メディア媒体が脳を脅かす
~前編~
maeyama (2014年1月20日 07:08)
 私たちの周りにあるテレビ、ビデオ、テレビゲーム、インターネット、携帯電話などのメディア媒体は、現代人にとって今や必須アイテムになっています。
 
先日、飯田線に久しぶりに乗って感じたのは、車内風景の様変わりです。私が高校へ電車通学していた頃は、友達と会話するか、試験直前なら学習書にかじりついていたものです。
 
今や、携帯電話(ほとんどスマホでしょうか)でメールやラインをしたり、ゲームに興じている高校生の多くを目にします。
 
電車車内に限らず家庭においても、メディア媒体があふれていて、高校生に限らず、小中学生も大人も、幼児でさえもテレビ、テレビゲームなどと接する機会が多くなっています。
 
一日の時間には限りがあるわけですから、当然、家族間の会話も少なくなるのは当たり前なのでしょう。
 
 最近、『脳内汚染』という本に巡り合いました。少年刑務所に勤務する精神科医
岡田尊司が書いた本です。
 
タイトルから想像できるように、現代において、いかにメディア媒体が私たちの心を
むしばんでいるかという内容です。
 
私としては大変ショックと感銘を受けた
本でした。メディア媒体すべてを否定するわけではなく、メディアが発する情報内容や接する時間が過度になると、脳が脅かされるというお話です。私なりに咀嚼して、皆さんにご紹介いたします。
 
犯罪の若年化、凶悪化が全世界的に起こっている
 
 この本では、日本や海外における子供による犯罪がいくつも紹介されています。1997年神戸で起きた14歳の少年による連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)では、小学生2名が死亡、3名が重軽傷を負いました。
 
皆さんの記憶にも鮮明に残っているかと思います。アメリカなどからは、少年が銃を使って友達や教師を無差別に殺傷する事件も聞こえてきます。2005年大阪府寝屋川市では、17歳の少年が母校の小学校教諭3名を殺傷した事件がありました。
 
この事件を契機にして、寝屋川市などでメディアの若者たちへの影響を詳しく調べた大規模なアンケート調査(寝屋川調査)が行われました。この本では、この寝屋川調査や海外での調査結果がいくつも示されています。調査結果のいくつかを紹介していきます。
 
テレビがもたらした犯罪や子供達への影響
 
 米国疫学コントロールセンターの疫学者センターウォール博士らが1992年に発表した論文での結論は、1960年代以降の犯罪の増加は、テレビの影響に帰せられるというもので、次のように述べています。
 
「テレビの技術が発達しなければ、アメリカにおける殺人の件数は、一万件少なくなり、レイプの件数は七万件少なくなり、障害の件数は七十万件少なくなっていただろう。」と。
 
米国のイーオンとヒューズマンが行った
八歳から三十歳になるまでの二十二年間にも
及ぶ八百七十五人の追跡調査では、
次のような驚くべき結果が分かりました。
 
三十歳の時点での攻撃性の強さは、今の時点でどれだけテレビを見ているかよりも、八歳の時点でどれだけテレビを見ていたかに大きく左右される。
 
さらに、八歳の時点でテレビをよく見ていた子供は、その後自らが父親、母親になった時、テレビをあまり見ていなかった人に比べて、子供をより厳しく罰する傾向がみられた。
 
これらの研究は、テレビの影響が、大人よりも小さい子供を直撃しやすく、しかも、その影響は二十年後にまで及び、犯罪行為や子供を育てる態度にまで影を落とすことを示しています。
 
 一昔前に比べると、マスコミも暴力的な場面を含んだ番組を控えるようにはなっていると思います。
 
ただ、人が当たり前のにように死んでいくアクション映画やアニメの放送、お笑いタレントを身体的にいじめて笑いを取るような番組が横行しています。
 
テレビのすべてを否定するわけではありませんが、大人達は番組の内容に注意を払い、特に小さな子供達には暴力的な場面を見せないようにすべきと思います。
 
ゲームやビデオの子供達への影響
 1990年代からテレビ以外のメディア媒体として家庭用ゲーム機やレンタルビデオが登場するようになりました。子供達にどのような影響を及ぼしているのでしょうか。
 
