急に速い動きをしたせいか、吐き気を覚えるような息苦しさと、気が遠くなるような頭痛がして目を細める。その先で、車の運転席から男が出てこちらに走ってくるのが見えた。
「──待てよっ! おい‼」
いかにも体育会系といった体躯の男。少々頭の中身の足りなさそうな相貌に思わず顔をしかめる。
「何だよ、いきなり飛び降りることないじゃんよ!? てか誰こいつ」
俺の顔を睨みつけながら近寄り、背中の陰にいる女の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。イヤ、という怯え混じりの拒絶の声に、俺は体の向きを変えて背後の女をかばうと同時に男へ片足を突き出してやった。
「のわっ!?」
出した足にあっさりと躓き、男が数歩たたらを踏む。
「……っざけんなよ……おいっ、みかげ!」
──みかげ?
思わず背後にいる女を振り返った。この女の名前は“みかげ”というのだろうか。それは記憶の中のあの娘の名とあまりに似た音。
「分かったよ、今度はちゃんとお前ん家まで真っ直ぐ行くから! だから、な? 雨も降ってるしさぁ!」
ほら、と伸ばされた男の手を、女──みかげが引き攣った顔で振り払う。それが男を激昂させてしまった。
「てめ、ふざけんじゃねえぞっ‼」
あろうことか女へと拳を振り上げる。手は出さずにいるつもりだったが流石に看過することは出来ず、向かってくる手首を取ってそのまま逆関節に捻り上げた。
「いーーーーーっ‼」
男が悲鳴を上げながら、それでも蹴りを入れてこようと脚をばたつかせる。適当にいなしながら、手首を掴んでいる指にもう少しだけ力を込めて引き上げてやった。
「……それ以上動いたら肩が外れるぞ」
一言そう言っただけなのに、相手は俺の顔を見て騒ぐのをぴたりと止めた。苦悶の表情に、微かに畏怖が混じる。
「…………」
抵抗する気配がなくなったのが分かったので手を離し、とんと胸を押して遠ざけた……だけだったが、男は濡れたアスファルトに無様に尻餅をついた。右肩を擦りながらこちらを恨めしげに見上げていたが、チッと当て付けがましく舌打ちすると、ふらふらと立ち上がる。そうして濡れたジーンズの尻に手をやり──
「ちっ……きしょ……」
「──!」
立ち上がった男の手には、ナイフが握られていた。俺は直接には知らなかったが、かつて社会問題にもなったらしい、バタフライナイフというやつだ。
「こンの野郎……っ!」
刃物を出しはしたものの相手の腰は引けていて、とてもじゃないが扱いに慣れているとは思えない。おそらく、ちらつかせて威嚇するだけの為に持ち歩いているものなのだろう。
「おらァーーーっ!」
声を裏返らせながら盲滅法に腕を振り回す。
「そいつは銃刀法違反にはならねえのか……?」
日本刀の所持は銃刀法違反なのだと、この時代に来た直後に結城に教えられたことを思い出した。
「うあーーーっ、あーーーーーっ‼」
俺がナイフを見ても全く怯む様子がないのに、ますます男は頭に血を昇らせたらしい。バタフライナイフの所持が合法かどうかは今はどうでもいい。だがとにかく刃物は納めさせるべきだと一歩踏み出し距離を詰めた。仮に言ったところで信じはしないだろうが、数年前というべきか百数十年前といえばいいのか分からないけれども、こちらは本物の日本刀を日常的に振り回していたのだ。今更ナイフの一本ごとき、見せられたところでびびりようがない。
「わああーーーーー‼」
「──ぐっ!」
だが、下手な鉄砲も数を撃てば当たることもある。そして、体調が悪いとやはり感覚が鈍るものだ。
「げほっ、……ごほっ」
また咳が出てしまい、避けるのがほんの少し遅れた。瞬間、右手の甲に鋭い熱が一筋走る。自分にとっては慣れた感覚なので別段それに頓着することなく、咳き込みながらそのまま男の懐へと入り込む。鳩尾に肘で当て身を食らわせた。男はもんどりうって再び地面に倒れる。それでも、元々の本人の体格の良さと、こちらもだいぶ手加減はしたので気を失ったりはしていない。
「……今度こそ肩を外してやろうか?」
男が取り落としたナイフを拾い上げて、パチンと刃を戻す。それを差し出してやると引ったくるように奪い取ってから、男はよろよろと今度こそ車に引き返していった。苛立ちを表すようにエンジンを噴かせて勢いよく発車させ、わざわざこちら側に寄って水溜まりの上を通過する。派手に跳ねた泥水が靴とズボンを汚した。
