「無神経のレベル」と「認識の幅」 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

前回、『日本とユダヤの古代史&世界史』のレビューで、「秦の始皇帝の息子と思われる人物の顔面復元図」を載せたが、じつは勤務先に、その図と顔の印象がそっくりの男性社員がいた(もう退職したが)。


優秀で、精力的で、勤勉で、ややバイオレンスが透けて見えるほどアグレッシブな性質で、「イケメン」とも言われていた。
差別的な意識はいっさい無しで言うのだが、容貌からしても、日本人の平均値よりユダヤの血が濃かったのかもしれない、と今になって思う。


「なんでも知ってる」という博識タイプで、おれの勤務先の社員には珍しく「地球温暖化」のインチキについても知っていた。しかし惑沈は、退職(転職)する時点ですでに4回接種済みだったようだ。彼ならば、裏のカラクリを見抜いて打たないだろう、と勝手に思っていたのだが、コロナ・惑沈のサイオプは、それほど巧妙だったということだ。



・・・という話はともかく、それにしても、おれより早くSHIにそうな若者がたくさん歩いている。

これは肉体的なDeathを意味するだけではなく、「老化」「衰弱」「廃用」「劣化」なども含んでの話だ。


「偏屈な頑固オヤジの決めつけ」と解釈されても構わないが、それほど明るくない夜道を、ワイヤレスイヤフォンを耳孔に嵌め、スマホを見ながら無灯火で自転車に乗っている若者に「明るい前途」があるとはどうしても想えない。


おれだって、いつ何時、急病や事故・事件で命を落とすかは判らない。(おれはつねにその意識で生きている。大袈裟に言えば、夜は「きょうも無事に生き延びられたな」と感謝して寝る)

もしかしたら、そういった「危機感ゼロ」のにんげんのほうが長生きする可能性もある。


しかし、確率的に考えると、イヤフォン+スマホ+無灯火で自転車に乗っている(ような)ものが、先に命を落とすだろう。それは事故に遭うという物理的な原因のみならず、そのような「ピースフル・ハイ」の思考そのものが、高い「生存力」「生命力」とは相反するものだからだ。


「確率」の話をすると、たとえば「銃の乱射」現場に居合わせた場合、そこにぼーっと突っ立っているより、しゃがんだほうが流れ弾に撃たれる確率は1/2になるという。伏せるとさらに1/5くらにまで確率が下がる。

ただ、突っ立っていても撃たれない場合もあるし、伏せても撃たれてしまうこともある。
だからといって、(その知識がありながら)突っ立っている者はいないだろう。


おれから見ると、イヤフォン+スマホ+無灯火で自転車に乗っているひとは、

 

「しゃがむ労力」すら惜しんで乱射現場で突っ立っているひと

 

に想えるのだ。


もちろん「イヤフォン+スマホ+無灯火で自転車」というのはひとつの典型例であり、ここにいろいろな行動を当て嵌めることができる。繰り返すが、物理的なリスクに加え、「そのような行動をしていても平気である」という思考も重要な危険ファクターだ。


古今東西、年配者から見れば若者はリスクにたいして無頓着なのかもしれないが、それにしても「致命的な」一線を越えてしまっているような気がする。

「金」はどうか知らないが、「今だけ」「自分だけ」を体現している。
「未来」を放棄し、「他人」を完全無視している(呪っている)ように映るのだ。


自転車以外では、先日、眼鏡(おそらく近眼鏡)をかけて、首から上だけを顔が地面と並行になるくらいうつむけて、眼から10cmほどの至近距離でスマホを見ながら駅構内を歩いている学生服姿の男子生徒を見かけた。まさに「スマホ失明」まっしぐらだ。


今回の「コロナ禍」を契機に、

①覚醒した者・覚醒度を高めた者

②眼醒めることなく、盲目的に「権威」「大多数」にしたがったもの

に、二分されたと思っている。

このうち②は、さらに、

(1)コロナ「対策」以外はそれまでと同じようにすごしているもの

(2)コロナ「対策」をするのはもちろん、過剰に怯えて「穴倉」に逃げこみ、ひたすら「嵐」が過ぎ去るのを祈っていた(いる)もの

に分けられたと考えている。


スマホへの異様なまでの惑溺には、この②の(2)の心象=現実逃避によるケースも少なくない(と、以前からこのブログで言及しているが、どのくらい賛同を得ているかは不明)

コロナ禍が去ったように見える今でも、いまだにスマホに溺れているのは、そのときの習いが、性になったためであろう。

そのようなかれらの「恐怖」と「絶望」さえも汲み取って、理解すべきなのかもしれないと思うときもあるのだが、「理解」して、それで何ができるのかは、判らない。(このようなブログを細々と書くことくらいしかできていない)