米国で行われた中学校2年生、3年生六百人あまりを対象にした研究では、暴力的なゲームやビデオに接触する機会が多い子供ほど、より敵意に満ち、教師とより頻繁に口論し、肉体的な暴力沙汰に関与しやすく、学校の成績も不良であるという結果が示されました。
 
また、映画やビデオにおける受動的な暴力シーンの体験よりも、ゲームにおける能動的な関与が行われることにより、暴力の学習という点においては、子供達への影響が深刻であるという結果が示されています。
 
メディア媒体がもたらす二分法的思考
 ダーティ・ハリーが犯人をバズーカ砲で吹き飛ばしたり、ランボーが腐敗した権力の手先の顔面に拳を叩き込み、首をへし折る。悪い敵を叩きのめすためなら、暴力は正当化され、賞賛すべき行為として描かれています。
 
ところが、この悪い敵であっても、愛すべき守らなければならない家族があるはずですが、そういった背景は無視されます。悪い敵は単純にやっつけられればいいという物事のとらえ方、つまり、世の中は善か悪、味方か敵しかないという二分法的な考え方を、この本の著者は問題視しています。
 
 寝屋川調査では、ゲームを長時間する子供では、「人は敵か味方かのどちらかだと思う」と答えた子供の割合が、ゲームをあまりしない子供での割合より、約二・五倍多かったという結果が示されています。この二分法的な考え方が、いじめという問題にも反映されています。
 
何か自分たちと違う所がある存在を見つけて、それを「単純化された悪」とみなして排斥し、執拗に攻撃を加え続ける、
 
しかもその行為が悪を排除する正義を行うような錯覚に陥っている行為、それが「いじめ」の本質と述べています。
 
思い通りになる存在を「良い存在」、思い通りにならない存在を「悪い存在」とみなし、「良い存在」もひとたび思い通りにならなくなると「裏切られた」と感じ、攻撃の対象になってしまう。愛している者を殺してしまうという類の事件の増加は、まさに二分法的な思考を抱えた人が増えている結果に他ならないという著者の主張は、的を得たものと思います。
 
暴力的な映像がもたらす感覚低下、悲観的思考
 
 映画や漫画などでは、ドライで同情や愛情さえ持たず、徹底的に自己中心的で冷酷であることがむしろ魅力的なものと思われる新たなヒーローが生まれています。
 
こうした暴力的な場面にさらされることによって、人々の心に起こる変化は感じないことであり、さらに感じないことが美徳とみなされるようになりました。虐待を受けて育った子供は、自分の苦痛に対しても他者の苦痛に対しても無頓着な傾向がみられます。
 
そして、自らが冷酷なことを平気でするようになる。これは、暴力に対する感覚低下の結果といえます。
 
 暴力的な映像に過剰にさらされることのもう一つの影響は、世界や人間というものを、悲観的に、危険で、希望のないものであるとみなす傾向を植え付けてしまうことであると、著者は述べています。
 
寝屋川調査では、ゲームを三時間以上する子供では、ゲームを一時間以下しかしない子供に比べて、「人が信じられないことがある」と答えた子の割合が二倍強でした。また、「傷つけられるとこだわり、仕返ししたくなる」と答えた子供も、同じく二倍強の割合でみられています。
 
いくら学校で、世界や人間への肯定的な見方を学ばせても、日々垂れ流しされている暴力的な映像が、そうした努力を台無しにしています。
 
元来、子供達は将来に対して楽観的なヴィジョンを持ち、希望にあふれているものです。最近の子供達に広まっている、人生や他者に対する悲観的で冷めた態度は、暴力的な映像にさらされ続けた結果だという著者の主張は、非常に納得のいくものです。大人たちはできる限り、子供達が暴力的な映像やゲームに接触しないように注意を払うべきでしょう。

 

 

 
メディア媒体が脳を脅かす~中編~
maeyama (2014年2月17日 07:14)
 今回も『脳内汚染』という本から、メディア媒体が脳に及ぼす悪影響について紹介いたします。
 
前編ではテレビの普及によって世界的に犯罪が増加したこと、ゲームやビデオが子供達に暴力を学習させ暴力に対する感覚低下を招いているということ、子供達に善か悪かという二分法的思考や悲観的な思考を植え付けているということなどをお話しいたしました。今回も、この本で大切な部分をかいつまんでお話しいたします。
 
