阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

この国の起源と歴史を阿波から見つめなおして。

徳島~大阪~京都を往還しながら、全国各地へ出張取材。
折々にタイムカプセルをのぞく “行き当たりバッチリ” 訪問記です。

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そして、北海道へ
北海道での稲田家については “後日談” となるのかもしれません。
あまりに厳しいレビューの書き込みに、私も観るのを躊躇している、あの映画の物語です。
 

いろいろ無理をして制作されたようです。豪華キャストに予算を使い過ぎたのかも。
地元・静内の郷土史家でもある静内神社の宮司さんの講演録 から拝察するに、求められた考証が軽視されたことに落胆のご様子です(講演録を抄録 *1)。
 
静内神社
稲田の方々が 「神武天皇社」 として建立、守ってこられたもので、広大な敷地に堂々とした風情です。
 
 
大正8年に、もともとあったエビスさまこと、事代主神 を祀る 「蛭子神社」 が合祀されて 「静内神社」 となります。
 
ご祭神は、もちろん神武帝
勤皇を掲げ続けて、 「神武創業の古に復する」 という明治維新の趣旨を奉じられたそうです。
奈良・橿原神宮 は明治23(1890)年4月の創建ですから、他から分祀されたのでしょうか。
奈良の御所市柏原にも 神武天皇社 があり、神倭伊波礼毘古命を祀っています。ご即位の場として1736年の 『大和誌』 に掲載されている古社です。
また福岡の遠賀郡にも、東征の際に1年余り滞在された 「岡田の宮」 跡としての 神武天皇社 があります。
それとも! 阿波市土成町にある 樫原神社 のことをご存知だったのでしょうか。
→ Wikipedia 樫原神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/樫原神社
 
いつか静内神社を訪ねたいものです。
 
合祀されている 「蛭子神社」 がいいですね。
開拓前の創祀とされ、慶応3年の縁起書には、網にかかった人の形をした像が光り輝いていたので漁業守護神、蛭子地蔵尊として祀ったとあるそうです。
明治元年に周辺の漁業権を押さえた開拓使の函館商人が勧請し、明治9年に村社に列せられます。
 
こんな見方ができないでしょうか。
アイヌの地に先に来ておられたエビスさんこと 事代主 が、海の民の故郷を守り、その海の民が支えた初代天皇・神武帝 を心から奉ずる人々を招き寄せられた。
そして、稲田家の方々は古事記が伝える苦難の建国神話を追体験、異なる文化の和合を実現された・・・。
 
先住民アイヌ:縄文から続く八百万の神と共にある人々
海の民:国つ神・エビスを奉じる国境をもたない人々
高天原の民:神武帝と共に大和国を築いた人々
静内神社は、稲田の人々が完成した 日本列島に暮らす人々の融和・融合の象徴 の地だと言えるかもしれません。
 
100周年で出版された 『庚午事変』 に徳島藩最後の藩主のお嬢様が寄せられたメッセージ*2 の通り、いま150周年を機に、阿波、淡路、両國のあいだにふたたび信頼の橋が架かることを切に祈っております。
 
 
お付き合いいただき、ありがとうございました。
 
***
 
追記
PCに、ひとつの徳島新聞の記事を保存していました。
 
稲田家家臣の苦難たどる~10・11日、洲本で回顧展
(2014.5.8)

 
【写真説明】
益習の集い会員の高田さん(右)らが10日からの稲田家回顧展で展示する資料
 
1870(明治3)年の庚午事変(稲田騒動) により北海道へ開拓移住した、徳島藩家老で淡路島の洲本城代稲田家の家臣たちを回顧するパネル展が10、11の両日、兵庫県洲本市立中央公民館で開かれる。
徳島とも関わりの深いパネル展で、主催する洲本の団体は来場を呼び掛けている。
 
庚午事変を取り上げた新聞小説 「お登勢」 の著者で、北海道出身の作家 船山 馨(1914~81年) の生誕100年を記念して企画。
パネル展は 「船山 馨 生誕100年記念 お登勢その後・北に渡った家臣達」 と題し、移住した家臣団の苦労やその後を解説する。
 
稲田家の菩提寺がある美馬市脇町の出身で、牧場主となった大塚助吉や、北海道で村を切り開いた八木彦吉らにも焦点を当て、当時の開拓地の写真とともに紹介する。
初日は会場近くの招魂碑で、北海道への移住途上に和歌山沖で遭難した平運丸の犠牲者を追悼する行事もある。犠牲者87人のうち64人は徳島からの移住者だった。
 
主催は、洲本にあった稲田家の学問所 「益習館」 の保存継承に取り組む 「益習の集い」。2013年6月に発足し、勉強会を重ね、資料を収集してきた。
担当の淡路市育波、郵便局員 高田知幸さん(49)は 「徳島の人も大勢移住し、遭難で犠牲になった。縁の深い展示内容なので、ぜひ足を運んでほしい」と話している。
開場は午前10時半~午後4時。
問い合わせは事務局の三宅さん<電****(**)****>。

 
記事にあった番号にお電話してみると、三宅さんは現在は事務局から引いておられるとのことですが、少し楽しくお話できました。
ご先祖は 「美馬から転勤してきた稲田の家臣」 だそうです。
150周年の記念行事が、すべてコロナ騒動で会場が使えず、「悶々として」いるとのこと。
ほんとうに…。
でもこれから阿波と淡路のつながりを深めていきたいということで意見が一致。
また淡路に行く楽しみが増えました。
 
益習館 とはどこかと地図をみたら、よくご挨拶にうかがう 厳島神社 のすぐお隣でした。
 
洲本市のホームページに:
この地は、寛永8(1631)年から行われた城下町建設時の石切場であった場所です。石切場として利用されたのち、徳島藩の筆頭家老 稲田氏の別荘(西荘)の庭として作庭されました。嘉永7(1854)年、稲田氏の私塾学問所を西荘に移し、それ以後益習館と呼ばれるようになりました。
明治3(1870)年の庚午事変により、建物は焼失しましたが、庭だけが当時の面影を残しています。
曲田山山麓に作庭された庭園は、東西に長い池泉を穿ち、山側護岸に和泉砂岩の巨石を用いた池泉回遊式庭園です。高さ4mを超える山側護岸の巨石は、庭園石材としては日本最大級のものです。

 
しかも:
『旧益習館庭園』は、国の文化審議会からの答申を経て、平成31年2月26日付 「文部科学省告示第二十一号」により、正式に国の名勝に指定されました。
https://www.city.sumoto.lg.jp/soshiki/34/2474.html
 
その秋にはこんなすてきな企画~
 

 
いつか、お庭を拝見しながら当時を偲ばせていただきたいと思っています。
 
***
 
*1 講演録
「稲田家臣団の静内郡移住について」
(抄録させていただきます)
7 月 26 日 札幌/8 月 02 日 東京
講師 山田 一孝 静内郷土史研究会会長・静内神社宮司
 
(前略) 船で静内に移住してきたのですが、汽船3隻に分乗して明治4年4月13日に淡路を出発したとあります。品川湾に着いて5日間東京見物をしています。その後、品川を出帆して浦賀に1泊。次は金華山沖で波が静まるのを待って、5月1日に静内の沖に着きます。このあたりが「北の零年」の冒頭のシーンになっています。狭い船室にたくさんの人が詰め込まれて、米とか食料や衣料、それから開墾のための土木工事の道具などの貨物も満載してきているので、本当に大変な旅だったと思います。
(中略)
ほとんどが武士階級か半士半農だったのですが、農業の専門家もいなければならないということで、領地の中にいた専門家を 10 人くらい連れてきています。
この人たちが3隻の汽船に分乗してきたのですが、船隊を組んで一緒に来たわけではなくて、出発と到着はずれていたようです。1番船は大阪丸、2番船が大有丸、それから3番船が鍋焼丸、鍋焼丸って変な名前ですが、文書をどう読んでもこうしか読めないのです。
(中略)
住宅は、移住する時の条件で朝廷側が費用を稲田家にくれるのです。組み立てるばかりに秋田県で加工し、静内に運んで建築したのです。「北の零年」では、脇差を差した武士が木を倒して、自分たちの殿様の屋敷を作るシーンがありましたが、全くのうそっぱちで、あんなことをしていたら開墾なんかできないですね。建物は専門の業者に建てさせたのです。ところが途中で開拓を開拓使が所管するようになり、業者はどこからお金をもらっていいか分からなくなってしまうのです。稲田家としては金を出す立場にないと言い、開拓使は稲田家からもらえと言うのです。これは裁判になり10年くらいかかって開拓使が全額出すはめになりました。
(中略)
この後には、泣くに泣けない事件が続いて起こります。まだ住む家もありませんので、国元から持ってきた家財道具は倉庫に格納したのですが、その倉庫から火が出て全部燃えてしまったのです。冬に向かうという時期になると開拓使からお金を借りて、夜具その他を補充しています。ある資料には、火薬の樽が置いてあったために、消火活動もままならなかったとあります。狩猟に使う鉄砲のために火薬を用意していたのだと思います。
(中略)
この火災の後、平運丸の沈没という事件がおきます。移住した年の 8 月のことです。第 4 番目の船で215 人の移住者が静内に向ったのです。紀州沖に差しかかった時に暴風雨になり、周参見の港に向かったのですが、暗礁に乗り上げてしまい、 83 名が溺死してしまったのです。残った人たちは命からがら淡路島に戻ったという事件がありました。この船には食料だとか、稲田家のいわゆる家宝のようなものも相当積んであったようで被害は甚大なものでした。
(中略)
「静内」という地名も公式には「シフチナイ」と言われていて、「シフチ」で「曾祖母」となります。「ナイ」は「沢」なので「曾祖母の沢」と言う意味になります。割と小さな沢なのですが、そこは弁財船が来た時に船を着けられる入り江になっていて会所が置かれていたことから「静内」という地名になったと言われています。


*2 蜂須賀年子さんのメッセージ
「事変後百年たっての私の願い」
蜂須賀年子
 
このたび徳島市中央公民館付属図書館から出版される「庚午事変」について、原稿をとのお話がございました。今までにも兎角のお話を数々伺っており、私といたしましては、ただただ誠に残念なことだと申しあげることのみで、阿波、淡路両国が三、四百年近く仲よく睦みあって来ましたのに、明治の始めにおいて、この事変が起き、一つ心に結び合って来ましたものが、兵庫県と徳島県との二つに別れ、何となく、そぐわぬ心にうちとけずにおりますことは、ほんとうに一時的のことがらが、このように尾を引いておりまして、残念で残念でたまりません。
 
稲田家は蜂須賀家におきましても、代々第一の家老として重きをなし、蜂家の当主は阿波守でしたが、息子はいつも淡路守であり、その代理として城代家老が淡路に赴任したまでで、家屋敷は相かわらず徳島の城下に置いてあり、またこれとは別に、城お預かりの意味で洲本城に住まっておりました。しかし徳島藩としては、蜂須賀家の連枝であった富田御殿(西御殿)の当主をお目付役として洲本に派遣し、淡路の蜂須賀として、そのころは(本家の十二代 重喜公の六男)蜂須賀昭融(あきてる)が宇山に常住して明治にいたっており、今も分家として(明治三十七年上京移住)東京に在住し、その時の家令杉本氏は未だに洲本にあって、雜穀屋をいとなんでおると聞いております。
 
世の中には思いちがいや、種々のかけひきからの間違いも多々あることがありますが、ただただ残念なのは、この事変内輪もめの程度が公になり、明治になり廃藩置県の折、このことがわざわいして、淡路の国は兵庫県に、阿波の国は徳島県として別れてしまい、藩主としての祖父 茂韶(もちあき)はとても心痛し、かなしみ、いついつまでも同じ心にと念願して来ましたが、その一つとして阿淡懇親会を三田の家でしたり、また陸海両軍の阿淡両国の方達のために、阿淡育武会を催して、その融和をはかって来ました。父もその線にそって努力をしていましたが、その苫心はなかなかに実らず、徹せず、今日では徳島県人会に、一咋年なくなられた稲田昌稙元男爵もご存命中はお顔を拝しましたが、また分家の元富田御殿の淡路の蜂須賀昭英は何となく遠慮してか、会にも顔を出さなくなってしまいました。
 
本家蜂須賀といたしましては、ほんとうに残念なことであり、父の時代、永田秀次郎先生に顧問をご依頼に出ました時も、稲田冢の家臣の家のものですからと再三ご辞退なさいましたが、しいてお願いして受けていただきましたようないきさつもあり、また現に原安三郎先生にお願いいたしました時も、同様なお言葉でしたが、私は今もってお心安く伺っており、先生も何かと心厚く種々ご親切にご指導してくださいます。
 
思えば、あの事変後百年の月日がたちますのに、何となく、しこりと申しますか、人の心はなかなかに和めずにおりますように思われ、祖父、父などの苦心を思いますと、私としても残念で残念でたまりません。
昨年の秋、珍しく淡路の安居院(あごいん)さんからのお話で、淡路会に心よくお招きにあずかり、心いさんで喜ばしくよせていただきましたが、出席された方々のお顔を拝しました時、うれしさがこみあげて、目がしらが熱くなりました。ほんとうにうれしい、楽しい、わけへだてない一夜を歓談に過ごし、若い代議士である永田さんにもお目にかかり、昔をしのんだことでございました。
 
史実を探求したご事業はなかなか有意義のこと、努力の結晶とは存じますが。過ぎ去った事実は事実としても、せっかく阿波、淡路両国の三、四百年にわたる一つ心の睦み合いは、そう簡単に崩れ去るものではないとは思いますが、藩の最後においてあのような不祥事が起き、死傷者も出ましたことゆえ、それにつながるご子孫としては、それぞれのお立場もありましょうが、百年後の今日、どうぞ おたがいに和み合い、仲睦まじく、昔と変わらず一つ心になって、同じ日本人同士のよしみとして、ますますご親交を深く融和していただきたい心は父祖からの願い ですから、私といたしましても、その心で徳島藩の子孫としてこいねがい、ますますみなさまの上に幸福をもたらしますよう、祈ってやまないことでごいます。
(昭和四十五年五月二十六日認)
 
