香港ドール11 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

ふと身体を動かした拍子に股間にヌルリとした感触が走った。あれ、そう言えば…
トイレに行って拭き取り、匂いを嗅いでみる。微かにする鉄錆の匂いでやはりメンスになったのだと分かった。手当てするものが何も無い。当座のしのぎとしてトイレットペーパーを纏めて当てた。
生理用品のことは男に言うしかないのだろう。それを買いに行く男の姿を想像すると、つい可笑しくて笑ってしまう。
私はトイレのドアを開けて男に言った。
「ねぇ、私メンスになっちゃったみたい」
無言。
英語で月経を何というのか分からない。
「ウーマン、マンスリー、う”~ん」
ソファに座っていた男が立ち上がる音がして、とにかく通じたようだ。
なんとなくオタオタとした気配に、心の中で密かに吹き出してしまう。
「一緒に出かけて買おうか」
自分を指差しながら言ってみる。
「レッツゴートゥザドラックストア」
「ノーノー」
私を外に出す気はないようだ。
「じゃ、早く買ってきて。でないとその辺、血だらけになっちゃうよ」
男の困った様子が伝わってきて、込み上げて来る可笑しさが私の肩を震わせている。慌ててトイレに入ってわざと大きな声で
「プリーズ」と叫んでみた。
いい気味だ。薬局でうんと困ればいいのだ。
部屋のドアが向こうで閉まった音がして、私は安心して声を上げて笑った。


もしかしたらこの派手派手しい下着を用意したぐらいなのだから、男にとってはなんでもないことかもしれない。月経の知識だってあるだろう。
それでも予想外のことに明らかに男は慌てふためいて、うろたえていて、そのことが私を笑わせていた。

一通り笑い終わると、再び考えてみる。


今日の懐柔策の理由。
これはAにしてもBにしても私がヒステリーに陥らないためだろう。昨日の睡眠薬も、一昨日の阿片も揉め事を起こさないためのようだ。
しかし私にしてみれば理由が分からないからいろいろやってみるのであって、普通に、それは余り普通ではないかもしれないけれど、
「お前はもう目も見えないし、ここである人の囲われものとして生きていくのだ。娼館にいるよりはましな生活だから」
と言われれば、それで少しは納得できると思うのだ。ここまで不安なのは一つには自分がここにいる存在理由が分からないためなのだ。
着替えといえば、薄物の寝巻きばかりなのに、やってくる男は私を抱くわけでない。


それがBの場合の男自身の意思であっても同じことだろう。幾ら言葉が通じないからといって、少なくとも今のように英語で伝えようとすることは可能だ。
そうだ、男は揉め事を望んでいない。少なくとも今は私に危害を加える意図は無い。もう少し時間が経ったら、背後にいる誰かが来るのかもしれないが、それは今はまだ分からないことだ。


時間…
時間の経過。目の見えない世界で今私が直面している問題。売春宿の恐怖や苦痛からとりあえず今は開放されている。
目の前に迫った苦痛は無いけれど、漠とした恐怖はそのままに、それを逃れようとしても気を紛らわせるものが何もないということだ。
今日の音楽は良かった。男がレコードをどうするつもりか分からないけれど、ずっとあると良いなと思う。でもきっとそのうちに飽きるのは自分でも分かっていた。


目の見えない生活にどうやって慣れていけばいいのだろうか。
殆どの情報を目に頼って生きてきた。
外からの情報の殆どが絶たれて自分のおかれている状況も上手く把握できない。
点字を覚えるにしても日本語の教材も無いだろうし、結局誰かの助けが必要なのだ。広東語を覚えるにしても、男が話してくれないことには埒が明かない。どっちを向いても、壁、壁、壁。


再びツルリとした感触がしてハッと気がついた。生理があったということは妊娠していなかったということだ。
安堵のため息が出る。売春宿で妊娠などしていたら、それこそ目も当てられない。良かった。今の今まで考えもしなかったけれど、これは一つの喜ばしい材料だ。だけど…

ほら、こんな風に考えだけが私の周りをふわふわと浮遊して、またどこかへ消えていってしまう。何にも前に進んでいかない…時間すらも進んでいかないのだ。こんなことでは生きているとはいえないだろう。
私が持っているものは何も無い。ただ無限にある時間のなかで自分自身を支えていくのは私の中にあるものだけなのだ。


カチャリ、ガチャ。
男が帰ってきて、差し出した私の手に紙袋の中から取り出した軽い箱を乗せた。生理用ナプキンだ。
私は急いで手当てをしてベッドに滑り込んだ。下腹部がシクシクと痛み出していた。
男がベッドの脇へ来て私を見守っている。
「ねぇ、できたらもうちょっとちゃんとした服も用意してもらえないかしら…」
沈黙。
「なんとなく寒いのよ」
襟元で布団を掻き合わせて震えるマネをして見せた。
エアコンのスイッチのところで微かな音がして、どうも空調の温度を男が上げたらしい。そういうことではないんだけれども…
一体どうやって伝えたらいいのだろう。


再び今朝見た夢がチラリと頭をかすめて、もしかしたらこの人も頭を撫でて欲しいだけなのかしら…とふと思った。


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