広島・長崎の新型爆弾調査を探る
-理化学研究所の研究者が残した2冊の日記-
仁科芳雄(1890~1951)
 日本を終戦に導く2発の新型爆弾が広島、長崎に炸裂(さくれつ)し た。仁科芳雄(主任研究員)をはじめとする理化学研究所の研究者たちは、当時、行くことも非常に困難だった現地に赴き、新型爆弾の調査を行い、原子爆弾と の確証を得る。記念史料室には、当時の調査状況を克明に記した篠原健一(当時・九州大学教授、のちに主任研究員)、木村一治(西川研究室)による2冊の日 記が保管されている。その内容をひもとき、理研の科学者が果たした役割を紹介したい(敬称略)。
 1945年(昭和20年)8月6日、広島に新型爆弾が投下された。仁科は、玉木英彦(仁科研究室)に一通の手紙を残し、大本営参謀本部の要請で 同調査団とともに現地に入った。8月7日付のその手紙の冒頭には「今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来 たと思う」と記され、仁科の沈痛な決意が示されている。「ニ」号研究とは、日本における仁科を中心とした原子爆弾研究そのものであり、トルーマン声明は、 米国による原子爆弾開発成功を宣言するものだった。
日赤病院のフィルム保管庫(撮影:菊池俊吉氏)  翌8日、仁科は爆心と思われる西練兵場付近を調査した。さらに、被爆した銅線、ゴム、セメントなどを採取し、理化学研究所に空輸便で送り、放射能の検査を指示する。仁科から送られたサンプルは10日、木村によりローリッツェン電位計を用いて放射線の測定が行われ、銅線から放射線が検出された。木村の日記に は「午後広島より空路サンプルがついた。先づ電線のactivityをみるにNaturalの三倍程度の弱activityがある」と記述されている。
 仁科は放射線の測定のほか、X線フィルムの探索を大本営調査団に指示した。保管されているフィルムが強い放射線により感光されている可能性があるから だ。仁科の指摘は的中し、日赤病院のフィルム保管庫から感光したX線フィルムが発見された。また、放射線による白血球減少なども示唆する。これらの事実 は、8月10日に広島の補給兵廠(しょう)で行われた大本営調査団による陸海軍合同の研究会議で、新型爆弾は「原子爆弾」であると認定される理由となる。篠原は九州大学代表として会議に出席。日記のなかで「仁科博士、荒勝教授アリ、阪大浅田教授ト会フ」と書き残す。
 大本営調査団は、この日の研究会の結論を「判決」として報告し、その主な理由を「日赤病院保管の写真フィルムの感光」「中心部付近の土砂の放射能の存 在」「人体の白血球の著しい減少」とした。これらは、仁科の調査団への示唆によるものが大きく、この「判決」が終戦に少なからず貢献したことは間違いな い。
木村博士(左・複製)、篠原博士(右)の日記  一方、木村と玉木は、原子爆弾に対する科学的な調査を行うため、軍の御園生圭輔少佐とともに広島に向かった。8月14日から4日間、現地で調査を実施。当 時の木村の日記には、「だれも未だ放射能関係を測定した者は居ないらしい。午後似の島の研究室にて測定をする。似の島で死んだ人の頭ガイ骨に Naturalの10倍程度のactivityのあることを知る。Uranium bombなることを確定せり」(15日)。「夜、護国神社西南40mにて拾った馬の骨に非常に強いActivityをみる」(17日)と記しており、精力 的に原子爆弾に関する調査を行っている様子が伝わる。
 木村らは8月18日に広島から戻り、原子爆弾(広島)の調査報告書をまとめる。その後、木村をはじめ、多くの理研の研究者が広島、長崎におもむき、爆心 の確定など、次々と科学的な成果を上げ、原子爆弾投下直後の貴重なデータを後世に残した。仁科は原子爆弾の研究に関与していたからこそ、科学的調査の重要 性を強く感じていたのではないか。

