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Doodlin' Records

神戸元町のバー「Doodlin'」店主がチョイスするジャズレコード紹介。
勝手気ままに書かせていただきます。

名盤の誉れ高いプレステッジのマイルス デイヴィス「バグズ グルーヴ」だが、僕はこのレコードの内容は大好きだが、このレコードの編集は好きではない。何故ならこのレコードのA面にはタイトル曲のテイク1とテイク2が続いて収録され、B面には違うセッションの演奏が収録されているからだ。マイルスとセロニアス モンクがスタジオで何やらすったもんだを繰り広げたという訳ありな「バグズ~」は確かに素晴らしいが、この構成ではアルバム自体を評価するのには配慮が足りないと思う。

ただ、この様な編集のレコードは当時他にも例はある。しかし本作を特に残念と感じるのは、この「バグズ~」を演奏した1954年の12月24日に演奏した他のナンバーが「マイルス デイヴィス アンド ザ モダンジャズ ジャイアンツ」という名で後に発表されていて、しかもその内容がことごとくテンションが高くスリルに溢れていているといったものだからだ。このセッションの全曲こそ本当にジャズの歴史に燦然と輝く記録として一つにまとまっていなければならなかった。

1954年の12月24日録音の「~ モダンジャズ ジャイアンツ」に収められた「バグズ~」以外の曲は合計4つ。スタンダードの「ザ マン アイ ラヴ」のテイク1と2、マイルスの「スイング スプリング」、モンクの「ベムシャ スイング」だ。これに1956年録音の有名なマラションセッションから「ラウンド アバウト ミッドナイト」1曲が加わり1枚の作品となっている。
ここでも既に2つのテイクとセッションに別れているのが何をか言わんやではあるが、当然今回は1954年の方のセッションで話を進めよう。

アルバム「バグズ グルーヴ」に収められた「バグズ~」の2テイクはマイルスとモンクの喧嘩セッションとして名を残している。1954年12月24日のクリスマス イヴにニュージャージー州ハッケンサックのルディ ヴァン ゲルダー スタジオに集まった大物2人がトランペット ソロのバックでピアノを弾く弾かないでモメたというらしい。ただしマイルスが言うには、それはモンクの音楽性と自分のプレイを考慮しての上の発言だったものが、意思の疎通が出来ず張りつめた緊張感漂う場になってしまったらしい。まあ今となってはその全容を知るのはエンジニアのヴァン ゲルダーだけなのだが、少なくともこの連中にクリスマスをみんなで祝おうなんて気持ちが無かったのは確かだ。
これが有名な「バグズ グルーヴ」の喧嘩セッションで、この曲をタイトルにした「バグズ~」というアルバムが名盤となった。

しかし、その緊張感はむしろ「~ モダンジャズ ジャイアンツ」に収められた「バグズ~」以外の方の曲に克明に現れている。「ザ マン アイ ラヴ」のテイク1には始まった途端に物言いが入る様子が収まっているし、テイク2ではモンクがソロの途中で演奏を止めてしまいそうになるのを、マイルスがトランペットで煽り立ててまた戻すという場面がまともに聴いてとれる。ここでのマイルスは苛立ちを隠そうともしていない。
そして「スイング スプリング」は全員が何かに取り憑かれた様な激演を繰り広げる。特にミルト ジャクソンが凄いのだが、同じ様な激演は他にも多数ある。しかし本作が明らかにやばい空気の煽りを受けたという特別な演奏なのは、聴いてみるとまともに判断が出来るというもの。こんな不穏なアルバムなどジャズの歴史にはそう残っていないのではないか。

だからしてこの面白さは、「バグズ~」も含めた1セッションでまとめて、その全容を1つの作品として鑑賞したかった。「ザ マン~」の2テイクは確かに聴き比べてみると面白いが、「バグズ~」の2テイク並べは面白くない。だから「ザ マン~」のどちらかと「バグズ~」のどちらかを入れ替えて別テイクなしの1枚と、残りの別テイクを片面に収めて合計1枚半にしておけば良かったんじゃないかと思う。
調べてみるとこのセッションは元々10インチで発売されていて、それは「バグズ~」と「スイング~」を両面にカプリングした「マイルス デイヴィス オールスターズ」と、「ベムシャ~」と「ザ マン~」をカプリングした「同 Vol.2」で構成されている。この地点では良心的だ。
しかし新たに開発された12インチが主流となり再び編集し直した時にこのような構成になったのだろう。浪速商法と呼ばれるプレステッジの事だから、1枚のアルバムに1人でも多く売れるプレイヤーの名前を出したかったのかも。事実「バグズ~」のジャケットはプレイヤーの名の文字のみだ。
ただ、12インチ化の際の混迷は何もプレステッジに限らずブルーノートにも多く見られたものだ。

因みにプレステッジが12インチを発売し出したのは1956年。これはマイルスが最後のマラソンセッションを行った年だ。そう考えるとマイルスのプレステッジ イヤーズは、有名な12インチのアルバムの数々では無く、当時は10インチで世に親しまれていた事になる。これって少し意外だと思うのは僕だけだろうか。

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アート ブレイキー & ザ ジャズメッセンジャーズの最盛期は1950年代末から60年代の前半であるというのは、流石にヘンコな僕でも異議はない。そんな最盛期のトランペットを担ったのは前半がリー モーガンで後半がフレディー ハバードだ。
申し合わせた様に1938年生まれの同い歳であるこの二人、現在では共にジャズ界のスーパースターとして燦然と輝き、また好ライバルとして比較対象とされている。現に僕がこの二人のどちらが優れたトランペッターか?などと聞かれても、そもそも考えた事もないし、絶対に答えなどは出ないだろう。それほど突出した二人のスターなのだ。

