ほうらい汽船「ひかり八号」 | ドルフィン企画~瀬戸内海クルーズのご案内~

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高校の時に授業中に数学の先生が語った雑談をふと思い出すことがある…

「君が知らないことはただ君が知らないだけで、世の中には君の知らない真実が沢山存在する。でも人はたまたま自分の知らないことを世の中に一切存在しないものだと誤解する。だから見聞を広め視野を広く持つよう努力することが大切だ」

高校生の時は生口島から三原の高校へ通っており、その時に私と同じ中学校の卒業生で三原の高校に通っている同級生は約40名いた。

その40名の約半数は須波港までフェリーを使って、残りの約半数は三原港までの旅客船を使って通っていた。

私は須波港チームだったが、須波港行きは運航会社が1社しかなかったので定期券も1種類だったが、三原港行きは運航会社が4社あったため定期券も3種類存在し、同級生の中にはにそれぞれの定期券保有者がいた。

私が中学生から高校生だった時期にかけて、三原と瀬戸田を結ぶ定期航路に就航していた多数の船のうちの1隻が「ひかり八号」である。

この「ひかり八号」は恐らくほうらい汽船が新造した船の中では珍しいFRP(強化プラスチック船)だった。

この後ほうらい汽船はアルミ船「ニューほうらい」と「ニューほうらい2」を建造しており、「ニューほうらい2」がほうらい汽船最後の新造船になった。

その後中古船として小豆島と高松の間に就航していた「ひかり」を購入しており、これがほうらい汽船としては最後の就航船になった。

最後の新造船「ニューほうらい2」が出来た辺りで三原~瀬戸田定期航路は念願だった共同運航に移行したため、各社とも余剰船舶が発生し、ほうらい汽船の場合はFRP船だった「ひかり八号」がこの後売却された。

ちなみにこの共同運航化によって3種類あった定期券は1種類になった。

なお「ひかり八号」は、2年前にも書いたようにFRP船で船足が遅かったからか高速船運用に就いていた期間は短く、ほうらい汽船唯一のカーフェリーだった「第十二ほうらい」の引退後は普通船運用に固定されていた。

私は幼い頃から生口島や因島周辺の海を眺めながら育ったので、かなり大きくなるまで「海」とは年中穏やかなもので「時化る」と言っても船が少し揺れる程度だと思い込んでいた。

特にこの毎日眺めていた海が瀬戸内海の全てだと当時思い込んでいた私は、冬の北西季節風で定期船が欠航する事が信じられなかったし、航海する上で怖いのは霧と岩礁だと思い込んでいた。

これは尾道や三原から瀬戸田にかけての定期航路上で海運史上でも有名な「第五北川丸沈没事故」が起きたので、穏やかな海域であっても決して海を安全な場所だとは思えなかったからである…

今の島へ住むようになって、生口島や因島周辺の海域が瀬戸内海で最も穏やかな海域であることが初めてわかった。

同じ瀬戸内海でも生口島や因島周辺以外のほぼ全域が天候によっては時化る事がある海であり、今思えばものすごく恵まれた環境の良い海に囲まれた中で生まれそして高校通学していたのだと言うことを。

そんな恵まれた環境の定期航路に就航すべくして新造された「ひかり八号」。

高校を卒業してから見ることはなかったが、まさか30年近く経ってテレビ画面越しではあるがまだ活躍していたことを知るようになるとは思わなかった。(最初は目を疑った…)

どうしてもこの仕事をしていると判断を誤って、お客様を怖い思いにさせたり私自身が怖い思いをしたことがある。

また船長へきちんと正しい情報を伝える事が出来なくて、船長に怖い思いをさせてしまって反省したことも何度かある。

1歩間違えると今回のような大惨事になるのだなと自らを戒めると同時に、今まで大きな事故無く運航できていたのは素晴らしい船長に恵まれていたことと、神様のご加護があったとしか言い様がない。

安全運航への意識を今一度再認識して、今まで経験した「ヒヤリハット」を事故へ結びつけないよう、これからも一層気をつけていきたい。

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