アンダーカレント/ケニー ドリュー | Doodlin' Records

Doodlin' Records

神戸元町のバー「Doodlin'」店主がチョイスするジャズレコード紹介。
勝手気ままに書かせていただきます。

ブルーノートには1人のプレイヤーにつき、たった1枚のリーダーアルバムがいくらか発表されていて、しかもその多くが聴き応えに満ちた秀作として残っている。
ジョン コルトレーンの「ブルートレーン」、キャノンボール アダレイの「サムシン エルス」、エリック ドルフィーの「アウト トゥ ランチ」、デューク ジョーダンの「フライト トゥ ジョーダン」、アート テイラーの「AT's デライト」、チャーリー ラウズの「ボサノヴァ バッカナル」などはジャズファンならばすぐに思い浮かぶ作品ではないだろうか。他にJ.R モンテローズ、ジョニー C コールズ、フレッド ジャクソン、ソニー レッド、ハロルド ヴィック、ブッカー アーヴィン、タイロン ワシントンと素晴らしいアルバムがどんどんと思いつく。こういうのがあるからブルーノートは面白いのだろう。

そんな中でジョン コルトレーンの場合、ちょうど契約の隙間をぬって自らがブルーノートの事務所を訪ねて行き、そこで直接1枚を制作する契約を交わしたという。何でも旧知のカーティス フラーの紹介で、しかもシドニー ベシェのレコードを貸してほしいという口実を作って出向いたらしい。
またキャノンボールの場合は、マーキュリーで苦い思いをさせられたのを当時の親分であったマイルス デイヴィスに相談した所、オレも参加してやるという形で、演奏者の意向を尊重してくれるブルーノートを紹介されたという。
この様にたった1枚のリーダー作品には、それぞれに制作に至る経緯があったというのが実情だったみたいだ。

ブルーノートでのケニー ドリューは、実際には1953年に10インチとして自身のリーダーアルバムをトリオで発表している。よって今回紹介するたった1枚の12インチである「アンダーカレント」はそんな唯一のリーダーアルバムの仲間に数えるのは嘘になる。
ただ、1953年と「アンダーカレント」が録音された1960年というのは、激動していた当時のジャズの世界ではとても年月が空いているし、何よりもブルーノートのオーナーであるアルフレッド ライオンが、再びケニーの録音にたどりつくまでの経緯が「ブルートレーン」や「サムシン エルス」以上に劇的なので、今回は本作を唯一のリーダーの作品と交えて紹介したいと思う。

1928年ニューヨークに生まれたケニーは、40年代末に数多く存在したとされるバド パウエルを追従するピアニストの中でもトップの実力を誇っていた。
当時のアルフレッド ライオンは元々バド バウエルが大好きで、何とか数枚の作品を発表出来たものの、バドは精神に異常をきたしてしまい、その録音を続けるのは困難だった。そんな時にケニーの存在を知ったのだろう。ブルーノートは1953年、バドの代わりのニュースターとしてケニーの録音を実現させる。
だが、ライオンの目にはこの時25歳だったケニーに、ただのバドの代役には留まらない可能性を発見する。とにかくピアニストにはうるさいライオンであったが、結果的にバドの事は一旦忘れ、ケニーの次の録音をぜがひにでも望むに至ったのだ。

しかし、上手く事は運ばないのが世の常。そのケニーはピアニストとしての実力ゆえに、とんでもない多忙な状況におかれ、またその居場所が全く掴めない存在となってしまう。

10インチ盤を録音した時のケニーはクラリネットのバディ デフランコのグループに在籍していた。ところが、その直後にツアー先のサンフランシスコで退団し、そのまま同地に滞在してしまう。これがケチのつき初め。
その後にLAに移り同地で活動した後、56年になってやっとダイナ ワシントンの伴奏者になり、ニューヨークに戻る。しかし喜びもつかの間、レコードではリバーサイドなどに先を越されてしまう。この間もケニーには「ブルートレーン」などの作品に参加してはもらっていたものの、リーダー作は作れず、ライオンには悔しい日々が続く。そしてそうこうしている間にバディ リッチのバンドに雇われ再びツアーに出て、今度は何故かマイアミに滞在してしまうという有様。ライオンにとってケニーがいかに雲を掴む存在だったかは目に見えるというもの。しかもその間、ケニーの作品をずーっと作りたいと願っていたという。

しかし、そんなライオンの願いがやっと報われる時が来る。1960年になってひょっこりとケニーがニューヨークに戻って来たのだ。そして他社との契約も白紙となっていた。

ライオンにとってそんな苦労の末に制作されたのがケニー ドリューの「アンダーカレント」だ。本作にはライオンのケニーに対する想いがたっぷりと込められているうえ、ケニーの持つ要素の全てを引き出そうとしている。
まず、本作に用意されたメンバーはフレディー ハバード、ハンク モブレイ、サム ジョーンズ、ルイ ヘイズというとびきりイキの良い、しかもブルーノートの躍動感を絵に描いた様に表現出来る強者達だ。A面に針を置いた途端にサムのこれでもかという重く、ウネりまくるベースラインに乗って展開するタイトル曲からして本作の喜びの全てが表されている。ライオンはケニーにこれを演らせたかったのだろう。そして同曲のケニーはライオンの好きなバド パウエルの次を担うのは私だとばかりに、バド顔負けの凄みを持って迫りまくる。そのダイナミクスはバドと並ぶものがあるし、華麗なる展開にかけてはバドを上回る点まで見受けられるというもの。
それに続く他楽曲も当時のジャズの勢いを物語る様なファンキーさに溢れたものばかり。これらのケニーは自身も追っていたバドのスタイルをまださらに(当時の)今風に発展させようとしているようだ。

そして注目はB面のラストを飾る「バラッド」。ここでのケニーはタイトル通りゆったりとしたブルーなムードを保ちながら、終始華麗で躍動感を忘れていない。心の奥底まで響いてくるその感覚は、本作が単なるハードバップやらファンキーやらといったカテゴリーに当てはまるものではないという事実を物語っている。
パウエルを継承した冒頭から、パウエルとは全く違うアプローチを見せるラスト。ライオンはケニーがそれを出来る実力者であるのを知っていたのだろう。だからこそあえてパウエルを意識したバップ魂に満ちた作品をケニーにあてがったのではないか?

ケニーは本作を録音した直後にヨーロッパに移住。各地のジャズの底上げに貢献する偉大な功績を残していく。ステイプルチェイスなどのヨーロッパ録音は今でもファンが多い。そして晩年は日本のメーカーに目をつけられ、スタンダードばかりを演奏した作品を量産した。ケニーのことだからジャケットはどうあれ、きっと素晴らしい内容のものばかりだろう。

けれど結局ケニーには最後までこのようなブルーズとガッツに溢れた作品は発表はされていないのではないか?もちろん肉迫したものはある。けれどヨーロッパに行ったケニーは何か違う。願わくは一度でもアメリカに戻ってほしかったなと思うのは僕だけだろうか。