しかし、二人がこの最盛期の頃から常に均等に評価されたスターだったのかと考えてみれば、そこは少し違うのではないかという点が出てくる。
メッセンジャーズが最盛期に残した正規のアルバムはブルーノートとリバーサイドから発表されていて、その全てが尋常ではないクオリティーを保ってる。間違いなくジャズの歴史に残る至宝と呼べる作品達だ。これらを聴いている内にはリーとフレディーは共にメッセンジャーズの輝けるスーパースターであり、そこに大差などは無いように感じる。

しかし人気バンドというのは、その後に必ず隠されていた秘蔵録音やお宝映像が発見され、世に出てくるもの。メッセンジャーズもその例に漏れず、というかその最もたるものだろう。
ところが、それらの記録を見るとそのほとんどがリー モーガンのもので占められているというのに気付いてしまう。フレディーの時代のものはことごとく少ないのだ。これは一体どういう事か?

考えられるのは、やはり当時のリー モーガンの人気ぶりが並なものでは無かったという事。19歳で華々しくデビューし、常にジャズの最先端を突っ走ってきた当時のリーは、正に大スターであった。だからリーの在籍したメッセンジャーズはラジオにも取り上げられるなどメディアにも注目され、その結果秘蔵録音も多く残ったのだろう。
だからして同い歳であるにもかかわらず、デビューが遅れてしまったフレディー(それでも充分早熟だったのだが)がメッセンジャーズ入りした地点では、あくまでもリーの代わりとしてでしか見られてなかったのではないか。
また、ジャズの王道に乗っかり自己流でスタイルを決めてスターの地位を保ったリーに比べて、フレディーはコルトレーンやドルフィーやビル エヴァンス、アンドリュー ヒルといった自己の音楽性を押し出すプレイヤーとの関わりが深かった。その器用さがスターではなくアーチストとして捉えられた点も大きいだろう。

さらにメッセンジャーズのトランペッターがリーからフレディーに代わるまさにその頃に、あのビートルズがアメリカに上陸していて、これは当時の音楽シーンを一変してしまった衝撃であったと今も語られている。これは僕の考えなのだが、そのために今までメッセンジャーズを追いかけていた聴衆やメディアの興味がいっせいにビートルズに向いてしまったのではないか?
何にせよスターとしてのフレディーは当時ずいぶん損をしていたというのは考えられる。

1973年、リー モーガンはニューヨークのマンハッタンはロウアーイーストにあったクラブ「スラッグス」において、歳上の愛人ヘレンによって射殺されてしまう。
リーとフレディーはライバルでもあったけれど、お互いに仲の良い友達でもあったという。そのためフレディーも大変なショックを受けたとは推測される。しかしそれはそれ、フレディーがリーに代わってトランペットスターの地位を受け継ぐ時は正におとずれたのだ。

しかし、事はそう簡単には運ばない。当時のジャズ界は激動する社会情勢に紛れて同じく激変してしまっている。リーが亡くなったといってトランペットスターがジャズ界に必要とされたのだろうか。にもかかわらず、当時はフレディーの他にウディ ショー、エディ ヘンダーソン、チャールズ トリバーといった優れたポスト リー モーガンがたくさんひしめき合っていた。フレディーは実力者ゆえにアルバムを発表する機会にはありついてはいたが、それはアーチストとしてであってスターとしてでのものではない。

そんなフレディーに最高の転機をもたらせたのが、1976年にハービー ハンコックの音頭取りで始まったVery Special Onetime Performanceのためのクインテット。略してV.S.O.Pだ。
これはハービーがニューポートジャズ祭のために企画したもので、ハービーのエレクトリック部門とアコースティック部門の両方の音楽を聴かせようというもの。そしてアコースティックの方は、あのマイルス デイヴィス クインテットの再現として構想されていた。
しかし、絶対に過去を振り返らないマイルスが首を縦に振る訳は無く、そこで白羽の矢を立てられたのがフレディーだったという。いわば代役だ。もっともヴィレッジヴァンガードのオーナー、マックス ゴードンによればステージに現れないマイルスの代わりにいつもフレディーが吹いていたらしいが。

しかしフレディーの起用は見事に当たった。フレディーのお祭り男としての本領が発揮されたのだ。ここでの彼は正に水を得た魚だったのだろう(この時の録音盤「ニューポートの追想」は聴いたことないのだ)。結果Onetimeのはずだったこのクインテットは、フレディーを迎えたまま継続されるに至る。

遅くなったが紹介するレコードは、そんなV.S.O.Pが1979年のライヴ アンダー ザ スカイのために来日した時の記録。横尾さん風アルバムジャケットにむちゃ当時の匂いを感じる。
何でもこの時の田園コロシアムはとてつもない集中豪雨に襲われたらしいが、そのために逆にもの凄い一体感に包まれた感動のステージであったらしい。そういう意味で当時を知るハービーやウェイン ショーターらのそれぞれのファンの人には思い入れの強いものだろう。
しかし、下手すれば高尚すぎて芸術方向に行ってしまいがちな二人を押さえて、本作をバリバリかっこいいものに仕上げた功労者は紛れも無くフレディーだろう。大雨なんて屁にも思っていないのではないか。にもかかわらずクインテットを今聴いても最高の聴きごたえに満たしているのも凄い。そんなフレディーを聴いていると最高級のブランデーを瓶ごとラッパ飲みしているようなワイルドさを感じる。水で割ったらアメリカンなんて言っている場合ではない。
そしてそんなフレディーは他の4人を押さえて正にスターの貫禄を醸し出した事になる。

