特集:清潔社会の落とし穴

ピロリ菌の意外な効用

M. J. ブレイザー(ニューヨーク大学)

 

ピロリ菌(Helicobacter pylori)は

古くからヒトときわめて密接な関係を築いてきた生物だが,

その存在が認められるまでには1世紀以上もの年月を要した。

1875年にはすでにドイツの解剖学者が,

らせん状の細菌がヒトの胃の粘膜層にすみついているのを発見していた。

だが,この微生物を純粋培養できなかったために発見は無視され,やがて忘れ去られた。

 

 1982年にようやく,オーストラリアの医師マーシャル(Barry J. Marshall)と

ウォレン(J. Robin Warren)がピロリ菌の分離に成功し,

胃におけるこの菌の働きが真剣に研究されるようになった。

その後の10年間で,ピロリ菌に感染すると消化性潰瘍(胃や十二指腸の粘膜のただれ)を

発症するリスクが高まること,また,ピロリ菌は最も一般的な種類の胃ガンを引き起こす可能性があることが明らかになった。

 

 しかし,ちょうどピロリ菌の重要性が認識されだしたころ,

この菌がヒトの消化管から追い出されつつあることがわかってきた。

発展途上国ではほとんどの成人の胃にこの菌がすんでいるが,

米国などの先進国では保菌率はきわめて低い。

先進国ではこの100年間に,ピロリ菌は消滅の方向に進んできたと疫学者は考えている。

その理由として,衛生状態の改善によりピロリ菌の伝染が抑えられるようになったことと,抗生物質が広く使われるようになったことがあげられる

 

 ピロリ菌感染率が下がるにつれ,消化性潰瘍や胃ガンの発病率も低下した。

ところが,同時に酸逆流疾患や非常に死亡率の高いタイプの食道ガンなどの食道疾患が

劇的に増加し,こうした病気の増加にもピロリ菌の消失が関係しているという証拠が数多く報告されている。

 

 もしピロリ菌が食道疾患を防いでくれているとすれば,これには重要な意味がある。

たとえば胃からピロリ菌を除去する抗生物質療法については,

その利点と起こりうる有害な影響を天秤にかけて,ほんとうに有益かどうかを再検討する必要があるだろう。