朝の通勤時など、電車の運行が定刻より遅れると、その電車に本来乗ってこないはずの乗客が乗ってくることがある。
通常であれば1本後の電車に乗っているのだが、ホームに着いてみると、遅れてきた1本前の電車が来たので、(これ幸いと)乗車したという流れであろう。
同じ目的地にむかっている電車であれば、おれもそうする。
そうしない理由は殊更ない。
ただ問題は、そのようにして乗ってきた乗客(以下「ラッキーな乗客」という)たちが、なぜか、その車内の「調和」を乱すように思えることだ。
本来であれば乗ってこない客が乗ってくるので、いつもより物理的に車内が混むということもあるのだろうが、それ以上に、
ラッキーな乗客が横柄に振舞うように感じられる
のだ。
どうしてだろう?
それともおれの思いすごしだろうか?
ラッキーな乗客たちからすると、いつもとそれほど変わらない・・・、いや、むしろ、微妙に早く電車に乗れた場合もあるだろう。
その幸運に感謝すべきとまでは言わないが、「きょうはついている」という喜びを胸に、おだやかに振舞ってしかるべきと思うのだが、実際は、なんとなく図々しい挙動が目立つ。
電車が1本ちがったら「客層」が異なるのかと思うほどだ。
このような場面に遭遇すると、おれがいつも思い出すエピソードがある。
もう半年くらいまえに投稿したブログ「肥大した『対抗心』がむかう先」でも触れたが、おれは若いとき、かなり熱心に走るトレーニングをつづけていた。
高校・大学でも「陸上部」に所属したことはないのだが、精神的にも体質的にも長距離走に適性があったのか、距離を踏むことも苦にならず、大学を卒業するころの年齢から「市民ランナー」として練習を重ね、5kmからフルマラソンまで、各地の市民レースにも参加していた。
二十代後半~三十歳くらいの時期だと、「走っている時間」と「読書している時間」を比べれば、走っている時間のほうが格段に長かった。市民ランナーとしてはかなり「シリアス」な部類だっただろう。
@けけ
だが、会社員として働くようになり、平日の夜の継続的なトレーニングが難しくなってくると、早朝に走った。
朝5時ごろに起床して走りに出かけた。
そのころは勤務地が自転車で通える場所にあったため、けっこうギリギリの時間まで練習できた。
トレーニングのホームグランドは、自宅から500mほど離れたところにある緑地公園内だった。
きれいに整備されたθ状の遊歩道があり、そこを8の字を描いて1周すると約1.2kmのコースが取れた。
適度なアップダウンもあり、8の字にまわることで、右回り・左回りのバランスもとれるという、お気に入りの練習場だった。
もともと休みの日は昼間そこを利用していたし、会社から早く帰れたときは夜にも走った。
だが、思い出のエピソードは、朝の練習のときのことである。
おれは、春夏秋冬走っていたが、関東であっても真冬の早朝は寒かった。
まさに「凍てつく」という表現をしていい朝もあった。
憧れのランナーである中山竹通選手が無名時代、早春開催の大会にむけて真冬の早朝に厳しい走りこみを行ない、練習後はブレーカーが汗で凍ってカチンカチンになったと語っているエピソードを思い出し、長野県の寒さよりまだマシだと自分を鼓舞しながら走っていたこともある。
そのような厳しい冬の早朝を経て、やがて春が訪れる。
寒さも和らぎ、朝からほぼ快適な季節になる。
啓蟄をすぎ、ちょうど今くらいの時季である。
よかったよかったという歓びも束の間、その遊歩道には多数の「散歩者」たちがやってくる。
ほぼ年配の散歩者なのだが、一人、二人でぽつんぽつんと歩いている分にはまったくかまわない。
だが、ときには、5~6人が横になり、幅十数メートルの遊歩道をいっぱいに塞いで和気藹々と歩いていることもあるので要注意だ!
後ろから抜くときはたいへんである。気づいてどけてくれることなど期待できない。
「すみません! 通ります!」と(わりと大きな声で)声をかける必要がある。
そうやって声をかけても、はっきりと道を空けてくれることは稀である。
対面ですれちがうときでも、むこうが率先してよけてくれることなど、ほぼ同様に期待できない。
若い者が年寄りに気遣うべきだと思っているのか。
一番端の散歩者と遊歩道の縁石とのわずかなすき間を縫って、アクロバティックな体勢ですれちがわなければならないのだ。
まったく閉口してしまう。
まあ、むこうからすると、おれが寒い冬を経てきているなど知る由もないのだが、おれからすると、「寒い冬には引き籠もっていたくせに季節がよくなって出てきたと思ったらそんな尊大な態度かよ」と思ってしまうわけである。
だからといって、反対にこちらが散歩者たちに対して尊大に振舞うことなど、けっしてない。
そういった礼節意識の低い、傍若無人の年配の散歩者たちだけではなく、リードを遊歩道の端から端まで伸ばして犬を散歩させているようなひとも、真冬にはいなかった部類である。
ややニュアンスはちがうかもしれないが、先ほどのラッキーな乗客たちのうちで横柄に振舞うひとたちには、これらの散歩者たちと同じニオイを感じてしまう。
はたまた、この朝練習のエピソードと共通するのは、ここ1年ほどの居酒屋の状況だ。
2023年3月にマスク着用が任意になったころ、さらには5月になって、2類から5類になったころから、多くの客が「アルコールを提供する店」にもどってきた。
COVID-19感染など怖れていなかったおれは、かつての「緊急事態宣言中」も、
「飲みたいから」
&
「贔屓の店の経営を助けたいから」
という理由で、それまでとほぼ変わらない頻度で馴染みの店に通っていた。(ただし、その店が補助金をもらえるよう、酒類の提供時間などに協力しながら)
外で呑みつづけたのは、
嘘っぱちの偽情報に屈して「すごすご」と家に籠もることは矜持にかかわる、
という意識もあったからかもしれない。
そういう行動がはたして賢い・偉いかどうかは判らない。
だが、少なくとも、コロナ禍報道を真に受け、感染症を恐れて「自粛」していたのに、いざ「解禁」になった途端に呑み会を催し、隣のテーブルの客の会話が成り立たないくらいの大声で喚き散らしている酔客たちに内心舌打ちしてもバチは当たらないだろう。
あなたたち、いなかったよね?
緊急事態宣言中は。
この店に。
COVID-19が5類になってから外に呑みに出始めた、ということ自体を非難しているわけではない。
「解禁」となった歓びを噛み締めて朗らかに談笑することに、文句があろうはずもない。
だが、なぜ一部の酔客は、外圧的な「枷」がはずれた途端、横柄に、傍若無人に、尊大になってしまうのか?
鬱憤晴らしのように騒ぎ立てる酔客たちには、「いままでガマンしていた」という被害者意識があるだけだ。
逆境下でも不当な同調圧力と闘っていた者たちの存在など想像だにできない。
挙句に、そういった者たちが厳しい時期にも保ってきた「調和と静謐」をあっけなく破壊する。
横に連なって散歩していた啓蟄じいさま・ばあさまたちが、真冬でも走っていたランナーたちのことなど考えるはずもなく、仲間うちで遊歩道を塞いでなんら憚らなかったように・・・。
「まんまと騙されてしまったもの」
「怯えて巣に籠もっていたもの」
「解禁になった途端、尊大に振舞いはじめたもの」
そして、
「謎の”優先者意識”を持っているもの」
これらが同一人物である確率は、残念ながら低くはない。