アーチストとして音楽性に満ちあふれたスターのフレディーがここに誕生したのだ。

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デューク エリントンは家にあった親父のレコードで覚えた。日本のRCAが出したベスト版なのだが、何せジャケットがカラーのエリントンの顔がドアップで「デューク エリントン ゴールデン ベスト」とかいった安易なタイトルがついている代物にして、中古レコード屋さんで見かけても500円くらいしか付いていないといったものだ。
これの中身はRCAから出た「ザ ポピュラー デューク エリントン」のものがほとんど。しかしこれにビリー ストレイホーンを追悼するために録音した曲を2曲ほど足したうえに、油井正一氏の丁寧な解説も付いていたので、結果的には「ザ ポピュラー~」でエリントンにはまった人とほぼ同じ条件であった事になる。

1966年に録音された「ザ ポピュラー~」はそのタイトルが示す様に、活動後期を迎えたエリントン楽団が決定的なベスト盤を制作すべく、有名曲のほとんどを再演したという傑作だ。このレコードでエリントンの魅力を知った人は相当な数にのぼるだろうし、今も再発はくりかえされている。

しかし1899年にワシントンDCに生まれ1920年代にはハーレムで名声を得たエリントンの活動は長い。したがって、何でも知らなければ気がすまないといった我々ジャズファンの悲しい性として、もっと初期のエリントン楽団の魅力も探ってみたいと思うのは当然の成り行きだろう。
しかし、初期のエリントンといってもあらゆるレーヴェルから色んなものが出てるし、海賊盤やら独自編集盤なんかを加えたら膨大な数に膨れ上がる。これでは何から手を付けたらいいのか皆目わからない。てっとり早く初期の全貌が解るベスト盤みたいなものはないかいな?

という事で模索しているうちに辿り着いたのがこの1枚「ザ ミュージック オブ デューク エリントン」。これはジョージ アヴァキャンによって1928年から1949年の間にコロンビアに録音された音源から編集された文字通りのベスト盤で「キャラバン」「ムード インディゴ」「ソフィスティケイテッド レディー」「ソリチュード」「イン ア センチメンタル ムード」「クレオール ラヴ コール」「ドント ゲット アラウンド マッチ エニモア」「ザ ムーチー」といった超名曲がずらりと並んでいるといったお得盤なのだ。
これがあれば少しは初期のエリントンについて知った顔も出来るというものだ。

そんな本作を後期の「ザ ポピュラー~」と聴き比べていると、やはり同じ楽団であるのにかなりの違った点が発見される。そしてそれはただ単に録音の古さや収録時間の違いだけの事では無い。本作を聴くことにより今回僕なりに気付いたのは主に以下の3つの点だ。

1つ目。初期の楽団員の名人芸が半端なものではない。
所謂モダンジャズの時代を迎えるまでのジャズメンは全員が各自の名人芸の競い合いだったというのが僕の持論だ。しかしここで聴かれるエリントニアンの芸は突出している。とにかくトランペット、トロンボーンならワーワー、テナーサックスならサブトーンとか、その他ありとあらゆる超絶技巧が全ての曲で披露されていて、それがことごとく素晴らしいのだ。
「私の楽器はオーケストラだ」とエリントンは言った。これはエリントン自身がメンバーの誰がどういう芸を持っていて、それをどう活かすかを完全に把握していたからだろう。一曲に一芸ありきだったのかも知れない。それが録音時間が短い分だけ強調されたのではないだろうか。

2つ目。エリントン楽団の音楽は深くて暗い。
確かに1966年のものに比べると録音状態ははるかに劣っていて、音はほとんどヌケてはいない。しかしそれを差し引いても明らかに本作は何かどんよりした重苦しく、悲しいムードに覆われている様に感じてしまう。
考えられるのは本作の録音時期と1960年代の間に1950年代を通っているからではないかと思う。この時期にありとあらゆるアメリカ黒人の新しい運動がおこり、その地位はアメリカ国内で変化して行った。言い換えれば「ザ ポピュラー~」の方が時代の変化に対応して前向きで明るくなったもので、本来のエリントン サウンドはまだまっとうな地位を得ないアメリカ黒人の悲しみを背負った様な暗いものだったのではないか。

3つ目。とにかく全てが芸術的だ。
結局これは先の2つをまとめた形になってしまうのだが、1曲に込めるエリントンの集中力と自己主張は並なものではない。エリントンは全ての考えられる音楽性をここに放り込んでいたのだろう。ドビュッシーらの近代フランス音楽に通じる音を指摘する評論家もいる。そしてそれは当時までの既成の音楽にハーレムという場所から発進する挑戦状でもあった様な気がする。僕は特に「クレオール ラヴコーク」といった歌、というよりヴォイスを取り入れた楽曲により強くその芸術性を感じる。
この当時に絶頂を迎えたというハーレムのニグロルネッサンス。エリントンの音楽はその最もたる象徴にして希望だった。本作を聴いて、その当時のハーレムを想像すると胸が熱くなり、ワクワクする衝動を押さえられない。

結局「ザ ミュージック オブ デューク エリントン」は僕のエリントン熱にさらに火を付けてしまった。いや、今火が付いたのであってこれからまだまだ新しい方向に燃えていく予感さえする。
目下、初期に小編成で録音されたものの全貌を知ることの出来る盤は無いかいなーと模索中。

