「おまえが言うな」 ~論破する言葉としての「おまえが言うな」ではなく~ | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

どうやら、「おまえが言うな」という言葉は、相手の主張・言論を封じこめる「キラーワード」として使われることが多いようだ(その効果のほどは判らないが)。

おれがここで言いたいのは、ちょっと方向性が異なっていて(むしろ真逆)、あなたが相手を論破するために使っている言葉は、本来あなたが口にする言葉ではないでしょう、というケースのことだ。


まずは、故・三波春夫が“言ったとされている”「お客様は神様です」という言葉。

この言葉が三波春夫の真意をはずれ、簡潔なフレーズゆえに独り歩きし、カスハラクレーマーの「錦の御旗」になってから久しい。

しかし、この言葉は三波春夫の真意をいかに拡大解釈したところで、あくまでも商売の「売り手」(以下「店」に統一)側が心に秘める言葉であって、客が言うべき言葉ではない。


自分のことを「神として敬え!」と主張・要求しているということであり、どのような心理状態になれば、そのようなフレーズを店にむかって言えるのか?


底流には、「金を払う側」 > 「商品・サービスを提供する側」という上下の意識が存在することは間違いないが、これは、前回のブログでも触れた対立モード:「金がすべて」の典型のひとつと言えるだろう。

「金を払っている」という意識が、簡単に過剰な優位性に転じ、「金をもらっている」側への蔑視を生んでしまうという「マウント体質」。

また、そこにはコストパフォーマンスの意識もからんでくる。

最小限のコスト(金)で、最大限の対価(商品・サービス)を得ようとする心理は、誰にでも多かれ少なかれあると思うが、この心理が嵩じると、店というものは「自分の我がまま」を「神を崇めるように」受け入れて当然。そうしてくれない店には「罰当たり」とばかりに責めて良し、という考えになる。

以上のように「客である自分は神のごとく敬われて当然」という意識が血肉になっている場合以外にも、店を責めるには打ってつけのフレーズであるという認識で、単に「武器」としてこの言葉を使用しているケースもあるだろう。

どちらのほうが性質(たち)が悪いか。それは甲乙つけがたい。


おれは基本的には、「商品・サービスを提供する側」のほうが“上”だと思っている(書物に対しても、数百円ぽっちでこれほどの知識と愉悦を与えてくれてありがたいと思っている)のだが、仮におれが店から不快や迷惑を被った場合、シンプルに苦情を示すか、まっとうな弁償を求めるか、もう二度と行かないか、という選択があるだけだ。あるいは大きく騙されたような場合は警察への通報、もしくは訴訟を起こすこともあり得るが、いずれの場合であっても、おれの心理に「お客様は神様だから」という認識が入りこむ余地はないし、「お客様は神様だろう」という言葉を盾にする気もない。

 


「おまえが言うな」という言葉の例では、次のようなケースもある。


小さな(小学校低学年くらいの)子どもが万引きをした。
連絡を受けた親が店に行き、店から厳しい「お叱り」を受ける。

そこで親が返してひと言:
「小さな子どもがしたことなんだから、少しは大目に見てくれてもいいでしょう!」

ある種のひとにとっては、つい出てしまう言葉なのかもしれないが、これも、大目に見て恕(ゆる)すかどうかの主導権は店側にあり、加害者側が(当然のこととして)主張すべきことではないだろう。


これに似た件で思い出す一件がある。

勤務先で以前、凡ミスからおれに面倒と迷惑をかけた同僚がいた。

それなのに、まったく悪びれたようすもないので、そのミスの影響についておれがやんわりとたしなめると、たしなめられたことにいたくご立腹されたその同僚が、あろうことか「お互い様でしょ」と言い放ってきた。

なにが「お互い様」なのか、まったく理解できなかった。おれがその同僚に迷惑や面倒をかけたことは(少なくともその段階までは)一度もなかったからだ。

もしかしたら、発言者にとっては「小さな子どもがしたことなんだから」「お互い様だろう」という言葉が功を奏したことがあったのかもしれない。そのフレーズによって、相手を黙らせたこと・優位に立てたような気がしたことがあったのかもしれない。

しかしながら、迷惑・被害を被った側が、恐縮する相手に「小さな子どもがしたことだから」「お互い様だから」と言うのが筋であって、迷惑をかけた本人が言うべき言葉ではない。

換言すれば、真理・本義などどうでもよく、とにかく相手を打ち負かしたいという「対立モード」にあるひとは、(「お客様は神様」をふくめ)「おまえが言うべきではない」言葉を安易に使用する蓋然性が高いと言える。


対立モードの薄い例では、飲食店で客が会計時に「お愛想して」と言うのも、本来は「おまえが言うな」の類ではあるが、最近ではほぼ日用語として定着し、「お愛想」の原義も曖昧になってきている印象だ。店のほうでも、客と店のどちらが言っても良い「会計」の言い換えと認識して、それほど失礼な言葉とはとらえていないのかもしれないが、それでも気にする店は気にするだろうし、「教養」の程度を疑われたくなければ、使わないに超したことはない。
(おれは、店側に失礼だと思うので使ったことはない)


だが、なんといっても「おまえが言うなよ」と言いたくなる筆頭は、ネットの「フェイク」を非難している某放送団体の主張だろう。これにたいしては、相手を論破する言葉としても使いたいくらいだ。

ネットにフェイクが存在しているのは百も承知だが・・・、

 

政治、戦争、災害、ワクチン…。スマホには日々、デマや誤情報、真偽不明な情報や誤解を招く表現が流れ込んでいます。情報に惑わされないために、フェイク対策のヒントをまとめました。

 

・・・って、「おまえが言うな」というより、いまや、おびただしい数のブーメランが唸りをあげて返ってきているのが見えるようだ。

 

 

ワクチンへの反対意見を、純粋に「フェイクを鵜呑みしたがゆえの意見」と断じる2021年段階の記事など、読んでいて肌が粟立つほどだ。ウクライナについても、どう落とし前をつけるつもりなのか。小狡いのは、このなかに「あきらかなフェイク情報(たとえば、癌が水で治るという宗教団体の教え)によって騙された人」の記事も混ぜていることだ。この「小狡い」手法も、真実をフェイクとする上での、かれらの常套テクニックである。

 

 

三波春夫オフィシャルサイト 『「お客様は神様です」について』