→ Wikipedia 蜂須賀 年子(1896-1970)
日本のデザイナー。教育者。東京府出身。父は蜂須賀正韶。母は徳川慶喜の娘である蜂須賀筆子。
 
***
 
追記 (2020.8.23)
facebook 友達の中川洋一さんが 徳島新聞 の記事を紹介くださいました。
ありがたや~
 
徳島城博物館で庚午事変に関する特別展が開かれるとのこと。
多くの方に知っていただきたいですね。
 
 
今回、見てきたように、双方それぞれの立場からの確固たる見方があるはずです。
それを見る第三者が、自分の立場や一方からの、ある時点での情報から善悪のいずれかに判断することは慎重にしたい。
この見出しの 「首謀者」 という言葉から、改めて感じることです。
 
 
前編でご両家の歴史を概観しましたが、ここからが本稿の主眼です。
 
稲田家一党が、主家の当主が徳川出身でありながら強硬な 尊王派 となった背景を推察していきたいと思います。
領地において純粋な信仰心から尊王の気風が養われていったのではないか、というものです。
 
 
4)聖地・美馬
阿波に入った稲田家が知行したのは 吉野川 の中流域*1。
 
*幕末から明治初年頃の稲田家知行地(『阿淡稲田家小史』 p.47)
 
この一帯には 阿波古事記研究で見逃せない 超エース級の神社がいくつもあります。
本拠の 脇城 が目の前に見下ろす舞中島には日本唯一、イザナミを祀る式内 「伊射奈美神社」*2。
東に川ひとつ越せば、やはりいずれも式内社の 「波爾移麻比禰(ハニヤマヒメ)神社」、真西13kmには 「倭大国魂(ヤマトオオクニタマ)神社」 という豪華な布陣。
 
倭大国魂神社の倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は、奈良の大和神社のご祭神として知られる、大物主(オオモノヌシ;大己貴神の和魂) のこととされます。
『日本書紀』 で崇神帝のときに 天照大神(アマテラスオオミカミ) とともに宮中から遷されたという神です。
崇神天皇5年に半数もの国民が死んで村々が崩壊したというほどの疫病が流行したとき、大田田根子によって大物主神を祀らせ、倭国造市磯長尾市(イチシノナガオチ)に倭大国魂神を祀らせれば収まるとの神託があったという、強烈な存在。
それなのに、大国主と同神だとか、その荒魂であるとか、大和国の国魂(地主神)だとか、諸説錯綜しています。
ちなみに本居宣長さんは大国主神と同一とする説を否定しているとか。
 
伊勢神宮や大三輪神社などと比べると、ほんとうに小さく質素な神社です。
その様子は すえドンのフォト日記 をご覧ください。
案内板だけ、転載させていただきます。
 
 
 → 「倭大国敷神社」と「倭大国魂神社」と「説明板」♪
 
阿波と淡路でしか解けない、この神様の謎ですが、ここは一旦置いて、ただ、すえドン先輩のブログで、この地域の神社や遺跡を美しい写真でご覧ください。
 
→ すえドンのフォト日記 「麻植・美馬の史跡巡り-1♪」~「〃7」https://sueyasumas.exblog.jp/19972446/
 
また、「波爾移麻比禰神社」 に関連して、阿波のミステリーハンター awa-otoko’s blog さんの記事も興味津々。
→ 「日本一社 弥都波能売神社の元社はこの祠だ⁈」

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/11/15/194656

 

対岸には忌部の郷で、あの三木家への入り口。
南北朝から途絶えていた 大嘗祭 の際の 「麁服(あらたえ)」 調進 は途絶えていた時期ですが、土地に伝わる伝承を領主がまったくご存じなかったとは思えません。
 
 
忌部といえば、かつて稲田家祖が仕えた 織田家*3 が、この地から出て越前鯖江の織田荘・劔神社の神官になっていた 忌部 支族だと知る人があったかもしれません。
 
 
尊皇思想の土台となった国学、平田篤胤の著作などに触れた人が稲田家にもあったでしょう。
 
稲田家は淡路へ移っても稲田屋敷は残っているし、先輩のブログ 「ぐーたら気延日記」 で書かれている幕末期に起こった 忌部神社 の論争に 「郡奉行の稲田武七郎」 という名も出てきますから、美馬郡には関わっていたのでしょう。
→ 「忌部神社遷座考(2)」 http://goutara.blogspot.com/2010/09/blog-post_20.html
 
また、穴吹町には古代史マニアに知られる 「白人神社」 があります。
ここは源 為朝が崇徳院の神霊を祀ったとされていますが、白人大明神のお使いの白兎が夢に現れて大阪冬の陣で稲田示植が助けられたという伝承から、稲田氏の崇敬篤いものだったそうです。
 
 
*「白人神社」 と 稲田家(『阿淡稲田家小史』 p.8)
 
天孫降臨神話に登場する天太玉命(アメノフトダマノミコト)に始まり、阿波内侍藤原師光(西光)など伏流水のように歴史のなかに顔をのぞかせる忌部氏族について、どこまで調査・研究されたかはわかりません。
それでも、やんごとなき天孫に通ずる気配を、無意識にでも感じられておられたのではないでしょうか。
これらの神社や忌部の伝承と考えあわせ、稲田家が美馬に導かれてきたのは宿命だ、そう思ったとしても不思議ではありませんね。
 

5)聖地・淡路
そしてさらに、古事記で描かれる歴史です。
稲田家の主力が淡路に移ったのは家康の命という資料もありますが、脇城が徳川幕府の 「一国一城令」(1615年)で脇城を破棄させられたことが背景にあるのでしょう。
古来、阿波國とは別の“淡路國”だったこともあり、 “城持ち大名” に匹敵するのだと、稲田家の人々は誇りを持ったはず。
実際 慶長 15 (1610) 年から脇坂氏、そして池田氏(当時6万3千石)の洲本藩があったのですから。
 
淡路に入ってみると、あの 美馬の 「伊射奈美神社」 に対する 「伊佐奈伎神社」 が一之宮としてあるではないですか。
 
しかも式内社13社がある淡路國の二之宮は・・・
「大和大国魂神社」 です。
三原を見晴らす高台の、堂々たる名神大社として(南あわじ市榎列上幡多)。
 
奈良の 「大和坐大国魂神社」 から勧請されたということになっていますが、のらねこ先輩が指摘されている通り “坐” は元宮から勧請されて来られた、という意味であり、もちろん淡路が元で、その元が美馬の「倭大国魂神社」 でしょう。
奈良のほうは看板では 坐 の字が見当たりませんが (^^♪
 
 
“出先”ながら、神階最高位の 正一位をお持ちです。
 
この三社については 先輩ブログ 「空と風 Awa Ancient History 阿波古代史之研究」 に詳しいのでご覧ください。
https://awanonoraneko.hatenablog.com/entry/2019/09/01/011804
 
万が一にも大國魂神っていったい何者?という疑問を持たれたなら、ブログ 「ぐーたら気延日記 (重箱の隅)」 の倭の神坐す地 という、おそるべき連載を開いてみてください。
もしや稲田家の方がこの謎に挑まれていたとすれば…、『阿波風土記』 が明治時代に消えた理由も想像できそうな…。
http://goutara.blogspot.com/2018/03/blog-post.html
 
この説を受け入れて (もしくは保留、もしくはスルー) いただいた前提で、進めます。
 
邪馬臺 ≒ ) 倭 → 大和 → 日本 という変遷をそのまま表しています。
大倭氏という倭大国魂神を祀った宮司家の祖・椎根津彦 といえば、海の民のボスで、神武帝を扶け、倭国造 に任じられた、安曇族 につながる方。
その本拠地に海がなくては困ります。なにせ別名ウズヒコで、速吸門(はやすいのと)に亀に乗って登場するのですから。
 
*丹後の籠神社
 
弥生後期には鉄製武器を製造した工房集落もあり、建国の歴史に海路の中継点・淡路が重要な役割を果たしたことはまちがいありません。
→ 「五斗長垣内遺跡」;淡路島
https://ameblo.jp/donarikojiki/entry-12506944095.html
 
淡路は 『延喜式』 において志摩、若狭とともに贄を宮中祭祀に貢進する 御食國(みけつくに)であった歴史も、今も盛んな神社の祭礼に、その痕跡を今も伝えています。
淡路に入った稲田家の方々も、日本の歴史の始まりにつながる、美馬、そして淡路で、その不思議を感じられたのではないでしょうか。
 
まさかユダヤの伝承まではご存知なかったでしょうけれど。 

拠点としてはじめに受け継いだ由良は、全国の 「由良」 のなかでも最も重要な港のひとつでしょう。紀伊水道の “由良水門(みなと)” を守る要所。
 
 
徳川時代のはじめに陸続きだった現在の成が島(地図の①) に城が築かれます。まもなく、洲本(青い)へ城が移されましたが、この移転を 「由良引け」 と呼びます (由良の人たちはいまだこっちが淡路の中心だというプライドをお持ちですネ)。
 
お城を見上げる由良の古社の祭礼にも、参加されたことでしょう。
由良湊神社 の夏越祭りは、神輿をかつぐ厄年の男衆に人々が水をぶっかけ、浜に出たら神輿もろとも海へ飛び込んで祓い清めるという、ダイナミックで海の民特有のかたち。
御祭神は次の2柱。
速秋津日古神 (ハヤアキツヒコノカミ)
速秋津比売神 (ハヤアキツヒメノカミ)
イザナギがイザナミのいた黄泉の国から逃げ帰ってみそぎをしたときに生まれた神々の代表格の2柱。
兄妹神ですが、大祓の祝詞に登場する祓戸四神*4{セオリツヒメ、ハヤアキツヒメ、イブキドヌシ、ハヤサスラヒメ}として祀られることが多く、ハヤアキツヒコを祀っている神社は少ないですね。

そして:
品陀別尊(ホムタワケノミコト)
応神天皇の御神霊で、こちらは八幡信仰の広がりとともに加わられたのでしょう。
 
海の民の祭礼もまた、実は天皇家と直結している…。

「『古事記』 『日本書紀』 には早くから朝廷と淡路に関する記事が出てくるが、とくに応神、仁徳、履中、反正、允恭天皇の五世紀に多い。この頃、淡路への遊猟もたびたびであったし、淡路の御原の海人、淡路の野島の海人は水夫として奉仕したことがよく出てくる。反正天皇は淡路の宮で誕生されており、すでに古墳時代中期頃の淡路は、朝廷にとって安心できる国であったようだ。」
『淡路島の歴史』(月刊『歴史手帖』 5巻7号) 
岡本 稔(洲本実業高校教諭) 「淡路島の遺跡概観」

このようなことを知り、感じて、稲田家内では尊王の機運が醸成されていたのでしょう。
『図説 阿淡稲田家小史』 にも:
もともと 『古事記』 で語られる日本創成の最初の島、「淡路之穂之峡別島(アハヂノホノサワケノシマ)」 である淡路島は、国学も盛んであり、本藩藩士の妻木成彦(貞彦)、稲田家臣の上田晴彦と中野安雄、また山口敏樹ほか多くの国学者がいたし、徳島藩の経営する 「洲本学問所」 の朱子学中心主義に対し、稲田氏の経営した郷校 「益習館」 では、大阪の篠崎三島・篠崎小竹(三島の養子)らの徂徠学も教えられ、歴史相対的見方や京坂文化の影響も受けた。(中略)
淡路洲本における稲田氏の尊王思想の形成と勤王運動への傾斜は、江戸の抱屋敷、大坂の稲田蔵屋敷、徳島城下の寺島屋敷、猪尻役所への転勤や交流により共有されていった。
 
また、
本藩も朝廷の勅命を受け、十四代藩主茂韶も文久三年には洲本を経て上京、永観堂に止宿し、天皇に拝顔、翌年には京師御護衛(南門や石薬師門の警衛)を命じられており、この時以降、稲田家臣も随従、絶えず人数を差し出していた。
 
このような風雲急を告げる時代に都で他国の “志士” と接し、天皇や公卿からも直接頼りにされたら、血気盛んな青年が突き進んだことは責められません。
 
以上を整理すると、稲田家には尊王として立つべき次のような理由があったといえるのではないでしょうか。

・ 稲田家側には蜂須賀家と 対等以上の家格 の自覚があった
 
・ 美馬、次に淡路で 天皇家のルーツにつながる伝承や祭礼 に触れて皇室の起源を身近に感じていた
 
・ 幕末の動乱期に徳島藩から独立した勢力として 朝廷から期待 されて 新政府軍に参加した
 
その上で、名誉と実利に関わる:
 
・ 武士としてみなされない卒族とされる 名誉の棄損 に、禄が減俸される 経済的な不利益 が重なることを受け入れられなかった
 
・ 名誉と収入がともに守られる条件のもと、新天地・北海道移住 を受け入れた
 
この小論の結論として、
稲田家は江戸時代を通じて主家を支え続けながらも、天皇家を身近に感じ続けたことで、維新で消えていく 封建制的 “武士の誇り” の象徴となったのです。
 
時代の転換期に、それぞれの縁によって敵味方に分かれたとしても、それは正義と不正というものではありません。
時代の転換期における、蜂須賀家、稲田家の双方は武士として純粋に、信じる道、選んだ道を迷わず進んだ志士として輝いています。
改めて彼らの生きざまを讃えたいと考えるものです。
 