※デューク エリントンのハーレムを歩いたシカゴ~ニューヨーク旅日記はこちら

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プレステッジに録音されたブッカー アーヴィンのレコードといえば、「ソング ブック」を一番に思い浮かべる人は多いと思う。トミー フラナガンをピアノに迎えたワンホーンのスタンダード集で、確かにまとまりの良い良質なアルバムである。また、その並びで「ブルーズ ブック」「スペース ブック」などのブックシリーズも発表されていて、これらも愛聴されておられる人もいるだろう。

しかし、プレステッジのブッカー アーヴィンのアルバムの中で、一体世界にどのくらいの人がその存在を知っていて、さらにその中のどのくらいの人がこれを愛聴しているのか、かいもく見当もつかない変態的アルバムがある。それが今回紹介するアルバム「セッティング ザ ペース」である。

と、このタイトルを耳にした多くのジャズ リスナーの方はデクスター ゴードンがサヴォイで発表した傑作「デクスター ライズ アゲイン」に収録された、あの「セッティング ザ ペース」を思い浮かべるのではないか。実はこれがその通り、あの「セッティング ザ ペース」なのである。
つまり、ブッカー アヴィンが1965年にゲストとして同じテナーのデクスター ゴードンを迎えて同曲を演奏したアルバムが本作なのだ。

本作の他の収録曲は、同じくデクスターの「デクスターズ デック」。そして恐ろしい事なのだが、以上が全収録曲で他はなし。要するに片面1曲づつ合計2曲というハードな構成で成り立っているのだ。

チャールズ ミンガスのグループで名を上げたブッカーはこの時正に絶好調だった。彼のスタイルはただ吹ききるのみ。そこにバップだのブルーズだのフリーだのという理屈は全く存在しない。
そして、麻薬地獄から脱出してヨーロッパに移住したデクスターもまた再びの絶好調を迎えていた。この時はアメリカに帰っていたのだろうか。

そんな絶好調コンビのテナーバトルは正に阿鼻叫喚を絵に描いた様な凄まじさ。二人共もう吹き出したら止まる事を知らず、調和だのハーモニーだのアレンジ性だのインタープレイだのといった屁理屈などどこ吹く風とばかりに、自分が自分がというジャズの先生が絶対にそうあってはいけないと教える事柄の全てをやってのけている様だ。
ブッカー アーヴィンは1930年テキサスの生まれ。対してデクスター ゴードンは1923年LA生まれだから両者の年齢差は7つという事になる。恐らくブッカーからすればデックスは少年時代からの憧れの先輩であっただろう。そういえば両者のスタイルは何となく共通点があると思う。
本作がブッカーのアルバムであるにも関わらずデックスゆかりの2曲で占められている点。そしてそれらがかつてデックスがブイブイいわしていた頃の燃えまくるバップスタイルで押し通している点からして、本作ではブッカーがかなりデックスに合わしている様子が伺える。
しかし、尊敬してスタイルを合わすのと、相手より上に出る出ないのとは別の話な様で、歳の差なんて全く問題としない、ただただ相手を打ち負かし、ねじ伏せるという戦いがここに切って落とされたのである。

したがって本作に限っては通常のツインテナー作の様に、両者の違いをじっくり聴き分けましょうといった流暢な話は全く通じない。聴き分けるもなにも二人共白目向いて延々と吹きまっくているのであって、当然そのフレーズは手癖に次ぐ手癖のオンパレードだ。
またこのセッションを支えたジャキ バイアード、レジー ワークマン、アラン ドウソンという只ものではない連中が、これまた火に油を注ぐ結果を生んだのも当然の成り行きだったのだろう。

先も述べたが、本作にアレンジ性はない。楽曲に対する作品性もない。「セッティング ザ ペース」19分02秒、「デクスターズ デック」23分34秒。そのうち両者ともテーマなどに費やしている時間はほんの十数秒ではないか?それ以外はづーっとブビ~ブボ~ギュルル~ンで埋め尽くしてるのだ。一体これのどこにジャズの楽しさやエンターテイメント性があるというのだ。

そう考えると、本作はこの当時のどんな層が、どんな目的で購入したのか?そして何枚売れたのか?かいもく見当がつかないという理由はそこだ。

そしてあえて最後に持ってきた決定的に信じられない事実。こんな長い演奏が収録されているレコードといえば、通常だとライヴ録音盤か組曲的な構成でもって新しい音楽を世に問うといった作品がほとんど。しかし本作には歓声はない。そしてこれまでのバップ魂全開の音楽以外の何者でもない。つまり、本作の激演はスタジオで繰り広げられているのだ。アホか!と言いたくもなる。
変態的という理由はそこだ。

ただその結果(僕も含めた)変態にこよなく愛される作品となったのは言うまでもない事実なのだが。

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「ラジオ デイズ」という映画が好きだ。もうかれこれ25年くらい前に今は無き神戸アサヒシネマで観たのをはっきりと覚えている。

「ラジオ デイズ」は1940年年代初頭にニューヨーク州ロッカウェイに暮らすユダヤ人一家と、その一家の生活の中心だったラジオにまつわるエピソードで綴られる心温まるドラマで、監督であるウディ アレン自身の思い出が多く織り込まれている。明らかにアレンの子供時代を彷佛させる子役のセス グリーンがとてもかわいい。

