第77回 谷崎潤一郎『谷崎潤一郎犯罪小説集』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

少し前のブログで、「若いときにもっと読んでおけば、と軽く後悔している」と述べた谷崎潤一郎。

それでも『刺青』は、二十歳くらいのときに読んだのだが、日本文学史上あまりにも有名な作品であるため、読む前からあらすじは伝え聞いていたし、刺青を入れる描写は痛そうで嫌だったし、読了しても「まあ、こんなものか」と思うだけで、ことさら感銘は受けなかった。

どちらかというと、「読むべき本」を読み終わったという、「義務」を果たしたような想いだった。

三島由紀夫の『作家論』でも谷崎潤一郎は論じられていて、おれは現実の谷崎作品に深く触れるまえに、そういった「評論」によって、谷崎潤一郎の巨大さを間接的に教えられていった。

さらにひねくれたことに、小説群に挑むまえに『文章読本』『陰翳礼讃』といった評論(随筆?)のほうを読んだりしていた。

そんな経緯を経て、おれの裡で谷崎潤一郎は「読むべき作家」「読んだほうがいい作家」「いつかは読みたい作家」としての像をふくらませていき、40代になってから一気に・・・、ではなく、一作品読んではしばらく遠ざかり、という具合に、ぽつりぽつりと読み始めた。

『春琴抄』『痴人の愛』『秘密』とか。


『刺青』も再読した。言うまでもなく、読むだけで「痛み」を感じさせる筆力がすごいのだし、ラストでは、鮮やかな刺青の像が、主従関係の鮮やかな逆転とともに眼に浮かんでくるようだった。


『細雪』を読んだのは50代になってから。

 

新潮文庫版だと「上・中・下」巻に分かれた大長編だが、おれが読んだのはそれを一冊にまとめた中公文庫版。分厚いぞ。900ページ以上ある。京極夏彦の長編並だ。

どうやって通勤鞄に入れていたのだろう?

『卍』を読んだのはそのあとだ。一昨年は『蓼喰う虫』、昨年は『鍵』『瘋癲老人日記』を読んだ。


これからは古(いにしえ)を舞台にした『吉野葛』『少将滋幹の母』を読み進もうとしていたのだが、そこでちょっと寄り道をした。


日本の推理小説の源流とも賞賛される「犯罪小説」を集めた


『谷崎潤一郎犯罪小説集』


である。

 

初読は2018年。今年に入って再読した。


「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」の4篇が所収されている。


解説の文芸評論家・渡部直己は、なんと、早稲田大学文学学術院の教授時代の「セクハラ発言」で2018年に訴えられ、昨年2023年、東京地裁から賠償命令が出されているが、解説文自体は秀逸。
(皮肉「も」籠めて、この小説集の解説者としては「最適任」だ!)

解説文の一部を引用する。

 

(前略)明治四十年の学生時代より(E・A・)ポーを愛読し、『刺青』『秘密』の最初期から大正時代大半にいたるみずからの文学の基底に、ポーの小説のもつデカダンスと、謎めいた犯罪にまといつく芳醇な官能性とを摂取し、この<悪と美>の退嬰的な結びつきのうちに、独特のマゾヒズムを絡めとろうとしていた谷崎である。ポーに心酔していた乱歩がこの作家を見逃すはずもない。

 

ポーの独創がこの場で発見したのは、犯人であるよりはむしろ読者であり、推理小説の最大の糧とは、作品を前にしたその読者という存在の、いわば不断の劣性にほかならない。語りだす前から話者はあらかじめすべてを知り尽くし、読者は語られつつあることしか知らない。

 


また、こうも言う。

 

ここではとりあえず、読むという体験そのものに仕掛けられた華やかで挑発的な「犯罪」や「罠」のありかたについて、また、新来の一ジャンルの本質をあっさりと見抜き、余人に先駆けて苦もなく一級品を書き上げてしまう谷崎潤一郎の、大作家ならではの幅広い力量のほどを、繰り返し賞賛しておけば足りるだろう。

 

 

長々と引用したのは、本書を読んで、いわゆる「純文学」と「大衆文学」の垣根が無意味であることを、あらためて感じたからだ。

仮に「純文学」と「大衆文学」というジャンルが別々にあった場合、「推理小説」は、あたりまえのように「大衆文学」に分類される。さらに「純文学」のほうが「大衆文学」より「上」であると評価される。
(奇しくも、つい一昨日、芥川賞と直木賞が発表された)


