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MERKABA~マカバ~

ヘクサグラムからマカバになるっていいことだよね?



ディアゴスティーニ社の週刊日本の神社82号は平安神宮だった。

明治28(1895)年は、平安遷都1100年の節目に当たる年で、記念祭が斎行され、それに合わせて「第4回内国勧業博覧会」が開催された。幕末の動乱で荒廃した京都の復興事業の集大成だった。

1000年の都の創建者・第50代桓武天皇を称える神社として平安神宮と社号が定まり、昭和15(1940)年の皇紀2600年に当たる年には、平安京最後の天皇・第121代孝明天皇が合祀された。

隅から隅まで見て回るには広すぎる境内の鳥瞰図や時代祭の様子、周辺の古社、維新前夜の孝明天皇を取り巻く動向など、定価562円+消費税!(^^;

2013年9月に奈良県五条市に行った時、御霊神社をしらみ潰しに巡るというのも時間に限りはあるし...西国薬師第9番霊場だし、関西花の寺第23番霊場だし...で金剛寺というお寺に立ち寄った。


住職の母親なのか年配の女性が対応してくれて「あいにく今の時期だとお花はないんですよ」と話を切り出し、それでも「○月には○○の花が咲いて」などと庭木の説明に続いて「シゲモリさんの部屋、見ます?」

唐突に「シゲモリさん」と言われても、ドコのドナタかわかりませんが、と思った3秒後に、平清盛の長男・平重盛だと気が付いて、見ます!見ます!と覗き込んだ部屋の天井がコレ。



重盛さんがこの天井を眺めたことがあったのかなかったのか、光が当たると艶っぽく見える竹が整然と並べられていた。

あとから、金剛寺は承安3(1173)年、平重盛により創建されたことを知る。

その頃は、権大納言を体調を崩して辞め復帰し、再度辞めて二度目の復帰をしたあと、36歳の頃に創建したことになる。清盛は子沢山だったが、重盛のたった一人の同母弟・基盛は24歳で亡くなっている。治承3年(1179年)2月に42歳で亡くなった重盛さん。

独りで穏やかな時間を過ごすために建てたのか、晩年出家する時のために建てたのか...私が天井を見上げて、しみじみしていると、

「重盛さんが若死にしなければ、うちももっとねぇ~」...(^^;

重盛さんが長生きしていれば、平氏の時代ももっと長かったかもしれない。

第50代桓武天皇の親王の子孫に与えられた「平氏」の「平」は平安京にちなんだものと言われる。

ブログの別記事で
桓武天皇の后妃と皇子女をチェックしてみた。
桓武天皇と臣籍降下をチェックしてみた。

4人の親王の子孫が「平氏」となっていることを確認した。桓武平氏は始まりの段階で4系統あるのだ。

「平氏」といえば、平将門と平清盛が二大巨頭なのではないかと思うのだが、この二人は揃って、葛原(かずわら)親王の子孫。

葛原親王は、第52代嵯峨天皇、第53代淳和(じゅんな)天皇と同じ786年の生まれで、生母は第28代宣化天皇の血を引く多治比氏。幼い頃から聡明で大陸の書物を読み、豊富な知識を蓄えていたが奢ることなく慎み深い性格であったという。

第28代宣化天皇上殖葉皇子(かみつうえはのみこ『日本書紀』、恵波王ゑはおう『古事記』)十市王(丹比公(たじひのきみ)の祖『日本書紀』、多治比君の祖『古事記』)多治比古王(丹比麻呂)多治比嶋(左大臣)多治比池守(大納言)多治比家主(鋳銭長官)多治比長野(参議)多治比真宗(桓武天皇夫人)。

さて、臣籍降下で皇籍から外れても、律令制下では「蔭位(おんい)」という制度があり、位が高い者の子孫は父や祖父の位に応じて位階を授けられる。第33代推古天皇代には「冠位十二階」、その後、数を増やし48までとなったが、大宝元(701)年の大宝律令で30に整理された。上から14番目までが貴族として認められる身分。

親王の子であれば、貴族の身分は保障されるが、その後の昇進は本人の才覚+親戚縁者のバックアップということになる。

葛原親王の長男、高棟王(平高棟)は、蔭位により従四位下がスタートとなる。親王の子に与えられる身分で、30階のうち10番目。大学寮を優秀な成績で終えても正八位下(上から24番目)だったというから、やはり位の高い父を持ち、保障された身分とは凄いものだ。

そして、藤原長良の長女・有子を妻とした。藤原長良は、藤原冬嗣の長男で、兄弟には、第54代仁明天皇の女御となり第55代文徳天皇の母となった順子(のぶこ)、皇族以外で初めて摂政となった良房がおり、異母ではあるが妻の妹・高子は第56代清和天皇の女御となり第57代陽成天皇を生んでいる。

