香港ドール2 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

朝、多分朝遅くだと思うのだが目覚める。あたりは静まり返って誰の気配もしない。
手探りで部屋を確認する。クロスの壁、リノリウムの床には大きなラグが敷いてあり、窓が一つ、何階なのか分からないが記憶では相当階段を上ったような気がする。
窓を開け手を伸ばすと、すぐにペンキを塗ったスチールの格子にぶつかってため息をつき、それでも外気を思い切り吸い込む。まだらに射す日差しの暖かさ、久しぶりの朝の空気、鳥のかゆの匂い。しばらく太陽の光など浴びていなかった気がする。
手探りで逆方向に向かうと壁には何もかかっていない様子。ソファを越えて探っていくとスチール製のドアに突き当たった。
と、足にガチャンと食器の音がして、しゃがみこむとアルミのトレイに乗せられた粥が用意されていた。すっかり冷たくなったそれを私は夢中で流し込む。昨夜は食事をしていない。
別の皿にライチ。はじめはそれがライチとは知らなかった。香りで果物と知り、夢中でその外皮を歯と爪でむしりとる。ヌルリと手が滑って取り落としたものを、手探りで探して洗面台で洗って食べる。いくつもいくつも夢中で食べる。久しぶりの果物、その甘さと、香りが気に入った。


改めてドアを探ると下に高さ15センチほどの小さなはね戸がついていて、食事がそこから差し入れられるものと知る。
まるで囚人みたいだと思って、つい笑ってしまう。前の売春宿でだって囚人だったじゃない。今度は一人、独居房に移されただけの話だ。
逆の方向に壁伝いに歩いてみる。クローゼットには薄物のベビードール、柔らかな感触のネグリジェが何着か。引き出しには何十枚もの下着。これからの生活を想像させるものだ。こんなにたくさんあるのなら、2,3日という感じでもないだろうし、昨夜男が私を抱かなかったのも気になった。
いったいこれからどうなるのだろう。いつか開放されるのだろうか…それともあぁ、あの不潔な売春宿に戻されて、きっとまた…


そう思いながらも私の手は休まずに壁伝いに動いて、冷蔵庫の上の電気湯沸かし器と茶器を見つけた。ままごとのように小さく滑らかな手触りの中国の茶器と缶に入った茶葉。
その隣の洗面台に歯ブラシと歯磨き粉、洗面台の下にはゴミ箱らしきかご、脇にタオル掛け、そこから二歩でもうベッドだ。
これがこの部屋の全部。見えないのに見渡してしまう。それが習慣というものだ。
自分でそれに気づいてしばらくベッドの上で泣いた。懐かしい日本を思って泣いた。目の見えなくなったことを嘆いた。騙された悔しさ、陵辱された口惜しさ。泣き疲れふと耳を澄ませると、閉め残した窓から外の音が聞こえてくる。
音は私にとって残された刺激だった。
ベッドの向きを変え窓際に沿わせ、音に聞き入る。
ジェット機の轟音、行き会うおかみさんたちの声、車の音、得体の知れない、なじみのない音、音、音。
それに聞き入っているしかなかった。逃げ出したところで、目が見えなくては逃げ切れまい。少なくとも今は。そして無限に思われる時間が過ぎていった…



足音がドアの前にかすかにしてカチャリ、カチャリと音がする。昨夜は気がつかなかったけれど、鍵は2つ付いているらしい。念の入ったことだ。いまや聞く事は見ることに等しかった。


「ハロー」と少しくぐもった昨夜の男の声。あぁ、英語か、そうか英語なら通じるのか…
顔を上げ、ドアのほうに向かってハローと呟く。
荷物を置く音、がさがさと紙袋を探る音がして、男はなにやらプラスティックの音を立てた。食事を持ってきてくれたらしい。独特の芳香がして食事の温かさが伝わってくる。私はベッドから降りて、ソファのほうへ向かい見当をつけて座った。カチャカチャとトレイの音がして男が近寄ってくる。


「オープンユアマウス」
歌うような独特の調子をつけて命ぜられ、私は口を開ける。
始めにスプーンで少しの料理を口の中に入れられて私は飲み下した。何の料理なのか、よくわからないが温かかった。こちらに来て、本場の中華料理は随分香料の効いたものだと知った。
粥とライチの朝ごはんだけで、私はすっかり空腹だった。
手元に器を引き寄せて男の持つスプーンを取ろうとすると、
「ノー、ノー」どうも男は私に食べさせたい様子だ。それならばと、また口を開く。
今度は日本のお米とは比ぶべくもない不味いご飯がひとかけらのザーサイと一緒に口に運ばれる。私は大人しく噛み下し、ツバメの雛のようにまた口をあける。それは儀式のように静かに執り行われた。
男がどういうつもりなのか全く分からない。いつまでここに閉じ込められているのか分からない。
男がどういう顔をして私を見ているのか、それすら分からなくて私はただ全身を耳にしてわずかな気配にも敏感でいるしかなかった。
今が何時なのか、まだ宵の口だと想像が付いたけれど、まだ2日目の夜だ。


香港ドール3へ