(余談)につづく
 
***
 
*1 稲田家の知行地
 二代 稲田示植の頃の知行地は美馬郡の脇・猪尻・拝原・矢倉・重清・半田・岩倉、三好郡の加茂、板野郡の広島など、1万石弱。

*2 伊射奈美神社
阿波古事記研究会では高越山頂にイザナミの御陵があると推定しているのはご存知の通りです。
→ 阿波と古事記 「第21回 黄泉の国【1】 伊邪奈美命を葬る祠」
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_03.html
さらに awa-otoko さんが問題提起されています。気になります。
→ awa-otoko’s blog 「剣山に伊射奈美神社だと⁉︎」
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2018/09/02/214455
 

*3 織田氏の出自
織田氏は系図の上では平 資盛の子の(中略)子孫と称している。しかし(中略)真実はわからない。
越前国織田荘(福井県丹生郡越前町)の剣神社の神官の出自であるともされている。
 
 
また(中略)織田剣神社の古文書で、敦賀郡の豪族 藤原有仁(忌部氏?)の系統と思われる藤原信昌(中略)が越前 織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。
事実として織田信長は 「藤原信長」 と称しているが、その根拠はここから来て(中略)いる。
→ Wikipedia 織田氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/織田氏
 
 
*4 祓戸四神
「大祓詞」 において
①川の上流から罪を流す 瀬織津比賣
② 「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會」にいて呑み込む 速開都比賣
③ 気吹戸にいて根底国へ吹き送る 気吹戸主
④ 根國・底國で罪を消す 速佐須良比賣
という、リレーの2番目におられます。
オホゲツヒメのお姉さんでもあるのかな。
 

 
イザナギの禊によって、これらの神々のあと、最後に左眼から天照大御神、右眼から月読命、鼻から建速須佐之男命の三貴子が生まれます。
いろいろと謎のある セオリツヒメ については、ヤンズさんこと山水治夫さんの活動をご存知でしょうか。
これも、底知れないテーマです。

→ 瀬織津姫協会 https://seoritsuhime-kyokai.jimdofree.com/

 

 
この拙文を、庚午事変において、そして その後の苦難のうちに命を捧げられた、誇り高き両家の方々に捧げます。
 
***
 
淡路島は独立宣言をしていました。
 
 
2016年11月の建国ですが、知りませんでした。
島内を走る車はみんな、細く曲がった棚田のあぜ道を走る軽トラックも まだ 「神戸」 ナンバーですが。
 
兵庫と徳島のあいだの、淡路島。
でも私の知る範囲ですが、兵庫県民、徳島県人のどちらとも、淡路の人たちの気質は違うように感じます。
代表は、やはり 高田屋嘉平*1 でしょうか。
 
種類も多い農作物、そして恵まれた海の幸。
食料自給率は軽く100%を超える、豊かな島です。

独立後、通り過ぎていくだけの “外国人”から通行税を取るだけでもかなりの財源にもなるでしょう。
でも大胆なチャレンジをおそれない、そのDNAが生きる淡路がほんとうに独立国家になったなら、世界を股に掛ける貿易大国へと成長するだろうと思っています。
 
そんな淡路の人々の心に 今も小さな影を落とす、あの悲劇については、当事者の子孫の皆さんがおいでですし、研究されている方々もおられます。
部外者の私が話題にしてよいものかと迷いました。
でも、友人の植物学者・生嶋史郎さんのいる洲本に年に何度も訪れ、元気な若者が開くお祭りに何度か参加するうちに、淡路をとても身近に感じているのです。
 
古事記に描かれる 国生み のなかで、ここは物語の始まりの舞台。
 
 
→ 阿波古事記研究会 「阿波と古事記」 
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_01.html
 
そして、阿波と淡路の人々が一体となってこの国;日本をつくり上げたことを 阿波古事記研究会 で学んだ者として、この事件がくち惜しくてならないのです。
 
今年が150周年だと聞いて、改めて目を通したのは、生嶋さんからお借りしていた本。
 
『庚午事変』
昭和45 (1970) 年発行
庚午事変編集委員会・編集
徳島市中央公民館・発行
庚午事変100周年のときに出版されたもので、23人の執筆者がさまざまな角度から描く試み。
 
蜂須賀家を代表した蜂須賀年子さんの寄稿から、徳島藩からの無念が伝わってきます(後編に抄録)。
 
そして、『徳島県の歴史』
昭和48 (1973) 年発行
福井好行・著
山川出版社・刊
全国の 「県史」シリーズ の徳島版を、当時、徳島大学学藝学部教授の福井氏に依頼、多くの協力を得て “郷土4000年の歴史” を俯瞰された力作。
最大級の事件として庚午事変が取り上げられています。
 
 
そして平成27年5月に発刊された 『図説 阿淡稲田家小史』。
徳島県美馬市の脇町稲田会が25周年を記念して製作された立派な冊子です。
この会は脇町や丈六寺の稲田家歴代の墓所の修復や案内板の設置、稲田家と家臣の皆さんが開拓した北海道静内町との交流などに取り組んでこられた会です。
 
さらに、詳しく調べ上げられているサイトがありました。
『稲田騒動 (庚午事変)』
快左衛門さんという個人のサイトが阿波弁で詳しい解説をされていて、複数の説の紹介など勉強になりました。
添付されている [静内移住者]、[洲本の稲田家臣]、[阿波の稲田家臣]、そして [周参見沖遭難者] の名簿には思わず手を合わせます。
http://kaizaemon.com/inada/inada.html
 
そして惜しくも閉店した洲本の BOOKS成錦堂 さんが発売されていた資料。
『淡路島の歴史』
月間 『歴史手帖』 5巻7号とあります。

店主の湊さんの手作りコピー本で、神話・古墳時代から明治の自由民権運動のことが掲載されています。
昭和54(1979)年2月第一刷。
名著出版・刊
成錦堂・発売
名著出版は、歴史・民俗・宗教・考古・古文書・漢方などの専門書を、現在は“オンデマンド”で刊行するという東京の出版社です。

そして、たぶんこれも湊さんにお願いしてコピーしてもらったもの。
「阿波徳島のすべて」 となれば見逃せない、『歴史研究』
 
平成14(2002)年10月(第497)号。
合資会社歴研~歴史研究会 という団体の発行です。
研究者を含む、歴史愛好家の同人誌の雰囲気で、今も興味深い論文を集めておられます。
今年の3月号の特集は、大河ドラマにちなんで明智光秀。
http://www.rekishikan.com/
 
 
さて、まず事件の概要を Wikipdeia の記述から確認します (抄録):
 
庚午事変 (こうごじへん)
明治3(1870;かのえうま)年に当時の徳島藩 淡路洲本城下で 蜂須賀家臣の武士が家老 稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。
稲田騒動(いなだそうどう) とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる事件となり、淡路島は兵庫県に編入された。
 
徳島藩洲本城代家老 稲田家(1万4千石)は、戦国武将 稲田植元 を元祖とし、植元は 蜂須賀正勝 の義兄弟の契りを交わして織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府の際に植元が蜂須賀家の 「客分」 として入国した。
以降、稲田家は家臣としては破格の待遇を受けてきたが、(中略)主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化するにつれ対立を深めていくようになった。
 
明治維新後、(中略)徳島蜂須賀家の家臣は 士族 とされたが、陪臣の稲田家家臣は 卒族 (平民扱い) とされることに納得できず、士族編入を徳島藩に訴えかけた。叶わないとみるや、淡路を徳島藩から独立、稲田藩(淡路洲本藩)立藩 を目指すようになり、明治政府にも独立を働きかけていく。稲田家側は幕末時の活躍により、要求は認められると目論んでいた。(中略)
こうした行動に怒った徳島藩側の一部武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣の屋敷を襲撃。前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ち、脇町周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。(中略)
当時は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、(中略)日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島藩側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に藩主の嘆願により切腹)。これは日本法制史上、最後の切腹刑(死刑執行方法としての切腹は明治6年廃止)。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に及んだ。
知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、洲本を含む津名郡は翌明治4(1871)年5月に兵庫県に編入されている。
 
稲田家側には北海道 静内色丹島の配地を与える名目で、兵庫県管轄の 士族として移住開拓 を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立った。この静内移住開拓については船山 馨の小説 『お登勢』 や、映画 『北の零年』 でも描かれている。
→ Wikipedia 庚午事変https://ja.wikipedia.org/wiki/庚午事変
 
参考図書 『庚午事変』 には“庚午志士”の記念写真が。
 

幕末のドラマで活躍する志士といえばたいてい尊王派なのですが、ここでは稲田側を襲ったほうを “志士” と呼ぶ、徳島藩側の表現になっているようです。

今回、事件の前からあったという 「様々な確執」 について、阿波古事記研究の視点から見ることで、この悲劇の背景、特に稲田家側の立場に新たな光を当てることができるかもしれないと考えています。
それが互いへの寛恕の気持ちが少しでも起これば、と願いつつ。
 
事件の要素は5つ。
1)両家の家格
2)客分≒同僚?
3)阿波藩主

以上は一般に知られています。

そして、次の2点を加えたいと考えます::
4)聖地・美馬
5)聖地・淡路
 
1)~3)については Wikipediaでも触れられていますが、もう少し詳しくみていきましょう。
 
 
1)両家の家格
稲田氏のはじまりは尾張の野武士(『太閤記』) など諸説あるようですが、Wikipedia では 村上源氏の系統 とされています。
稲田植元(たねもと) の父・稲田貞祐は岩倉城主・織田信安の家臣、母は勝幡城主・織田信秀の家臣・前野彦四郎の娘で妻に織田信安の孫を迎えているという、織田家と深いつながりがありました。ところが別流で清州城の織田信長との内通が疑われて、切腹。幼い植元は父の朋友だった 蜂須賀正勝 に預けられたのでした。
その蜂須賀氏は由緒に諸説あって、不明。『武功夜話』 では、川並衆 という木曽川の水運を担っていた集団だったとされています(信憑性に疑義あり)。秀吉の出世物語には必ず出てきた “墨俣一夜城” 伝説の機動部隊ですね。
 
武者絵ではいかにも “野武士” の迫力満点。
 
 
「悪党」 と呼ばれることもあった土豪の蜂須賀に対して、臣籍降下の由緒をもつ(可能性のある)稲田。
家格では 「稲田が上」 だという空気が稲田家中にあったのかもしれません。
 

2)客分≒同僚?
19才も年下の稲田植元を “義兄弟” として、蜂須賀正勝は戦国時代を鬼才・秀吉のもとで活躍。のちに秀吉は蜂須賀に播磨の龍野 (5万3千石)、稲田に河内 (2万石)を与えようとしますが、植元は 「拙者は小六正勝と兄弟の契りを結び、ともに働かんと約せり」 と言って固辞したとされます。秀吉は感心して多くの引出物を与えてそれを許したと伝わっています。
四国攻めで活躍した蜂須賀に阿波が与えられ、天正13(1585)年に正勝の嫡男・家政が入ります。当時、阿波には多くの土豪、長曾我部に抵抗した三好の残党、百姓の一揆勢力などによって不穏な情勢でした。戦略的に重要な吉野川中流域におよそ1万石という大名クラスの知行地を与え、筆頭家老とした植元に宛てた正勝の書状に 「家政を宜しく」 と書かれていることから、植元は同格の 客分 だったともされます。
 
ちなみに、蜂須賀家政は朝鮮出兵に二度とも参戦するなど、武闘派として活躍しますが、秀吉の没後は石田三成に反発して徳川側に加わりました。みずからは大阪城に残り(病気として出兵せず)、息子の蜂須賀至鎮(よししげ)が稲田植元とともに東軍に加わります。こうして至鎮に阿波が安堵され、さらに、大阪夏の陣後に淡路が加増されたのでした。
→ サイト 『稲田騒動 (庚午事変)』
 
つまり 徳島藩は徳川政権下で慎重な藩政を強いられた “外様大名” だったのです。

以上が、伏線となる歴史的な両家の位置づけ。
そして、次のような藩主の実態が稲田家の家臣が独走しがちになる 決定的要因だったのでしょう。
 

3)徳島藩主
徳川時代の徳島藩では不安定な状況が続いたことが 『徳島県の歴史』 に記されています。
章の題も 「藩政ゆるむ」
「四代光隆のとき、政治を家老にゆだねたのがきっかけで権力が家老の手に移り、つづいて光隆の子綱通が幼少(11歳)で藩主となると、政治の実権は綱通を補佐した 重臣の手 に移った。さらに一族の子綱矩が六代藩主となると、政治のことはいよいよ手中に帰した。しかも七代宗員以降、八代宗英、九代宗鎮、十代至央のあいだは僅か19年で、いずれも幼少で位を継いだ。とくに宗員には後嗣がなく、一門ではあるが臣籍に下って家老職にあった宗英が八代藩主となった。しかし重臣たちからは軽く見られ、また後嗣がなかったので、続く宗鎮・至央とも讃岐 高松藩 からはいって 九代・十代藩主となった。ここに 蜂須賀の血統は絶えた。」
 
実権を握った “重臣” というのが稲田家なのかどうかわかりません。江戸や京都にも出張していた時期がありますから。いろいろな軋轢があったことは想像できます。
 
高松藩は松平家で、水戸徳川家 の分流です。
さらに:
「十代至央も藩主たることわずかに60余日で死んだので、奥州佐竹の分家で秋田二万石の四男重喜*2 がむかえられて十一代藩主と」 なります。17歳の彼は次々と改革を始めようとしますが、洪水や干ばつにも見舞われてとん挫、あげく幕府から32才のときに隠居を命じられてしまいます。
ただ、子だくさん(16男14女)で娘が鷹司家や中院家など京都の有力な公家にも嫁いでいます。これも庚午事変へとつながる伏線になったかもしれません。
 
十二代の蜂須賀斉昌も財政難で苦心。1830年、突然始まった 「おかげ参り」 が阿波で大流行し、およそ10万人が無秩序に伊勢参りに流れたというのも、「民衆の自己解放」(『徳島県の歴史』) だったとか。
 