だが、そういった「ジャンル」など、文学という「共通祖先」から分岐して進化した「種」の相違みたいなものである。方向性が異なるだけだ。同じ哺乳類でも「犬」と「猫」はたしかに違うが、どちらが「上」ということもない。
しかも文学の場合、生物の「種」とは異なり、境界線は曖昧だ。

特定のジャンルが優れているわけではなく、どのジャンルにも「高さ」や「深さ」や「広さ」は存在し得る。


(1月19日の投稿後、作品のレビューとしてはあまりにも物足りないと思い直し、翌20日に以下を追加した。ここから↓)


おれが最初にこの作品集を知ったとき、上に紹介したような背景を知らなかったこともあり、正直、意外の念をおぼえてしまった。やはり、官能・情動の作家である谷崎潤一郎と、推理小説のイメージには距離を感じたからである。


こんなことを大谷崎にむかって言うのは失礼千万の極みだが、実際の作品を読んでみて、その科学者並みの論理性に感服した。


だが、「心理学」を科学とすれば、人間の情動や思考を描くのに論理性は不可欠だし、思い返せば、「一般的な」谷崎作品を読んだときも、その緻密な論理性に、充分に触れていたはずだった。


記憶に新しい『鍵』にしても、これを緻密な記述に裏づけされた推理小説・犯罪小説として読んでもいいくらいだ。


各作品に軽く触れる。


冒頭の「柳湯の事件」は、いきなり風変わりな作品だ。生理的嫌悪感に満ちた被虐的な描写はもちろん、いかにも探偵役として登場しているように思えた弁護士が全く探偵として機能していないという、意外感が面白い。


「途上」は、探偵役が、まさに「論理的思考」を駆使して、容疑者を現実に追い詰めていく話。
おれは、ちょっと被害者に感情移入してしまった。


「私」は、典型的にして完成された叙述トリック。ここで厳守されている「ルール」が、以後の全ての叙述トリックの「法」となっている。


「白昼鬼語」は、語るとネタバレになりそうだ。

ホラー感満載のサイコサスペンスとして読み進めていただけると良いと思う。


(↑追加、ここまで)

おれは小説を読んでいて、たまに、誰の書いたものを読んでいるのか、混乱することがある。

例えば、山田風太郎の小説を読んでいるとき、先ほど「解説」で出てきた江戸川乱歩のイメージと重なるときがある。おそらく「巨人」というイメージが重なっているのだろう。

なんとなく、乱歩の小説を読んでいるような気になりかけて、「ちがうちがう、これは山田風太郎だ」と頭のなかで修正したりする。


今回も、読んでいて乱歩のイメージと重なったところもあるのだが、これはむしろ乱歩のほうが谷崎に「寄って」いたのだということを、「解説」によって知った。


おれが、瞬間的に錯覚した箇所を引用して終わりにするが、同時にここは、「犯罪小説」のなかでありながら、谷崎の華麗な官能的描写が如何なく発揮された文である。現在では「官能推理」という分類も、特段珍しいものではない。

 

畳に垂れている羽織の裾の隅から、投げ出した右の足の先の、汚れ目のない白足袋の裏が半分ばかり露われて、その上に長い袂の端がだらりと懸かっている。さっき、纔かに彼女の上半身を窺っただけであった私は、全身を見るに及んでいよいよ彼女の凄艶な体つきが自分を欺かなかったことを感じた。何と云うなまめかしい、何と云うしなやかな姿であろう。寂然と身に纏うた柔かい羅衣の皺一つ揺るがせずに据わっているにも拘らず、そのなまめかしさとしなやかさとは体中の曲線のあらゆる部分に行き渡っていて、何かこう、蛇がするするとのた打ってでもいるような滑らかな波が這っているのである。(P-142 「白昼鬼語」より)

 

文中の「纔かに」は「わずかに」と読む。

終生かけて女の魔性と「謎」を追いもとめた谷崎は、犯罪小説をつうじて読者に見事な「謎」を呈示してくれた。

 

 

 

 

 

途中、1つの文章(ワンセンテンス)が2ページ近くにわたってつづく、というとんでもない文章が出てくるのだが、まったく不自然でも読みづらくもない。

 

 

 

 

 

 

 

ミシマの小説を認めない辛口評論家であっても、三島の評論はすごいと絶賛する。おれもこの『作家論』で、内田百閒や稲垣足穂といった天才作家の存在を知った。

 

 

 

ブログでは触れていないが「純文学作家」の「推理小説」としてはこれも挙げられる。鬼才・坂口安吾による驚天動地の大トリック作品。読み終わって唖然とすること請け合いだ。