この拙文を、庚午事変において、そして その後の苦難のうちに命を捧げられた、誇り高き両家の方々に捧げます。
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淡路島は独立宣言をしていました。
2016年11月の建国ですが、知りませんでした。
島内を走る車はみんな、細く曲がった棚田のあぜ道を走る軽トラックも まだ 「神戸」 ナンバーですが。
兵庫と徳島のあいだの、淡路島。
でも私の知る範囲ですが、兵庫県民、徳島県人のどちらとも、淡路の人たちの気質は違うように感じます。
代表は、やはり 高田屋嘉平*1 でしょうか。
種類も多い農作物、そして恵まれた海の幸。
食料自給率は軽く100%を超える、豊かな島です。
独立後、通り過ぎていくだけの “外国人”から通行税を取るだけでもかなりの財源にもなるでしょう。
でも大胆なチャレンジをおそれない、そのDNAが生きる淡路がほんとうに独立国家になったなら、世界を股に掛ける貿易大国へと成長するだろうと思っています。
そんな淡路の人々の心に 今も小さな影を落とす、あの悲劇については、当事者の子孫の皆さんがおいでですし、研究されている方々もおられます。
部外者の私が話題にしてよいものかと迷いました。
でも、友人の植物学者・生嶋史郎さんのいる洲本に年に何度も訪れ、元気な若者が開くお祭りに何度か参加するうちに、淡路をとても身近に感じているのです。
古事記に描かれる 国生み のなかで、ここは物語の始まりの舞台。
そして、阿波と淡路の人々が一体となってこの国;日本をつくり上げたことを 阿波古事記研究会 で学んだ者として、この事件がくち惜しくてならないのです。
今年が150周年だと聞いて、改めて目を通したのは、生嶋さんからお借りしていた本。
『庚午事変』
昭和45 (1970) 年発行
庚午事変編集委員会・編集
徳島市中央公民館・発行
庚午事変100周年のときに出版されたもので、23人の執筆者がさまざまな角度から描く試み。
蜂須賀家を代表した蜂須賀年子さんの寄稿から、徳島藩からの無念が伝わってきます(後編に抄録)。
そして、『徳島県の歴史』。
昭和48 (1973) 年発行
福井好行・著
山川出版社・刊
全国の 「県史」シリーズ の徳島版を、当時、徳島大学学藝学部教授の福井氏に依頼、多くの協力を得て “郷土4000年の歴史” を俯瞰された力作。
最大級の事件として庚午事変が取り上げられています。
そして平成27年5月に発刊された 『図説 阿淡稲田家小史』。
徳島県美馬市の脇町稲田会が25周年を記念して製作された立派な冊子です。
この会は脇町や丈六寺の稲田家歴代の墓所の修復や案内板の設置、稲田家と家臣の皆さんが開拓した北海道静内町との交流などに取り組んでこられた会です。
さらに、詳しく調べ上げられているサイトがありました。
『稲田騒動 (庚午事変)』
快左衛門さんという個人のサイトが阿波弁で詳しい解説をされていて、複数の説の紹介など勉強になりました。
添付されている [静内移住者]、[洲本の稲田家臣]、[阿波の稲田家臣]、そして [周参見沖遭難者] の名簿には思わず手を合わせます。
http://kaizaemon.com/inada/inada.html
そして惜しくも閉店した洲本の BOOKS成錦堂 さんが発売されていた資料。
『淡路島の歴史』。
月間 『歴史手帖』 5巻7号とあります。
店主の湊さんの手作りコピー本で、神話・古墳時代から明治の自由民権運動のことが掲載されています。
昭和54(1979)年2月第一刷。
名著出版・刊
成錦堂・発売
名著出版は、歴史・民俗・宗教・考古・古文書・漢方などの専門書を、現在は“オンデマンド”で刊行するという東京の出版社です。
そして、たぶんこれも湊さんにお願いしてコピーしてもらったもの。
「阿波徳島のすべて」 となれば見逃せない、『歴史研究』。
平成14(2002)年10月(第497)号。
合資会社歴研~歴史研究会 という団体の発行です。
研究者を含む、歴史愛好家の同人誌の雰囲気で、今も興味深い論文を集めておられます。
今年の3月号の特集は、大河ドラマにちなんで明智光秀。
http://www.rekishikan.com/
さて、まず事件の概要を Wikipdeia の記述から確認します (抄録):
庚午事変 (こうごじへん)
明治3(1870;かのえうま)年に当時の徳島藩 淡路洲本城下で 蜂須賀家臣の武士が家老 稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。
稲田騒動(いなだそうどう) とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる事件となり、淡路島は兵庫県に編入された。