平高棟の人物像も父親ゆずりで、幼い頃から聡明で本を良く読み、細やかで親切であったと之残されている。これで昇進しないわけがなく、大納言となった。

葛原親王の長男・高棟の家系は公家として京に留まり、平安時代末期、平清盛の後妻となった平時子、第77代後白河天皇の子・第80代高倉天皇を生み建春門院の院号を持った平滋子に続く。

江戸時代まで、桓武平氏高棟王流として、平松家・長谷家・交野家の3家が名家、西洞門家・石井家の2家が半家の5家が公家として続いた。

桓武平氏、公家の部(^^; 清盛にニアミス、将門はどこだ!

NHK大河「平清盛」は、人生で一番熱くかぶりつきで見た大河ドラマなのに、視聴率が低くて残念だった。韓国ではもっと古い時代のドラマでも視聴率高いのに、日本人は日本の歴史に興味がない人が多いのかな?(^^;

位階についてはこちら↓
官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス Ver.0.8
未婚の女性皇族が巫女として奉仕した伊勢の神宮には、歴代の斎宮一覧が残されている。ここには天皇との続柄も残され、娘、同母姉妹、異母姉妹、伯母・叔母、姪、従姉妹、遠縁、続柄不明が確認できる。

一般には天皇の娘が、その天皇が薨去するまで勤めると思われているが、斎宮となった本人の病気、母親や兄弟の死が穢れとされ解任される。また続柄で分かるように天皇の娘と限定されているわけではない。

天皇の娘として3代続けて斎宮となった井上内親王、酒人内親王、朝原内親王がいる。この3代、3人の斎宮が義母、妻、娘であるのが桓武天皇なのだ。

井上内親王は、大仏建立を発願した第45代聖武天皇の第1皇女、つまり第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)の異母姉で、第44代元正天皇と第45代聖武天皇代の途中まで斎宮となっている。元正天皇が薨去しても斎宮の任を解かれず、18年斎宮を務めたあと、30代半ばになってから、白壁王と結婚し、その後、白壁王が第49代光仁天皇として即位し皇后となったのである。それが、めでたしめでたしで終わらなかった、というより悲惨な最期を遂げた。
その顛末は↓
井上内親王3

酒人(さかひと)内親王は、母・井上内親王、弟・他戸(おさべ)親王が卑劣な疑いをかけられている最中、19歳になっていたにもかかわらず、斎宮に卜定(ぼくじょう)され、そして、母と弟が亡くなってから呼び戻されて、弟に代わって皇太子となった17歳年上の異母兄の山部親王(桓武天皇)の妃となった。歴代斎宮の記録には解任された年が記されていないが、3~4年程度の任期だったと思われる。

そして、桓武天皇と酒人内親王との間に生まれた朝原内親王も斎宮を務めることとなる。酒人内親王は皇族であり、間違いなく皇后にふさわしい身分ではあるが、両親も弟も亡くなり頼れる血縁もない、何の後ろ盾もなく、皇后となったのは藤原乙牟漏だった。
朝原内親王は、4歳で朴定され、3年後伊勢に出立した。この時、桓武天皇は大和国国境まで見送ったという。そして18歳になったとき、身内の不幸があったわけでもないのに斎宮を解任され、そののち5歳年上の異母兄・安殿親王(平城天皇)の妃となるのである。

桓武天皇が亡くなったのは806年、朝原内親王25歳の頃。
桓武天皇は娘・朝原内親王の将来をどのように案じただろうか?三代にわたり斎宮を務めた女性たちの運命をどのように感じていたのだろうか?

...などと考えるのが面白くなってきたので歴史好きになったのかもしれない。

桓武天皇代の斎宮は朝原内親王のあと、母(宮人)が中臣氏である布勢(ふせ)内親王が10年務めた。

平城天皇は、藤原帯子(式家百川の娘)を皇后とした。わずか3年で弟(嵯峨天皇)に譲位し、上皇となって奈良の平城京に移り住み、政権を取り戻そうとしたが失敗、東国に入ろうとしたところを平安京に連れ戻され、剃髪し仏門に入った。

