同性婚制度の合理性と伝統的家族観との整合性――法的本質、公序良俗、及び立法技術の観点から――


Ⅰ 序論
同性婚制度をめぐる議論は、しばしば「伝統的家族観」との対立構図で語られてきた。しかしながら、婚姻の本質を法的観点から明確にすれば、この対立は本質的ではないことが理解される。婚姻は愛情の象徴ではなく、社会的・法的契約としての性格を有する制度である。その目的は相互扶助と社会的安定の確保にあり、制度的合理性の観点から同性婚を排除する根拠は見出し難い。本稿では、婚姻の本質、公序良俗論、伝統的家族観との関係を整理した上で、夫婦別姓との区別を明確化し、最後に立法技術的課題を提示する。

Ⅱ 婚姻の法的本質
民法における婚姻は、私人間の契約であると同時に、社会制度としての性格を有する。民法第752条は「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない」と規定しており¹、婚姻関係の核心を相互扶助義務に置く。婚姻は愛情の証明ではなく、法的に認定された扶助契約であり、国家はその安定性を通じて社会秩序を維持する。したがって、同性間であってもこの契約的性格を保持できる限り、婚姻の制度目的は損なわれない。

Ⅲ 公序良俗と婚姻の自由
民法第90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効」とする。公序良俗は私人の契約自由を制限し得る唯一の原理であるが、同性婚がこれに該当する実質的根拠は存在しない。同性婚が社会秩序を乱すとの主張は経験的裏付けを欠き、むしろ安定した扶助関係の形成は社会的公益に資する。
また、憲法第24条第1項の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」との文言は、戦後改革期の家制度批判の文脈であり、性別二元論を固定化する趣旨ではない²。したがって、同性婚を憲法上排除する根拠は存在せず、むしろ憲法第13条(個人の尊重)および第14条(法の下の平等)の観点から、同性婚の不承認は合理的根拠を欠く差別的取扱いと評価され得る³。

Ⅳ 伝統的家族観との整合性
同性婚に対しては、「日本の伝統的家族観に反する」との文化論的主張がしばしばなされる。確かに、明治民法下の「家」制度は、家長を中心とした血縁共同体としての一体性を重視していた⁴。しかし、戦後民法改正によって家制度は廃止され、家族法の基礎単位は個人に転換された。この新たな家族観においては、血縁や性別ではなく、相互扶助と共同生活を通じた社会的単位としての家族が重視される。
同性婚はこの理念に整合的である。同性カップルも経済的・精神的扶助の共同体として社会的安定に寄与しうるからである。ゆえに、同性婚は伝統的家族観の破壊ではなく、その外延を包摂的に拡張する改革である。

Ⅴ 同性婚を望まない当事者への考察
一部の性的少数者の中には「同性婚を望まない」との意見もある。しかし、法制度の意義は「利用の強制」ではなく「選択の自由の保障」にある。制度が存在しなければ選択の自由そのものが成立しない⁵。権利とは、行使するか否かを自ら選択できる状態を意味する。同性婚制度は、婚姻を選択する権利を全ての個人に等しく付与するものであり、自由の拡張として評価されるべきである。

Ⅵ 夫婦別姓制度との区別
同性婚と夫婦別姓はしばしば同列に論じられるが、法制度的には異質である。同性婚は「婚姻の成立主体」という制度の外延的問題であり、夫婦別姓は「婚姻後の家族表象」という制度の内的構造に関わる。
明治民法以来、姓は家族の社会的単位を象徴し、現行民法第750条は「夫婦は婚姻の際に定める氏を称する」と規定する。この同姓原則は家族の象徴的一体性を表す形式であり⁶、夫婦別姓はこれを再定義する試みである。したがって、夫婦別姓は「家族の形態」を再構成する制度改革であるのに対し、同性婚はその構造を維持しつつ「誰が家族になれるか」という範囲を拡張する制度である。
ゆえに、同性婚は伝統的家族観の理念的連続性を保ちながら包摂を拡大するが、夫婦別姓は家族観の象徴的構造を再定義する。両者を同列に論じるのは論理的に不適切である。

