肥大した「対抗心」がむかう先 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

不快で、詰まらなくて、考えたところでなんの“利益”にもならないようなことは、さっさと忘れたほうが賢明なのかもしれない。

でも、あれこれ「考えてしまう」のが、おれの性(さが)だ。

もちろん、興味にも関心にも触れることなく、おれの頭のなかを素通りしていく出来事もあるが、多くのひとにとっては詰まらない些事が、おれにとっては、分析せずにはいられない「問題」であることも少なくない。

どれだけ他者の賛同を得られるかどうか判らないが、おれにとって数多く遭遇する問題が、

 

「無駄な対抗心」である。


 

それは朝の通勤時、自宅から最寄駅まで歩いていくなかでも降りかかってくる。

自慢ではなく、端的に客観的事実を述べるが、おれは歩くのが速い
 

無作為に抽出した老若男女100人のなかで、たぶん最も速いうちのひとりだと思う。
しかも、一生懸命速く歩こうとしていて速いのではなく、ナチュラルに歩いている状態で速いのだ。

だからなのかもしれないが、ときどき“ターゲット”にされてしまう。

歩いているとき、前の人を追い抜かさなければ気の済まない「闘志あふれる好戦的なひと」の挑戦をしばしば受けるのだ。

タイミング的に、そのようなひとと遭遇した朝は、若干平和を乱される。

なにしろ、おれの背後から殺気だった足取りで追い迫ってくるのだ。だが、その足音の激しさとは裏腹に、実際にはなかなか追いついてこない。

朝の静かな住宅街を抜ける路地。そんな「闘士」がいなければ至って平和な状況なのに、数メートルほど後方でズサズサ、バタバタと、ハイテンションの足音を鳴らされていると落ち着かない。

ついこのあいだまでは、通勤の時間帯からすでに暑く、おれはできるだけ汗をかかないよう、ナチュラルより若干、速度を落として歩いていたのだ。

それでも追いつかない。追い抜いていかない。

しゃかりきになって歩いても汗をかかないのは羨ましいが、そこまでムキになる必要があるのだろうか?

いちど、あまりにも煩わしいので、わざと追い抜かせようと歩度を緩めたことがあるのだが、そのひとはおれを追い抜いた途端、あきらかにペースを落としたのだ!!

急いでいるなら、そのままどんどん行けばいいのに、歩度を緩めたおれより遅くなる。

つまり、そのひとは、本当に急いでいるわけではなく、とにかくおれより前に行きたかっただけなのだ、と思う。

こうなったら、そのひとが遠ざかるまで歩くペースをぐんと落としていたいところであるが、おれも、乗ろうとしている電車に間に合うように歩いているので、それ以上、極端にペースを落とすことはできかねる。

結果、おれを抜かしたそのひとを、抜き返すことになるわけだ・・・。

これは最近の事例で、このひととは何度も出食わしてしまうのだが、この種の不快事にはずっと昔から遭遇してきた。

まあ、多少不快ではあるものの、実害が無いといえば無いのだが、なぜ、このような「無意味な対抗心」を燃えあがらせるひとがいるのかと、いろいろ考えてしまうわけだ。
そんな勝負で、仮に「勝った」ところで、果たして満足感をおぼえるのだろうか、と。

ついおせっかい的に考えてしまうだが、このようなひとって、通勤時の「歩き」に限らず、日常生活の他の行動・思考に於いても一事が万事なのではないかと推察する。あっちでもこっちでも無駄な対抗心を発動し、無駄な勝負を仕掛け、(「勝った」場合は)無意味な勝利感に浸っているのではあるまいか。

たぶん、こうやって日常的に「勝った負けたの鍔迫り合い」に明け暮れているひとって、自分では「常に考えている」、少なくとも「頭を使っている」と自覚しているのだと思う。



でも、じっさいは何も考えていない。

 

このレベルの“勝負”であれば、勝った・負けたのルールは単純だし、それどころか、自分で単純なルールを設定している。また、そもそも闘うつもりのない相手に「勝つ」ことになど、なんら困難は伴わない。つまり、考えなくても可能である。

でも、本人は、自分が「考えていない」とは思っていない。
主観的には「闘い」で(もしかすると息継ぐ間もないほど)忙しいのかもしれないが、 「忙しい」=「思考している」 ということではないし、そもそも、そんな無駄な勝負に「かまける」ことで、むしろ真っ当な思考から遠ざかってしまうだろう。

目の前にぶらさげられた数々の競争。

他人よりテストで高い点数を取ること。他人より偏差値の高い学校に入ること。よりステータスの高い会社に就職すること。出世競争。他人より多く収入を得ること。他人より早く家を持つこと、等々。

それらの「競争」がもともと性(しょう)に合っていて、「勝負」することに心の底から歓びを覚え、「勝利する」ことこそが人生だ、という人が存在することも理解しているつもりである。岡田斗司夫のいうところの「軍人タイプ」だ。

 

それについては、なにも批判するつもりはない。また、切磋琢磨に結びつくような「まっとうな競争」を否定するものでもない。

しかし、じつに多くの競争が外圧的に仕組まれたものであることを理解する必要がある。

そこに自然に発生した「競争」ではなく、

 

