溶けゆくニッポン人 ~レビューにあらず | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

COVID-19が5月8日、輝かしき2類の座から華々しく転落!
 

感染症として長らく高下駄を履かされ、実力以上に祭りあげられつづけていたので、いまごろ“ご本人”さまも「ホッ」と(トゲトゲだらけの)胸を撫でおろしていることだろう。

しかし、まやかしとはいえ、その威光は充分すぎるほど巷間に行き渡ってしまっているため、信仰心篤きものたちは、いましばらくマスク着用なる儀式を通じて「偶像」を崇拝しつづけるにちがいない。
身裡からあふれる畏怖とともに・・・。


「5類になってもコロナが無くなったわけではない。引き続き油断することなく感染防止対策は必要」と、少なくないひとたちが、まるで何かに操られているかのように(実際に操られてしまっているのだが)、正論のつもりで異口同音に主張し、マスクを着用しつづけている。


 

たしかに、コロナウイルスが絶滅したわけではない。
何億年も前から存在し、これからも存在しつづけるのだ。
しかし、それに対して特別の「感染防止対策」をする必要はなくなった、という意味である。
(実際は2020年当初から対策不要だったことは言うまでもない)


極端な喩え話をすると、いまだに“COVID-19感染防止対策を目的に”マスクを着用しているひとは、

 

癌でもないのに毎日抗癌剤を投与している

 

ようなものではないだろうか。しかもみずから率先して。

もし、その疾病にたいして効果があるかどうかわからず、ただ副作用だけは強いという薬を、その疾病に罹っているわけでもないに服用している人が眼の前にいたら、ふつうは「そんなバカなことはやめろ」と言って止めるだろう。

連日、COVID-19感染防止対策を目的に、屋外や電車のなかでがっちり鼻まで覆ってマスクを着用しているひとって、それと同じなのだ。

COVID-19などという、インフルエンザよりも深刻度が低い「病」に対して、まるでなんのデメリットもない万能の特効ツールであるかのような依存度を以ってマスクを着用しつづけている。

「それって無益で有害だよね?」という正論は、「COVID-19になったらどうするのよ!」という狂信めいた認識によって一蹴される。


「癌でもないのに抗癌剤なんか射つなよ!」と諭したら、

 

「毎日カラダのなかでは数千個の癌細胞が発生してるって知らないの? バカじゃないの? それが大きくならないように薬を射って何が悪いの? 余計なイチャモンつけないで!」

 

と反論されるようなものである。

体内で毎日数千個の癌細胞が発生していることは事実だ。コロナウイルスがゼロにならないのと同様に。
ただし、どちらも自然な免疫で対処可能だという事実も共通している。


それを「自然の免疫なんて頼りにならない。癌(ウイルス)を防ぐためには抗癌剤(マスク)が必須なのよ!」と、堅く信じて、信じて、信じつづけて・・・、もはや梃子でも動かない。


現実の「片方」しか見ていないと表現したらよいだろうか。


5月8日以降もマスク着用率(目測)95%の通勤電車内を見て、つくづく想った次第である。
 

 

ところで11日の「園遊会」。

天皇皇后両陛下、および招待者全員がいまだマスクを着用しているという(おれにとっては)衝撃的なビジュアル。
「範」を示すためにも率先してはずすべき「場所」だろう。いつまで両陛下にマスクを着用させてるんだ。

 

 


支配する側にとっては「人口削減」も必要なのだろうが、シープルがもっともっと「愚か」になってくれることが、より好都合なのだと思う。

コロナ騒動にまつわるさまざまな似非対策、とくに惑沈とマスクによって、この3年間で日本人の平均知能指数は5ポイントほど下がった、というのがおれの(感覚的な)見立てである。
(知能指数が「賢さ」を測るすべてではない、ということは置いておいて)

『溶けゆく日本人』(産経新聞取材班/扶桑社新書)という本をかなり以前に読んだことがある。(初版は2008年5月)

内容は、いわゆる「自己中心」「手前勝手」「想像力の欠如」などによるモラル破壊の現状を描いたもので、救急車をタクシー代わりに呼ぶ、といった問題が話題になりはじめた頃の書籍である。たしか続編の「2」もあり、それも読んだ憶えがある。


それから早15年。


不気味な溶解現象に歯止めがかかることはなく、もはや「何か」が溶けきっているのだ。

 

「スマホ歩き率」はもはや異常値を超えている。


ホーム上をスマホ歩きしているひとはむろんのこと、スマホ画面を凝視しながら電車に乗ってくるひと、電車から降りていくひとさえも、もはや珍しくなくなってしまった。

現実を見ていない。見ようともしない。

 

他人の存在が認識にも五感にも触れていない

 

街灯の乏しい暗い夜道を、スマホを見詰めながら、無灯火で自転車に乗っている「ツワモノ」も目撃したことがある。
暗くてそこまで見えなかったが、もしワイヤレスイヤフォンを耳に嵌めていたら完璧だ。

何をしても死なないと想っているのか?


それとも、むしろ無意識裡に死にたいと望んでいるのか?

・・・と、こちらが勘ぐってしまうほどの愚行である。



単純化して言うと、官民一体となっての「愚民化政策」に対抗する「力」こそが「智力」だと思うのだ。おれ自身、その政策に抗しきれているかどうか自信はないが、できるだけ「愚かさ」に染まらないよう、抵抗しているつもりである。

それを、まんまと、と言うか、むざむざと、と言うか、全身どっぷりバ○にまみれてどうするのか?

「いい子だから愚かにしててね」「はーい!」ってか。


「3S政策」「食糧危機」「SDGs」「パンデミック演出」「昆虫食」「不正選挙」「デジタル化」「5G」「増税」「脱炭素」「不法移民」、そして「自己増殖型mRNAワクチン」・・・。
 

敵は多種多様な攻撃を次から次へと繰り出し、こちらを損なおうと画策してくる。


これらの攻撃にあって、まったくの無傷ではいられないかもしれないが、せめて「致命傷」を負わないように持ちこたえなければならないのだ。この「世界戦争」が終わる、そのときまで。

 

そのためにも「脳」をみずから「溶かして」いる場合ではないのである。

是非とも「融点」を高くしていきましょう!

 

 

 

新書としては絶版のようだ。