Ⅶ 立法技術的課題
同性婚を法制度として導入するにあたり、立法技術上の課題が3点ある。
第一に、文言整備の問題である。民法第739条、第750条、第752条等の「夫」「妻」表現を「配偶者」に統一する改正が必要となる。これにより法文上の性別中立性が確保される。
第二に、関連法体系との整合性である。戸籍法・相続法・社会保障法等における「夫婦」「父母」「婚姻関係」などの概念整理を行い、実務運用を可能とする必要がある。
第三に、憲法解釈の位置づけである。憲法第24条の「両性の合意」を「当事者双方の自由な意思」と読み替える立法解釈が求められる⁷。この点については、判例法理と国会審議を通じての逐次的整合化が現実的方策であろう。
これらの整備を通じて、同性婚制度は現行法体系の範囲内で十分に実現可能である。

Ⅷ 結論
同性婚は、婚姻の法的本質である相互扶助契約の理念に適合し、伝統的家族観と対立するものではない。むしろ、家族制度を個人の尊厳に基づき包摂的に発展させる改革である。一方、夫婦別姓は家族の象徴的構造に関わる別次元の問題であり、同性婚と混同すべきではない。立法上の文言整備と制度的整合性を図ることで、同性婚の法制化は現行憲法秩序のもとで十分に実現可能である。同性婚の制度化は、伝統的家族観の破壊ではなく、その理念を現代社会に適応させる「包摂的進化」として位置づけられるべきである。

注釈・参考文献

1. ¹ 民法第752条(夫婦の同居・協力及び扶助の義務)。
2. ² 芦部信喜『憲法学(第六版)』(岩波書店、2015年)230頁以下。
3. ³ 長谷部恭男『憲法と平等』(東京大学出版会、2009年)第2章。
4. ⁴ 川島武宜『日本家族法の基礎構造』(岩波書店、1965年)45頁。
5. ⁵ ロールズ, J.『正義論』(宇野俊一訳、紀伊國屋書店、1979年)第Ⅱ部「自由の優先性」。
6. ⁶ 民法第750条(夫婦の氏)。
7. ⁷ 内閣法制局「憲法第24条の解釈に関する資料」(法制局憲法研究会報告書、2022年)。

翌朝。
本来の予定はこうだった。

「日光から宇都宮までは自走で行って、そこから輪行で帰る」

うん、最初は本気でそう思ってた。
朝ごはん食べながら、友達と
「今日は昨日より涼しいし、行けるんじゃない?」
とか言って、余裕ぶってた。


…が、ホテルを出て最初の坂で現実に引き戻される。

脚、動かない。
ケツ、痛い。
首、回らない。

そもそも、昨日の時点で脚は完全に死体だったことを忘れてた。


友達と顔を見合わせ、数秒の沈黙のあと、
出た結論はこう。

「……もうさ、電車で帰らない?」

満場一致、即決。




駅に向かう途中、


「でも、さすがにこれでビール飲むのは罪悪感あるねw」
なんて冗談を言いつつ、
東武日光駅に着いて、早速輪行袋に自転車をぶち込む。




そして、念願の電車。

冷房ガンガンの車内、椅子に深く腰かけて、
「最高……生きててよかった……」って何回つぶやいたか分からない。

ただひとつ問題があった。

「ビール飲みたいけど、東京に着いたらまだ1時間くらい自転車乗らないと家に帰れない」
という事実。

飲んだら、帰りの坂で倒れるかもしれない。

まさかビールが飲めない理由が「自転車」になる日が来るとは


そんなこんなで、東京に着いてからも当然、自転車で帰宅。

一瞬「このまま家まで電車でもよくない?」って悪魔のささやきが脳内をかすめたけど、
輪行袋を担いで階段の上り下りを繰り返す未来を想像して、
「それならまだペダル回す方がマシ」という結論に至る。