この映画の家族はとにかくラジオを聴く。もちろんこの家族だけではなく、当時はどの家庭も一日中ラジオをつけっぱなしだった様子を映画は面白可笑しく描いている。
そしてそのラジオからは常に音楽が流れているのは当然だ。映画に登場する面白かったりセンチメンタルだったりなエピソードのほとんどがラジオから流れる当時のヒット曲にまつわるものだ。いったい劇中にどのくらいの曲数が使われていたのだろう?この映画を観ると、今現在ジャズファンがスタンダートと呼んで分けている楽曲が、出来た当時にどんな形で人々の耳に入っていたのかがとてもよくわかる。そういう意味で「ラジオ デイズ」は音楽映画と捉えてもいいかも知れない。

この時代に人気絶好調だったのがベニー グッドマン楽団だ。映画には1曲だけだが、グッドマンの曲が使われている。
太平洋戦争が勃発し、全米が戦時体制に入る中での防空訓練。一斉に家の電気を消す指令を受けて、暗闇の中で外の様子を見に出た夫婦が、サーチライトに照らされて輝きながら降りしきる雪を見上げて「綺麗ね」「この世の中、もっといいものになる筈なのになあ」と会話する場面。ここでラジオから自然と流れて来るのがベニー グッドマンの「グッドバイ」だ。劇中最もしんみりとさせる本当に美しいシーンだった。

このようにベニー グッドマンの黄金時代も、その音楽はラジオから全米に広がって行ったのがよく解る。
紹介するレコード、「キング オブ スイング」はその黄金時代の、正にラジオから流れた演奏を集めたエアチェック盤。何でもニューヨークのホテルのボールルームに常時出演していて、その様子が生で放送されていたらしい。時代を考えるとよく残っていたものだと感心してしまう、まこと貴重な記録なのである。

この時代のグッドマン楽団は超がつくほどの人気を勝ち取っていたのは有名な話だ。その人気ぶりは楽団の参加メンバーの名前を見てもその様子がうかがえる。ハリー ジェームズ、テディ ウィスソン、ジーン クルーパ、そしてカルテットでのライオネル ハンプトン。そんなキラ星なスター達がこれでもかという位華麗なる演奏を披露するのがグッドマン楽団なのだ。中でも絶対的なのがグッドマン自身のクラリネットで、ほとんどの曲で披露されるソロがことごとく刺激的でありアグレッシブであり、ソウルフルであるのだ。その凄さはもう口で表すのは無理な程で、こんな記録がほとんど今の人に聴かれていないのは本当に惜しいと言わざるを得ない。

この時代のジャズ、とりわけ白人(グッドマンはシカゴのスラム出身のユダヤ人だが)のビッグバンドジャズはひとくくりにスイングと呼ばれ、ダンス音楽と捉えられがちだ。
しかし本作で聴かれるグッドマン楽団の演奏は、たとえボールルームでの演奏であれ、あまりにも攻撃的でとんがっている。だからラジオから流れたものとはいえ「ラジオ デイズ」で使われたたくさんのヒット曲とは全く違う、あからさまなジャズなのである。
映画「ベニー グッドマン物語」で、毎日退屈なダンス音楽を演らされるのに飽きた楽団が、クビにされるつもりで「ワン オクロック ジャンプ」を演奏してみれば、だんだんと踊る客がダンスを離れステージに集中していくという面白い場面があったが、この逸話はまんざら大袈裟でも無かったのではないかと思う。

そういう意味で時代から考えると、この時代のグッドマン楽団の音楽はどう考えても当時の最も先鋭的なものだったと言える。早い話が今のパンクやプログレやらに値する立ち位置にあったのがグッドマン楽団だったのではないか。
そしてこの時代、どんなに新しくても過激でも、一旦ラジオの電波に乗れば「ラジオ デイズ」の家族の様に、子供からお爺さん、お婆さんまでが頭を振り、指をならしスイングしたのだろう。人々が音楽をカテゴリーや年齢層に分けず一つのものとして捉えていたので、ジャズもポップスも何もかもが生活に浸透して育っていったといえる。
ラジオの日々がどんだけ今のジャズの元になっていたのか考えてみるのも面白いと思う。

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ビ バップの奏法を確立させたのはチャーリー パーカーで、デクスター ゴードンはその理論をテナーで押し進めたビ バッパーの一人である、と教科書に記載されていた。しかし細かくてスピード命といったパーカーのフレーズに対して、デクスターのそれは♪ブッパパパッパブッポッポ~といった超がつほど単純で豪快なものだ。その飾り気の無さは解りやすいをはるかに飛び越え、あほらしさと気恥ずかしさまでもがこみ上げてくる程。これって本当にパーカーの流れを汲んでるの?
しかし、そんなデクスターの魅力に一旦はまってしまうと、それはもう底無し沼に落ちた様なもので、今でもデクスターこそ我らのヒーローとするファンが世界中に大勢おられるのは当然なことと言える。アワ マンとは上手いこと名付けたものだ。

長きにわたる麻薬使用のためにアメリカでは酒場への出演許可が下りなかったアワ マンは、60年代を迎えるとケニー クラークやバド パウエルを追う様にヨーロッパに活動の拠点を移す。他にもケニー ドリューやジョニー グリフィンといったプレイヤーらも理由は様々だろうが、当時にアメリカを離れている。そんな彼らはその後ヨーロッパのジャズが独自に進化していく過程に大きく貢献していく。