子供部屋に侵入した麻薬
 
 ゲームの恐ろしいのは、麻薬にも匹敵した嗜癖(しへき)性であると著者は述べています。1998年権威ある科学雑誌『ネイチャー』に掲載された論文が紹介されています。ビデオゲームをプレイした時の脳内のドーパミンの放出量を調べたところ、コカインや覚醒剤が投与された時のドーパミン増加量に匹敵することが分かりました。ドーパミンとは気持ちいいと感じる脳内モルヒネの一つで、喫煙におけるニコチンの作用で脳内に多量に放出される物質です。麻薬患者が麻薬から離脱できない、喫煙者がなかなかタバコを止められないのと同様の嗜癖性が、ゲームにはあるのです。私にも経験があります。中学3年生の時に趣味であった天体観測のためにパソコンを買ってもらいました。このパソコンで、当時ローリングプレイゲームの走りであった『ザナドウ』というゲームにはまり、夜更かしをしてゲームに興じていたことを覚えています。受験生でもあったのでこれはいけないと思い、必死の思いでゲームを封印しましたが、この時の辛さは私が30歳頃に果たした禁煙と同じ感覚だったように記憶しています。
 
 ゲーム依存が大きな拡大を遂げた理由の一つとして、保護者の側に、テレビやビデオの長時間見過ぎることへの警戒心はあっても、ゲームに対しては比較的警戒心がなかったことを挙げています。確かに今でも、子供達へのクリスマスや誕生日プレゼントの重要な候補は、ゲーム機器やゲームソフトですね。ゲームが二十年前と同じ技術水準で、ほどよく飽きてしまうものであればいいのですが、コンピュータ技術の急速な発展により、今やゲームは極めて高いリアリティと刺激に満ちた仮想世界を現実のものとしています。ずっと飽きが来ないほどにワクワク興奮する時に脳内で起きていることは、麻薬的な薬物を使用している時や、ギャンブルに熱中している時と基本的に同じことなのです。子供達にコカインや覚醒剤をプレゼントする親はいません。ところが実際には、麻薬的な作用を持つ「映像ドラッグ」を子供達にプレゼントしているのかもしれないと、この著者は警笛を鳴らしています。
 
ゲーム開始年齢が低いほど危険!
 
 寝屋川調査では、小学校に上がるまでにゲームを始めた子の割合が二四%、小学校一、二年に始めた子の割合が四五%で、小学校低学年までに全体の七割近い子がゲームをするとの結果が出ています。ゲームを早く始めた子では、中学になっても長時間ゲームをする傾向がみられ、また、ヘビーな依存症状がみられるケースでは小学校に上がる前にゲームを始めた子が多いとの結果も出ています。さらに懸念されることは、ゲームを早くから始めた子では、現時点でのゲーム時間に関係なく、様々な問題点がより強くみられると指摘しています。「あまり考えずに、危険なことをしてしまうことがある」、「何事にも気力がなく、興味ややる気がわかない」、「人の気持ちが分かりにくく、ずれてしまう」、「注意が散りやすく、よそ見や忘れ物、ミスが多い」、「友達とケンカしたり、絶交したりが激しい」などです。また、ゲームを小学校に上がる前に始めた子では、現在ゲームをあまりしない子でも、勉強時間が短く、休憩時間以外に友達と遊ぶ時間も短い傾向がみられています。
 
 就学前という人生早期の、脳の最も重要な形成段階で、ゲームや刺激の強いメディアに容易に触れることは、後に思ってもみない災いを引き起こしかねないのです。保護者は、お子さんの大切な人生が、その準備段階で損なわれることのないように注意すべきといえます。
 
