桓武天皇と斎宮をチェックしてみた。 | MERKABA~マカバ~

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未婚の女性皇族が巫女として奉仕した伊勢の神宮には、歴代の斎宮一覧が残されている。ここには天皇との続柄も残され、娘、同母姉妹、異母姉妹、伯母・叔母、姪、従姉妹、遠縁、続柄不明が確認できる。

一般には天皇の娘が、その天皇が薨去するまで勤めると思われているが、斎宮となった本人の病気、母親や兄弟の死が穢れとされ解任される。また続柄で分かるように天皇の娘と限定されているわけではない。

天皇の娘として3代続けて斎宮となった井上内親王、酒人内親王、朝原内親王がいる。この3代、3人の斎宮が義母、妻、娘であるのが桓武天皇なのだ。

井上内親王は、大仏建立を発願した第45代聖武天皇の第1皇女、つまり第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)の異母姉で、第44代元正天皇と第45代聖武天皇代の途中まで斎宮となっている。元正天皇が薨去しても斎宮の任を解かれず、18年斎宮を務めたあと、30代半ばになってから、白壁王と結婚し、その後、白壁王が第49代光仁天皇として即位し皇后となったのである。それが、めでたしめでたしで終わらなかった、というより悲惨な最期を遂げた。
その顛末は↓
井上内親王3

酒人(さかひと)内親王は、母・井上内親王、弟・他戸(おさべ)親王が卑劣な疑いをかけられている最中、19歳になっていたにもかかわらず、斎宮に卜定(ぼくじょう)され、そして、母と弟が亡くなってから呼び戻されて、弟に代わって皇太子となった17歳年上の異母兄の山部親王(桓武天皇)の妃となった。歴代斎宮の記録には解任された年が記されていないが、3~4年程度の任期だったと思われる。

そして、桓武天皇と酒人内親王との間に生まれた朝原内親王も斎宮を務めることとなる。酒人内親王は皇族であり、間違いなく皇后にふさわしい身分ではあるが、両親も弟も亡くなり頼れる血縁もない、何の後ろ盾もなく、皇后となったのは藤原乙牟漏だった。
朝原内親王は、4歳で朴定され、3年後伊勢に出立した。この時、桓武天皇は大和国国境まで見送ったという。そして18歳になったとき、身内の不幸があったわけでもないのに斎宮を解任され、そののち5歳年上の異母兄・安殿親王(平城天皇)の妃となるのである。

桓武天皇が亡くなったのは806年、朝原内親王25歳の頃。
桓武天皇は娘・朝原内親王の将来をどのように案じただろうか?三代にわたり斎宮を務めた女性たちの運命をどのように感じていたのだろうか?

...などと考えるのが面白くなってきたので歴史好きになったのかもしれない。

桓武天皇代の斎宮は朝原内親王のあと、母(宮人)が中臣氏である布勢(ふせ)内親王が10年務めた。

平城天皇は、藤原帯子(式家百川の娘)を皇后とした。わずか3年で弟(嵯峨天皇)に譲位し、上皇となって奈良の平城京に移り住み、政権を取り戻そうとしたが失敗、東国に入ろうとしたところを平安京に連れ戻され、剃髪し仏門に入った。

朝原内親王は平城天皇に同行せず、妃を辞したのち、病に伏し37歳で薨去した(817年)。母である酒人内親王は829年、76歳で薨去。



伊勢神宮 瀧原宮 2013年

斎宮の卜定とは、誰を斎宮にすべきか?ではなく、○○でよろしいでしょうか?という占いであったと思われる。

斎宮についてはこちら

斎宮歴史博物館