御書に登場する故事・人物 中国編 

 

第三十一回 漢王朝 はかりごとを帷帳(いちょう)の中でめぐらした張良

 

 前漢の張良(ちょうりょう)は、字(あざな)は子房(しぼう)といい、その先祖は韓の人である。かつて下邳(かひ)というところの、ある橋のほとりで遊んでいると、うすぎたない道士の衣服を着た一人の老人が張良のところにやって来て、わざわざ、その履(くつ)を橋の下に落としてから、言うのだった。

「若いの、下へ行って履を取ってきな」

 張良はびっくりして、このオイボレめ殴ってくれようかと思ったが、まあ老人のことだからと考えなおして、どうにか忍んで、おりて行き履をとってあげた。そしてひざまずいてそれを足のところへ持って行ってやると、老人は足でうけとって、サッサとはいて、笑いながら去って行った。

 と、思ったら、またやって来た。

「若いの、教授してやるから、五日後の夜明けごろ、わしとここで会うことにしよう」

 と言うのだった。張良はひざまずいて、

「はい」

 と言った。

 さて約束のときに行ってみると、老人はさきに来ていた。そしてぷりぷり怒りながら、

「老人と約束して、遅れてくるとは何事じゃ。去れ。五日後の早朝に来い」

 と言うのだった。かくて五日後、鶏(にわとり)が鳴くのと同時に行ってみると、また老人のほうがさきに来ていた。またぷりぷりして、

「去れ。五日後の早朝に来い」

 と言った。かくて五日目、張良は夜半に約束のところへ行くと、しばらくしてから、老人がまたやって来た。そして今度はニコニコと喜び顔で言うのだった。

「こうでなくちゃいかんのだ」

 それから一編の書物を出して、

「これを読めば王者の師匠になるであろう。十年後には興隆するであろうし、十三年したら、若者よ、わしを済北(さいほく)の穀城山(こくじょうさん)のふもとで見るがよい。そこにある黄色の石が、すなわちわしじゃと思っての……」

 と言って、いずこにか去って、ついに姿を見せなくなった。

 翌日、その書を見ると、太公望の兵法の書物であった。張良はこれを不思議なことだと考えて、つねに声をあげて習い読むのだった。

 その後(十三年たって)張良は漢の高祖(劉邦)に従って済北の地を通ったときに、はたして黄石(おうせき)を見出すことができた。そこでその石を持ち帰って宝として祀った。さらに張良が死ぬにおよんでは、これを一緒に塚へ葬ったのである。

 張良はしばしば兵法を高祖に説いたが、そのときには、つねに太公望の兵法書の策をもちいた。これまで高祖以外の人に説いたときには誰もこれをかえりみようとはしなかったので、張良は、

(天から授かった君主である)

 と思って、最後までつき従って去らなかったのである。

 だが張良は多病であったから、いまだかつて、一人、兵を率いる武将とはならなかった。いつも戦いの策略を企てる家臣であったのだった。功臣に禄を与えるにおよんで、張良には、いまだかつて戦闘の功績がなかった。しかし、高祖は言った。

「はかりごとを帷帳(いちょう)(陣営)の中でめぐらして、勝利を千里の外に決したのは張良の功績である」

 と。すなわち禄を与えて留侯(りゅうこう)に任じたのであった。 

(「蒙求」巻之下・子房取履)

(「仏教説話と故事 中国・日本編」 創価学会教学部編 聖教新聞社刊 昭和48年10月12日発行)

 

(参考)黄石老人が張良に教えたことの意味

 

 北宋の詩人蘇軾は『留侯論』で、黄石公が張良に教えたのは小事を耐え忍んで大事を為すことで、これにより項羽相手の劣勢の戦でも耐えて相手が疲弊するのを待つことができたし、韓信が自ら斉王になることを求めたとき、激怒する劉邦に猶も耐え忍ぶことを説いたのも張良以外に誰ができただろうかと述べている。

(Wikipedia「張良」)

 

御書本文

 方今、世はことごとく関東に帰し、人は皆土風を貴ぶ。なかんずく日蓮、生をこの土に得て、あに吾が国を思わざらんや。よって立正安国論を造って、故最明寺入道殿の御時、宿屋入道をもって見参に入れ畢(お)わんぬ。

 しかるに、近年の間、多日のほど、犬戎(けんじゅう)は浪を乱し、夷敵(いてき)は国を伺う。先年勘(かんが)え申すところ、近日符合せしむるものなり。彼の太公が殷(いん)の国に入りしは、西伯の礼による。張良が秦朝を量りしは、漢王の誠を感ずればなり。これ皆、時に当たって賞を得たり。謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せしものなり。

(「一昨日御書」新八七三㌻、全一八三㌻)

 

通解

 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、土地の気風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿(北条時頼)に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。

 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺(うかが)っている。先年(文応元年)に勘(かんが)え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。

 かの太公望が殷(いん)の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀(はかりごと)をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、千里の外に勝利を決した者である。

 

語訳

人は皆土風を貴ぶ

「土風(どふう)」とは、その土地の風俗・風習・気風の意。ただし旧『御書全集』にはこの箇所が「士風(しふう)」となっており、当時の『御書講義録』の通解も「人々は皆、武士の風(ふう)を貴んでいる」と記していた。しかし『御書 新版』では「土風」としてあるゆえ、通解も「人々は皆、土地の気風を貴んでいる」と直した。

 

太公

 太公望のこと。周代の斉(せい)国の始祖。姓は姜(よう)、氏は呂(りょ)、名は尚(しょう)。渭水(いすい)で釣りをしていて周の西伯(せいはく)(後の文王)に会い、請われてその師となる。文王の祖父太公が周に必要な人材として待ち望んでいた人という意味で、のちに太公望と称された。文王の死後、武王(文王の子)を助け、殷の紂王を滅ぼして斉(せい)国に封ぜられた。

 

西伯(せいはく)

 周の文王のこと。中国周王朝の基礎をつくった君主。理想の名君とされている。姓は姫(き)、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷(鄷邑(ほうゆう))と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。

 

張良(ちょうりょう)

(~前一六八年)。中国・前漢代の建国の功臣。字(あざな)は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳(かひ)に隠れた。そこで黄石(こうせき)老人から兵法を学んだといわれ、劉邦(漢の高祖)の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。後、秦を滅ぼし、鴻門(こうもん)の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯(りゅうこう)に任ぜられた。

 

講義

 大聖人は、中国の故事を引かれて、蒙古襲来に勝利する道を示唆されている。

 周の文王の師となった太公望呂尚(りょしょう)は、文王なきあと、文王の子・武王をその智謀で助けて、暴虐な殷の紂王(ちゅうおう)を倒している。それは、西伯(文王)が呂尚を師として礼を尽くした徳によるのである、と仰せられている。

 また、漢の高祖・劉邦の軍師となった張良は、秦王朝を滅ぼして、漢の建国に貢献している。それは、劉邦の誠実に感じたからである、とされている。

 大聖人は、この二人を、「謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せしものなり」と、史記の高祖本紀の意をとって称賛されている。呂尚も張良も、その智謀によって、作戦の段階で必勝の策を立て、戦わないうちから千里の外の勝利を決した、といわれているのである。(中略)

 蒙古の襲来に必ず勝利する法は、邪法への帰依を止めて、正法を立て、大聖人に帰することであるが、そのためには、西伯が太公望を、劉邦が張良を厚く遇したように、鎌倉幕府は大聖人を遇するべきであると言われているのである。

(「一昨日御書」第一章 立正安国論の予言の的中を挙げる)