そして幕末へ。
 
十三代藩主はまた養子ですが、蜂須賀斉裕(なりひろ)は十一代将軍・徳川家斉の二十二男で、十二代将軍・徳川家慶の異母弟、そして十三代将軍・徳川家定の叔父 にあたります。
しかし Wikipedia には 「勤皇にして佐幕」 「開国派にして攘夷論者」 の立場のあいまいさが、斉裕を “御内鬱” と記される精神状況に追い込み、精神的な鬱積を酒でまぎらわせ アルコール中毒症を患った」 と、幕末動乱期の藩主の大変さが偲ばれます。

そして庚午事変が起こった時の藩主は 蜂須賀茂韶 (もちあき)公。
慶応4(1868)年1月、父・斉裕が急死したのが 鳥羽・伏見の戦いの最中というタイミングで、藩内は大混乱。
戊辰戦争では新政府側で奥羽にも兵を送ったものの新式のイギリス軍備も使い切れず、諸藩の冷評を受けた、そうな・・・。
当時22歳。お察し申し上げます。
 
いっぽうの稲田家は勤皇まっしぐらです。
慶応4(1868)年1月に鳥羽伏見の戦いが起こると「朝廷から稲田の兵にお呼び出しあり、工藤剛太郎が出頭したところ、御一新の大変革により容易ならず形勢になるかも知れず、厳重兵備の勅命があった。同年正月8日、工藤剛太郎、西ノ宮表備前警衛の応援の勅命を、徳島表在住の稲田九朗兵衛へ伝達、早速人数を調整、同11日夜、洲本出帆、12日朝、西ノ宮着。出兵人数400人、三田昴馬が総括者である」(『阿淡稲田家小史』p.16)という迅速さ。ほとんど主力の一角を占めています。

「孝明天皇から天盃を賜り、勤王諸藩から一目おかれ蛤御門変のときも 『此処は稲田が守る』 と立札を立て存在を誇示した。日頃より武術を鍛錬し家臣も三千人といわれ、邦植は戊辰戦争の征東総督有栖川宮護衛を本藩を差しおいて命じられ、大いに奮戦し賞典の栄に浴した。」(『歴史研究』 岡本陽子「徳島藩と稲田騒動について」)

御所で守備をしたのは建春門(東正面の日之御門)ですね。ほかに摂津への出兵や高松藩の征討(仲裁に入って穏便に解決)など、徳島藩の許可も得ずに、もう独立した 稲田藩士 としての行動でしょう。

この話は、源氏や平家、頼朝と義経など、“日本一乃大天狗” 後白河帝に振り回された(という見方もできる)武士の悲哀をどこか思い起こされます。

(中)につづく
 
***
 
*1 高田屋嘉平
江戸後期の豪商、廻船業者。淡路国津名郡都志本村生まれ。
1500石積みの辰悦丸を所有し北海産物の交易に従事、1798(寛政10)年には箱館に支店を開設、幕命を受けて択捉島に渡り、大船通路の基礎を築くとともに漁場の開発に努めた。この功により1801(享和1)年に 「定雇船頭 (じょうやといせんどう)」 に任じられて幕府の蝦夷地直営に参画、官船製造や運営にあたった。直営廃止後も択捉、根室などの場所請負を行い、箱館に本店を移し、富を築いた。
ゴロウニン幽囚事件の報復として1812(文化9)年 国後沖でリコルド指揮下のロシア軍艦ディアナ号に捕らえられてカムチャツカに連行されたが、その剛胆で沈着な態度に感服したリコルドをしてゴロウニンらの釈放を求める決意を固めさせた。翌1813年国後島に送還された嘉兵衛の尽力により、同年9月、事件は円満に解決した。
晩年は弟金兵衛に跡目を継がせて郷里に退隠、自宅に没した。

→ 日本大百科全書「ニッポニカ」  (抄録)
 
*2 蜂須賀重喜
のちに(おそらく本人にとって意外な)話題となるのが、吉川英治による 『鳴門秘帖』 という長編小説が1926年から大阪毎日新聞に連載され、その後幾度も映画やテレビドラマになったこと。
 
*Kindle版で手軽に読めます。
 
Wikipediaによると:
謎に囲まれた阿波に潜入しようとする青年隠密と、それを阻もうとする阿波藩士の戦いに、青年隠密を恋い慕う女性の恋情を組み入れたものである。
中里介山 『大菩薩峠』、白井喬二 『富士に立つ影』 と並ぶ、大衆文学を開拓した作品で、伝奇小説黎明期の傑作である。
史実である宝暦事件(竹内式部一件とも) の背景を描いたものだそうです。
あらすじ:
江戸時代中期、幕府打倒の陰謀が発覚した。幕府は、黒幕を阿波の徳島藩主たる蜂須賀重喜とにらみ、甲賀の隠密 世阿弥を潜伏させる。しかしそれから10年、阿波は鎖国し、世阿弥は行方が知れず、その仲間の中には真実を知るために阿波潜入を試みる者たちがいた。虚無僧姿に身を包む隠密 法月弦之丞もその一人である。世阿弥の娘であるお千絵は弦之丞に想いを寄せるが、弦之丞は隠密である関係上、その願いはかなわない。見返りお綱はスリによって、意図せず俵一八郎の阿波潜入の計画を挫いてしまう。彼の意思を継いだ法月弦之丞だが、その行く手を阿波藩士らが阻もうとする。
天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬らは、弦之丞を亡き者としようとし、江戸からつき狙う。反省し、スリをやめた見返りお綱は、目明かしの万吉と共に江戸から法月弦之丞を追うが…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%96%80%E7%A7%98%E5%B8%96
 
おもしろそう! NHKのオンデマンドでTV版を観ることができます。

余談の余談ながら、はじめにご紹介した 『歴史研究』(第497号) に、まだ無名の 吉川英治 大阪毎日新聞 に原稿を持ち込んだときの様子が紹介されていました。
紹介もなく訪れた吉川英治に学芸部長が “なんとなく” 面会を許して、「吉川さんの白い、涼しげな顔を見て、しっかりと抱えているフロシキ包が気になり、『小説か。まあ拝見しようか』 と言って先生 (阿部学芸部長) は6,7枚ペラペラとめくると驚愕されたそうである。『巧い』 『いける』 つぶやかれた先生は吉川さんを何度も見つめ、独断で約束された」 のだそうです。
連載は大人気となり、毎月5万部ほども部数を伸ばしたのだとか。もちろん吉川英治は人気作家になって、報知新聞から 『江戸三国志』、毎日新聞は 『宮本武蔵』 と、“新聞小説戦争”を巻き起こす、その始まりだったというわけ。
小さな最初の一歩、感動的です。
『歴史研究』  横山高治 「名作 『鳴門秘手帖』 の“秘話”」
 
 
 

事任神社に別れを告げて、粟ヶ岳 めざして北へ。

すぐに、ぐいぐい標高が上がっていきます。

 

なかなかスリルのある茶畑のあいだの山道を登って、ふと後ろ、東のほうを見ると・・・

 

 

すでに冠雪している、富士山が望めます。

 

広い駐車場に着くと、こんな感じ・・・

 

 

放送塔が林立していて、ちょっとヤな感じ。

でも、昭和29年に開局した東京大阪間の電波の中継所だと知れば、文句は言えません。
その 「粟ヶ岳無線中継所」 建設のためにここまでの車道も整備され、車で参拝できるようになったのですから。
*参照:東山茶業組合のサイト

http://www.higashiyama-tea.com/

 

高速道路から見えた “茶” の字の山がまさに粟ヶ岳だったとわかりました。

 

 

Wikipedia の記事をみましょう。

 

阿波々神社(あわわじんじゃ、Awawa Jinja)
静岡県掛川市初馬にある神社。粟ヶ岳の山頂付近に鎮座する。
 
祭神として 阿波比売命 を祀り、736年に創建された。
阿波々神社の境内には、素戔嗚命と櫛稲田姫を祀った八重垣神社も併設されている。
周辺は照葉樹林に覆われており、この林は 「阿波々神社の社叢」 として掛川市が文化財に指定し、天然記念物として保護している。
また、この森の中では大きな岩が散見されるが、それらは磐座として祀られていた。
 
736年の創建以来、延喜式内社に列せられ崇敬を集め、掛川城城主の保護を受けてきた。しかし、戦国時代に社殿が焼失してからは、明治年間にいたるまで神社の整備は停滞した。
明治に入ると郷社に列せられ、1884年に本殿や拝殿が改築するなど復興が進んだ。太平洋戦争による停滞を挟み、1987年に本殿を山頂に遷座するなど、整備が進められている。
 
伝承
遠州七不思議のひとつにも挙げられる 「粟ヶ岳の無間の鐘」 の伝承では、鐘を井戸に投げ込んだと伝えられているが、その井戸が境内に残されている。
 
→Wikipedia 阿波々神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E3%80%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

 

神社の森は 「林野庁より航行目標の為の保安林」 だといいます。

それはずっと、ず~っとそうだったのでしょうね。

 

境内は駐車場から少し坂を登ればすぐです。

この山中にしては立派な社殿。

 

 

手書きの、分かりやすい見取り図です。

 

 

お参りしていると、宮司さんか管理人さんらしき方が来られて、社務所を開けてくださいました。

が、由緒書を頂戴しただけで、失礼しました。

 

さすが天日鷲の一族(?)、鳥にまつわる、こんなかわいい絵馬もありましたが。

 

 

社殿の横に、さりげなく 「無間井」。

鐘は入らなさそうですが・・・

 

 

山頂近くで水が湧いたのでしょうか。

例の破砕帯という、地下水が押し上げられる構造になっているのかもしれません。

『スピ散歩』 によれば 「潮の干満により高く湧き出て龍が立ち上がる」ように見えたという伝承もあるそうです。

 

この山裾全体にお茶畑が広がっているのも、そんな水脈の恩恵を受けているのでしょうか。

 

さらに小さなお社が3社。

 

 
神社のサイトによれば、八重垣神社(素戔鳴命と櫛稲田姫)、白羽神社(しろわじんじゃ;白羽大神)、そして 八王子神社 だそうです。
 
白羽神社?
静岡の御前崎にある 白羽神社 のご祭神をチェックすると、次の三柱です :

天津日高日子穂々手見命

豊玉毘賣命

玉依毘賣命

 

なるほど~

さらに、社伝では 「式内 服織田神社これなり」 だそうです。

で、式内服織田神肚を調べてみると・・・

『神社と古事記』 という、とても充実したサイトに、おお!という記述がありました。 
 
服織田神社(はとりだじんじゃ)
静岡県牧之原市静波にある神社。
 『延喜式神名帳』 にある 「服織田神社(遠江国・蓁原郡)」 に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によれば、第12代景行天皇7年に勧請して、奉斎された。御祭神は、麻立比古命・天八千千比売命(天棚機姫神・棚機姫命)。
「服織田」 の社号の由来は、鎮座地が往古、服織田村と称した地名に由来、四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神、御祭神が服織の神など諸説ある。
四国の服織については、阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社) がある。当社御祭神との関連が指摘される場合がある。
往古は服織田村と呼ばれたが、江戸時代中期の宝暦8(1757)年の検地帳に、柏原町と改められたと記載されている。 
 
→服織田神社 静岡県牧之原市静波 
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1065417620.html

 

御前崎から牧之原市は、粟ヶ岳から見下ろす海岸線です。

阿波から海路東へ向かった人々は、粟ヶ岳を目印にこのあたりに上陸したのでしょう。

 
阿波から遠州、伊豆から安房へとつながっていくダイナミックな歴史。
ぐーたら先輩の書かれた大作の最後の一篇だけでも読まれれば 「へえ~っ」 とそのスケールを感じられるでしょう。

→ 「まとめ:大宜都比売命の裔(15)END」
http://goutara.blogspot.com/2017/01/15end.html
 
個人としてのヒメの比定は先輩にお任せして、記事中の次のひと言だけでもいいと思います。
 
「このようにして 『阿波咩命』 こと 『大宜都比売命』 は名を変えても、あるいは名を忘れられても、事代主命の本后 として全国で祀られているのです。」
 
まさに、国生み神話の領域を超えて、全国に。
それが可能なのも、次の事実で納得いただけるでしょう。
 
「ただし、何度も書いたように 『事代主命』 は一人ではありませんので『ある時期』 の事代主命の本后としてだということに注意願います。」
 
いろいろな話が混入してしまった 八王子神社 はちょっと手ごわいので、またの機会に。

スサノオの御子神という説が主流、とだけ。

 

 

さて気になる磐座群・・・

 

 

巨石がそそり立っています。

 

人為的に配置されたものなのでしょうか。

木の根が張ったりして、崩れているそうですが。

 

 

鳥居が設置されている磐座も。

古代の祭祀場とされています。

 

 

ピラミッド型になっています。

 

 

周囲の木や、石の表面のコケなどが生えていなければ、日光を反射して海上からも目印になった石かもしれません。

 

『スピ散歩』 ではダイナミックな表現がされるエネルギーがほとばしる、とされる聖地。

 

ここに導かれたことに感謝したことです。

 

お天気に恵まれた日に事任神社へ行かれたなら、ぜひ姉妹神を祀るとされる阿波々神社へも足を延ばされることをお勧めします。

ふもとから1時間ほどの参道があるようですし。

 

 


小さな丘全体が御神域のような神社。
そこここに境内摂社があります。

大国主命とは別に、大物主神を祀るお社。
小さいながら手入れされています。

イメージ 5

五輪塔ではなく、クジラ山のみたま石

イメージ 6

カワサキ機工という製茶機械のメーカーが作っておられるサイトに由来が紹介されていました。
事任八幡宮の山づたいにある標高150-200mほどの2つの小山が雄鯨山雌鯨山と呼ばれていて、それらにまつわる伝承が大正時代にまとめられた郷土誌 『日坂郷土誌稿』 にあるとのこと。

