
2017-10-23/午前9時ころ/使用カメラ : シグマ DP3 Quattro
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台風一過、大原に咲くコスモスのシリーズ「美は敗残にあり」の(3)として、細い茎の上に
一つだけ、雨に濡れて咲き残ったコスモスの花の画像を見ていただきます。
夜を徹して激しい雨、風と戦い、かろうじて生き残ったコスモの雨に濡れ、やつれ切ったかんばせに、それでも宿る「敗残の美」とでも呼ぶべき凛然とした美しさを愛でてあげてください。
ところで、今回見ていただいているコスモスの画像を、私がニューヨークに住んでいたころからの友人で、プロのカメラマンのGさんに送ったところ、「コスモスの写真、 シャワーに濡れて薄着がぴったりと肌に引っ付いた女性のようななまめかしさがあるのですが、、、」というコメントが返ってきました。
それに対して、私の方から送り返したのが、以下のようなメールです。
この間、大原で撮影した「美は敗残にあり」のコスモスの画像について、「シャワーに濡れて薄着がぴったりと肌に引っ付いた女性のようななまめかしさがあるのですが、、、」というコメント、エロス大好きの貴兄らしいというか、小生もエロス大好きでは、人に引けを取らない人間ですが、そこまでは頭の中になかった。
あの日、雨に濡れながらコスモスを撮影し、家に帰って、パソコンに画像を取り込み、一つひとつの画像を編集し、最終的に作品に仕上げていくまで、そして出来上がった作品から特に美しく仕上がった画像を20ほど選び、貴兄に送り、それに対して「コスモスの写真、シャワーに濡れて薄着がぴったりと肌に引っ付いた女性のようななまめかしさがあるのですが、、、」というコメントが返ってくるまで、小生は、小生のなかでエロスへの情動が発動していたことに全く気付いていませんでした。
ただしかし、考えてみれば、「美は敗残にあり」の「美」には、当然エロスも入っているわけで、台風の余韻が残るあの日の朝、雨に濡れながら、コスモスの花を撮影する小生の中の奥深い深層で、ほとんど無意識のレベルで、エロスへの欲情が発動していたということなのでしょう。
貴兄からそう指摘されてみて、初めて小生は、自分の内部の奥深いところで、あれらの大風、大雨との戦いを戦い抜いて生き残ったコスモスの敗残というか、老残の姿に「欲情」し、エロスを発動させていたことに気づきました。
あれらの台風に痛めつけられ花弁が透けたようになったコスモスに、濡れた女性の「薄衣」をイメージし、さらにもう一歩突っ込んで、正に敗残というか、老残というか、衰えやつれたコスモスの花に欲情する小生の内部で、ひそかに発動していたエロスを読み取った貴兄は、さすがに写真のプロですね。
ところで、小生は、一か月ほど前の9月29日に、75歳の誕生日を迎えました。それでも、花に「欲情」する自分がいることを、貴兄に指摘され、驚き、かつ嬉しく思った次第です。
そうなのです、ここではっきり告白しておくと、私は、花に「欲情」しながら花の写真を撮っているのです。いえ、花だけではありません、文学批評や映画批評を書いているときも、私は常に書く対象に「欲情」しながら書いてきたし、今も書いている。花を撮ることであれ、永井荷風や夏目漱石、森鷗外の文学について、あるいは小津安二郎の映画や小津映画における原節子や笠智衆について書くことであれ、私の行為や思考の対象となるものに対して、「欲情」しなくなったとき、私の人生は終わったことになる……そう思っています。
その意味で、私は、花の写真を撮ることであれ、本を読み、文章を書くことであれ、対象(私の外側にある世界)に「欲情」している自分を確認するために、つまりは人間として「生きている」ことを感知し、自覚するために花を撮り、文章を書いていることになります。
Gさんのコメントは、そのことを改めて気づかせてくれました
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