損なわれる心の発達と幼くなる現代人
 
 ゲームが子供たちの社会的成長に及ぼす影響について、著者は二つのことを述べています。一つは、ゲームで遊ぶこと自体が、子供の心や脳の発達に及ぼす悪い影響です。もう一つは、ゲームで遊ぶ時間が増えることにより、子供が友達と交流する遊びの中で、社会的なスキルを高め、共感性や他者に対する配慮や常識を身につける機会が奪われているという影響です。
 最近の中学生、高校生、さらには社会に出る年齢の若者においてさえ顕著にみられる傾向は、「幼くなっている」ことだと述べています。突発的な事件を起こした子供すべてにおいても当てはまるといいます。彼らの心は十代後半にあっても、ある部分において、六~八歳の子供たちの特徴的は傾向を示しています。
その特徴は次の五つです。
①現実と空想の区別が十分でなく、結果の予測能力が乏しい。
②相手の立場、気持ちを考え、思いやる共感能力が未発達である。
③自分を客観的に振り返る自己反省が働きにくい。
④正義と悪という単純な二分法にとらわれやすく、悪は滅ぼすべしという復讐や報復を正当化し、
その方向に突っ張りやすい。
⑤善悪の観念は、心の中に確固と確立されたものではなく、周囲の雰囲気やその場の状況に左右される。
小学校低学年レベルから高学年レベルへの心の成長がうまく起こらないまま、それが中学になっても、高校になっても、
青年になっても続いている、つまり現代においては、人々の心がどんどん幼くなっているという相当深刻な状態があります。
そこには、現実の存在よりも、メディアが提供する、単純化された仮想の存在に親しみすぎた世代の弱点が露呈していると
著者は述べています。
 
メディアによって自我理想像がゆがめられている
 
 有史以前より人間にとって四歳からの成長として大切なのは、母親の膝元を徐々に離れ、同年代の子供達と遊び、父親や年長者に連れられて、新しい体験の場へと出向くことです。特に、父親との関係が重要と考えられています。ところが現代の子供達では、この時期になると、メディアとの接触が急速に存在感を増していきます。子供が自ら進んで求める場合もあれば、親や大人の方から与える場合もあります。親や大人達は、自分で子供の相手をする代わりに、メディアに読書親子.jpg子供の相手をしてもらおうとします。本を読んだり話を聞かせるよりも、ビデオを見せた方が手っ取り早いし、子供も喜ぶ。外で体を使って遊ぶ相手をするよりも、ゲームをさせておいた方が、親も休日をのんびり過ごせるし、子供も機嫌がいい・・・私の小さい頃(四十年以上前ですが)を思い出してみると、ビデオやゲームはありませんでしたから、暗くなるまで友達と外で遊びまわっていたし、家では何かしら弟と遊びを探して過ごしていました。冬の寒い時期は、休日には必ず両親にスキーに連れて行ってもらいました。ところが、私の子供達(高校生、大学生ですが)の小さい頃は、どうだったでしょうか。前述にあったようにメディアに子供達の相手をしてもらうことが多かった・・・今になって反省します。
 
 著者はこうした現代の当たり前の習慣が、かなり恐ろしいことを起こしていると憂慮しています。つまり、人生を決定づけるといっても過言でない自我理想像を形成する段階において、子供たちは父親や母親、学校の先生、歴史上の偉人ではなく、メディアの中の存在を理想像として心に刷り込んでしまうのです。超人的な戦闘能力で敵をなぎ倒すヒーローであったり、魔法の力で何でも思い通りにしてしまう便利な存在だったりをです。なぜ、現代の子供達が父親や母親に対して、尊敬や親しみさえ抱かず、まるで異物に対するような目を向けて平然としているのか、冷酷に暴力をふるうことさえ平気でしてしまえるのか、根本的な原因がここにあると著者は指摘します。マンガやアニメの主人公、映画やドラマの俳優のようなパーフェクトな存在に理想を求め過ぎれば、現実の存在はあまりに不完全な存在です。メディアによって自我理想像がゆがめられると、現実の存在に対しては、相手の不完全な部分にばかり注意を向け、否定的でシニカルな見方をしてしまうのです。
 メディアが発達したことで、私達の生活は大変便利になりました。しかし、その反面で、人間の心を豊かにするという大切な面が著しく脅かされていると感じます。紙面の都合上、『脳内汚染』で語られていることを、次回もお伝えしたいと思います。 

 

 

 

 
メディア媒体が脳を脅かす~後編~
maeyama (2014年3月24日 07:23)
 今回三回目になりますが、
『脳内汚染』という本から、メディア媒体が
脳に及ぼす悪影響について紹介いたします。
 
中編では、ゲームが麻薬に匹敵する依存性が
あること、ゲーム開始年齢が低いほど
子供の健全な成長に悪影響を及ぼしやすい
こと、メディア媒体が現代人の心を幼くし自我理想像をゆがめていること、などを
紹介しました。
 
この後編では、メディア媒体と無関係で暮らすことができない現代社会にあって、
どのような関わりが望ましいのかという著者の提言も含めて、お話しいたします。
 
ゲームやネットが前頭葉の機能を低下させる!
 
