御書に登場する故事・人物 中国編 

 

第三十二回 前漢代 わが子の漢王への忠誠を願い自害した王陵の母             

 

 王陵(おうりょう)の母とは、漢の丞相(大臣)安国侯王陵の母のことである。王陵ははじめ県の豪族であった。漢の高祖はまだ王ではなかったころには彼を兄のように頼っていたものだった。やがて高祖が沛(はい)の地で兵を起こしたとき、王陵もまた郎党数千人を集め、その兵を率いて漢王のもとに加わったのだった。項羽は漢とは敵同士になっていたが、王陵の母を捕えることができたので軍中においた。

 すると王陵の使いがやって来た。そこで項羽は東向きに王陵の母を坐らせ、いかにも大切にもてなしているかのように思わせて、王陵を味方に招き入れようとした。だが、母はひそかに王陵のもとへ送る使者に、涙ながらに言ったのであった。

「この老母のために王陵に伝えて下され。よく漢王に仕えなさいと。漢王は高徳の人でいらっしゃる。この老母のために二心をいだくようなことがあってはなりません。私はすでに死んでしまったと言うのですよ」

 そして剣で自害をはかり、死んで王陵の忠誠をすすめたのだった。項羽は怒ると王陵の母の死屍(しかばね)を釜ゆでにした。母のその心に感じて王陵の忠誠の志はますます強まり、ついに高祖とともに天下を治め、その位は丞相に至り安国侯に任ぜられたのだった。さらに爵位を子孫に伝えること五代におよんだ。

 そこで、ある君子が言った。

「王陵の母は、よく身を棄てて忠義を立て、その子を大成に導いた」と。

 (「古列女伝」巻之八・続列女伝)

(「仏教説話と故事 中国・日本編」 創価学会教学部編 聖教新聞社刊 昭和48年10月12日発行)

 

御書本文

 心なき畜生すら、子のわかれしのびがたし。……いかにいおうや、心あらん人においてをや。されば、王陵(おうりょう)が母は子のためになずき(頭脳)をくだき、神尭(しんぎょう)皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給いき。これらをおもいつづけさせ給わんには「火にも入り、頭をもわりて、我が子の形をみるべきならばおしからず」とこそおぼすらめとおもいやられて、なみだもとどまらず。

(「光日房御書」新一二五二㌻、全九二九㌻)

 

通解

 心ない畜生でさえも子との別れには堪え難いものである。(中略)ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていったならば、たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ってもわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。

 

語訳

王陵(おうりょう)が母

 漢の沛(はい)の人。王陵ははじめ県の豪族であったが、漢の高祖に従って項羽と戦った。項羽は王陵の母を捕えて母子の情に訴えて王陵を味方にしようとしたが、母は密かに使者を出して、王陵に漢王への忠節を尽くすことを訴え、自害して果てた。のちに王陵は高官に昇進し、安国公に封ぜられ右丞相となった。

 

神尭(しんぎょう)皇帝の后(きさき)

 神尭皇帝とは唐の高祖李淵(りえん)のこと。その皇后で、竇(とう)皇后をいう。謚(おくりな)は太穆順聖(たいぼくじゅんせい)皇后。才色兼備の后で、文と画に巧みであったといわれる。

 

講義

 別れのうちで、最も辛い別れは親子の別れである。それは親の子を思う情が実に深いからであるといえよう。老いたる親が先立つのが世の習いである。だが、子が先立つことこそ、不幸のなかの不幸であり、親にとって嘆いても嘆ききれない。

 この章は、幾多の故事を挙げて、弥四郎に先立たれた尼御前を哀悼(あいとう)された段であり、夫もすでに亡く、老後の頼りとする子に先立たれて、ただ一人のこされた尼御前の心情を透徹して理解され、逆境の尼御前に希望を与えようとなされた大聖人の大慈大悲をよくよく理解すべきである。

(「光日房御書」第六章 光日房の心情を汲む)