短いもの(でもおもしろいの)で、原文を転載させていただきます (改行・赤字編者)。
雄鯨山由来記写
そもそも、くじら山は、日坂駅のほとり南にありて宮村といふ。人皇三十七代 孝徳帝 の御宇とかや。嫁石権現となんいへる有り、御姫宮 おはしましき。
或時、権現、八幡宮 を囲碁に誘ひ給ふとき、竜宮 より雄くじら雌くじらをして、彼の姫宮を押て貰はんことをいいおくられけり。その時権現、姫をいとおしみ給ふて、北の方なる大沢といへる処に姫を置かせられぬ。されば七日がほど暗夜のごとくなりしとなん。
八幡宮 碁石をもって、彼の鯨をうち殺し給ふ。そこをくらみ村といふ。是こそ鯨五百間にあまりしと、一念こりて死て巌石となり、今、連理の山これなり。うち付け給う石、頂に残りて今もまま見あたりぬ。(以下略)

そして使者のくじらが殺された竜神は怒って村人たちをのみ込んで帰さなくなったといいます。そこで八幡宮の神がつくったのが塩水が湧き出る井戸「シホ井」で、現在、近くの(クジラたちが遡ってきたという)逆川の下流沿いに塩井神社があります。

民話としても紹介されています:
子どもに伝えたい遠州の民話(4)
雄鯨山・雌鯨山(おくじらやま・めくじらやま) -掛川市日坂-
→静岡新聞 http://www.vivere.jp/education/2017/01/--.html

民話では囲碁をしたのは八幡宮と竜王で、娘は八幡宮の娘とされていますが、『由来記写』 では権現と八幡宮が囲碁をしていて、竜王が権現の娘を求めてきたのを八幡宮がクジラたちを殺して権現の姫を守った話。
八幡信仰以前に由来があったとすれば、土地の豪族と渡ってきた海の民との争いがあった痕跡かもしれませんね。

気になるのは孝徳帝の御代という点。軽皇子という意味深な名で呼ばれていた方です。
姉の 皇極帝 のとき、甥の中大兄皇子と 中臣鎌足 による蘇我入鹿打倒(乙巳の変/大化の改新;645年) の翌日、6月14日に史上初の譲位によってご即位。
ところが8年後、姉は中大兄皇子らと孝徳天皇とは別に倭飛鳥河辺行宮に遷り、その翌年に難波長柄豊碕宮でひとり寂しく崩御されています。すると姉が再登板して史上初の重祚(斉明帝)、実権は皇太子の中大兄皇子&鎌足が執るという、実に怪しい展開。
諡号に“徳”の字が贈られていることからも、不本意なご最期を送られたのでしょう。
嫁石の姫の伝承は、中臣一族による家系詐称の話に関係するのかもしれません。
手がかりの 「嫁石(よめいし)」 という名は高知市の北の山中にある地名ですが、詳細は不明です。


本殿の裏山は禁足地にされています。
その手前のご神木がた。
すてきな鎮守の森です。

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根がすごい。
社務所で宮司さんとお母様にお話をうかがいましたが、やはり昨年の台風で大きな被害を受けられたとか。
ご苦労だったことでしょう。

遷される前の元宮へは、歩道橋で国道を越えていきます。
近年、“縁結び”で知られるようになったためか、女子の参拝客が多く見受けられました。

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社務所でいただいた立派なパンフレット。

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表紙をめくると、はっきり主祭神・己等乃麻知比売命忌部の女神 だと書かれています。

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ちゃんと の字が使われていますね。

中心部を追われて阿波や安房で祀られるようになった、という表現には若干異議がありますが、まあ。
中臣連の祖天児屋命 の母が 忌部の神 というのは、どういうことになるのでしょう。

この血脈については私の手には余りそうです。
諸先輩にお願いしましょう。


改めて、地図を確認。

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本宮はすぐ近いようです。
駐車場にあったカフェでコーヒー一杯飲んでから向かうことにします。

表にはパワーストーンの出店、そして“占い館”ののぼりと、私を誘惑します。

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店内に占い専用コーナーがあります。
女性が受けておられたので、次を予約しようかな…。

セミナーもされているようで、店内にはいろいろなパワーグッズが展示されています。

窓際の席で、頼んだコーヒーを待つ間、並んでいた本のなかに、派手な表紙の漫画を見つけてパラパラ・・・

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『スピ☆散歩 ぶらりパワスポ霊感旅』

全国の寺社や聖地などを、“視えちゃう漫画家” が編集者と一緒に巡るという企画もの。
伊藤三巳華さんという、2000年に講談社からデビュー、2004年からホラー漫画家として知られるようになったという方。

おもしろい、と美味しいコーヒーを飲みながらつい読み始めました。
そのシリーズ 第⑥巻 に、載っています、事任神社。
蛇神さま、登場~

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面白い。
本宮の奥には磐座があるようですが、そこへたどり着くのは難しいことなども分かりました。
で、ここから北へ行った山の頂上にある 「阿波々神社」 へ、彼女たちも向かい・・・

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そこで境内の磐座で猛烈なパワーと出会った、と・・・。

スマホで Wikipedia を引くと、「祭神として 阿波比売命 を祀り、736年に創建」で、さっきの粟ヶ岳にあるのだと。
む、む・・・。

この日のうちに帰る予定なので、先を急ぐべきなのですが、ここでこの本に出合ったのもお導きか。
当ブログは基本的に “スピ系” の話題には触れないようにしていますが、ここは例外としていただきましょう。
行かねば。
占いも、またの機会に。


奥宮の位置にある阿波々神社へ行けば、一宮の事任神社*1のことも、もっとはっきり分かるかもしれません。
ということで事任神社の本宮は失礼して、車に乗り込んだのでした。

(「阿波々神社」へ続く)

***

*1 遠江国一宮
事任八幡宮とは別にもう一つ、一之宮を名乗る神社がある。
写真で見る限り、規模はこちらが大きいようだ。

小國神社 おくにじんじゃ/おぐにじんじゃ、小国神社)

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静岡県周智郡森町一宮にある神社。式内社、遠江国一宮。
旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は 「右三つ巴」。
本宮山の南側の山麓に鎮座する。
社名の 「小国」 は、出雲の「大国」に対する遠江の美称 とする。

創建時期は不明だが、社伝によれば、欽明天皇16(555)年?2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる。
なお、このときに正一位の神階が授けられたと社伝にはあるが、国史での当社の初見である 『続日本後紀』 承和7(840)年条では 「遠江国周智郡の無位の小国天神(中略)に従五位下を授け奉る」 と記されている。
六国史終了時の神階は従四位上である。
『延喜式神名帳』では小社に列している。

西北西に20km ほど。
少し離れたところに本宮山があり、境内に塩井神社、願い事がかなう事待(ことまち)池があるなど、ずいぶん事任神社を意識したような (あるいはその逆の) 伝承がある。
こちらのご祭神は 大己貴(おおなむち)命

やはり、大国主が登場。

小国が美称とは奇妙で、本来は 「大國神社」 だったのを小さくさせられたのではないだろうか。
このあたりは出雲市の領国だったのだから。

遠淡海国造(とおつおうみのくにみやつこ・とおつおうみこくぞう)
遠江国西部を支配した国造。遠江国造とも。
『古事記』によると 建比良鳥命。別名は武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命など。
天穂日命の子。
出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。ただし『国造本紀』には物部氏の祖である 伊香色雄命 の子の印岐美命が成務朝に遠淡海国造に任じられたとある。
出雲氏または物部氏

阿波につながっていく系譜。
これからも調べなくてはならないようだ。


三嶋大社にご挨拶を済ませて、次の目的地へ広い静岡県を、東から西へ。
“世界の女神研究家”で、阿波忌部のことも調べている友人がいて、彼女に勧められていた神社、事任神社 が目当てです。
「ことのまま」 と読みます。

近くに 粟ケ岳 だなんて、気になる名前の山もあるような、日坂宿(にっさかしゅく)。

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東海道五十三次25番目の宿場。
なかなかの難所だったようです。

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さきほどの看板の“子育飴”が気になった人は コチラ
Wikipedia 夜泣き石 (小夜の中山)

長い坂から開けた平野の北端に、鎮座。
八幡宮になっています。

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鳥居をくぐると、巨大なご神木に護られるように、社殿。

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Wikipedia によると: 
創建時期は定かではないが、社伝では 成務天皇 の治世としている。
古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』 には 「己等乃麻知神社」 と記載されている。

大同2(807)年、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇 の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられる。
平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5(1062)年、源 頼義 が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂(にっさか)八幡宮や八幡神社とも称されるようになった。 

東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」 の名が 「願い事が意のままに叶う」 の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。
また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の 「枕草子」 や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の 「東海道中膝栗毛」 などに 「願い事が叶う神社」 として登場している。
明治以降は県社に列し、単に八幡神社と称した。
第二次大戦後に「ことのまま」の名を復活させ、事任八幡宮とした。 
→ Wikipedia 事任八幡宮

ことのまま~というお名前が、実にユニーク。
その治世で成立したという 成務天皇 を見ておきましょう。

(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、日本の 第13代 天皇。
4世紀中ごろに在位したと推定されるが、実在したかどうかについては不詳である。

『日本書紀』 によれば景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。
3年に 武内宿禰 を大臣とした。
即位5年9月、諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備 を図った。
ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。
これらは 『古事記』 にも大同小異で、「建内宿禰 を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」 とある。
序文には崇神天皇の祭祀、仁徳天皇の善政、允恭天皇の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。
『先代旧事本紀』 の 「国造本紀」 に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
即位48年、3月1日に兄・日本武尊 の第二子である甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立てた。即位60年6月に崩御。

ヤマトタケルの異母弟なのですね。
実在不詳どころか、国家の土台づくりに大きな役割を果たされた天皇のようです。

境内の御由緒には、そのことには触れられていません。
積極的には出さないほうがよい、と判断されたのでしょう。

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主祭神
己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)
興台産霊神 の妻神で、天児屋命の母

天児屋命といえば、岩戸隠れのときに祝詞を唱えて、「天照大御神が岩戸を少し開いたときに 布刀玉命 とともに鏡を差し出した」とされ、のちに 「天孫降臨の際 邇邇芸命 に随伴し、中臣連の祖 となった」 (Wikipedia) とされる、バリバリの天孫系のはずのコヤネ様のお母さまが、なぜここに祀られているのでしょう・・・。

そもそも、興台産霊神 って?
「居々登魂命」 とも書く、コゴトムスビノミコト

記紀に登場されない神で、ほとんど情報がありません。
その子供とされる天児屋命は:
津速産霊命 の御子 神興台産霊命 の御子神で、天美津玉照比売命を娶って、天押雲命、天御桙命、天表春命、天下春命をもうける。
とあります。
天児屋命と言えば、 中臣連の祖神 にして藤原氏の氏神。


ちなみに 天児屋命の祖父にあたる、津速産霊(つはやむすび)は、津速霊大神 として 滋賀県東近江市 岩船神社(いわふねじんじゃ) に祀られていて、次の興味深い伝承が紹介されています:

比良大神 (白髭明神) の渡航を先導した神とされる (『記紀』には登場しない)
 → 文献によっては タカミムスビ の次に生まれた神とされる(『古語拾遺』)
 → アメノコヤネの祖父神 という説がある
 → 『ホツマツタヱ』 では、アメノコヤネの曽祖父 に当たる

岩船神社の辺りは100基以上の古墳が集中している猪子山古墳群。
ツハヤとは、天孫系の出自にしては、海の民らしいお名前ですね。
この辺りの神社を歩くと、いずれまた関わってこられるでしょう。


社務所の横に立派な お神輿が展示されていました。
担がれる人材は、まだおられるのかな。

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拝殿越しに、ご挨拶。


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配神3柱合わせて八幡大神 と総称。
・息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
・誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇)
玉依比売命 (たまよりひめのみこと)

やはり海の民の香りがプンプンですね。

八幡神の三つ巴とともに、初めて見る社紋。イメージ 11
「亀甲に卜象」という、お隣りの三河国一宮砥鹿(とが)神社と同じもの。
そちらに一時疎開していたから、という説明ですが、まさか。

大己貴命を本社に、事代主命と建御名方命を摂社に祀る、古社です。
伝承によれば 「大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」 とされたとある」そうです。
→ 砥鹿神社公式サイト https://www.togajinja.or.jp/satomiya_rekishi.html

出雲大社の神紋と同じ亀甲紋の意味を、より明確に表しています。
亀卜*1をおこなう一族との関係がわかりますね。

本殿に千木や鰹木は乗っていません。

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けれどスッキリした、いい感じのお社です。

社殿の壁には大海原を越えてきたぜ~!という感じの彫り物。

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本殿横に、摂社。

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お。東照大権現、家康さま。
ちょうどこの辺りは、お生まれの 岡崎 と人質として暮らして後に没した 駿府 の中間です。

それにしても、どうもスムーズにつながらないこの神々は、いくつかの神社が合祀されたものではないでしょうか。
天照大神と東照大権現を別格として除いても、珍しい組み合わせです。

八意思兼神とは思金神(紀では思兼神)。
以下、Wikipedia の稿から主な部分を抜粋します。

『古事記』 では思金神、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)、『日本書紀』 で思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、八意思金神と表記。
高御産巣日神の子 であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄。
最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。
国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後、天孫降臨で 邇邇芸命に随伴 した。
(八意)思金神の「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられる。
系譜
高御産巣日神の子で、妹に万幡豊秋津師比売命がいる。
子に天表春命、天下春命
戸隠神社、阿智神社などで祀られる。

おや。さきほど天児屋命がもうけたという子に 天表春命、天下春命 がおられました。
とすると、思金神=天児屋命?