木村一治博士に関する遺品は正子夫人より、篠原健一博士に関する遺品は長男・彰一氏より寄贈していただきました。感謝申し上げます。


広島・長崎の新型爆弾調査を探る(その2)
―理化学研究所の研究者が残した研究成果―

 広島、長崎に投下された二発の原子爆弾。理化学研究所の研究者は、“爆心の推定”、“光の炎の大き さ”、“放射線の数値分布”など原爆投下直後の貴重な科学的データを後世に残した。また、仁科芳雄(主任研究員)の協力・指導により原爆映画の撮影班が組 織され、調査の様子が克明に記録された。記念史料室には当時の調査を支えた観測装置などが保管されている。それらを紹介するとともに、理研の研究者が残し た研究成果をひもときたい(敬称略)。

広島爆心地域を訪れた調査団(撮影:林重男氏)
  広島、長崎の街を一瞬にして廃墟とした原子爆弾。理化学研究所の研究者は終戦後も、その被害状況をつかむため精力的に調査を行う。1945年(昭和20 年)9月14日には、文部省の学術会議が「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を組織し、調査団が結成される。この調査団には多くの理研の研究者が関わり、 物理班は今までの仁科研究室の調査を基本に活動を行った。さらに調査には「原爆記録映画」の撮影班が同行し、貴重な映像を残している。

 木村一治(西川研究室)、田島英三(仁科研究室)は9月23日に広島に到着し、調査を開始。9月28日には、宮崎友喜雄(仁科研究室)、佐々木忠 義(同)、池田正雄(同)が宇宙線の観測のために用いられていた「ネーヤ電位計」を携えて広島に到着、ガンマ線の測定を行い、爆心地の放射線分布図を作成 した。また、木村、田島は原子爆弾の熱線により焼き付けられた影を精力的に測定し、“爆心”と“光の炎の大きさ”を推定する。

図1 影から割り出した広島の爆心地図   木村らによる報告書によれば、「商工会議所の屋上塔の影」と「中国配電ビルの屋上の影」、「猿猴橋信用組合ビル屋上の防空監視哨、軒先の影」、「皆実町の ガス・タンクの影」などの状況から爆心を計算し、その結果「護国神社の鳥居の南方約200m、東へ30mの島病院玄関あたり、高度570m±20m(図 1)」と計算した。また、影の濃淡から“光の炎の大きさ”は、直径150mとした。

 一方、長崎は、篠原健一(九州大学教授、のちに主任研究員)の調査が基本となった。その後、木村、田島により広島同様、影の測定が行われる。「仁 科報告」(原子爆弾災害調査研究特別委員会・第一回報告会での物理班の調査報告)によれば、推定された爆心は、「松山町170番地テニスコート跡、高度 490m±25m」(図2中:O地点)とし、光の炎の大きさは直径140mと算出した。

図2 調査によって明らかになった長崎の爆心   さらに12月25日には、増田時男(仁科研究室)、坂田民雄(同)、中根良平(同)が「ネーヤ電位計」で長崎全域および爆心の放射線測定を行った。調査で は、爆心より東方の西山貯水池付近で非常に高い放射線値が得られ、そこから東に向かっても広範囲にわたり高い放射線値が測定された。また、爆心の測定で は、当初、影から求められた位置よりも約40m南(図2中:N地点)に放射線値のピークがあることが判明する。

 これらの科学的調査を支えたのが「ローリッツェン電位計」であり「ネーヤ電位計」であった。「ネーヤ電位計」は、仁科らによって行われた宇宙線観測に用いるために購入された。その後、宇宙線の観測は大型電離函(ばこ)や大面積のガイガー計数管に取って代わられ、「ネーヤ電位計」は理研の倉庫に収納され、忘れられた存在になっていた。ネーヤ電位計しかし、野外測定用に頑丈にできていたことが幸いし、再び日の目をみることになる。今は、当時の調査を物語る貴重な資料として記念史料室に保管されている。

坂田民雄博士に関する資料は君子夫人より寄贈していただきました。感謝申し上げます。


http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2000/nov/#kin_01
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2000/dec/#kin_01
より引用

