかった。目がどうなるかも分からない今では、当面、本当にか細い繋がりになるのだろう。


二、三日して、しんさんは服を買ってきてくれた。なんだか嬉しくて私は意味もなくはしゃぐ。

その日はしんさんの休みの日だ。ためしに私がそれを着てみるとしんさんは私の腕を取って導かれるまま二人で外に出る。

外の空気が私の肺に流れ込んできて、深々とその新鮮な空気を吸い込む。

しんさんに掴まりながら廊下に出て階段を下りる。途中エレベーターを使い、迷路のような廊下を抜け、しんさんと一緒に外に出た。色とりどりの街が私の目に映る。


食堂に入って、しんさんが料理を注文してくれた。威勢の良い掛け声、周りの人達の会話する声。

窓の外から聞いていた広東語と同じように、まるでけんかをしているように聞こえる強い口調。私は音の洪水に飲み込まれそうになる。やがてテーブルの上には幾皿も運び込まれる。
そう言えばしんさんとこんな風にデートするのは初めてのことだ。いつもと違う雰囲気で私は無口になってしまう。
「ねぇ、しんさん。私こっちに戻って来て良いの?
しんさんは私のこと邪魔じゃない?」
テーブルの上のしんさんの手が私の手を握る。
「帰ってくるのがいつになるか分からないの。ずっと目が見えないならそれで生活が成り立つように訓練しなくちゃいけないし…」


しんさんは私に電話番号らしき数字を教えた。広東語で何度も繰り返して覚える。
私も紙とえんぴつを借りて実家の住所と電話番号をアルファベットで書いた。しんさんにそれを読み上げてもらい確認する。
涙が止まらない。私たちこれで終わりになるかもしれないね。新しい生活に飲み込まれて、しんさんのことを忘れてしまうかも。

しんさんだって同じことだ。日本と香港という距離は遠すぎる。私のことは忘れてしまうかも知れない。
きっと私が彼の思っていたような人形ではなくて、しんさんの意図とはまったくズレた生活になったのだろう。もしかしたらしんさんは私を厄介払いしたかったのかもしれない。でもそれなら私を叩き出せば良いこと。

そうじゃないんだよね、しんさんそうだよね。


食堂を出て二階建てのバスに乗る。まるで遊園地の乗り物のように感じる。そこでやっと私は気が付いた。後はこのまま日本領事館に行くのだ。
「しんさん、私のカーディガンは?ショールは?」
しんさんに編んだセーターは襟元の始末が残っていたのに。
私は声を立てて泣き、しんさんにしがみついた。
「嫌だよ、嫌だよ。これで最後なんて嫌だよ」
しんさんは私の頭をただ撫でていた。いつかのお客のように。
やがて停留所でバスを降りる。
しんさんに導かれて通りを歩く、とても切ないデートだった。ある曲がり角でしんさんは私の左手をとって壁につけた。
「ゴー、ストレイト、ドール。ゴー、ストレイト」

まっすぐに行くと日本領事館なのだろう。涙は溢れ出す。
「しんさん、ちょいぎん、しんさん、再見、」
「チョイギン、ドール」
光の溢れた通りに向かって私は一人で歩き始めた。振り返るとぼうっとしか見えないしんさんの姿が更に涙でゆがむ。
「しんさん、再見」
「ゴー、ストレイト、ドール、ゴー」



ハイ、これで終わりましたよ。体が軽くなったでしょう。えっ、その後のお話?そうねぇ、それはまた今度のお楽しみにしておきましょう。
あっはっは、そう言われてもねぇ。次の患者さんも待っていることだから。
まぁ私がこうやって中国針を使っていることでいろいろ想像してみてくださいな。

もしかしたら丸っきりの作り話かもしれないし。
ほほほほっ…
次の診療の予約?
3週間ぐらい旅行に出かけるのでね。その頃またお電話いただけましたら。
えぇ、もちろん帰ってきますとも。どうもお疲れ様でした。またどうぞ。