御書に登場する故事・人物 中国編 

第三十回 秦王朝 讒言をもちい丞相を死刑にした二世王

 

 趙高(ちょうこう)は丞相(大臣)の李斯(りし)(※)とはあまり仲が良くなかった。秦の始皇帝の後継ぎである二世王(胡亥(こがい))のそばに仕えていた趙高は、王が酒宴を楽しんで宮中の婦人たちとともにいるときを見はからって、使者を丞相の李斯のもとに行かせて告げさせたのだった。

「ただいま陛下の都合がよいとのことです。政務について奏上されるがよかろうかと思います」と。

 そこで李斯は王のもとにうかがったのであった。すると二世王は怒って言った。

「私がかつて暇であった日には、丞相よ、貴公はやって来なくて、私が今、酒宴を楽しんでいるときにかぎって、丞相よ、貴公は勝手にやって来るとは何事だ!」

 すると、すかさず趙高が言った。

「丞相の長男の李由(りゆう)は、三川(郡の名前)の大守をしていますが、盗賊どもと通じて謀反をくわだてております。おまけに丞相は、朝廷の外に出ているときは、権力は陛下より重んぜられております」と。

 二世王はこれを聞くや、さらに怒って、李斯を役人どもの手にゆだね、五刑を加えることにして、いれずみ(墨)、はなきり(劓)、あしきり(刖)、去勢(宮)をほどこしてから、死刑(大辟)を行なうために、咸陽(かんよう)の市中をひきまわしたうえ、腰から二つ斬りにしてしまった。

 李斯は牢獄から出るときに、中の男の子をかえりみて言うのだった。

「わしはおまえと、また黄色の猟犬をひきまわし、一緒に故郷の上蔡(じょうさい)の東門を出て、兎狩りをしようと思っていたが、もうできなくなってしまったのか」と。

 そして、父子二人で声を震わせながら泣いたのだった。

 かくして李斯の父・母・妻の三族もまた、滅ぼしつくされてしまったのだった。

 (「十八史略」巻二・秦)

(「仏教説話と故事 中国・日本編」 創価学会教学部編 聖教新聞社刊 昭和48年10月12日発行)

 

(※)李斯(りし)

(~前二〇八年)。中国・秦代の丞相。荀子(じゅんし)に学び、法家の思想をもって始皇帝に仕えた。郡県制の実施、文字・度量衡(どりょうこう)の統一、また領土拡大のため匈奴、南越の征伐を立案し、種種の功績があった。だが、思想統一のために焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を強行するなどその施策は強引であった。始皇帝の死後、趙高の讒言を用いた二世王の怒りにふれ、刑死した。

 

御書本文

 今、妙法蓮華経と申す人々は、その心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず一代の大綱を覚り給えり。例せば、一・二・三歳の太子、位につき給いぬれば、「国は我が所領なり、摂政・関白已下は我が所従なり」とはし(知)らせ給わねども、なにもこの太子の物なり。譬えば、小児は分別の心なけれども、悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを、趙高(ちょうこう)がよう(様)に心おご(傲)れる臣下ありて太子をあなずれば身をほろぼす。諸経・諸宗の学者等、法華経の題目ばかりを唱うる太子をあなずりて、趙高がごとくして無間地獄に堕つるなり。また法華経の行者の、心もしらず題目ばかりを唱うるが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがい(胡亥)と申せし太子が趙高におどされ、ころ(殺)されしがごとし。

(「曾谷入道殿御返事(如是我聞事)」新一四三七㌻、全一〇五八㌻)

 

通解

 今、妙法蓮華経と唱える人々は、経の心を知らなくとも、法華経の心を得るのみならず、釈尊一代の聖教の大綱を覚っているのである。例えば、一、二、三歳の太子であっても、王位につかれたならば、その国は、自分の所領となるようなものである。摂政・関白以下の人が自分の臣下であるということは知らなくても、みんなこの太子の家来になるのである。

 たとえば、幼児は物事を分別する心はないけれども、母親の乳を口にふくめば自然に成長するようなものであり、そこに趙高(ちょうこう)のような傲慢な臣下がいて、太子を侮蔑するようなことがあれば、その身を滅ぼすのである。

 今の諸経を所依とする諸宗の学者等は、法華経の題目を一心に唱える太子を侮って、趙高のように我が身を滅ぼして無間地獄に堕ちるのである。また、法華経の行者の心も知らず、題目を一心に唱えていながら、諸宗の智者に威されて退転の心を起こすことは、胡亥(こがい)という太子が趙高に威されて、ついに殺されたようなものである。