そして カグツチ
記紀神話における火の神。
『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。
また『日本書紀』では、軻遇突智
(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

イザナギ イザナミ との子。
火の神であったために出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣 「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。 

『古事記』によれば、カグツチの血から、以下の神々が生まれた。
石折神
(いはさくのかみ)/根折神(ねさくのかみ)/石筒之男神(いはつつのをのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
甕速日神(みかはやひのかみ)/樋速日神(ひはやひのかみ)建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)別名は、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
闇淤加美神
(くらおかみのかみ)/闇御津羽神(くらみつはのかみ)
以上二柱の神は、十拳剣の柄からの血より生成された神々である。
また、カグツチの死体から、以下の神々が生まれた。
正鹿山津見神(
まさかやまつみのかみ;頭から)/淤縢山津見神(おどやまつみのかみ;胸から)/奥山津見神(おくやまつみのかみ;腹から)/闇山津見神(くらやまつみのかみ;性器から)/志藝山津見神(しぎやまつみのかみ;左手から)/羽山津見神(はやまつみのかみ;右手から)/原山津見神(はらやまつみのかみ;左足から)/戸山津見神(とやまつみのかみ;右足)

ヤマツミ兄弟・・・大山津見神/大山祇神のご先祖のような一族ですねえ。
こんな2柱に挟まれる、大国主
・・・なにか深い意味がありそうです。

***

*1 亀卜(きぼく)
カメの甲羅を使う卜占の一種。カメの甲羅に熱を加えて、生じたヒビの形状を観て占う。
占いに使う亀の甲羅は、腹甲を乾燥させ薄く加工したものを用いる。甲羅に溝や穴を開けた部分に燃やした箒(サクラなどの木片)を押し付け、ヒビが入った状態から吉凶や方角を占う。甲羅を直接加熱することはない。
起源は、古代中国。の時代に盛んに行われていた。
日本には奈良時代に伝来。宮中関連の卜占は、それまでに行われていたニホンジカの肩甲骨を使った太占からに亀卜へと代わった。
当時の支配層は、対馬国、壱岐国、伊豆国 の卜部を神祇官の管轄下に組織し、亀卜の実施と技術の伝承を行なわせた。
卜部の技は、秘事かつ口伝であったため、材料(カメの種類や甲羅の部位など)や技術に係る未解明な部分も多い。
亀卜は、21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われている。宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角(悠紀と主基の国)を決定する際に用いられる。2019年(令和元年)5月13日に皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。

(つづく)




祇園の八坂神社の前を南に下ってすぐ。
鳥居のすぐ前に信号があるのですが、高台寺などからの帰りの歩行者で横断歩道はいつも混雑していて、しかも入ろうにも逆向き一方通行にしか見えない狭い通り。これまでずっと素通りしてきたところです。
そこを車で強引に突っ込むと、すぐに鳥居を車ごとくぐって参道左右の駐車場に入るという変則ルート。

その鳥居にここまで書かれると、ちょっと入りにくいような・・・

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ところが近年、若い人たちが殺到している“パワースポット”なのだそうな。
初詣には少し遅い1月中旬、近くに用があって少しの時間に立ち寄ってみました。

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まずは Wikipedia から:

安井金比羅宮
京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70

主祭神:崇徳天皇大物主神、源 頼政
社格等:郷社
創建:元禄8(1695)年
別名:光明院観勝寺 

安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は、京都府京都市東山区にある神社である。通称「安井のこんぴらさん」のほか、「縁切り神社」の別称で知られる。

歴史
藤・山吹の名勝の地であり、天智天皇の治世に 藤原鎌足 が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した。
崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸 した。

崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。

治承元(1177)年、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275年 – 1277年)に光明院観勝寺が建立されたのが当社の起こりとされる。
光明院観勝寺は応仁の乱の戦禍で荒廃したが、明応6(1497)年に住持の幸盛が御影堂(現在の崇徳天皇御廟)を再興し、崇徳上皇を慰霊した。
ー中略ー
『都名所図会』巻之三「安井光明院観勝寺」によれば、真言宗の僧侶の大円法師が参籠した際に崇徳上皇の尊霊が現れて往時の趣を示したので、後白河法皇に奏達したところ、詔が下って崇徳上皇の尊霊の鎮魂のために堂塔を建立して、仏堂に 准胝観音 を本尊として祀った。
奥の社には崇徳天皇を祀るとともに、金毘羅権現・源三位頼政を合祀し、安井の金毘羅と称したとあり、「崇徳帝・金毘羅は一体 にして和光の塵は同じうして擁護の明眸を…利生霊験いちじるし」 と記されている。

源 頼政が合祀されたのは、蓮華光院(安井門跡)の初代が道尊僧正が、平氏政権打倒のため頼政に補佐されて挙兵した高倉宮以仁王の遺児であったためと考えられている。
明治維新の神仏分離(神仏判然令)により、蓮華光院(安井門跡)は廃され、安井神社に改組された。併せて祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。明治6(1873)年には村社に列し、更には明治15(1882)年に郷社へ昇格した。
第二次世界大戦後、「安井金比羅宮」の名称となり現在に至る。

→Wikipedia 安井金比羅宮


藤の季節には愛でられたでしょうが、要は阿波内侍と会うための場所だったのですね。
でも、なぜ御所に招かずに、こんなところに?
① が金比羅さん。
平安京の火葬地、鳥辺野「六道の辻」の六波羅蜜寺のすぐ近くです。

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建仁寺は鎌倉時代初期の禅寺ですから、阿波内侍の頃はまだなかったはず。

金比羅;大物主が祀られるのは、近くの 恵美須神社 に関係するかもしれません。

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京都ゑびす神社は土御門天皇の世、建仁2(1202)年に栄西が建仁寺の鎮守として最初に建てたものだとされています。

が、鎮守にエビスさまというのは珍しい。
花街・宮川町のサインが “三ツ輪” であるように、大物主を祀る大三輪系の神社がもともとあったのではないでしょうか。

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すでに5時近く、暗くなり始めているのに、行列ができています。
行列の先頭は、社務所の前に・・・!

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なんだこりゃ~?と見ていると、下の穴から、貞子・・・!

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“縁切り” の作法のようです。

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近くに、札になにやら書き込むための机が用意されています。

京のご利益(りやく)さん」というサイトに、分かりやすく紹介されていました:

平安末期、保元の乱で敗れて四国に流され、亡くなる前の6年間あらゆるものを断って国家安泰を願われた崇徳天皇にちなんで建てられました。崇徳天皇の強い意志の力を借りて、お酒やたばこから男女の悪縁まで どんな断ちものも引き受けてくれるというわけです。

もともと断ちものの祈願というのは、ものを断つかわりに願いを叶えてもらうものです。つまり、縁切りと縁結びは表裏一体。だから、悪縁を絶つだけでなく、縁結びの祈願にもご利益があります。悪縁を絶って幸せになりたいという思い、早く良縁を見つけたいという願い・・・ そのどちらもかなえてくれる縁切り縁結びの碑は、願い事を書いたお札で覆われて原形がわからないほどです。
つ」(たつ)と「(あわせる)の印が押されたお札を持って、石の真ん中の丸い穴を表からくぐると縁が切れ、裏からくぐると縁が結ばれるという。悪縁断ちの祈願に訪れたなら、表からも裏からもくぐって、良縁にも恵まれるようお祈りしてみましょう。
http://5ri89.com/ryoen/yasui-konpiragu.html

それで若い女子が列をなしているわけです。


縁切りの用はないので、本殿にご挨拶。
崇徳院、大物主、源 頼政公 、どの方が中央なのでしょうね。

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でも、阿波内侍が祀られているわけでもないとすれば、どういうことでしょう。

阿波内侍は 『平家物語』 に登場する女性。

「すべてを失って帰洛した建礼門院の暮らしをかろうじて世話し援助したのは、女院の妹である藤原隆房の北の方と藤原信隆の北の方であった。ところが七月九日、いかにも心細い出家生活を大地震が襲いかかった。住む家さえ不自由となり、女院は都から離れた人目につかない山奥でひっそり余生を送りたいと願う。すると、仕えていた女房が大原に寂光院というところがあると勧めたという。この女房は、最後まで女院に付き従って忠節を尽くした 阿波内侍 であったろうか。
阿波内侍について、語り本系の 『平家物語』 は少納言入道 信西 (藤原通憲;みちのり) の娘 であるとするのに対し、読み本系の 『平家物語』 は 信西の子貞憲 (さだのり) の娘 とする。角田文衛 (つのだぶんえい) 氏は 『平家後抄』 で、阿波内侍は読み本系が記す貞憲の娘とするのが適当であり、父貞憲が出家して襖障子に哀れなことを書き連ねていたあの大原の坊こそが、建礼門院の住んだ寂光院の庵室であるとみている。阿波内侍が信西の孫であるとしても、信西は保元の乱で後白河天皇方の総帥として勝利をおさめ、乱後の論功行賞で平清盛を厚遇し、子の成範 (しげのり) と清盛の娘を婚約させるというように 清盛一家と親密な関係 にあり、建礼門院と阿波内侍は深い縁で結ばれていたのである。」
「王朝の悲しみに彩られた尼寺」 坂井輝久・日本文化研究会代表 p.95-96
『寂光院』(淡交社・刊 古寺巡礼㊳)

大原の三千院近くの大原陵を訪ねたときに、阿波内侍のことを少し書きました。
→ 後鳥羽帝と順徳帝の大原陵 (後)
https://blogs.yahoo.co.jp/matsushima_toru/37683053.html

ここでつながってきたか~

先日、市場町でのお話会で阿波内侍のことに少し触れたところ、三浦先生から「美馬の願勝寺だね」と教えていただきました。

「新四国曼荼羅霊場会」の第68番とのことで、同会のサイトから転載させていただきます:
願勝寺
●本尊/阿弥陀如来
●開山/忌部五十麿
●中興/了海上人・阿波内侍
●創建/奈良時代
●所在地/〒771-21 徳島県美馬市美馬町願勝寺8

【略縁起】
歴史は古く奈良時代にさかのぼり,はじめ維摩寺、のち福明寺と称し、平安時代の後期、保元の乱の後、崇徳上皇皇紀 阿波内侍 の願により願勝寺と改める。
守護小笠原長房の祈願所、細川氏の祈願寺など歴代国主の尊崇をうけ蜂須賀氏入国の節には方八町御免池、郡中出家取締となる。
十六代住職真上人は南朝方に味方して暗殺され、二十五代快上人は阿波の法茸騒動の時反対運動の先頭に立ち、三千人の山伏を動員してその野望を押え、幕末には四十四代美馬君田が勤皇の志士として活躍し、その功により正五位を贈られるなど積極的にその時代に生きた住職もあり、現住職で四十九代目になる。
(後略)
http://mandala88.com/88/60/68/68.htm

どういうつながりかと思えば・・・、そうでした!
ぐーたら先輩の、おそるべき記事があったのでした。
一度や二度読んだだけではわけがわかりませんでしたが…。

→ 麻植の系譜:願勝寺編(1)
http://goutara.blogspot.com/2017/10/blog-post.html

いやいや、すごい。
どうすごいかは、直接お読みください。
阿波内侍については、特に (5) に詳しく書かれています。
そうだったのか~、です。

土御門帝が京におられたときには、すでにこの消息をご存じだったでしょう。
そして阿波に入られて、実際に阿波内侍につながりのある人々と接触があったとしても不思議ではありません。
皇子がここ (当時は蓮華光院) に住持として入られ (道円法親王;1224-1281;西院宮、安井宮)、門跡寺院とされた背景に、それが想像できます。

さらには、践祚大嘗祭で重要なお務めを果たされる三木家に土御門帝の皇子が入られたのではないかという、阿波古事記研究会で議論を呼んだ仮説も、まんざらではないかもしれないと、いま思います。


境内にある、怪しい石碑。
「久志塚」というのは近くの東山美容師会が築いた古い櫛の供養塚。9月に櫛祭があるとか。
その横に立っているのは誰かと思いきや、吉川観方という画家で風俗研究家だとか。


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この寺には 土御門帝の皇子(道円法親王)が入り、真言宗の門跡寺院となっていた時期があります。
さすが。

境内摂社に天満宮。
もう、パワフルな怨霊の勢ぞろいです。

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怨霊といえば、ここに祀られている 源 頼政 のことを忘れていました。
鵺退治の伝説をもつ武将で、保元の乱と平治の乱で勝ち残って平清盛から信頼され、従三位に・公卿に。
ところが後白河天皇の皇子・以仁王の挙兵 に加わって諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えます。
準備不足のまま挙兵、宇治平等院の戦いで敗れ、自害しています。

三社、三玉稲荷社、厳嶋社。
小さく、古いながら整えられた、いい感じの摂社です。

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なぜ、ここにお詣りに来たか。
このブログでは多くの社寺にうかがっていますが、基本的に“神秘主義”的解釈にならないようにしています。
私自身がオカルト能力があるわけではありませんし、基本的に “史実” とその痕跡を追うポリシー。
でも今回は、例外としてお許しください。
先日の静岡ツアーで出会ったコミック、『スピ散歩』 に、安井金比羅宮が紹介されていて、とても面白かったのです。

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すでに6巻を数えるこの人気シリーズは、日本全国の社寺やパワースポットを霊能者(“ホラー漫画家”としてデビューされた伊藤三巳華 mimika さん)と編集者が実際に巡って取材しているもの。
意外と京都の神社や寺院は 「難しい」 としてほとんど取り上げられていないのですが(とっても残念ながら徳島の社寺も、無し)、めずらしく安井金比羅宮があり、そこに阿波内侍の物語が紹介されていたので、つい。

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おお~っ!という、崇徳帝と阿波内侍に関する話が巫女の霊から伝えられたと描かれているのですが、それは直接お読みください。
一つだけネタを紹介させていただくと、あの穴をくぐる所作は、願主が蛇になって“根の国”に悪縁を落とす呪法なのだとか。確かに~

