夜間工事を終えた翌朝の風景は曇天を映したまま止まっている。どんよりとした鉛色の空はどこか輪郭が曖昧で、雲の向こうにある筈の太陽も、本当に其処にあるのかは地上からは窺い知れない。しかし今が昼だろうが夜だろうが自分には何の関心もない。夜であっても、俺がこれまでの人生の大半を過ごしてきたあの時代からすれば比べ物にならないほど、ここは明るい。だからただ、天に在るものが二つのうちのどちらか──せいぜい、その程度のことでしかなかった。
艶花と別れてからいつでも、俺の周囲の景色は曖昧にぼやけているように思う。たとえどんなに空が晴れ渡っていたとしても、彼女のいないこの場所は全てがどこか曖昧なのだ。
特に空腹というわけでもなかったが、たまたま開店しているのが目についたのでファーストフード店に入った。
適当に注文したセットのハンバーガーを半ば無意識に口に運び、何の感慨もおぼえぬまま咀嚼し嚥下する。今の俺には、食事とは生命活動を維持するための行為でしかない。いかにもジャンクフードといった、殺伐とした食感はむしろ心地好かった。
ガラスの向こうでは、出勤途中らしい勤め人や学生が次々と駅へと吸い込まれていく。健全な平日の朝の光景は、自分が向き合うことを放棄した現実を思い出させた。肩が触れ合う事すら殆どなく、雑踏の中を皆が黙々と歩く。地方の小さな街ですらこれだけ人がいるのに、自分が本当の意味で出会い、向き合うことが出来るのはほんの一部でしかないのだと、そんな益体も無いことを何故だかふと思った。
「……けほっ」
もう治まったかと思っていたが、また咳が出た。続けて咳き込みながら、ストローで紙カップの中の炭酸飲料を何とか吸い上げる。もう一週間ほどこんな調子が続いていた。体温計など持たないから計りようもないが、経験から発熱が続いているのも分かっている。体を動かせないほどではないし、日雇いの身では収入も不安定なので仕事には出ているものの、どうにも今朝は少し辛いかもしれない。
「はぁ……」
こんな食生活がたたっているのも分かってはいたが、改善する気にもならない。額に落ちる前髪を掻き上げながらハンバーガーの包み紙を握り潰した時、人が近づいてくる気配がして手を止めた。
「…………」
二つ隣のスツールに、トレイとコートを持った若い女が腰掛ける。すらりとした、座っていてもその細さがすぐ分かるほどの華奢な体つきがまず目についた。
年の頃は艶花とそう変わらないだろう。肩より少し長い、手入れの行き届いた栗色の髪。今どきの若い娘にしては派手な印象はなく、育ちの良さそうな可憐な雰囲気はこんな早朝のファーストフード店にいるのが不思議に思えるほどだった。
──違う、そんなことではなくて。
女の、その顔。
浅い二重瞼を縁取る長い睫毛、女らしい丸みを帯びた鼻先、小さな頤(おとがい)。若さからくる生命力というよりは、儚さとでもいうようなものを見る者に感じさせる、整ってはいるがそんな容貌。何処かで見たことがあるような、それでいて『誰』なのかは思い出せない。奇妙な既視感に捉えられるまま目を逸らせずにいると、相手も気づいたのかポテトを食べるのを中断して控えめにこちらに顔を向けた。俺の顔に焦点を合わせた瞳と視線が交わった瞬間、思わず声をあげそうになる。
──土方はんが、好きなんどす……!
何の前触れもなく、突然脳裏に浮かんだ光景。
見上げてくる切なげな眼差し。必死に着物の袖を掴む、か細い指。
──ずっと好きやったの。初めて、こんなに男の人を好きになったんは。
衒いのない好意を、ひたすら真っ直ぐにぶつけてくる様はいじらしく、それは艶花とよく似ていた。何でよりによって、俺のような男に。まずそう思ったのを覚えている。
後で思い返してみればいかにも子供じみた謀(はかりごと)で俺を茶屋へと誘い出した、艶花と朋輩の新造。以前に揚屋で酔客からかばってくれた時から好きだったのだと告げられたが、こちらにしてみれば言われて初めてそんなこともあったような気もする、というのが正直なところだった。
当然、想いには応えられないと俺は言った。既に自分の心の中には艶花がいて、他の誰かが入る隙間などなくなっていたからなのだが、たとえ彼女に出会っていなくともあの娘とどうこうなろうなどとは思えなかったに違いない。そもそも、自分が艶花に──女に本気で惚れること自体が想定外のことだった。
そうして、不本意ながら結果的に泣かせることになってしまったあの娘の名──といっても廓名ではあるが──は何だったか。
「…………き、みかげ……?」
実際に声に出してしまっていたと気づいたのは、顔を戻しかけていた件(くだん)の娘がはっとして再びこちらを向いたからだった。注がれる訝しげな視線に流石に気まずくなって、トレイを手にして立ち上がる。
「げほ……ごほ、ごほっ」
立ち上がった拍子に、また咳が出た。カウンター席からあの娘の視線を背中に感じながらごみを捨て、トレイを置くと、急ぎ足で店を出た。
外に一歩出ると同時に、冷たい滴が額を濡らす。 目を凝らして見ると、淡いグレーの靄にけぶった空から細い銀の鎖のような水滴が落ちてくる。最初はひっそりと、やがて見渡す限り激しい驟雨に晒され視界が遮られた。瞬く間に髪も顔も体も芯までずぶ濡れになる。自分の間の悪さに嘆息しつつ、何とはなしに先刻の女の姿から、あの君影といった新造が俺に想いを打ち明けた時に鉢合わせた艶花を思い出していた。