念のためナンバーを暗記してから、後ろを振り返る。
「──大丈夫か?」
「大丈夫ですか?」
互いに同じことを尋ね合い、そしてそれに気づいて同時に口を噤む。
「……血が……」
強張った表情で、女が呟いた。視線を追うと、雨の滴と血とが混じって指先からアスファルトに滴っている。寒さで手が悴んでいて感覚がないので今まで気がつかなかった。指摘されてようやく痛みを感じ始めた。
「あの、私の家、ここからちょっと戻ったところなんです。せめて、怪我の手当てを──」
「今の男は、知り合い?」
誘拐されかけた、などというわけでないのなら良いが、痴話喧嘩にしても、楚々とした見た目からは随分とかけ離れた相手と付き合っているものだと他人事ながら思う。
「知り合い、というか……そんなことより、私のせいで、手……」
「ああ、こんなもん大したことはない。家は近いんだな? 気をつけて帰れよ」
警察でも呼ぶのならそれまで一緒にいても、と言おうと口を開きかけた時。女が俺の左腕にがしっとしがみついた。
「あのっ、怪我の手当てと……傘もないんでしょう? お貸ししますから!」
「いや、俺のことは別に構わねえでいいから……」
「そんな……!」
必死の面持ちでこちらを見上げてくる様に、知らず言葉を途切れさせた。
小ぶりな卵形の顔と、はじめて真正面から向き合っている。
「だめです──」
濡れた髪を頬に張り付かせ、堅い表情で唇を引き結んで、女は俺を離すまいと絡めた腕に更に力を込めた。あんなことがあった直後だからか、感情が高ぶっているのだろう。目にはうっすらと涙を湛えていた。
「お願いですから……」
──自分はかつて、こんな風に涙とともに求め訴える女と向き合ったことがある。
見下ろしている女の顔は、過日の面影とあまりにも重なって見えた。あの日の、年端もいかぬ娘を泣かせた罪悪感と、図らずも艶花を傷つけてしまった、苦々しい既視感を伴う、その、眼差し。
「………………」
降りしきる雨の中。車線のない舗装道路はあれから一台も車が通らない。行き交う人もない。
互いの呼気が白く重なり合う距離で、無言のまま見つめ合う。
「……みかげ……」
「え?」
「あ、いや……名前。みかげ……さん、というのか」
面食らったように目を瞬かせ、それでも相手は素直に頷いた。
「冬木美景といいます。季節の冬に、植物の木、美しいに、景色の景です」
丁寧に、漢字の説明までしてくれる。その間も彼女の手はしっかりと俺の腕を取って離さない。丸襟に黒と白の千鳥格子のコートが目の前でどんどん水を含んでいく。
「分かったよ、美景さん。ここで押し問答してても濡れるばかりで仕様がねえ。お言葉に甘えるから、手を離してくれねえか」
言われて初めて自分が見知らぬ男の腕にしがみついているのに気づいたのか、美景は慌てて俺を解放すると数歩下がり、すみませんすみませんと頭を下げた。
「……あんた、意外と激情家なのか?」
おとなしやかな見た目からは想像できない、浅はかな思いつきで大胆な行動に出るところも、こうと決めたら一途に、すべてを抛(なげう)たんばかりに訴えかけてくるところも、あの君影という娘を彷彿とさせる。
「いや、別にいいんだけどな」
地面に視線を落とし、いたたまれなさげに身体を縮こめる娘は、俺の声の調子が軽いことを感じ取ったのかおずおずと顔を上げた。
「……正直なところ、このままあんたを一人で帰すのも心配だったんだ。どこまでお節介を焼いていいもんやら迷ったんで、こっちから言いはしなかったが」
美景はほんの僅か、こちらの真意を計るかのような目をしたが、俺の右手に視線をやるとちょこちょこと側まで戻ってきて遠慮がちに笑う。
「私も……まだちょっと怖くてドキドキしてるので、助かります」
そうしてくるりと向こうを向くと、こっちですと言って歩きだした。
「……ああ」
二歩進んで彼女に追いつき、並んで歩きながら、俺は自分の感情のいつにない揺れに内心戸惑っていた。
【つづく】
あれほど評判のよくなかったイベントの登場人物が二次でサブヒロインになろうとは公式も思うまい(ドヤァ……