徳島藩洲本城代家老 稲田家(1万4千石)は、戦国武将 稲田植元 を元祖とし、植元は 蜂須賀正勝 の義兄弟の契りを交わして織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府の際に植元が蜂須賀家の 「客分」 として入国した。
以降、稲田家は家臣としては破格の待遇を受けてきたが、(中略)主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化するにつれ対立を深めていくようになった。
明治維新後、(中略)徳島蜂須賀家の家臣は 士族 とされたが、陪臣の稲田家家臣は 卒族 (平民扱い) とされることに納得できず、士族編入を徳島藩に訴えかけた。叶わないとみるや、淡路を徳島藩から独立、稲田藩(淡路洲本藩)立藩 を目指すようになり、明治政府にも独立を働きかけていく。稲田家側は幕末時の活躍により、要求は認められると目論んでいた。(中略)
こうした行動に怒った徳島藩側の一部武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣の屋敷を襲撃。前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ち、脇町周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。(中略)
当時は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、(中略)日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島藩側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に藩主の嘆願により切腹)。これは日本法制史上、最後の切腹刑(死刑執行方法としての切腹は明治6年廃止)。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に及んだ。
知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、洲本を含む津名郡は翌明治4(1871)年5月に兵庫県に編入されている。
稲田家側には北海道 静内と色丹島の配地を与える名目で、兵庫県管轄の 士族として移住開拓 を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立った。この静内移住開拓については船山 馨の小説 『お登勢』 や、映画 『北の零年』 でも描かれている。
→ Wikipedia 庚午事変
https://ja.wikipedia.org/wiki/庚午事変
参考図書 『庚午事変』 には“庚午志士”の記念写真が。
幕末のドラマで活躍する志士といえばたいてい尊王派なのですが、ここでは稲田側を襲ったほうを “志士” と呼ぶ、徳島藩側の表現になっているようです。
今回、事件の前からあったという 「様々な確執」 について、阿波古事記研究の視点から見ることで、この悲劇の背景、特に稲田家側の立場に新たな光を当てることができるかもしれないと考えています。
それが互いへの寛恕の気持ちが少しでも起これば、と願いつつ。
事件の要素は5つ。
1)両家の家格
2)客分≒同僚?
3)阿波藩主
以上は一般に知られています。
そして、次の2点を加えたいと考えます::
4)聖地・美馬
5)聖地・淡路
1)~3)については Wikipediaでも触れられていますが、もう少し詳しくみていきましょう。
1)両家の家格
稲田氏のはじまりは尾張の野武士(『太閤記』) など諸説あるようですが、Wikipedia では 村上源氏の系統 とされています。
稲田植元(たねもと) の父・稲田貞祐は岩倉城主・織田信安の家臣、母は勝幡城主・織田信秀の家臣・前野彦四郎の娘で妻に織田信安の孫を迎えているという、織田家と深いつながりがありました。ところが別流で清州城の織田信長との内通が疑われて、切腹。幼い植元は父の朋友だった 蜂須賀正勝 に預けられたのでした。
その蜂須賀氏は由緒に諸説あって、不明。『武功夜話』 では、川並衆 という木曽川の水運を担っていた集団だったとされています(信憑性に疑義あり)。秀吉の出世物語には必ず出てきた “墨俣一夜城” 伝説の機動部隊ですね。
武者絵ではいかにも “野武士” の迫力満点。
「悪党」 と呼ばれることもあった土豪の蜂須賀に対して、臣籍降下の由緒をもつ(可能性のある)稲田。
家格では 「稲田が上」 だという空気が稲田家中にあったのかもしれません。
2)客分≒同僚?