上記の「理研ニュース」の記事によれば、仁科博士を筆頭とする調査チームは、現地で放射線を測定したほか、銅線等のサンプルを採取して理研本部に空輸して放射性物質の存在について測定を行った。もし本当に核爆発が起こったのだとしたら、発生する中性子線で銅等の金属が放射化(中線子線などの照射を受 けた物質が放射能を持つ物質に変化する現象)が起きているはずだからである。また、調査チームは、広島市内の病院に残されていたX線フィルムを集めて確認 した。核爆発が起きたのだとすれば、大量のX線が発生しているので、X線フィルムは感光しているはずだからである。また、調査チームは、広島にいた人々の 血液の状態も調べた。大量の放射線を浴びた人には、白血球の減少等の症状が現れるからである。これらの様々な測定がただちに行われたということは、仁科博 士らが原子爆弾が投下されたらどのような現象が起こるのかを正確に知っていたことを意味している。

 調査の結果は明らかだった。上記の「理研ニュース」の記事によれば、調査結果は、長崎にも原爆が投下された翌日の8月10日に広島の補給兵廠 (しょう)で行われた大本営調査団による陸海軍合同の研究会議で報告され、研究会議はこの新型爆弾が「原子爆弾」であるとの判断を下した。

 4日後の8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを決定した。この日本政府の決定は、翌8月15日の正午から行われた昭 和天皇の玉音放送によって、全ての日本国民に伝えられた。昭和天皇自身によって読み上げられた終戦の詔書は以下のとおりである。

(参考URL3)国立公文書館ホームページ
「終戦の詔書」(テキスト)
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017/017tx.html

「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
(中略)
交 戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵 ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナ リ
(後略)」

 上記の部分を口語文で書き下すと以下のとおりである。

 「私(昭和天皇)は世界の大勢と日本が置かれた現状とに鑑みて、通常とは異なる措置を採ることによって時局を収拾しようと考え、善良なる国民に対 して告げる。私は、日本政府に命じてアメリカ・イギリス・中国・ソ連の四か国に対して、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨通告させた。

(中略)

戦いは既に四年になろうとしている。日本の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、日本政府の官僚は懸命の努力をし、全国の一般国民のそれぞれが最善を尽くした のにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢もまた日本に有利にはならなかった。それに加えて敵は新たに残虐な爆弾を使用して、みだりに罪もな い人々を殺傷し、その惨状は実に想像を絶する事態に至っている。それでもなお戦争を継続すべきなのだろうか。もしこれ以上戦争を継続したならば、日本民族 の滅亡を招くばかりでなく、結局は人類の文明をも破壊してしまうことになるだろう。もし、そのようになることになるとすれば、私は、どのようにしたら多く の日本国民を守り、天皇家の祖先の霊に対して謝ることができるというのだろうか(そのようなことは決してできない)。これが私が日本政府に共同宣言(ポツ ダム宣言)を受諾するよう命じた理由である。

(後略)」

 この終戦の詔書は、終戦を決断した最終的な理由として、明示的に原子爆弾が投下されたことを指摘している。しかも、原子爆弾が存在する状態で戦争 を続けると「日本民族の滅亡を招くばかりでなく、結局は人類の文明をも破壊することになる」と述べ、核兵器がこの世に現れたことの意味を正確に述べてい る。このように原子爆弾が実際に投下されてから1週間も経たないうちに、その事実を正確に把握し、その影響を正確に評価できたのは、仁科博士等科学者が当 時原子爆弾に関して極めて正確な科学的知識を持っており、当時の政府や軍の首脳も原子爆弾が与える影響について正確に理解していたからである。

 調査団に加わったある科学者は「米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を収めたのである」と書き残したが、原子爆弾に対する正確な科学者の知 識が、日本に無謀な戦争の継続をさせなかった、という点において、日本の研究者は敗北を喫したわけでは決してなかった、と私は思っている。

 なお、仁科芳雄博士は、量子力学の創始者の一人であるニールス・ボーアが設立したニールス・ボーア研究所で研究し、後にノーベル賞を獲ることにな る湯川秀樹博士や朝永振一郎博士を指導したりしている(前回述べたテレビ朝日の番組によれば、朝永振一郎博士も「二号計画」に参画していたとのことであ る)。仁科芳雄博士は、今では日本の「お家芸」とも言える日本の素粒子物理学の基礎を築いた方であるが、上記に述べたように、日本の歴史に対して直接的に 大きな影響を与えた方でもある。基礎的な科学技術に関する研究や知識が現実的な歴史の進展に対して極めて大きな影響を与えることがある、という典型的な例 として、日本の終戦と仁科芳雄博士との関係について述べさせていただいた。


http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2257.html より抜粋引用

と言うことであるが、ノーベル賞は、ロスチャイルドの利権である。ここまで正確に原子爆弾の事を理解していた日本であるが、実際に使用したのは、アメリカであった。
では、何故にアメリカで発明できたのかをよくよく考えてみよう。