しかしながら僕個人的には彼らがヨーロッパで制作した作品には、正直言うとそれほどの思い入れは持てない。デンマークのスティープルチェイスなどのアルバムはDoodlin'に来られる僕より年上の方達に今も大いに支持を得られているが、僕には何かしっくりいかないものがほとんどなのだ。
意識的であろうが無かろうが、アメリカで育ち活躍していたプレイヤーがヨーロッパで生活し、ヨーロッパの聴衆の前で演奏を繰り広げていく過程で、恐らく何かを引っこめ何かを引き出したのだろうと思う。その引っこめた方の要素が僕にとっては非常に大事なものであったのかも知れない。あくまでも個人の好みなのだけど、彼らのヨーロッパでの録音レコードは僕には今のところ少し消化不良な感が拭えない。

が、しかーし!ここにしっかりと涙がちょちょ切れるほどの例外をブッ放した男がおられる。言わずと知れたアワ マンその人だ。
1963年5月、アワ マンは先陣の後を追ってパリに到着したばかりだった。何でもまだアメリカに家があって、アメリカとヨーロッパを行き来していた状態であったらしい。
そんなアワ マンのためにアメリカのブルーノートがパリの地で、しかも先に移住していたバップピアノの元祖であるバド パウエルと、同じく移住組で同じくバップドラムを開拓したケニー クラークを迎えて用意したセッションが今回紹介する作品。題して「アワ マン イン パリ」。そのまんまなタイトルだが、アワ マンの凛々しい横顔とくわえた煙草にからまる様にフランス国旗の配色で配置されたロゴがたまらなくおフランスしていてオシャレだ。

当初このセッションには何曲かのアワ マンのペンによるオリジナル曲が用意されていたという。しかし、当日になってバドがそれを拒んだために、急遽手慣れた懐かしいナンバーにすげ替わったのだという。この辺の事情は今となっては証言出来る者はおらず(ベースのピエール ミシュロは在命だったかな?)、一悶着あっての変更なのか、しょうがねえなーといった緩い展開での変更なのかはわからない。ただ、話に聞くアワ マンの性格からして後者であったような気はする。

普通の感覚で考えると、いくら親しい仲間を用意してもらったからといって、演奏者として人生に大決心をつけた時というのは多々不安があるだろう。ましてやこれから生まれた国と言葉まで違う地で生活するのだからなおさらだ。
しかし、本セッションでのアワ マンにそんな不安などを感じさせる点は一切ない。そんな一般人の普通の感情でアワ マンを語る方が野暮とばかり、ブロウにつぐブロウをぶっ放す「スクランブル フロム ジ アップル」、バップ魂全開の「ブロードウェイ」と「チュニジアの夜」、ブルーズ フィーリング溢れる「柳よ泣いておくれ」はむしろ喜びを感じる出来。
極めつけはバラードであるはずの「ステアウェイ トゥ ザ スターズ」。あまりもの自己流で、ムードなんかクソくらえといった豪快な吹きっぷりについつい笑いが出てしまう程。こんなアホなバラードは後にも先にも聴いたことはない。

このように本作でのアワ マンは通常の許容範囲を超える豪快さ、豪放さで我々を悶絶させ、そして名盤の名を欲しいままにした。しかし、考えるとその吹きっぷりはこの前後のレコードのものより明らかに増強されている。その意味でアワ マンの心の中で、そうとうの意気込みがあったと想像される。ひょっとしてこの先の不安に対する宣誓布告だったのかも知れない。
しかしこれは、アワ マンが離れていったアメリカの人達に「オレ達はヨーロッパで好き勝手にするのだからよ、アメリカの奴らは奴らで心配なんかしねえでせいぜいがんばりな」と告げている風にも取れる。ただし江戸っ子訛は適当だ。

何にせよアワ マン一人のおかげでヨーロッパの移住は決して暗いものでは無かったと僕らは感じることが出来る。そしてそれは何もかも捨てて新しい生活に挑むのは決して後ろ向きな事ではなく、むしろカッコいいことだという教えでもある。

その教えを真に受けて、このご時世にJAZZ BARなんかを始めた阿呆が神戸にいるとかいないとか。

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歳を取るってえのはのは悲しいもので、40代も後半になるますと何でもかんでも「最近のもの」を嘆きたくなるものである。ただ聞いた所によると、江戸時代の落語で「ったく最近の若え者はよ~」で始まるものがあるとか。要はいつの時代も歳をとると同じという事なのだろう。

僕らジャズファンが歳をとると嘆き出す共通の事柄っていうと、恐らく最近の若いプレイヤーの個性の無さであるだろう。どいつもこいつも皆似たりよったりの内容の作品を作っている、という話は店に来られる多くの中年ファンに共通した嘆きだ。しかしよくよく考えてみると、メインストリームジャズの作品だけに限ればそんな傾向も見られるものの、ジャズは今だに試行錯誤のうえに発展し続けている音楽だ。音楽的には個人の個性が入り込む余地はまだまだあるし、そういった新しい個性が現れシーンを面白くしているのは知ってる(つもり)。

では何故中年は嘆くのか?何故昔はよかったねと言うのか?何故地下鉄は地下にもぐったのか?それを考えると夜も寝られなくなっちゃう所だが、昨日店でティナ ブルックスを聴いて涙をちょちょぎらしていると、意外とあっさり僕なりの考えが湧いた。
それは、音楽的には皆さんそれぞれ個性を出す努力をされているにもかかわらず、いつの頃からかジャズプレイヤーの発する音色がほぼ統一化されてはいないか?という考えだ。
自分の耳の悪さが露呈してしまいそうだが、テナーサックスで言うと今現役バリバリであるジョシュア レッドマンもエリック アレキサンダーもグラント スチュワートもそれぞれ素晴らしい個性を持っていて大好きなんだけど、いかんせん音に関してはみんな同じに聴こえてしまうのだ。