しかも、家までの道のりがまた地味にツラい。

真夏の日差しが、
疲れきった焼けた皮膚に突き刺さる。

痛い。
ほんとに痛い。

もうこれ、日焼けじゃなくて軽い火傷なんじゃないの?ってレベル。


で、ようやく帰宅。

荷物を放り投げ、
ウェアを脱いで、
そのままベランダで自転車を洗いながら、
ついでに自分もホースで水浴び。

水が冷たい。最高。

そして、濡れたまま缶ビールをプシュッ。

昼間からベランダで、
半裸で、
ビール片手に、
「生きてて良かった」としみじみ。


午後はもう、完全にグダグダ。
ベッドでゴロゴロ、テレビ見たり、スマホいじったり。

結局、こういうダメな休日が一番幸せだったりするんだよな…
とか言い訳しつつ、次回のライド計画だけはしっかり立て始めるあたり、懲りない40代。


次は…ほんとに宇都宮までは行こう。(たぶん)



6月最後の週末手前の金曜の朝、東京駅近くの大通り。

スーツ姿のサラリーマンたちが、忙しなく足早に駅へ向かっていく。
その流れに逆らうように、俺はピチピチのサイクルジャージ姿で立っていた。

普段なら恥ずかしくてできない格好。
でもこの日だけは、**「俺たちはこれから旅に出る」**っていう、
ちょっとした誇りと高揚感があった。

隣には同じく40代の友人。
2人で、誰にも気づかれないような、小さなガッツポーズを交わしてスタートした。




朝の浅草を抜けて、スカイツリーを横目に見ながら、江戸川サイクリングロードへ。

夏の日差しはまだ優しかった。
川沿いの風は心地よくて、ペダルも軽い。

「こういうの、いいな」
「これぞ、大人の夏休みって感じ」

軽口を叩きながら、竹林カフェでコーヒーを飲む。

静かな竹林の中で、自転車を並べて休むこの時間。
それだけで、もう今日の旅は成功だったんじゃないか…そんな気さえした。




でも、そんな余裕は昼にはもうなくなる。

栃木県に入った頃には、
体温は上がりっぱなし、脚は鉛のように重く、
呼吸は浅くなり、ペダルを回すたびに頭がぼーっとしてくる。

コンビニで買ったざるそばも、数口で箸が止まった。

いつもならガツガツ食べるくせに、
この日は何をどうしても喉を通らない。

スポーツドリンクだけが、唯一、体に入るものだった。




心のどこかで分かってた。


「今日は最後までは行けないかもしれない」って。

でも、引き返すのは悔しい。
このまま熱中症で倒れるのもバカみたいだ。

そんな矛盾した感情が頭の中をぐるぐるして、
それでも友達と顔を見合わせて、
「もう、今日は…ここまでにしよう」
って、静かに決めた。

新栃木駅で、自転車を輪行袋に詰める。
タイヤを外して、フレームを畳むこの作業が、
なぜかものすごく悲しかった。


電車に揺られながら、窓の外をぼんやり見る。

遠ざかっていく道、通り過ぎる景色。
あそこで、もう少し頑張れたんじゃないか。
でも、あのまま走ってたら倒れてたかも。
そんなことを、ずっと考えていた。


日光に着いた頃には、もう夕方。

涼しい風が、顔にあたる。
でも、ここで旅は終わりじゃなかった。

ホテルまで、最後の坂道が待っていた。

短い距離なのに、ペダルが踏めない。
ギアを軽くしてもダメ。
脚がいうことをきかない。

最後は、自転車を押して歩いた。

情けない、と一瞬思った。
でも、不思議とそれよりも
「ここまで来れたんだ」っていう気持ちの方が大きかった。




ホテルに着いて、部屋でシャワーを浴びて、


缶ビールをプシュッと開けた瞬間。

泡が、グラスに立つ。
冷たい液体が喉を通り抜ける。

その瞬間、全身に電気が走った。

うまい、うますぎる。
今まで飲んだどのビールより、今日のこの一杯がうまい。


40代。
体力は若い頃より落ちたし、無理もきかなくなってきた。
でも、だからこそ、こういう日がたまらなく愛おしい。

途中で止まってしまったことも、
心が折れかけたことも、
最後は自転車を押して歩いたことも、
全部ひっくるめて、今日という1日。


またいつか、リベンジしよう。

今度は、自分の脚で、ちゃんと日光まで。

その時もきっと、ビールは最高にうまいはずだから。