以下に引用する

★湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係  鬼塚英昭

 この章では、主として原爆被爆者と国家との関係について記すことにする。しか し、私はすこし廻り道をしようと思う。それは、日本初のノーベル賞(物理学)学者である湯川秀樹について書いておきたいと思うからである。まずは、先に1 度引用した中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』から引用する。

 中略

 湯川秀樹はコンプトンの案内で各種の実験装置を見て回る。そして、20人ばかりの関係者が集まった会議室で講演をする。その内容を翻訳して伝える技術を私は持たないので以下は省略する。
 私はこのときから、湯川のコンプトンや他の学者たちとの交流が始まったとみている。
  渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』に戻ろう。渡部は「軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬ」と書いているが、私が調べた範 囲内で、日本の原子物理学の理論面での研究では、ある分野(中間子理論)では世界的水準に達してはいたと思えるが、どうも納得がいかない。日本の原爆研究 で、アメリカにとって投に立ったものがあるとは思えない。
 有馬哲夫が「月刊現代」(2008年1月号)で、「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」という記事を発表している。その中に、次のような文章がある。

 ・・・たしかにバーグは、ハイゼンベルクが1944年のクリスマスにスイスの チューリッヒにやってきて講演することを突き止め、現地に入り実際にそれを聴いている。だが、彼が12月30日に本部に送った報告書には、ナチス側の潜在 的原爆開発者としてハイゼンベルク配下の科学者の名前があげられているだけだ。ちなみにそこには「キクチ(菊他正当時大阪帝大教授)」、「ユカワ(湯川秀 樹、当時東京(ママ)帝大教授)」の名前も言及されている。・・・

 私は、トマス・パワーズの『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』(1994 年)を読み、ハイゼンベルクがたしかに、1944年のクリスマスにスイスのチューリッヒで講演をしている事実を確認した。しかし、このハイゼンベルクの生 涯を追求した本の中に日本人の2人の原子物理学者の名前を発見できなかった。それだけではない。私はこの本を読み、ドイツの原爆は、他の本に書かれている のとは異なり、未完成であった、と思った。だから、私はドイツの原爆製造についてほんの少ししか書かなかったのである。
 それでも、湯川秀樹に は疑問が残る。ノーベル物理学賞受賞の理由は、彼の「中間子理論」による。この理論は仁科芳雄とその弟子たちが湯川秀樹に先んじて構想し、理論化しつつ あったものであった。たしかに小沼進二編『湯川秀樹日記』(2007年)を読むと、湯川秀樹の中間子理論への情熱のすごさがうかがえる。彼は仁科芳雄たち に先んじて英文で書き発表した。アメリカの物理学者は彼を自国に迎えた。全米各地の大学で湯川は歓迎される。その様子を彼は「アメリカ日記」の中に書いて いる。
 湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒勝教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している。私はこの理論面で の原爆研究のデータがシカゴ大学のコンプトン研究所に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン 博士から湯川秀樹のもとへ伝わったと信じている。
 小畑弘道の『被爆動員学徒の生きた時代』(2007年)から引用する。湯川秀樹が登場する。

 ・・・ところで、同じ市内にあった学校でも、農村部に疎開をしていて難を逃れたところもある。陸軍広島幼年学校と広島高等師範附属中学校である。
  前者は、将校生徒を育成する目的で全国6ヵ所に開設された学校で、広島幼年学校(「広幼」)は、1897年(明治三〇)に開校された。〔中略〕疎開は6月 に行われ、49期生と47期生が高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に、また48期生が甲奴郡上下町(府中市)に移住していた。生徒の総勢は670名ほどで あった。なお、疎開のことを陸幼では「転営」と言っていた。・・・