 人間が人間である一番のゆえんは、前頭葉、中でも最も前側に位置する前頭前野の
発達です。
 
前頭前野は人間の脳の約三分の一を占めており、サルから人間への脳の進化は、脳全体が
大きくなったのではなく、前頭前野が前側にせり出す形で発達したことと考えられています。
 
前頭前野の成熟は、他の脳の領域と比べて非常に時間を必要とし、大人になるまで発達し続けます。前頭前野は、対象を選択し、注意を維持し、目的をもった行動を行っていくとともに、様々な情報や情動を統合し、決断を下し、危険を回避し、行動をコントロールしていく、まさに「理性の座」というべき機能を担っています。
 
 寝屋川調査では、ゲームやネットを長時間やる子供たちにおいて、そうでない子供たちよりも、統計的に有意に高い割合で認められた前頭葉の機能低下に関係する項目十二が示されています。
 
①「あまり考えずに行動したり、危険なことをしてしまう」慎重さの欠如。
②「イライラしやすく、かっとなると暴言や暴力になってしまう」爆発性。
③「じっと座っていることができず、たえず動きたがる」多動、抑制欠如。
④「怒ったり、泣いたり、感情の波が激しい」気分易変性。
⑤「反省するのは苦手である」自己反省力の低下。
⑥「飽きっぽく計画的に物事ができない」無計画、持続的努力の困難。
⑦「気が散りやすく、よそ見、忘れ物、ミスが多い」注意散漫。⑧「自分の興味のあることには集中する」関心の限局性、固執性。
⑨「人付き合いや集団は苦手である」非社交性、孤立傾向。
⑩「一方的に喋ったり、場違いな発言や行動をしてしまう」共感性、状況判断力の低下。⑪「自分には特別なところがあると思う」自己中心性、責任転嫁。
⑫「何事にも気力がなく、興味ややる気がわかない」無気力・無関心。
 
 これら項目に関する質問をスコア化し、平均得点を求めて「前頭葉機能スコア」とし、ゲームなどのメディア利用時間との関係をグラフにしたものを示します。
http://suzuran-maeyama.com/blog/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%A8%E5%89%8D%E9%A0%AD%E8%91%89%E6%A9%9F%E8%83%BD.jpg
図19が生徒本人による回答をもとに十項目より算出したものです。グラフを見ると、ゲームプレイ時間が長くなるにつれて低下が目立ち始め、三時間、四時間以上の子供では、顕著な前頭葉機能の低下がみられることが分かります。
ADHD、アスペルガー障害、学級崩壊の問題
 少し専門的な話になりますが、現代における子供たちの心の発達の問題にも触れておく必要があります。ADHDとは「注意欠陥/多動性障害」の略称ですが、今やADHDの子供が児童外来にあふれているようです。このタイプの子供たちは、授業中に周囲の状況と無関係に発言したり、立ち歩いたり、時には教室からいなくなったりします。クラスにADHDの子供が二、三人いると、授業が成り立たなくなる学級崩壊が起こりやすくなります。当初、ADHDは高い遺伝性のあることから、脳の構造的、生物学的要因に原因があると考えられてきました。ところが、この三十年程前よりADHDの子供が急速に増えたことから、遺伝性の問題だけではなく、環境的な要因が非常に大きく作用していると考えられるようになりました。
 
 ワシントン大学の小児科医のチームは、一歳と三歳の時にどれくらいテレビを観たかを調べ、その子供たちが七歳になった時点で、注意力の評価を行いました。その結果、一歳、三歳の時点でテレビによく接していた子供たちは、注意力に多くの問題があることが分かりました。テレビは絶え間なく場面が変わる性質を持つため、子供たちは魅入られたように画面を見つめます。ところが、そのために短いタイムスパンで注意を集中することに慣れ、長い時間の注意の集中が困難になります。テレビは便利なお守り役であるため、お母さんは家事の合間についつい子供にテレビを見せてしまいがちです。しかしながら、もともとADHDの素因を持った子供ではその症状を助長することになるため、注意が必要です。
 