19才も年下の稲田植元を “義兄弟” として、蜂須賀正勝は戦国時代を鬼才・秀吉のもとで活躍。のちに秀吉は蜂須賀に播磨の龍野 (5万3千石)、稲田に河内 (2万石)を与えようとしますが、植元は 「拙者は小六正勝と兄弟の契りを結び、ともに働かんと約せり」 と言って固辞したとされます。秀吉は感心して多くの引出物を与えてそれを許したと伝わっています。
四国攻めで活躍した蜂須賀に阿波が与えられ、天正13(1585)年に正勝の嫡男・家政が入ります。当時、阿波には多くの土豪、長曾我部に抵抗した三好の残党、百姓の一揆勢力などによって不穏な情勢でした。戦略的に重要な吉野川中流域におよそ1万石という大名クラスの知行地を与え、筆頭家老とした植元に宛てた正勝の書状に 「家政を宜しく」 と書かれていることから、植元は同格の 客分 だったともされます。
ちなみに、蜂須賀家政は朝鮮出兵に二度とも参戦するなど、武闘派として活躍しますが、秀吉の没後は石田三成に反発して徳川側に加わりました。みずからは大阪城に残り(病気として出兵せず)、息子の蜂須賀至鎮(よししげ)が稲田植元とともに東軍に加わります。こうして至鎮に阿波が安堵され、さらに、大阪夏の陣後に淡路が加増されたのでした。
→ サイト 『稲田騒動 (庚午事変)』
つまり 徳島藩は徳川政権下で慎重な藩政を強いられた “外様大名” だったのです。
以上が、伏線となる歴史的な両家の位置づけ。
そして、次のような藩主の実態が稲田家の家臣が独走しがちになる 決定的要因だったのでしょう。
3)徳島藩主
徳川時代の徳島藩では不安定な状況が続いたことが 『徳島県の歴史』 に記されています。
章の題も 「藩政ゆるむ」 。
「四代光隆のとき、政治を家老にゆだねたのがきっかけで権力が家老の手に移り、つづいて光隆の子綱通が幼少(11歳)で藩主となると、政治の実権は綱通を補佐した 重臣の手 に移った。さらに一族の子綱矩が六代藩主となると、政治のことはいよいよ手中に帰した。しかも七代宗員以降、八代宗英、九代宗鎮、十代至央のあいだは僅か19年で、いずれも幼少で位を継いだ。とくに宗員には後嗣がなく、一門ではあるが臣籍に下って家老職にあった宗英が八代藩主となった。しかし重臣たちからは軽く見られ、また後嗣がなかったので、続く宗鎮・至央とも讃岐 高松藩 からはいって 九代・十代藩主となった。ここに 蜂須賀の血統は絶えた。」
実権を握った “重臣” というのが稲田家なのかどうかわかりません。江戸や京都にも出張していた時期がありますから。いろいろな軋轢があったことは想像できます。
高松藩は松平家で、水戸徳川家 の分流です。
さらに:
「十代至央も藩主たることわずかに60余日で死んだので、奥州佐竹の分家で秋田二万石の四男重喜*2 がむかえられて十一代藩主と」 なります。17歳の彼は次々と改革を始めようとしますが、洪水や干ばつにも見舞われてとん挫、あげく幕府から32才のときに隠居を命じられてしまいます。
ただ、子だくさん(16男14女)で娘が鷹司家や中院家など京都の有力な公家にも嫁いでいます。これも庚午事変へとつながる伏線になったかもしれません。
十二代の蜂須賀斉昌も財政難で苦心。1830年、突然始まった 「おかげ参り」 が阿波で大流行し、およそ10万人が無秩序に伊勢参りに流れたというのも、「民衆の自己解放」(『徳島県の歴史』) だったとか。
そして幕末へ。
十三代藩主はまた養子ですが、蜂須賀斉裕(なりひろ)は十一代将軍・徳川家斉の二十二男で、十二代将軍・徳川家慶の異母弟、そして十三代将軍・徳川家定の叔父 にあたります。
しかし Wikipedia には 「勤皇にして佐幕」 「開国派にして攘夷論者」 の立場のあいまいさが、斉裕を “御内鬱” と記される精神状況に追い込み、精神的な鬱積を酒でまぎらわせ アルコール中毒症を患った」 と、幕末動乱期の藩主の大変さが偲ばれます。
そして庚午事変が起こった時の藩主は 蜂須賀茂韶 (もちあき)公。
慶応4(1868)年1月、父・斉裕が急死したのが 鳥羽・伏見の戦いの最中というタイミングで、藩内は大混乱。
戊辰戦争では新政府側で奥羽にも兵を送ったものの新式のイギリス軍備も使い切れず、諸藩の冷評を受けた、そうな・・・。
当時22歳。お察し申し上げます。
いっぽうの稲田家は勤皇まっしぐらです。
慶応4(1868)年1月に鳥羽伏見の戦いが起こると「朝廷から稲田の兵にお呼び出しあり、工藤剛太郎が出頭したところ、御一新の大変革により容易ならず形勢になるかも知れず、厳重兵備の勅命があった。同年正月8日、工藤剛太郎、西ノ宮表備前警衛の応援の勅命を、徳島表在住の稲田九朗兵衛へ伝達、早速人数を調整、同11日夜、洲本出帆、12日朝、西ノ宮着。出兵人数400人、三田昴馬が総括者である」(『阿淡稲田家小史』p.16)という迅速さ。ほとんど主力の一角を占めています。
