医 | 中国武術研究家のブログ

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東京八卦掌研究会

 昨年、縁あって、古巣の日本の武道の団体に所属していた先生から手ほどきを受ける機会があった。40年以上前の当時の稽古着が残っていたので、それを引っ張り出して参加することとなった。まさしく、古くからの武の縁である。

 とは言え、もう戦う技術でなく、武道を卒業して、医の側面の勉強である。その先生はもともと整体師であって、武と整体、医は表裏のものであり、どちらかと言うと医が武の基礎になるとのお考えを長い経験から持たれている。単に面白そうだと思ったのと、昔が少し懐かしかったのが、参加の理由だが、そんな中、少なからぬ手技と、示唆を頂いた。本来は門外不出だそうである。ただ、一般的には非常に難解な技法だが、武道経験の長い私にはそれが何を意味するかはやはり見えるのである。

 医の技術、特に東洋のものは、施術者の力量に大きく左右される。西洋医学のように標準化は難しいものだ。理屈で言えば、施術者の力量によって、本当にある種の病気・苦痛を治すことができると思う。だが、それが実際に行えるかは、施術者の修行の結果の力量によるであろう。特に武の技術というのはこういう所に応用できるのか、あるいは、武の前提は医であるのかと目から鱗が落ちるような感じと、ただ、これは人に説明はできないなあと思った。

 私は武歴が長く、ある程度はすぐに身につくし、理解できるわけであるが、思ったのは、もうこれを人に教えるのは無理だろうなあと言うことである。私について何十年も修行しなければ医の境地が見えるところまでは到達はできないだろう。もう、年齢的にそんな指導はできない。技術などいくらでも作れるし、説明・教えられるだろう。だが、その根本にあるものを求めなければ、すべてが崩れ去る。それは難しい。ある意味秘伝みたいなものだ。

 先生とも話したが、本来は、武の先に医があるし、武道家は武のためにはそういうことを行うべきであるが、なかなかそこまでやれる人、やる人はいないとのことであった。

 中国の少林寺は禅武医と言って、禅からスタートして、武を応用し、最後は医に至るそういう修行であるそうだが、やはり長い歴史を持っているところはさすがだなあとあらためて思った(今、残っているのかはわからないが、武のためでなく医を学びたくて、少林寺に入門した僧侶が、医のためにはまず武をやらなくてはならないと諭されたという歴史があることは関係者から直接教えてもらったことがある。)。日本は一般的にそういう風にはなっていないと思う。

 人を助けることができれば、人を殺すこともできる。だから、武も突き詰めれば医と言うことなのだろう。だが、人を倒すことに執着しても、最後は空しいものだ。私も最近はあまり興味がない。武というのはいずれ卒業をするべきものなのだろうと思う。剣豪宮本武蔵も最後は空と言っている。

 中国の師が言うように、武はまず健康のためにやるべきものであると言うことの正しさを最近ますます実感してきている。武術も中国人の知恵、長い歴史だ。そういうものは、やはり真実を含んでいると思う。すべてはつながっているように思う。そういうものなのだろう。わかる人は少ないだろうが。