 「幼年学校」といっても、現在の中学1年から高校生にあたる生徒たちであっ た。彼らは、第二総軍の畑元帥の命を受けて6月に「転営」となった。「6月」に注目したい。広島に原爆が投下することがほぼ決定したときである。畑元帥の おかげで彼ら670名は助かったが、広島高等師範附属中学を除いた学校の子供たちは、強制疎開という名の駆り出しを受けて死んでいったのである。ここにも 畑元帥の奸計が読み取れよう。続きを引用する。

 ・・・一方、広島高師附属中学校は千田町(現在の広島大学千田キャンパス付 近)にあり、ここも爆心地から1、5キロであり、疎開をしていなかったら大きな犠牲が避けられなかったところである。附属中学の1年生120人は賀茂郡原 村(現在の東広島市)へ、2年生120人は豊田郡戸野村(東広島市)、また科学学級は比婆郡東城町(庄原市)へと疎開した。疎開の名目は、一応「農村動 員」としていた。このうち科学学級というのは、44年2月にスタートした理数系に秀でた生徒を集めたもので、全国では東京、京都と広島にあった。戦況が厳 しさを増すなかで、いわば速成で科学者の卵を養成しようとしたもので、湯川秀樹博士らの進言と軍の後押しで創設されたものである。生徒たちは動員に出るこ となく、ずっと授業を続けていた。・・・

私はこの小畑弘道が淡々と書く文章を読みつつ、『原爆は8時15分に落ちたのか』を読んだときと同じ思いを抱いた。「湯川秀樹は原爆投下について事前に知っていた」と。
 そしてまた次のようにも思った。「彼は間違いなく、日本の原爆研究のデータをコンプトン研究所に流し続けていた」と。そしてまた次のように思った。「少なくとも仁科芳雄と2人で受賞するべきノーベル賞が、湯川秀樹単独の受賞になった」と。

 馬場重徳(科学者)の「仁科芳雄功績調書」(1946年2月11日の文化勲章授章のための功績調書として作成されたもの。日付不明)の中に「量子論に関する業績」が載っている(『仁科芳雄往復書簡集1 現代物理学の開拓』2006年)。

 ・・・殊に阪大の湯川博士の中間子理論には当初より多くの関心を示した。この 理論は昭和12年、宇宙線中に予言されていた新粒子が発見されるに及んで、世界の学界の注目の的となったが、仁科博士は或いは研究室における宇宙線の実験 的研究を以て協力し、或いは、関西と東京との理論的物理学者の会合を屡々主催するなど凡ゆる援助を惜まず、湯川博士の理論の完成に尽力した。・・・

 ロバート・K・ウェルコックスの『ジャパン・シークレット・ ウォー』(1995年)がアメリカで出版された。あたかも、日本が本格的に原爆製造に着手しているかのごとくに書いているが、丁寧に読むと、その製造がマ ンハッタン計画に比して、全くの初歩的なものであったことが分かるの
である。次のように湯川秀樹について書いている。

 ・・・荒勝は才能のある研究者のグループを持っていた。特に、1949年に ノーベル物理学賞を貰った湯川秀樹がそのグループの中にいた。湯川は1939年以降、核分裂によるエネルギーの計算をし続けていた。湯川は世界での理論物 理学の分野で有名な1人であった。荒勝はそんな湯川を彼の意のままに使ったのである。・・・

 ウェルコックスの本の中に、海軍が京都大学の荒勝研究室に与えた研究費は 1500ドルであったと書かれている。マンハッタン計画は20億ドル以上の金が使われた。この点から見ても日本の原爆製造物語は書く気にもなれない。しか し、戦後、湯川は原爆研究に関係したとは一切語っていない。彼は都合の悪いことはすべて封じ込めてしまった。
 この頂の終わりに、湯川の戦後の活動について書いておきたい。
 湯川は、朝永振一郎、坂田昌一との共著『核時代を超える』(1968年)の中で次のように書いている。