ひどく傷ついた顔をして、今にも涙を零しそうな眼で、俺に抱きつく君影と、されるがままにしていた俺を見ていた。あの時さっさと、君影の腕をすげなく振りほどいていれば良かったのだろう。けれど艶花と同じ年頃の、しかも彼女と同じく島原の新造であった娘を冷たくあしらうことは、どうしても出来かねた。だから言葉ではっきり断りはしたものの、俺は最後まで自分からは君影の体を遠ざけようとはしなかった。善い格好をしたかったわけでは決してない。ただ、すぐ後ろに艶花はいる筈なのに、必死に俺を離すまいとしがみついてくる君影を退けることはまるで艶花自身をそうするかのように思われて心苦しかったのだ。そうしてつい、君影の頭を撫でた。艶花によく、そうしているように。
それが結局は余計に彼女を傷つけた。
──君影ちゃんを、撫でた……
伸ばしかけた俺の右手を、艶花は一歩下がることで避けた。直後、そんな自分の行動が自分でも心外だったというように眼を見開き、そして俯く。
──悪かった。
そう。あの時だってもっと、上手いやり方はあった筈だった。だからもう、今度は間違いたくない。もう、彼女を泣かせたくない。彼女が俺のことを忘れてしまったのは僥倖だったのだ。だから。『受け入れなければ』。
「…………はあ…………」
雨脚は衰えることを知らぬかのようで、限界まで水を吸った作業着が重たい。空気は身を切るかのように冷え冷えとしているのに、吐き出す息は自分でも分かるほど熱かった。ぶるりと体が震える。さっさと帰って寝ようと思うものの、今は自分を知る誰とも顔を合わせたくなかった。
いったい、俺は今こんな場所で何をしているというのだろう。それでも、あと一歩進めばその答えを得られるのではないかという、叶うわけもない望みを懐(いだ)きながら闇雲に足を動かし続けた。行く先も見ずに、ただ足下だけを見つめて、ありもしない答えを探し求めながら。いま自分は本当に『此処』にいるのだろうか? どうすればそれを確かめられるのか? 誰も俺を俺だと請け合ってくれない世界。喪くした居場所の在処を教えてくれる者など何処にもいない。
いつの間に足を踏み入れていた、どことも分からぬ細い裏通りのブロック塀に背を預け、ずるずるとへたり込む。野良犬一匹さえいない煤けた路地裏という場所も手伝ってか、まるでこの世界に自分一人しか存在していないかのような心地がする。誰もいない場所を求めてここへ来たのに、誰もいないことに苛まれた。
「…………?」
そうしてどのくらいの間そこでぼんやりとしていたのか。徐々に大きくなってくる車の排気音で意識がようやく現実へと向いた。だが、どうも様子がおかしい。車体がふらふらと、右に左に蛇行している。関節の痛みを堪えながら立ち上がって見ると、助手席にいる人間が運転手に覆い被さってハンドルを掴んでいるようだ。
「なん……だ、あれ……」
ただ事ではない、ということは容易に察しがついたが、車が近づいて乗員の外見がはっきりすると俺は更に眼を見開いた。
助手席には、女。運転しているのは男。横からハンドルを奪おうとする女を、鬼気迫る形相で押し退けている。こんな雨の中、幅員のない道でそんなことをしていれば早晩車は左右どちらかの壁にぶつかるだろう。
さっさとブレーキをかけて停まりやがれ、という俺の念が通じたわけではないだろうが、車は俺から数十メートル手前で急停止した。完全に停止するのを待つことなく助手席のドアが開いて、女が転がるようにして降りる。足を縺れさせながら走ってくるその女の服装に、髪型に、自分は確かに見覚えがあった。数十分なのか数時間前なのか今となっては判然としないが、今朝ファーストフード店で見かけたあの女に間違いない。
乱れた髪の間から、女の目が俺の姿を捉えた。たすけて、と唇が動く。
反射的に走り出した俺は、力尽きて倒れそうになる女の手を取ると、その身体を背にかばった。
【つづく】
君影ちゃんを覚えている読者様が果たしてどれくらいいらっしゃるのでしょうか……
本家『やきもきバレンタイン』イベントに登場した(そして勿論それきりの登場だった)キャラのうえ、途中の土方さんの回想については件のイベの土方さんの二幕を読んでいない人にとっては全くもって何のこっちゃ? でしかありません。
でも、だ、大体の経緯は作中の文章から分かっていただけましたかね……?
つーか、何かまた始末に困るキャラを出しちゃったなーと正直思わないでもないのですが、こっから先この公式キャラと言うには微妙すぎる半オリキャラが関わってまいります。半というか、ほぼオリキャラですね。
秋斉さんのターンがひたすらロジックで押し進めた話だったのでここいらでちょっとドラマチックにしてみたつもりなのですが、主役二人の再会は更に遠ざかるばかり……いつ終わるんだろうこの話。
そして風邪っぴき土方さん、これもう多分インフルエンザに罹患してますよね……!
“鬼の霍乱”はきっと今まで体調をくずす度に散々言われてるでしょうから敢えてここでは無しってことでw
てか、あとがき長っ!