当たり前の事だが、オーディオマニアは音にこだわる。僕はマニアではないけれど、ファンというのは個々のプレイヤーの個性を、演奏している内容よりも音色を聴き分ける事によってより共感する喜びを得ているのだと思う。僕も含めた中年が最近のプレイヤーにいまいち共感出来なくて、最近のジャズを嘆く理由はここにあるのではないだろうか。

ただ、考えれば比較対象とするプレイヤーがあまりにも悪すぎた。ティナ ブルックスって。

1932年ノースカロライナで生まれ12歳からニューヨークのブロンクスで育ったティナ ブルックスは1957年位からブルーノートの連中と交流を始めるが、生きている間に発表されたリーダーアルバムがたったの1枚という事もあって、長い間幻のジャズマンという扱いを受けていた。
しかし近年は未発表のセッションも多く発掘され、この日本ではありがたい事に正当な評価を受けている感がある。いやむしろジャズファンには特別に共感を持てるプレイヤーとして、ティナを心から愛するファンが非常に多いといった状態である。現に店に来られる多くのジャズファンの人達が、この「トゥルー ブルー」を聴いて共感の涙をちょちょぎらせておられる。

ティナの演奏を聴いているとジャズファンにしか持ち得ない何か特別な感情がひしひしと湧いてくる。宵越しの銭は持たねえとばかり清々しくバップを謳歌しているのに何か切ない。可愛くてついかまってしまう弟を見守る様な感情をこちらに持たせるのがティナなのだ。

そんなティナの最大の武器がこの独特でかすれ気味の音色にあるのは間違いない。ハンク モブレイ、スタンリー タレンタインなど同時代の優れたテナープレイヤーと比較しても、ティナの音色はあまりにも美しい。とくに本作は素晴らしすぎる芸術的なジャケットデザインと、タイトルに偽りない青春の躍動感と儚さを表したストレートな内容に共感するファンは多いが、それもみなこの音色があってこそのものだと思う。
ファンはこの音色を聴いて、一瞬にして現れ消えたティナのことを思い、心を傾けるのだ。本当に会った事もないのに、ティナの音色を聴いただけでティナの全てが解った様な気がする。

音色と共に我々ジャズファンがティナを忘れることは永遠にないだろう。

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こないだ店でY田さんと話していて、ある共通の疑問が湧いた。

1950年代の中程からジミー スミスやジャック マクダフの出現によって大きくクローズアップされたオルガン(正確にいうと従来のパイプオルガンに対する電気オルガン)。ここからニューヨークやニュージャージー、それに東北部工業都市の黒人居住区を中心として、全米各地にオルガンが普及した。そしてアメリカのポップス界でもオルガンは絶対不可欠な楽器となっていくのに大した時間はかからなかった。アメリカの音楽史を考えると本当に一瞬のうちといっても過言ではない。
オルガンがこの頃から重宝されていった理由としては、発展するエレクトリック ギターに対抗する音量が出せたからと言われている。そしてハモンド社から発売されたB3オルガンとレスリーさんが考えたスピーカーとの組み合わせが最もポピュラーな人気を得て行く。ここまでは解る。

しかし、いくら必要なものと認知されたとしても、この普及の早さは尋常ではないのではないか?B3オルガンもレスリースピーカーも当時からかなりの高値であったであろう。それがなぜ貧困であったはずのハーレムで、ジャズを演奏するほとんどの場に備え付けられるまでになったのか。そして星の数ほど現れた優れたオルガン プレイヤーは高額なオルガンを一体どこで習得したのだろうか。それに地下鉄はどうやって地下に潜ったのか。あのヨシペディアと恐れられているY田さんにしてもはっきりと明確な答えは知らなかった。ひょっとしてハモンド社の戦略もあったのではないかとまで想像してみたものの、はっきりとした確信など持ててはいない。最近はそれを考えだすと夜も寝らんなくなっちゃうの。

疑問はともかく、とにかくアメリカ音楽におけるオルガンの進撃は目をみはるものがあったのは確かだ。
古くからオルガンジャズに取り組んで、その発展に貢献したというオルガンクイーン、シャーリー スコットの「アンド ザ ソウルサクセス」を聴いてみよう。
これはタイトル通りシャーリー姐さんがゲストにキング カーチス、ハンク クロフォード、デヴィッド ファットヘッド ニューマンという泣く子も黒ずむサックスの名手を迎えて録音したアトランチックの作品。もうこの名前を聞いただけで、こういった黒い音を愛するファンには涙ものの盤であって、実際期待通りのサウンドで我々を悶絶させてくれるのは保証付きだ。

しかし注目すべきがこの収録曲。今回はライナーノート風に全曲を列記してみよう。( )内はフィーチャーされるサックスプレイヤーの頭文字。
SIDE A
1.IT'S YOUR THING(KC)
2.A NATURAL WOMAN(DN)
3.I WISHU I KNOW HOW IT WOULD FEEL TO BE FREE
SIDE B
1.YOU(DN)
2.STAND BY ME(KC)
3.GET BACK(HC)
4.MORE TODAY THAN YESTERDAY(HC)
あーめんどくさ!
見てもわかる通り、当時のヒットナンバーばかりをずらりと集めたのが本作であるのだ。そして想像される通り、これまでの所謂モダンジャズこそがジャズなり、と仰る方にはジャズとは到底言えない演奏ではある。
しかしこの時代の生々しい音の表現力は半端なものではなく、全てにおいて黒人音楽家であるメンバーの一人一人が我々の音、我々の時代の到来を歌いあげる勢いがありありと感じられるものだ。これをジャズと言い切って何が悪い。