 広汎性発達障害は、①対人関係における消極性、②相互的なコミュニケーションの障害、③興味や関心の限局性やこだわりの強さを特徴とする心の発達障害です。広汎性発達障害の中で、知能が正常範囲で、言葉の発達にも障害がみられないものを「アスペルガー障害」と呼び、男性では数%の罹患率で、現代では比較的よく見られる病気になっています。対人関係や集団生活が円滑にいかず、周囲の理解がないと孤立したり、いじめのターゲットにされることもあります。その一方で、集中力や狭く深い興味を活かして、研究者や技術者として成功することもあり、実際に、学者や研究者には、アスペルガー障害やその傾向を持った人が多いといわれています。
 
 ADHD、アスペルガー障害などの脳の発達障害がこれほど身近になったのはなぜでしょうか?著者は現代の若者が、前頭前野などの脳の発達にとってマイナスになるゲームなどのメディア媒体に、より早い時期からさらされているためと述べています。
 
メディア漬けから子供たちを守るには?
 
 つい先日テレビで、日本人のギャンブル依存症罹患率が世界一と紹介されていました。日本独特のパチンコが主要な原因と思いますが、何とも恥ずかしいデータです。また、2020年東京オリンピック開催に併せて、法律を改定してカジノを日本に作ろうという報道もされていました。経済効果は高いかもしれませんが、カジノを誘致すればギャンブル依存症の日本人を増やすだけですし、子供たちにも悪影響であることは目に見えています。良識のない日本人が増えていることを憂慮さぜるを得ませんが、そう言ってばかりもいられません。著者は、競馬やパチンコに適用されているルールが最低限必要だと主張しています。つまり、未成年者や学生に、高い嗜癖(しへき)性や有害な内容を含むゲーム、ビデオ、ネットサイトなどの利用を禁じる法制度の確立をすべきと訴えています。メディアを提供する企業としては、収益を優先させるあまり、このような法律の成立には抵抗があると予想されますが、現実に起きている子供たちへの被害や影響の大きさを考えると、その様な法律は必要ではないでしょうか。
 
 この『脳内汚染』の著者は、少年院に勤務する精神科医です。そのような背景もあって、心に問題のある子供達を施設や病院で診る機会があり、大変興味深いことを述べています。たとえば、施設に来た子供たちが元気になり、社会性を回復していく上で、様々な働きかけとともに、ゲームなどが「できない」環境が重要な役割をしていると述べています。社会にいる時は毎日数時間をメディアに浸っていた子供たちは、代わりに現実の人間の中でもまれながら過ごすことになります。その体験は、一人でゲームをしながら部屋にこもっているよりも、不快でわずらわしいことに思えますが、そうした日々の中で、彼らは人と交わることの楽しさや喜びに目覚めるそうです。病院に入院した若者たちも、ゲームやネットが思うようにできない、好きな番組が「見られない」環境で、最初はイライラしたり、人となじもうともしませんが、そのうちに憑きものが取れたように表情が柔らかくなり、人との交流を楽しむようになるそうです。施設や病院の話は決して特殊な例ではなく、すべての燃え尽きた心の回復に当てはまると著者は言います。宗教的な場所であれ、修練のための場所であれ、そこには過剰な刺激と情報から守られた『静寂』があり、それによって程よく不足した状態が生まれ、そこから再び生きようとする力が蘇るのだという著者の言葉には説得力を感じます。
 
 一般の家庭ならテレビを付けっ放しにせず、見たい番組が終わったらさっさとスイッチを消す(これは私の親からされていました)、せめて出かけたり旅行に行った時は、ゲームやテレビはなしという取り決めをする、などは実行可能なことではないでしょうか。
最後に印象的な著者の言葉を引用して、このシリーズを終わりにしたいと思います。
 『絶えず情報に脳をさらし続けることをやめ、刺激のない状態の静けさや、安らかさを、心と脳に取り戻してやることが大切なのだ。新たな刺激を際限なく求め続けることは、長期的に見れば、心をどんどん鈍麻させ、幸せを感じにくい心を作り出してしまう。ささやかな楽しみが楽しみとして感じられることこそが、幸せの本質なのである。