「孝明天皇から天盃を賜り、勤王諸藩から一目おかれ蛤御門変のときも 『此処は稲田が守る』 と立札を立て存在を誇示した。日頃より武術を鍛錬し家臣も三千人といわれ、邦植は戊辰戦争の征東総督有栖川宮護衛を本藩を差しおいて命じられ、大いに奮戦し賞典の栄に浴した。」(『歴史研究』 岡本陽子「徳島藩と稲田騒動について」)
御所で守備をしたのは建春門(東正面の日之御門)ですね。ほかに摂津への出兵や高松藩の征討(仲裁に入って穏便に解決)など、徳島藩の許可も得ずに、もう独立した 稲田藩士 としての行動でしょう。
この話は、源氏や平家、頼朝と義経など、“日本一乃大天狗” 後白河帝に振り回された(という見方もできる)武士の悲哀をどこか思い起こされます。
(中)につづく
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*1 高田屋嘉平
江戸後期の豪商、廻船業者。淡路国津名郡都志本村生まれ。
1500石積みの辰悦丸を所有し北海産物の交易に従事、1798(寛政10)年には箱館に支店を開設、幕命を受けて択捉島に渡り、大船通路の基礎を築くとともに漁場の開発に努めた。この功により1801(享和1)年に 「定雇船頭 (じょうやといせんどう)」 に任じられて幕府の蝦夷地直営に参画、官船製造や運営にあたった。直営廃止後も択捉、根室などの場所請負を行い、箱館に本店を移し、富を築いた。
ゴロウニン幽囚事件の報復として1812(文化9)年 国後沖でリコルド指揮下のロシア軍艦ディアナ号に捕らえられてカムチャツカに連行されたが、その剛胆で沈着な態度に感服したリコルドをしてゴロウニンらの釈放を求める決意を固めさせた。翌1813年国後島に送還された嘉兵衛の尽力により、同年9月、事件は円満に解決した。
晩年は弟金兵衛に跡目を継がせて郷里に退隠、自宅に没した。
→ 日本大百科全書「ニッポニカ」 (抄録)
*2 蜂須賀重喜
のちに(おそらく本人にとって意外な)話題となるのが、吉川英治による 『鳴門秘帖』 という長編小説が1926年から大阪毎日新聞に連載され、その後幾度も映画やテレビドラマになったこと。
*Kindle版で手軽に読めます。
Wikipediaによると:
謎に囲まれた阿波に潜入しようとする青年隠密と、それを阻もうとする阿波藩士の戦いに、青年隠密を恋い慕う女性の恋情を組み入れたものである。
中里介山 『大菩薩峠』、白井喬二 『富士に立つ影』 と並ぶ、大衆文学を開拓した作品で、伝奇小説黎明期の傑作である。
史実である宝暦事件(竹内式部一件とも) の背景を描いたものだそうです。
あらすじ:
江戸時代中期、幕府打倒の陰謀が発覚した。幕府は、黒幕を阿波の徳島藩主たる蜂須賀重喜とにらみ、甲賀の隠密 世阿弥を潜伏させる。しかしそれから10年、阿波は鎖国し、世阿弥は行方が知れず、その仲間の中には真実を知るために阿波潜入を試みる者たちがいた。虚無僧姿に身を包む隠密 法月弦之丞もその一人である。世阿弥の娘であるお千絵は弦之丞に想いを寄せるが、弦之丞は隠密である関係上、その願いはかなわない。見返りお綱はスリによって、意図せず俵一八郎の阿波潜入の計画を挫いてしまう。彼の意思を継いだ法月弦之丞だが、その行く手を阿波藩士らが阻もうとする。
天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬らは、弦之丞を亡き者としようとし、江戸からつき狙う。反省し、スリをやめた見返りお綱は、目明かしの万吉と共に江戸から法月弦之丞を追うが…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%96%80%E7%A7%98%E5%B8%96
おもしろそう! NHKのオンデマンドでTV版を観ることができます。
余談の余談ながら、はじめにご紹介した 『歴史研究』(第497号) に、まだ無名の 吉川英治 が 大阪毎日新聞 に原稿を持ち込んだときの様子が紹介されていました。
紹介もなく訪れた吉川英治に学芸部長が “なんとなく” 面会を許して、「吉川さんの白い、涼しげな顔を見て、しっかりと抱えているフロシキ包が気になり、『小説か。まあ拝見しようか』 と言って先生 (阿部学芸部長) は6,7枚ペラペラとめくると驚愕されたそうである。『巧い』 『いける』 つぶやかれた先生は吉川さんを何度も見つめ、独断で約束された」 のだそうです。
連載は大人気となり、毎月5万部ほども部数を伸ばしたのだとか。もちろん吉川英治は人気作家になって、報知新聞から 『江戸三国志』、毎日新聞は 『宮本武蔵』 と、“新聞小説戦争”を巻き起こす、その始まりだったというわけ。
小さな最初の一歩、感動的です。
『歴史研究』 横山高治 「名作 『鳴門秘手帖』 の“秘話”」
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