香港ドール16 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

窓の外から聞こえる町の人たちの声から「ネイホゥ」というのが挨拶らしいと知ると、さっそくしんさんに言ってみたけれど、いつも返事は返ってこなかった。
私は毎日編み物をし、ハーモニカの練習をして上手くなるとしんさんに披露した。ショールはすぐに編み上がって、私がねだるとしんさんはすぐに新しい毛糸を買ってきてくれた。
今度はいよいよカーディガンに挑戦することにした。同じように市松で編むことにする。何色か分からなかったけれど、しんさんが買ってきてくれたのはショールと同じモヘアの毛糸だ。


毎日の時間の経過は、前とは違い格段に早くなった。何度も目を落とし、編み直しに苛立ちながらも、少しずつ前身ごろ、後ろ身頃が仕上がっていく。わたしは別にした毛糸で鎖編みをして日にちを数えていた。毎日一つ目を編んで、7つ目が出来ると尻尾に通して丸い輪を作る。輪は4つ目に差し掛かっていた。


しんさんは私のメンスの日から一緒に入浴することをやめていた。その理由は分かるような気がする。しんさんは入浴以上のことをする気持ちがないのだろう。そんな私の存在がしんさんにとって何の意味があるのかは私にはどうしても分からなかった。
もしかしたらやってくるかと思われたしんさんの背後の人物も、結局は私の恐怖感が作り出した産物らしかった。


そんなしんさんに気味の悪さを感じるのが普通なのかもしれない。でも私は不思議とそうは感じなかった。後にストックホルム症候群のことを知ったときに、どういうわけか私には素直に理解できた。とても特殊な状況だからこその反応なのだろう。
私にとってはしんさんは地獄から自分を救い出してくれた人物で、危険な外界から自分を守ってくれているようなそんな気持ちになっていたのかもしれない。


毎日夕食の後、その日ハーモニカで練習した曲や、上手くなった曲をしんさんに聞かせる。あるいは一緒にモーツアルトを聴く。単調な生活の中で私がしゃべることも、もう少なくなっていたけれど、しんさんと過ごす2,3時間がとても楽しみだった。
着るものは相変わらずの寝巻きばかり、しんさんはラジオも時計も持ってきてくれなかった。
その代わりといってはなんだが、右隣の部屋の住人は柱時計を購入したらしい。壁伝いに微かに聞こえる音を数えるのが私の習慣になった。右隣の住人は毎朝8時になると出て行き、帰宅はいつもしんさんが帰った後で、それは殆どしんさんなのだった。
ある時しんさんは風邪を引いたのか、咳をしていた。しんさんが帰った後で右隣に耳を澄ますと、やっぱり咳が聞こえてきて、私は思わず笑ってしまうのだった。


週に一度、休みの日にはしんさんは私のところで長い時間を過ごす。私は嬉しくていつもより少しおしゃべりになり、しんさんは昼食のあとにチョコレートケーキや、クッキーを用意してくれた。アイスクリームの日もあった。
毎日は穏やかに過ぎていく。ある晩10目ずつの市松を私はいち、にい、さんと数えながら編んでいた。しんさんは私の側に来て私が編んでいるのをじっと見ているようだった。耳元で小さくしんさんの声が聞こえる。
「やっ、いー、さん、せい、んー …」
数だ。私も数え始める。
「やっ、いー、さん、せい、その後は?」
「…んー、ろっ、ちゃっ、ぱっ、がう、さっぷ」
「んー、ろっ、ちゃっ、ぱっ、がう、さっぷ
やっ、いー、さん、せい、んー、ろっ、ちゃっ、ぱっ、がう、さっぷ」


そんな風に時に心が通じたような気持ちになると、私はしんさんに対して切ない思いを抱えるようになっていた。しんさんが帰る支度を始める気配がすると、寂しくて涙がこぼれてしまう。
ねぇ、しんさん私もっとあなたと話したい。しんさんが帰った後、私は右隣の壁に耳を当ててしんさんの気配を少しでも感じようとしていた。隣室はいつも静かだ。
そうっと壁を叩いてみる。


トントン、トン、トン、トン。


真っ白く長い時間が経って、やっぱり何の反応もない。また大騒ぎをしたらしんさんは来てくれるのだろうか。

半ば自棄になって、乱暴に部屋のドアノブを廻してみる。


あっけなくドアは開いた。新鮮な外の空気が流れ込んでくる。


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