若者の人気は、この漫画の影響もあるのかもしれませんね。
暗くなっても続く列。

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三嶋大社で有名なものに暦があります。
 
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その紹介をされているサイトがあります。
 
太陰太陽暦(旧暦)を代表する暦のなかに 「三嶋暦(みしまごよみ)」 があります。
静岡県三島市の三嶋大社の社家(
しゃけ・三嶋大社の神職に従事する人々、またその住まい)である、暦師の河合家 で代々発行されてきました。河合家の記録によると、770~780年(奈良時代)ごろに山城の国 (現、京都府)賀茂から三島に 移り住んだとありますが、確かなことはわかりません。
現存する最古の 「三嶋暦」 は、栃木県足利市の足利文庫にある 「周易(しゅうえき)古写本」 の表紙裏から見つかった永享(えいきょう)9年(1437)のものです。この 「周易古写本」 は全5冊あり、そのうちの4冊に、本を補強するためと思われる裏貼りとして利用されていました。したがって、綴り暦がそのまま残っていたわけではありませんが、暦首部分が貼られていた1冊に、発行場所である 「三嶋」 の文字があったため 「三嶋暦」 だということがわかりました。現存最古の三嶋暦がこのような形で残されていたのは、たとえ補強用とはいえ大変貴重なものです。このほか、神奈川県横浜市の金沢文庫にある文保(ぶんぽう)元年(1317)のもの、栃木県真岡市の荘厳寺にある庚永(こうえい)4年(1345)のものも 「三嶋暦」 であろうといわれています。
 「三嶋暦」は、仮名文字の暦として日本で一番古いこと、木版刷りの品質が良く、細字の文字模様がたいへん美しいことなどから、旅のみやげやお歳暮などとして人気がありました。価格は慶応4年で、綴り暦(16ページ)が150文(今の価格で3,000円くらい)、一枚ものが15文(今の価格で300円くらい)でした。
江戸時代初期には、遠江、駿河、伊豆(現、静岡県)、相模(現、神奈川県)、甲斐(現、山梨県)、武蔵(現、埼玉、東京、神奈川県の一部)、安房(現、千葉県の一部)、信濃(現、長野県)までもの広範囲で使われ、幕府の正式な暦 ともなっていましたが、元文4年(1739)に伊勢暦との兼ね合いで伊豆と相模だけに限定されてしまいました。
江戸末期の暦の発行部数は全国で450万~500万部くらいだったようです。残念ながら三嶋暦の発行部数は記録が残っていないためわかりません。当時の日本の人口は約2,800万人でした。
 
 
賀茂の一族が関係しているのです。
 
このあたりは(も)、鴨の一族が拓いたのでしょうか。
三嶋大社の “鬼門” を護るというのが、もと八坂神社と呼ばれていたという、賀茂川神社です。
 
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賀茂川神社のお天王さん
町内安全・疫病鎮護の祈願祭
加茂川町にある賀茂川神社は、昔から祇園山
(ぎおんさん)
と呼ばれ親しまれてきた神社で、三島の鬼門を守り悪疫を退散させると信じられてきました。
7月8日、三嶋大社から小さな神輿が運び込まれ、ご神体を神輿に遷す 儀式が行われます。神輿は再び大社に戻り舞殿に奉安され、ご神体が漆塗りの大きな神輿に遷されます。1週間後の7月15日の 『渡御祭』 の朝、この神輿は大社を出発して、旧市内の神社を中心に巡行します。
通り道の人々は神輿からお守りを分けてもらい、悪病除けとします。
 
京都の葵祭に先立っておこなわれる 上賀茂神社 の御阿礼神事(みあれしんじ)、下鴨神社 の御蔭祭(みかげまつり)と同じ構図のようです。
 
 
江戸時代の暦といえば、安倍晴明の子孫が土御門家を名乗って発行していた「土御門暦」が全国区かと思っていましたが。
 
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発行されているのが、千葉?
申し込み先:〒274-0072 千葉県船橋市三山4-6-8
天社土御門神道
東京支協会
 
てっきり福井のほうだと思っていましたが…
サイトに経緯について次の通り説明されています:
 
安倍仲麻呂公(中国名 朝衡)が唐において勧請し、吉備真備(きびのまきび)公に託され、その後 安倍晴明 公に伝えられた 「泰山府君(たいざんふくん)」 を主祭神とし、種々の法・易占・祈祷を執り行っております。
昭和56(1981)年5月14日、現支教会長と恩師である天社土御門神道本庁(てんしゃ つちみかどしんどうほんちょう)前庁長の
故藤田乾堂
(けんどう)先生により、福井県名田庄 天社土御門神道本庁神殿において支教会神殿への御霊(みたま)移し祈祷が行われました。
 
とあります。
そんなに長く活動されていたのですね。
 
 
時代がくだって、仏教の不殺生戒を実行するための放生池は鎌倉の尼将軍・北条政子が支援したとか。
ホウジョウつながりの洒落ではないでしょうが、彼女の仏教者としての信心深さを象徴する場所でもあるようです。
市内ではハロウィーン・パレードがおこなわれたようで、その帰りに可愛い魔女が群がる鯉たちに盛んに餌を投げ込んでいました。
 
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神社にある仏教ゆかりの池で遊ぶ魔女。
日本文化の懐の深さを感じる一枚です(かね)。
 

表の鳥居のすぐ前は京と鎌倉・江戸を結ぶ東海道が東西に走っていて、旅人もこの神社への参詣を楽しみにしていたであろうことは想像できます。
 
 
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そして駐車場へ向かう途中、あれ!?
棕櫚の木の植え込みに、社殿のある北向き、社殿のほうに向いてなにげなく立っている石碑・・・。
 
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淡島神
ははん・・・。
 
淡島神 (あわしまのかみ)
日本の民間信仰の神である。
和歌山県和歌山市加太の 淡嶋神社 を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神であるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより 少彦名神 等に置き変えられている。
淡島神を祀る淡島堂という寺も各地にある。
婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆること に霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。 
 
淡島神 (淡島明神) の本体については以下の様に様々な伝承がある。 
1. 少彦名神 とする説。
少彦名神が医薬の神とされていることや、『古事記』や『伯耆国風土記』に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま)から常世の国へ渡って行ったとする記述があることによる。加太淡島神社を始めとする多くの淡島神社がこの説を採っており、祭神を少彦名神、および、ともに出雲の国造りをした大国主神としている。
 
2.伊弉諾神と伊弉冉神が国産みを行った際に、両神の 2番目の子 として 「淡島」 が登場する。しかし、最初の子である蛭子神と同じく、不具の子であったために葦の舟に乗せて流され、子の数には数えないとしている。
 
3.住吉明神の后神 であるとする説。
淡島神は天照大神の6番目の御子神で住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより粟島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという。
これは和歌山市加太と対岸の友ヶ島が住吉神社の社領であったことから後世に附会されたものと考えられる。
 
4.婆利塞女(ばりさいじょ)説。
第3の説とも関係するが、俚俗に婆利塞女は16歳の 3月3日 に歯を染めて住吉明神に嫁いだが (その際に紀伊国の紀の岬から摂津国の住吉浦まで干潟と化したのでそこを通行したという)、その後婦人病を患ったために夫婦の仲に障りを来す事を嘆き、形代を作ってその障りを除いたといい、加太の淡嶋神社に女子から人形が奉納されるのはそれに縁るという。
なお、同名の神女に頗梨采女がおり、その頗梨采女は 牛頭天王の后神 とされている。
 
2番目と3番目の説は、「舟に乗せて流された」という点が共通し、1番目の説も少彦名神が舟に乗って海の彼方から来たと伝えられるので、舟でやって来るという点は共通している。
また3番目と4番目の説は女神で婦人病に神験ありという点が共通し、淡島神は女神 だから女性を守るという信仰も根強い。
ただ、加太淡嶋神社では 神功皇后 が祀られており、神功皇后自体にも安産や病気平癒の御利益があるため、1番目の説が男神だから女性を守らないということにはならない。
 
淡島神を祀る社寺
総本社である淡嶋神社を始め、淡島神を祀る各地の神社は多く淡島(嶋)神社や粟島(嶋)神社を称している。また、下記は少彦名神を祀る淡島堂が存在する寺院である。
粟嶋堂宗徳寺(京都市下京区)
八幡山浄光院森巖寺(東京都世田谷区)
淡島明神を祀る淡島堂が存在する寺院
浅草寺 (東京都台東区)
納得です。
 
私が大好きなのは安芸の宮島、旅館街の一角にさりげなく祀られている粟島さん
 
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ここはズバリ、少彦名神と明言されています。
 
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以前、関東出張のときに見つけた本に、なるほど~という記述がありました。
 
古代出雲王国は2王制で、主王の職名を「大名持」副王「少名彦」といった、というのです。
 
へぇ~!という話が続きます。
 
出雲王国の伝承によると、およそ2200年前(出雲王国中期)に、中国の秦から 徐福 が数千人の少年少女を連れて石見国の五十猛に上陸し、帰化した。
徐福集団の帰化は、中国の『史記』や『後漢書』に書かれていて、史実である。その時は、出雲王国では八千矛王 の時代であった。
その時の少名彦の個人名が「八重波津身」で、贈り名が 事代主 であった。
かれの后の一人が沼奈川姫で、彼女が生んだ御子が御名方富彦であった。
『事代主の伊豆建国』 谷 日佐彦・著
 大元出版・刊 (2015) p.19
 
とすると、事代主=少名彦 となりますね。
 
この本は期待せずに求めましたが、伊豆国や関東の神社について、とても参考になる一冊です。
 
 
この説とは違う (けれど矛盾するわけではない) 説を、のらねこ先輩が書いておられます。
 
天日鷲命がオオクニヌシなのだと気づけば、その義兄弟 ( 『古事記』 では、大国主と少彦名は神皇産霊神から 義兄弟 になるよう命を受け、斎部氏系図では、天日鷲と天太玉は義兄弟) で共に天の下の国づくりを行った人物すなわち、天太玉命 こそが 少彦名命 だと理解できるでしょう。
粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま) より常世国に至ったと日本書紀に記される少彦名命は、阿波から常陸国 に渡ったのです。
常陸国の神社の御祭神を見れば分かるでしょう。
アワ、ナカ、キ、の国の地名と共に、天日鷲命と少彦名命が祀られています。
 
さらに徹底した考察が、ぐーたら先輩の大作 「まとめ:大宜都比売命の裔」。
初めから読まないとコトの重大さが分かりにくいですが、とりあえず結論を急ぐ方は、このひと言でしょうか:
 
大宜都比売命こと 「阿波咩命」 「阿波波神」 「阿波神」 が 「事代主命」 の本后 として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の 「阿波命神社」 であり、そこから 安房神社、三嶋大社 へ 遷座されたとの由緒なのです。
 
→ぐーたら気延日記(重箱の隅) 「まとめ:大宜都比売命の裔(12)」
 
 
三嶋大社の石碑は、境内のはずれに、お社ではなく立っている石碑。
阿波説に立てば、三嶋大神 とは阿波の神なり!と (分かる人にだけ) 訴えているのです。
 

箱根での仕事を終えて、三島に入ったのがお昼も遅い時間。
目的の 三嶋大社 へうかがう前に腹ごしらえを。
直前に三島はなぜか うなぎ の名店が多いことを教わっていて、グルメランキングの筆頭にあがった「桜屋」さんに電話してみると、OK!とのこと。
お昼のピークを過ぎていても 「予約不可で行列」 とあったのに、ラッキー!

近くの駐車場から歩行者天国になっている駅前商店街を少し行くと、ありました。数人が並ぶ古風なお店。
電話のおかげですぐに2階の席に通していただき、メニューを見ると 「一匹」 「一匹半」 を うな重 か 丼 かという選択しかありません。
お値段もそれなりなので、ともあれ一匹で丼をお願いしました。

ネット情報では、三島の豊かな湧水に数日泳がせておくことで臭が抜けて美味しくなるのだとか。
これも富士の恵みなのですね。

まもなく出てきた丼は、期待を裏切らないボリューム!

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実に柔らかい身をご飯とともに口に入れると・・・。
ふわり、軽い!
臭みどころか、脂の乗ったこってりした感じがまったくなく、とてもあっさりとした身が香ばしく焼かれていて (関西と違って蒸してから焼くのでよけいに、でしょうか) タレのうま味とバランスよく、一匹もペロッといただけます。
グルメ系のサイトではないので、論評はこれくらいにしておきますが、三島に来れば食べたくなる、そういうレベルの美味しさ。

イメージ 1司馬遼太郎さんがこの店に来て、建物を褒めた文章が壁に飾ってありました。
確かに江戸時代の創業という落ち着きが、うなぎの風味に加わっていることは感じました。

この店が開かれた安政年間って、幕末の激動の真っただ中なんです。
Wikipedia から拾うと:

嘉永7/安政元(1854–55)年
1月 ペリーが前年に続き江戸湾に再来
3月 日米和親条約を締結
4月 京都の大火により内裏を焼失
6月 伊賀地震(死者約1千人)。
11月 東海地震(死者2~3千人)/南海地震~豊予海峡地震(死者不明)。
11月 安政に改元
12月 日露和親条約締結

安政2(1855)年
   平安様式に倣った 安政内裏 を再建
2月 飛騨地震(死者12人以上)
10月 
江戸地震 (死者4千~1万人余;水戸藩邸で藤田東湖・戸田蓬軒圧死)

安政3(1856)年
7月 ハリス が下田に着任
7月 安政八戸沖地震(死者5人以上)
8月 台風 で江戸に暴風と高潮(死者10万人)

安政4(1857)年
12月 英仏連合軍により広州陥落

安政5(1858)年
2月 飛越地震(死者約500人)
6月 江戸幕府、日米修好通商条約ほか安政の五か国条約に無勅許調印
9月 大老・井伊直弼による 安政の大獄 始まる
   〜安政7年にかけて コレラが流行 (江戸だけで10万人が死亡説)

安政6(1859)年
6月 横浜港開港

安政7/万延元(1860)年
3月 桜田門外の変

この店がよくぞ焼けずに残ったものだという感慨も、このたいへんな時代背景を熟知している司馬さんならでは、ですね。

さて、お腹も心も満足して、そこから車でわずか数分の、三嶋大社へ。
駐車場から入るとすぐに本殿の前に出ます。
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美しく整った社殿。
でも、式内大社にしてはこじんまりとした神社かな。
瀬戸内・大三島の広大な 大山祇神社 を連想するからでしょう。
お宮参りなどの人たちが大勢来られています。地元の方々の生活に溶け込んでいるようです。

拝殿の前に、金属製の実物大の馬像。

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背中に御神体の御幣を乗せています。

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この御神馬は1868(慶応4)年に完成したものだそうです。
力強い造形です。

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京都では、上賀茂神社に同じ 「神馬舎」 と呼ばれる建物があります。
こちらは時々ナマの白馬が出勤されていますが。

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*写真:市バス観光ガイド 「500円で巡る京都」

毎朝 箱根山に登った・・・。
三嶋大社の神馬舎にも、もとは実際の馬が飼われ、箱根(の関所か) と密に連絡をとりあっていたのかもしれないと想像しました。

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拝殿のなかに、金属(青銅?)製の、犬?