本作を聴けば、この時ジャズとソウルやロックやポップスは、大衆的な立場から見て果てしなく近づいていたのが解る。
では何がそうしているか?それは間違いなくここで聴かれるシャーリー姐さんの様なオルガンが中心であるからと断言したい。この時黒人達の全ての音楽的主張はオルガンによって表現され、全てのジャンルを心(ソウルともいう)で結びつける中心がオルガンだったのだろう。オルガンがジャズらしさもポップスらしさも醸し出しているのだ。

本作の録音は1969年。ジミー スミスが最初に火をつけてから約15年後だ。これを長いと取るか短いと取るかは自由だが、何にせよオルガンの全音楽に与えた影響を感じるにはうってつけの作品である。

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言うまでもなく、ジャズメッセンジャーズの旗揚げを記録した記念碑的作品。録音年月日は1955年11月23日。ニューヨークはグリニッジ ビレッジのカフェ ボヘミアにおける実況録音版であります。
ただ旗揚げとはいっても、このグループはこの年の2月にフィラデルフィアのクラブ、ブルーノートにおいて既にお披露目はすませていたらしいし、恐らくここに至るまでにもレギュラーで色々な都市を巡っていただろう。よって実際には旗揚げと言うには語弊があるかも知れない。
しかし、ブルーノート レーヴェルが最新であった12インチのLP用に企画録音した最初のギグに選ばれるという点からして、その意気込みは相当なものであったのは確か。何しろ本作の前に録音したハビー ニコルズのセッションから3ヶ月もの日数が空いている。したがってJMの作品としての旗揚げは本作として何も問題にはならないと思う。

にも関わらず、本作をじっくり聴いた人ならば恐らく気付いておられると思うが、本セッションの演奏は意外と粗く、随所にちぐはぐな面が目立つのは何故なのだろう。数曲においてケニー ドーハムとハンク モブレイがテーマを吹きそこなっているし、「スポーティン クラウド」なんてどちらが間違ったのかもわからない位出だしがズレている。またソロやテーマに入る段取りなどでもお見合い的なちぐはぐ感が聴かれる箇所もある。
あげくの果ては「ライク サムワン イン ラヴ」におけるブレイキーのMCで、ブレイキーは曲を紹介し出したものの、完全にタイトルを忘れている。そしてレコードにはサイドメンの誰かが小声でこっそり耳うちする様子が収められているが、それでもまだピンと来ないブレイキーは「みなさん、ライク…サムワン イン ラヴです」という実にけったいな紹介で片付けている始末。これなどついふき出してしまうといった所だ。

現在ではこういったミスを犯したテイクなど絶対といってもいい位採用はされないだろう。しかしこのセッションでブルーノートが録音のために用意した日程はこの一日のみ。これ以前の有名な「バードランドの夜」も、この後の「カフェ ボヘミアのラウンド ミッドナイト」も、ユタ ヒップの「ヒッコリーハウス」も、ロリンズの「ヴィレッジ バンガード」も、ジミー スミスの「クラブ ベイビーグランド」もみんなそうだった。当時インディーズレーヴェルにひとつのギグのために2日も当てる余裕などなかったのだろう。正に泣いても笑ってもワンナイトなのであった(因みに2日に渡った記録はジミー スミスの「スモールズ パラダイス」が最初の様だ)。
本作はブルーノートのオーナーであるアルフレッド ライオンがその歴史的価値を充分すぎるほど心得ていたのだろう。そんな小さなミスなんかより発表する重大さを選んだのではないか。ひょっとしてそれでもあらん限りの力を発揮してスイングするこのメンバーの様に、ライオンもそんなミスなんか気にもしていなかったかも知れない。

今さら述べるまでもないが、本作はジャズメッセンジャーズのレコードであってアート ブレイキー & ザ ジャズメッセンジャーズのレコードではない。リーダーは特定されていないのだ。しかしMCを全てブレイキーが行い、それが既に後のJMのスタイルと変わらない点や、この地点でクロージングに「ザ テーマ」を持ち込んでいる点などからして、実質にはブレイキーがリーダーシップを取っていたと思う。でも所々のちぐはぐ感は恐らく絶対的なリーダーが不在だったから生じたものではないだろうか。

しかしさっきも述べたが、本作の演奏は本当に生々しくスイングしている。その後のJMのファンであればV0l.1の「マイナーズ ホリデイ」、2の「アヴィラ アンド テキーラ」といった急速調でハードにドライブするナンバーに耳が行くだろう。これらはこのメンバーにしか表せない必殺的な激演として後世に残るものだ。しかし改めて聴くとその他の一聴地味に聴こえるナンバーが実に味があり、またえぐる様なグルーヴ感を醸し出しているのに気付く。やはりとてつもないグループの誕生を捉えた世紀のドキュメントであるのはこういった所で確信出来るのである。僕個人的には特にモブレイのプレイが涙ものだ。

とはいえ本作にはまだまだ謎は多い。何故ホレス シルバーの曲が1曲も収録されていないのか、何故本作のみホレスのバッキングは押さえ気味に聴こえるのか。さらに何故この後ドーハムが去り、シルバー、モブレイ、ダグ ワトキンスが一斉に脱退したのか。これらには色々な説があり、どれも有力な手がかりではあるが、僕はまだ絶対という事実は聞かされていない。真相を知るには、アメリカで出版されたホレス シルバーの自伝の日本版が出るのを待つしかないのか。

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