・・・と、ここまでが前段で、ここからが本題のつもりだったが、もしかしたら、本題のほうが軽い話になるかもしれない。笑って読んでいただければと思う。


電車のなかなどで無神経な振る舞いをし、こちらに「不快」をもたらす相手。
その相手の無神経の「度合い」もしくは「方向性」も、大別して2つに分けられると思うのだ。

ひとつは、自分も無神経だが、自分が相手に同じことをされても気にしないという、首尾一貫して「鈍感」なひと。

もうひとつは、自分は何も気を遣わず、平気で他人に不快感を与えるが、自分が同じことをされたら激怒するひとだ。

ときと場合によるが、前者にたいしては「別世界の住人」として「放っておくしかない」という気持ちになる。

だが、後者は・・・。

他人にバッグをボカボカぶつけるのは平気なのに、いざ自分がぶつけられたら顔色を変えて非難の視線を送ってくる・・・、って、こういう「自分を写す鏡」を持っていないひとって救いようがないと、個人的には思う。


こういった事例は、まさに「浜の真砂」なのだが、ひとつだけ、おれが現実に遭遇した印象的な実例を挙げてみる。


電車のシートに座っている際、もっとも嫌なことのひとつが、隣に座っているひとに、肘(など)でわき腹を突かれることだ。バッグのファスナーを開け閉めしたりするときに、その勢いで肘がぶつかる場合が多い。ぶつけるほうは、「開閉作業をしているのだから仕方がないでしょう」とばかりに、他人のことになど頓着しない。

かつて、隣に座ったコーカソイドの年配夫婦(英語で会話をしていた)。おれの側に座っている夫のほうが、バッグの開け閉めに伴って、おれのわき腹をボコボコと複数回に亘ってどついてきた。

何発、ぶつけられただろう。

おれは、


(文化がちがうからしょうがないのかな~)

(日本人に較べて、肉体的「接触」を気にしないのかな~)


などと「良い方向」に解釈しながら、その“狼藉”に耐えていた。

だが、ついに我慢できなくなったおれは、その白人が上記の鈍感な「別世界の住人」であれかし(あってほしい)という想いを半ば籠め、それを確認する意味もふくめて、さりげなく、一発だけ、ごく軽く、仕返しをしてやった。

その瞬間、かれは座っていたシートから撥ねあがらんばかりの反応を示し、おれのことを「Incredible!  この無神経で無教養な東洋人が!」という形相で、軽蔑に満ちた碧眼を瞠って睨みつけてきた。

おれが「無神経で鈍感な人間」のふりをしてしらばっくれていると、呆れたように、次の駅で電車から降りていった。(降りようとしていた駅に着いたから降りていったのだろうが)

これに懲りて、もう日本に来てくれなくてもかまいません、とおれは内心呟いていた。

まあ、おれのやったことも決して褒められたことではなく、もっと紳士的に「ぶつけないでください(Don’t elbow me)」と訴えるのが理想だったのかもしれないが、このときつくづく「別世界の住人」はごく少数であると再確認した。多くは「自分を写す鏡」を持っていないだけである。


徹底的なまでの客観性の欠如。自分のやっていることへの無自覚さ。
「自分は何をやっても赦される」と思っているというよりは、「自分が他人に害を及ぼすことなどあり得ない」と、無根拠に信じているかのようである。

あるいは、かれにとって「バッグのファスナーの開け閉め(とバッグのなかの探しもの)」が「認識」のほとんどすべてを占めていた、とも考えられる。それ以外の要素が入りこむ余地など無いほどに。

だから、肘を何度も隣の東洋人のわき腹にぶつけているという意識は皆無である。


哲学的な修辞を使うと、

 

「他人に不快を与えている時間」は、かれの主観上では「存在していない」

 

とも言えるのだ。

したがって、おれの行為は「仕返し」ではなく、「一方的な攻撃」以外のなにものでもない。かれにとって。


「一方的な認識」「偏った認識」「自分に都合のよい認識」「狭い認識」・・・。


前段の話に返ると、「極端なスマホ歩き」「イヤフォン+スマホ+無灯火で自転車」が「平気」なひとというのも、「認識の幅」が極度に狭まっていると推察できる。充分な認識の幅があれば、あるいは認識のバランスがとれていれば、そんなことは怖くてできないのではなかろうか。


つまり、「他人に平気で肘をぶつけるひと」は一事が万事、「極端なスマホ歩きをして平気なひと」である確率はかなり高い・・・、と言いきるには無理があるかとも思ったが、やはり一理あると考える。

 

 

 

冒頭の「ユダヤ系?」の彼とは、仕事上でのつながりは多少あったが、勤務しているフロアが異なり、ふだんから頻繁に雑談をするような関係性ではなかった。だから、惑沈の危険性を話題にして話すこともなかった。4回接種していることについても、「○○さん、コロナに罹って40度の熱が1週間もつづいて休んでた。惑沈は4回打ってるって」という噂話で知った次第だ。