「誰かが決めたルールに基づいて勝負するように洗脳されてしまっている」

 

だけかもしれないのだ。

 

その洗脳教育によって、とにかく「目の前にいる他人に勝つこと」に価値があると思いこまされている、とはいえないだろうか。

偏差値競争、収入競争など、その最たるものであろうし、いわゆる「マウント」をとりたがるというのも同種の心理に基づくものだ。

別の角度から見てみると、単一のルールを制定し、そのトップに君臨しているDeep・Sは、いわば「競争心」の権化と言えるだろう。Deep・Sと同じ穴の狢と化し、同じ価値観を共有している政治家や官僚や大企業の経営者たちが望むことは、

 

シープルたちが自分たちと同じように対抗心と競争心を最優先する価値観のもとに生き、

 

かつ、

 

無能で愚かなままでいること

 

 

である。

単一ルール(主に、金がすべてというルール)の勝負に参加してもらい、そこで負けつづけてほしいのだ。そうすれば半永久的に自分たちがトップに君臨できるから。

暴力的な闘いがすべてという「修羅の国」『北斗の拳』)に君臨する羅将カイオウのようなものである。


一方、洗脳された価値観であるとも気づかず「もっと金を稼ぎたい!」と悶えるシープル(名も無き修羅)たち。それを遥か高処から笑って見降ろすDeep・S(と、その子飼の政治家・官僚)。


「私たちの言うことに従うなら、もっと稼げるようにしてあげるよ。有名にもしてあげるよ(ただし、稼いだところで私たちの財産の一万分の一にもならないけどね)」と、札束でシープルの頬を叩くDeep・Sの群れ。(もともと、その子飼たちもかつて札束で頬を叩かれたのだ)




侮蔑に満ちた悪魔の寵愛を受けたいか?


金がすべてというルールのなかで、Deep・Sを凌駕するほど金を稼ぐのは、現実にはなかなか困難である。
(それはイーロン・マスクやウラジーミル・プーチンあたりにお任せしよう。ロシアの最大手企業の株主でもあるプーチンの財力はオリガルヒを軽く凌駕するレベルらしいぞ!)

Deep・Sに利用されず、Deep・Sと同じ基準で生きたくないのなら、できるだけ早い段階で

 

「無駄な対抗心」の呪縛から逃れ、「対抗心・競争心」とは別の価値観を基に生きたほうがいい

 

と思う。

名も無き修羅がカイオウに勝てることなどないのだから、それよりも早々に「修羅の国」を脱出すべきだ。

日本から出て行くということではなく、Deep・Sの配下にある全体主義のブラック企業「株式会社ニッポン」を早く「退職」すべき、という意味である。

株式会社ニッポンでは、より多く稼ぐこと(金)・出世すること(権威)・表彰されること(名声)が絶対善であり、そのように思考するように新入社員(幼児期)のころから教育されていく。

勤めている営利組織に於いては仕方がないかもしれないが、その価値観を生活・人生のすべてに適用する必要はないと思う。

繰り返しになるが、無駄な勝負で頭がいっぱいのひとは、主観的にはいろいろ頭を使っているつもりでも、根本的なことは考えていない。
「金」「権威」「名声」(これらは三位一体の関係だ)に簡単にからめとられてしまう。

惑沈接種に嬉々として赴いたのも、主に「権威あるものは善」という無思慮な思考に基づいたものであり、怖れていたように、mRNAワクチン開発者がノーベル賞を受賞したのちに日本での接種者が増えてしまったのも、同様に「権威」を疑っていないゆえであろう。

なにも考えず、権威を妄信し、脊髄反射的に「反マスク」だの「反ワク」だのといって対立構造に持ちこみ、「真実」を知ろうともしない姿勢こそが、この史上最大規模の薬ガイを招いた(招いている)といっても過言ではない。


残念無念!


しかしながら、「金がすべて」「権威がすべて」「名声がすべて」という価値観の外で平穏に生活している人はすでにたくさんいるし、単一ルール(One World)の欺瞞に人々が気づき始めた今、これからも増えていくことだろう。

株式会社ニッポンの価値基準により、知らず知らずに刷りこまれてしまっている多くの「競争心」が洗脳の結果であることに早く気づき、自他に対する呪いである「スパイト行動」を止め、「対抗」ではなく「調和」、「競争」ではなく「協同」、「不自然な共生」ではなく「自然な棲み分け」によって鼓腹撃壌の平和が訪れますように。

そうでなければ、日本は本当に「修羅場の国」になってしまう。


【余談】
歩くのが速いのは、十代から三十代半ばころまで人一倍走って筋力を鍛えた成果でもあるし、効率よく走ったり歩いたりする動きを追究してきたからでもある。現在歩くのが速いのは、後者の要素が大きいと思う。
バタバタとアスファルトを破壊しそうな大きな音をたてて歩くのは、「効率よく歩く」ことなどいままで
考えたこともないという証拠だし、そんな歩き方ではいつまでもおれに敵わないよ。見たところ、おれより二十以上も若そうなのに。