「五斗長垣内遺跡」;淡路島 (1) | 阿波 発 京都 行 @どなり古事記研究会

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この国の起源と歴史を阿波から見つめなおして。

徳島~大阪~京都を往還しながら、全国各地へ出張取材。
折々にタイムカプセルをのぞく “行き当たりバッチリ” 訪問記です。

 
淡路・伊弉諾神宮の氏子・くにうみ太郎さんにうかがって、すごく気になっていた遺跡。
雨で敷地が崩れた拍子に発見されたのだとか。
  
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五斗長垣内遺跡 (ごっさかいといせき)
兵庫県淡路市黒谷にある 弥生時代後期 国内最大規模 鉄器製造群落 遺跡である。
 
本遺跡は2001(平成13)年に発見され、2007(平成19)年から発掘調査が実施された。
遺跡は淡路島の西側海岸線から3キロの丘陵地にあり、東西500メートル、南北100メートル。
弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間 にわたり存在したと考えられる。
遺跡には竪穴式住居や鍛冶工房などが復元されている。
弥生時代後期の鉄器製造施設跡が 23棟 から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。
1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模であった。
 
住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡 である事が分かった。
淡路島のような人口の少ない小規模の島で、これほど大量の鉄器が必要だったとは考えにくく、魏志に記された倭国大乱や邪馬台国との関係が窺える。
 
Wikipedia 「五斗長垣内遺跡」
 
時期としては 邪馬台国 卑弥呼 が擁立される前、“倭国大乱”の頃にあたります。 
倭国大乱があったという期間は、『後漢書』「東夷列傳」では146-189年、『梁書』「諸夷傳・東夷条・倭」では(178-184年)となります。
なお、弥生時代は最新の基準で早期がBC1,000年頃から、前期がBC800年頃から、中期がBC400年頃から、後期がAD50年頃からで、古墳時代への移行が3世紀中頃ということです。
 
これは気になります。
お盆休み、徳島から大阪へ向かう途中に寄ってみることにしました。
目標はあたり。
 
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北淡ICで下車、遺跡への道標に従って県道123号線を心地よいドライブ。
土成の“フルーツ・ロード”並に果樹園が並ぶ坂道を登っていきます。
 
やがて、最後の分かれ道。
手作り感いっぱい・・・。
 
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10分ほど走るとけっこう高台になって、景色もいい感じ。
棚田も多くみられます。
 
やがて真新しい、案内所らしき建物に付き、入ってみると受付に一人の男性。
遺跡の見学をお願いすると、まず案内されるのがビデオルーム。
 
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10分ほどの予習です。
発掘の様子から出土した遺物の紹介などのダイジェスト。
 
地元の学生さんがつくったものだそうです。
なかなかのできです。
 
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淡路市のサイトでも、この遺跡を中心に淡路島のことを紹介した動画がありました。
4分間、よろしければ。
 
 
 
動画にもありましたが、弥生時代後期に、この淡路島が“沸騰”していたようです。
 
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教育委員会作成のパンフレットより
 
島南部の洲本~倭文周辺、さらには対岸の鳴門との関係が気になります。
有力な考えでは北部九州と畿内を結ぶ “鉄の道” の中継点とされるようですが、さてどうなのでしょう。
 
外へ出ると (猛烈に暑い日だったのでほかに人影はなく、広い敷地を貸切り~)、とんがり屋根がユニークな茅葺きの“弥生住居”。
これが、鍛冶工房でした。 
 
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中に入ると高い天井。
床に、鉄を加工した鍛冶炉の跡。
 
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当時の想像図が描かれています。
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弥生時代後期になると、鉄器の使用が本格的に始まりますが、当時はまだ、鉄素材を国内で作り出すこと、つまり製鉄はできませんでした。
原料の人手を 海外に依存する鉄器生産 が、どのように安定的かつ継続的に広まっていったのか。
その鉄器作りの作業を具体的に知ることができる五斗長垣内遺跡は、日本列島に鉄の文化が定着する段階を指し示す、重要な発見となったのです。
教育委員会作成のパンフレットより
 
ほかにも3棟ほど建てられていたでしょうか。
これは竪穴式住居かな。
 
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いくつか建てられている解説はとても分かりやすい、親切なものです。
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(つづく)