 ・・・世界平和を念願する人たちの活動の仕方は多種多様であった。しかし、そ れらの人々の出発点は同じだった。原爆投下、それからまた水爆実験があたえたショックは強烈であった。核兵器を廃絶し戦争を廃絶しなければ、人類の前途は 暗黒だと直覚したのである。非常に多くの人々に共通するこの直覚を、最も簡明率直に表現したのが1955年のラッセル・アインシュタイン宣言であった。そ れは人類の良心の叫びであると同時に、新時代に処すべき人間の良識の具現でもあった。この宣言は、その最後において世界の科学者および一般の人たちに次の 決議に署名するように呼びかけた。
 「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続を おびやかしていくという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう 勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的手段をみいだすよう勧告する」
 このラッセル・アインシュタイン宣言の呼びかけは無駄ではなかった。当時ほとんど不可能と思われていた東西両陣営の自然科学者の討議の揚が出現した。それが1975年の第1回バグウオッシュ会議であったのである。・・・

カナダにあるバグウォッシュという名のホテルは、「死の武器商人」であるサイラス・イートンが持ち主である。この会議は、朝鮮半島、ヴェトナム戦争で武器を売りまくり、巨万の富をつくった男が主催した会議である。
 この会議の最後には巧妙な〔仕掛け〕があった。それはアイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンを、会議が「次期アメリカ大統領にふさわしい」と宣言したことである。
J・F・ケネディは核実験反対を唱えていた。ニクソンは核実験継続を唱えていた。バグウォッシュ会議は続けられていくが、その費用は、あの原爆を広島と長崎に落とした連中が出し続けたものであった。
 同じ湯川、絹永、坂田共著の『平和時代を創造するために』(1963年)の中で湯川は次のように書いている。

 ・・・それなら、その他の条件とは何か、また最終目標は何かという点になると、ラッセル・アインシュタイン宣言は、はっきりしたことは何もいっていない。
ラッセルもアインシュタインも共に早くから世界連邦主義者であったから、おそらく両氏とも心の中では、最終目標として世界連邦のイメージを描いていたと思う。しかし多くの科学者の賛成を得るためには、そこまで飛躍しない方がよいだろうと判断したのであろう。
私自身も世界連邦の理想には以前から大いに共鳴しているが、科学者の会議でそれをはっきりとだしてよいかどうかについては、いろいろと問題があったと思う。・・・

 この本は1963年に出版された。湯川は生涯、世界連邦主義者として活躍した。
 私はこの世界連邦主義を唱えた連中が、国際金融寡頭勢力から操られた人々であることを研究し尽くしている。
その詳細は省くが、バートランド・ラッセルも、アルバート・アインシュタインも、原爆を日本に落とした金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン・・・等の〔雇い犬〕であったと書いておく。

 世界を1つの政府が支配するという思想ほどに恐怖に満ちた思想はない。原爆を 落とした奴らは、この思想を平和思想という。私は平和とか平和主義とかいう言葉を嫌悪する。この西洋からたれ流された「ピース」を拒否する。私たちは汚れ ちまった「平和」という言葉に代わる、新しい思想を打ち立てて、世界連邦主義者たちに立ち向かわねばならない。

 湯川は自分が原爆製造に関わったことをすっかり忘却し、ひたすら壇上から、平和主義と世界連邦を唱えた。
  広島と長崎で死んでいった人々よ、広島と長崎で被爆し苦しみの中に生きていく人々よ、汚れちまった「平和」という言葉に代わる、ほんとうに美しい言葉を生 き残った私たちに教えてほしい。あなたたちが心の中で叫び続けた言葉をこの私に教えてほしい。私は今から、新しく、美しい言葉を探す旅に出よう。



http://tengunosasayaki.blog.eonet.jp/109/2009/06/post-c7a2.html より抜粋引用

このように関連付けて行くと、やはりノーベル賞と言う代物の意味が良く理解できると思う。二人の日本人がノーベル化学賞を受賞したが、「あんたたちのおかげで抗がん剤が開発出来てよかったよ。ウッシシシシシ」ということでご褒美なのであろう。
抗がん剤の開発進行とともに、ガンで死亡する患者数は右肩上がりに増えていく。
良い薬が開発されれば、ガンは撲滅できるどころか激増して行く。この不可解な関係の本質はなんであろうか?聡明な皆様のことであるから、ご理解いただけるものと思う。