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狛犬のように一対で阿吽の形をしていますが・・・

狛犬などを調査されているサイト「神使の館」さんによると:
「大山祇命(神)は、日本国の総鎮守であり、「山の神」とも呼ばれ、その神使は眷属の 山犬(ニホンオオカミ) である。
特に、関東地方では広く地主神とされる。」

そして 「瀬戸内の三島宮では 『航海・戦勝の神』 から 『白鷺』 とされる」 のだそうです。
→ 狼-(4) ~オオカミ 大山祇命(オオヤマヅミノミコト)の狼


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狼への信仰は古いもののようです。

真神(まかみ)
日本に生息していた狼
(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来、聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。
また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。

大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化された。『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。(後略) 
→ Wikipedia 真神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A5%9E

右の御札は埼玉県の 三峯神社 のものですが、こちらの御祭神は伊弉諾尊・伊弉册尊となっています。
配祀されているのも造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)、そして天照大神ということで、関係が深いとされる熊野修験が関わる以前の神が変えられたものではないでしょうか。


もちろん徳島の神社マニアなら、オオカミと聞けば 賢見神社
諸説あるものの、ヤマイヌとオオカミは親戚筋というのがほぼ定説のようですし。

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阿波・土佐県境の不思議な神社については、awa-otoko さんが多くの写真とともに紹介くださっています。
ぜひご覧ください。
→ 犬を観る神社(宇多賀 賢見神社)
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/03/22/210344

境内から見晴らす、なかなかの迫力のある、大好きな景色。
“日本のマチュピチュ”という大風呂敷もおもしろい。
阿波市の土柱の“東洋のグランドキャニオン”にはかなわないけれど。

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写真は賢見神社の公式サイトから転載させていただきました。

Youtube には不思議なイントネーションの祝詞の映像もありますので、興味がおありなら探してみてください。

さて、三嶋大社に戻って、 Wikipedia の記事を転載すると:

三嶋大社 (三島大社)
所在地:静岡県三島市大宮町二丁目1番5号
創 建:不詳
本殿の様式:三間社流造
例 祭:8月16日
主な神事:お田打ち神事(1月7日) 粥占神事(1月15日) 奉射神事(1月17日) 鳴弦式(節分の日) 流鏑馬神事(8月17日) 

三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。

社名の 「三嶋」 とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は 伊豆諸島の開拓神 である。
当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として 源 頼朝 始め多くの武家からの崇敬を集めた。
近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子 の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。

社名
伊豆諸島
「三嶋」とは「御島」すなわち伊豆諸島を意味するとされる。
社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える。
三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』[原 1])
伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)
三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)
通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称 「御島(みしま)」 に由来するとされる。
伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13(731)年に 「伊豆三島」 の記載が、平安時代の 『和名類聚抄』 では伊豆国賀茂郡に 「三島郷(みしまごう)」 の記載が見える。
なお、別説として伊予国一宮の 大山祇神社(大三島神) を由来とする説もある。

現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。
当地は、古代には伊豆国の国府があったことから 「国府(こう) と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から 大社にちなんで地名も 「三島」 と呼ぶようになった とされる。

祭神は次の2柱。
大山祇命
(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神 (つみはやえことしろぬしのかみ)
2柱は 「三嶋大神 (みしまのおおかみ)」 または 「三嶋大明神 (みしまだいみょうじん)」 と総称される。
本地仏は薬師如来。
 
祭神について
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。
大山祇命説 は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって 『源平盛衰記』 『釈日本紀』 『二十一社記』 『日本書紀纂疏』 等の諸史料に見える説である。
三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。
一方の 事代主神説 は、江戸時代後期の 平田篤胤 の 『古史伝』 での主張に始まる説である。
室町時代の 『二十二社本縁』 に 「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」(都波八重事代主神は、伊豆国賀茂郡に坐す三島神で、伊予国に坐す三島神(=大山祇神社)と同じと云う) の記載に基づく。この記述は伊予の国の大山祇神社の主祭神も事代主神としてしまっている。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6(1873)年に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説 が昭和27(1952)年に制定されて現在に至っている。 

近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。
この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが 「ミシマ神」 の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。

ご祭神について相当苦労されているようですね。

ここはぐーたら先輩の考察につながっていただくのがいいでしょう。
先輩は 積羽八重事代主神 だろうと想定されています(たぶん)。
→ 「まとめ:大宜都比売命の裔(13)」 https://goutara.blogspot.com/2016/12/13.html

ご祭神を特定するのには妃神から探るのが、特に阿波古事記では有効。
そのヒントが境内にあります。

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見目神社という、珍しい名前。

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「見目(みめ)」=「御妃(みめ)」を意味するともいわれるとか。
三嶋大神の后神六柱とは、波布比賣命・久爾都比咩命・伊賀牟比咩命・佐伎多麻比咩命・伊波乃比咩命・優波夷命。
波布比売命は、大島の 波布比咩命神社 に、
久爾都比咩命は、新島の 泊神社 に、
伊賀牟比売命は、三宅島の 后神社 に、
佐伎多麻比咩命は、三宅島の 御笏神社 に、
伊波乃比咩命は、三宅島の 二宮神社 に、
優波夷命は、八丈島の 優婆夷宝明神社 に祀られています。

母系社会だった当時、それぞれの土地の姫の婿となることで受け入れられた、その痕跡でしょうか。

(続く)


仕事で出掛ける用があった街なか、五条と六条のあいだ、西洞院通りの近く。
途中ながめていたスマホの地図に 八幡神社 が。
京都の八幡さんといえば郊外の 岩清水八幡宮 で、市中には少ない。
若宮八幡宮というそうで、寄り道してみることに。

今の六条通りは車が入りにくい細い路地で、古い町屋が次々と(ガイジンサンに人気の)民泊やゲストハウスになっています。

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Wikipedia を調べると・・
若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)
京都市 東山区 に鎮座する神社。陶器神社 とも呼ばれる。旧社格は郷社。

あれ?
清水焼の神社で、確か清水坂の下、五条通に面した大きな神社です。
 
天喜元(1053)年、仏説による末法末世の世の1年目にあたることから、後冷泉天皇 の勅願により 源 頼義 が左女牛(さめがい)西洞院にあった 自邸内の坤の隅に造営された 石清水八幡宮の若宮(新宮) であった ために左女牛八幡宮と称され、また左女牛通の北を六条大路が走り、頼義邸はその間に位置したために 六条左女牛若宮 や 六条八幡宮 とも称され、毎年8月に 放生会 を行う例とされたが、その後保延6(1140)年正月に石清水八幡宮が火災によって社殿焼失に遭った際には 左女牛の若宮 に遷座したとの夢告ありと 京中の道俗男女の参詣が盛んとなったという。

確かに、もとはこっちにあった、というわけですが、源氏の御屋敷だったとは。
放生会宇佐・石清水の両八幡宮で有名なお祭りです。

境内に置いてあった 「由来記」 をいただきました。
平安時代は、五条大路までが市街地で、六条の地は堀川館をはじめ当町に頼義、義家の館、その東には、後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、『拾芥抄 (じゅかいしょう;1540年代) 』 には、「八幡若宮義家宅」の書入れがあり、『古事談』にも「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。

ここで念のため、頼朝につながる河内源氏の系譜をおさらいしておきます。

源 頼信 ( 968年-1048年) *清和源氏→河内源氏・初代
源 頼義 ( 988年-1075年) *若宮八幡宮 勧請
源 義家 (1039年-1106年) *八幡太郎義家
源 義親 ( ? -1108年?)
源 為義 (1096年-1156年)
源 義朝 (1123年-1160年) *平 清盛 に敗北
源 頼朝 (1147年-1199年) *鎌倉初代将軍

Wikipedia の記事は続いて・・・

古来 源氏の氏神 として同氏からの崇敬を受け、源 頼朝は 大江広元 の弟の季厳阿闍梨を 別当 職に任じ、文治元年(1186年)12月には土佐国吾川郡の地を寄進、翌年幕府によって大規模な社殿の造営があり、8月に遷宮している。 

別当とは官職を兼務している責任者というほどの意味で、ここでは僧侶でありながら神社の管理をする立場。
空海が藤原の世に編み出した “古社保全策” の妙案と、私は考えています。

大江広元という鎌倉幕府の実質ナンバー・ツーの弟をおいたことからも、この神社の重要性がうかがえます。

頼朝は建久元(1190)年と同6年に上洛の際には 石清水八幡宮と唯2社のみの社参を行い、以後 鎌倉時代を通して 将軍家代々の社参 が恒例とされたり、武家尊崇の大社として地方的にも篤い崇敬を受けた。 

通りに献灯(?)の籏。お祭りが近いようです。
これが若宮通り。

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なんとか、上り一方通行です。
また、若宮町ということは、神社が遷されても地元の人たちが ここに若宮さんがいはったんや! と死守されたのでしょうね。

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魚屋さんや八百屋さん、錫屋さんに花屋さんと、“京都” の外れ、市場のような地域だったのでしょう。
地図の右下、黄緑色が東本願寺さんの北西端です。

若宮通りを少し下ると、住宅の谷間に・・・?


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ここでした!
小さ目の町屋一軒分ですね。

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Wikipedia の続き。

承元2(1208)年4月、付近一帯の大規模な火災によって焼失するが、翌年12月に再建が完了し遷宮した。
 
火事から13年。承久元(1219)年の1月に 源 実朝 が暗殺され、風雲急を告げます。鎌倉の政治は北条政子と弟の義時がおこない、京都守護に北条の外戚、伊賀光季と、大江広元の嫡男で 源 通親 の猶子として朝廷とつながりのあった 大江親広 を派遣。この大江親広は 承久の乱 では 後鳥羽院側 に立って父の鎌倉側と戦うことになります。

嘉禎元(1235)年12月 将軍 藤原頼経 の病気平癒の祈祷の使者が 執権 北条泰時 より遣わされた。
文永11(1274)年に再び焼失するが、翌年鎌倉に 「造営用途支配状」(幕府に対する造営費用:6,734貫文)が届けられている。
室町時代になっても足利尊氏は7種の神宝や社領知行安堵状、義政は51ヶ所の地所を奉納したり、足利将軍家から三条坊門の御所八幡宮社と並んで代々の社参が行われるなど 石清水八幡宮に次ぐ幕府の宗祀 と崇められ、その結構は京中では 祇園、北野に次ぐ規模 であったが、応仁の乱の兵火に罹って社殿を焼失するなど荒廃し、足利義輝及び義昭の発起により諸国の武家に寄付を募って再建されたものの昔日の規模には至らなかった。 ー中略ー

つい忘れられがちですが、足利氏は源氏の名門。
八幡太郎 こと 源 義家 の 四男・源 義国 が下野国の足利荘を領地として定着、その子孫が 足利氏 を名乗るわけです。新田氏 とも親類。

そんな歴史もリセットしちゃうのが、京都では圧倒的に不人気 (というより、ほぼ無視) の秀吉・・・

天正12(1584)年、羽柴秀吉による京都改造により 御旅所のあった東山に移されて 旧地は 本願寺の寺域 とされ、同16年には方広寺の北に、秀吉薨後の慶長2(1597)年6月には 現社地に三遷された。
元和元(1615)年、徳川家康より神領73石8斗余を寄進され、同3年に 後水尾天皇 の勅命で社殿造営、承応3(1654)年にも 後光明天皇 が 父 後水尾上皇の考えにより社殿を造営している (現本殿)。

“現社地” は東山で、ここが残された “旧地”。
このお社は江戸時代に地元の人たちが記念碑的に建立され、今に受け継がれているのですね。 

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基本的に武士を不浄の存在として嫌った平安貴族ですから、石清水八幡宮も都の 鬼門除け にされたくらいで、京都市中には少ないわけです。

そもそも 八幡神(やはたのかみ、はちまんしん) の由来にもユダヤ起源説をはじめ諸説あって、私の手には到底負えません。
御祭神自体が 応神帝のこととされる 誉田別命 を主神、比売神、応神天皇の母である 神功皇后 を合わせて八幡三神というのが一般的まがら 比売神や神功皇后ではなく 仲哀天皇 や、武内宿禰玉依姫命 を祀っている神社もあったりして。
平 将門 は八幡大菩薩のお告げで 「新皇」 になり、朝廷側の調伏祈願も石清水八幡宮でおこなわれてというので、八幡さま、忙しい。
皇族も、969年にご即位の第64代・円融天皇以来 240回 にも及ぶそうですが・・・。

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この小さな社に詰まった歴史、人々の悲喜こもごもは、この国の歴史まるごとと同じ重さがあります。

こちら東山に遷られた、若宮さん。
清水焼発祥の地としても知られます。

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*KYOTOdesign さんから写真をいただきました。感謝!

京都の神社らしい、整った風情。
大事にされているのですね。

徳島の神社でいつも思うことですが、社殿の大きさは、そのたいせつさとは別もの。
今回、ごあいさつできたこと、ありがたいことでした。