 

語訳

趙高(ちょうこう)

(~前二〇七年)。中国・秦代の宦官。始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯(りし)と謀って詔(みことのり)を偽造し、帝の長子の扶蘇(ふそ)を殺して末子の胡亥(こがい)を即位させ、権力を握った。旧臣を退けて酷政を行なったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利とみるや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰(しえい)によって殺された。

〔参考〕

馬鹿(ばろく) 

 趙高、亂を爲さんと欲し、群臣の聽かざるを恐る。乃ち先づ驗を設け、鹿を持して二世に獻じて曰く、馬なりと。二世笑ひて曰く、丞相誤れるか。鹿を謂ひて馬と爲すと。左右に問ふ。左右或いは默し、或いは馬と言ひ、以て趙高に阿(おもね)り順ふ。

〔史記、秦始皇紀〕

(普及版 字通「馬鹿」)

 

指鹿為馬(しろくいば)

 事実とは違うことを権力や力づくで無理やり押し通し、周囲に認めさせること(是非や黒白を混同すること)を意味する中国の故事成語です。

 秦の時代の権力者・趙高(ちょうこう)は、皇帝(秦の二世皇帝)の位を狙って自らの権力を試すため、鹿を連れてきて「これは立派な馬です」と言って皇帝に献上しました。皇帝が「これは鹿ではないか?」と尋ねると、趙高は群臣たちに「これは馬か、それとも鹿か?」と問いかけました。趙高の権力を恐れた家臣たちの反応は3つに分かれました。

 権力に従った者: 趙高を恐れて「馬です」と答えた。

 沈黙した者: 間違っているとは言えず、黙り込んだ。

 事実を言った者: 「鹿です」と正直に答えた。

 正直に「鹿」と答えた者たちは、後で趙高によって無実の罪を着せられ、次々と処刑されてしまいました。趙高は権力によって事実をねじ曲げ、誰も自分に逆らえないことを証明したのです。

(AI による概要)

 

こがい(胡亥)

(~前二〇七年)。中国・秦の第二代皇帝(在位前二一〇年~二〇七年)。名は胡亥(こがい)。始皇帝の末子であったが、宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)の策謀によって対立者を倒して即位した。即位後は政治を趙高の手に委(ゆだ)ねたが、趙高は讒言を用いて始皇帝以来の功臣や宗族等を次々と殺した。そして、始皇帝の強引な政治に不満を抱いていた群雄が各地に乱立し、秦の形勢が不利となるや、胡亥もまた趙高に殺された。

 

講義

 一切経の究極であり大綱である妙法蓮華経の題目を唱える法華経の行者の功徳と謗法・退転への用心とを説かれている。

 初めに、妙法蓮華経の題目を唱える人は、たとえ法華経の内容や妙法蓮華経の法理について何も知らなくとも、題目を唱えるだけで、法華経の心のみならず、釈尊一代の仏教を覚ったと同じ功徳を得ると仰せられている。

 そして、それを、一、二、三歳という幼少の太子であっても王位に就けば、幼少ゆえに、国が自分の所領であることも、摂政・関白以下諸大臣達が自分の所従であることも知らないが、しかし、位に就いたという、そのことによってすべてが自分の物となるようなものである、と仰せられている。

 また、題目を唱え続けていけば、自然のうちに成仏の境界に到達することを、あたかも物事を分別する心をもたない幼児が、母の乳を口に含み飲んでいくうちに自然に成長してゆくのと同じであるとも述べられている。

 したがって、増上慢の臣下が、何も知らないと思ってその太子を侮辱すると逆に自分の身を滅ぼすことになるのである。

 そのたとえとして、中国の秦の時代に始皇帝に仕えた宦官の趙高の話を挙げられている。

 趙高は、始皇帝の死後、その長子の扶蘇(ふそ)を殺して、末子の胡亥を二世皇帝として擁立し、権力を握った。次いで、胡亥をも殺して自ら王になろうとしたが、ついに第三世子嬰(しえい)に野望を見抜かれて誅殺された、という。

 そして、趙高におどされ、だまされたあげく、殺されてしまった胡亥を例に引かれ、法華経の題目を信受した人は、諸宗の僧達におどされたりだまされて正法を退転するようなことがあってはならないと戒められている。

 もし法華経を退転するようなことがあるなら、それはちょうど胡亥が趙高におどされて殺されたようなものであると仰せられている。

(「曾谷入道殿御返事(如是我聞事)」第四章 法華経の行者の功徳と用心を明かす)