朝原内親王は平城天皇に同行せず、妃を辞したのち、病に伏し37歳で薨去した(817年)。母である酒人内親王は829年、76歳で薨去。



伊勢神宮 瀧原宮 2013年

斎宮の卜定とは、誰を斎宮にすべきか?ではなく、○○でよろしいでしょうか?という占いであったと思われる。

斎宮についてはこちら

斎宮歴史博物館

桓武天皇を父とする親王のうち、子孫が「平氏」となったのは4親王。

葛原親王かずわらしんのう 786-853年
(生母:夫人・多治比真宗) 
一品太宰帥 臣籍降下 825年

賀陽親王かやしんのう 794-871年
(葛原親王の同母弟)
二品太宰帥 臣籍降下 873年

万多親王まんだしんのう 788-830年
(生母:夫人・藤原北家魚名の孫)
二品太宰帥 増一品 臣籍降下 862年

仲野親王なかのしんのう 792-867年
(生母:宮人・藤原京家麻呂の孫)
二品大宰帥・贈一品太政大臣 臣籍降下 874年

第50代桓武天皇の后妃・皇子女については、前もってチェックした。

桓武天皇の皇妃・皇子女をチェックしてみた。

この4親王に先立って、臣籍降下を願い出た親王がいた。それは後に第53代淳和(じゅんな)天皇となった大伴親王である。『日本後紀』に大同元年5月1日(806年)に父帝の死を機会に臣籍降下を願い出たが皇太子(平城天皇)に慰留されたと記録されている。

平城天皇と淳名天皇(大伴親王)は母方の祖父が藤原式家の異母兄弟であり、淳和天皇は平城天皇の妹・高志(こし)内親王を妃として迎え、第1皇子恒世(つねよ)親王が生まれていた。

この臣籍降下は皇位継承権は放棄するという意志表示だったのだろう。

淳和天皇(大伴親王)が臣籍降下を願い出た翌年には「伊予親王の変(807年)」が起こっている。処罰された人々をまとめてみると

死亡・伊予親王 幽閉後自害
流罪・高枝王たかえおう(伊予親王・皇子 802年生まれ)
流罪・継枝王つぎえおう(伊予親王・皇子)
流罪:(伊予親王・皇女)
死亡・藤原吉子(伊予親王母・藤原南家)
    伊予親王と共に幽閉後自害

流罪・藤原雄友おとも(大納言・藤原吉子の異母兄)
左遷・藤原友人ともひと(播磨介・藤原雄友の異母弟)
解職・藤原乙叡たかとし(中納言・藤原南家)
流罪・藤原宗成むねなり(蔭子・藤原北家)

藤原南家は武智麻呂を祖として4兄弟がおり、次男の仲麻呂が長男を凌ぐ権力者となったが、天平宝字8(764)年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で斬殺された。四男の巨勢麻呂もこの時に戦死している。

長男:豊成~継縄~乙叡
次男:仲麻呂×
三男:乙麻呂~是公~雄友・友人・吉子
四男:巨勢麻呂×

だが、長男の豊成は、天平宝字元(757)年の橘奈良麻呂の乱で、反仲麻呂勢力として処罰を受けていた。右大臣を罷免され、隠遁生活を送っていたのだ。そして藤原仲麻呂の乱後に復帰し、妻の1人・百能(ももよし)は後宮で尚持(しょうじ/ないしのかみ)となり絶大な地位を固めた。

また三男の乙麻呂は橘仲麻呂の乱の後、太政大臣となった仲麻呂の政権で、軍部を司る武部卿となっていたが天平宝字4(760)年に亡くなっており、息子・是公は761年に正六位上から従五位下に叙されるという記録があり、高い身分ではないが、順調に昇進を重ね、皇太子・山部親王(桓武天皇)の春宮大夫(とうぐうだいぶ:皇太子家の家政一般を司る)も務め、亡くなる前までに右大臣兼中衛大将となっていた。

...というわけで、藤原南家は仲麻呂の乱以後も長男と三男の家系が、大納言・中納言となり朝廷で権力を持っていたのだ。

しかも、桓武天皇の4夫人の1人、藤原吉子が生んだ伊予親王は、783年の生まれではないかという記録が残され、親王の中で唯一、皇后藤原乙牟漏の第2皇子・神野親王(嵯峨天皇)より年長であった。

藤原北家の宗成が謀反を勧めたと捕えられ、尋問により首謀者は伊予親王であると訴えたという伊予親王の変、親王を取り巻く外戚までが処罰を受け、藤原南家は没落した。

伊予親王の子女3人のうち、生年が記録されているのは1人のみで、802年生まれなのだ。まだ幼い子供まで流罪となった。

このような事件を目の当たりにしたら、第2皇子神野親王(嵯峨天皇)や大伴親王(淳和天皇)と同い年だった葛原親王が息子たちの臣籍降下を考え始めても無理はない。



奈良県五条市の栄山寺
藤原南家の祖・武智麻呂創建
父の慰霊のために仲麻呂が建てた八角堂が国宝に指定されている