「ひらかれた眼」「ひらかれた心」 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

ブログを中断していた時期(2015年から2022年くらい)、関心事のひとつに「人格障害」「パーソナリティ障害」の問題があった。

というのも、おれの勤務先の会社内でかなり影響力のあるポストに就いている幹部のひとり(男性)が、まごうことなき「自己愛性パーソナリティ障害」だったからだ。

ご存知のとおり、「パーソナリティ障害」も何種類かに分類されている。
(諸説あるが、概ね10種類)

そのうち、たとえば「反社会性パーソナリティ障害」や「境界性パーソナリティ障害」だと、なかなか会社勤めは難しいと思うが、こと「自己愛性パーソナリティ障害」の場合、周囲にそこはかとない違和感、不快感、訝しさなどを撒き散らしながらも、なんとなく存在を許されていることが多い。ちょっと見方を変えれば、一見「愛すべきキャラ」に映ることも少なくないからだ。
(太宰治が自己愛性パーソナリティ障害だったという説もある)

その幹部もそうだった。

明るく、快活で、おしゃべりで、そして「知能指数」も高いので、すこぶる優秀に見える。

そのため、限られた角度から眺めている限り、非の打ちどころのない人物として評価されても不思議ではない。

だが、ちょっと深く関わるようになると、その深度に応じて、かれ(以下「H」とする)の「闇」に触れることになる。

いま、「深度に応じて」と言ったが、まさに人それぞれ、その暗部に対する理解度にはあきらかなグラデーションがあったのだ。

おれは、いっときHと仕事上かなり深く関わり、その「闇」のもっとも濃厚な部分にも触れてしまっていた。

非情な「サイコパス」ともやや違う、自己愛性パーソナリティ障害者独特のおぞましさ。


まさにHは掛け値なしの自己愛性パーソナリティ障害者で、その名称を知るまでは、「なぜそう考えるのか?」「なぜそう思うのか?」「なぜそんなことをして平気なのか?」という、ワンダーランドのなかにいた。

おれ(と同僚の何人か)は、仕事上の関わりが強かったため、数年に亘って、さんざんHに悩まされ、常に怒りと憎しみと嫌悪を抱きつづけてきた。


だが、今回おれがここで言いたいのは、自己愛性パーソナリティ障害者の生態そのものではない。
それよりも、問題はそれを取り巻くひとびとのことだ。

Hとさほど関わりのない同僚は、おれがいくらHのことを(具体例をいくつも挙げて)批判しても、


「そんな人には見えないな~。このまえもHさんは自分にこんなに優しくしてくれたよ。きみの被害妄想じゃないのか?」
 

と、まともに取り合ってくれない。

先に言ったように、かれはHを「限られた角度」からしか見ていなかった。

Hのことを「真性ブラック」と思っているおれらとは対照的に、かれはHを「ホワイト」として評価しているのだ。

そして、グラデーションと表現したように、その中間層も多くいた。
いわゆる「灰色モード」である。

Hに対して、なんとなく不信感を抱いていたり、なんとなく嫌いと感じている同僚は多かった。
一般社員のなかでは、Hに対する「悪口」はなかなか盛り上がる話題だった。

だが、かれら・かのじょらは、Hの人格全体を批判するのではなく、これこれこういうところが嫌だ。これこれこういうところは納得いかない、という批判の仕方をおれのまえで展開していた。

しかし、その奥の「闇」を知っているおれは、その「ピンポイントの欠点」が氷山の一角でしかないことを(いやというほど)理解している。「点」の背景にある「面」を解説することができるのだ。

その「嫌な点」が、どのような「思考」から発しているのかを。

そこでおれは、Hの言動にかなり批判的(中間よりも黒に近い灰色)だった社員のうち、比較的親しかった若手のFくんに対し、ある日、おれなりのHの「人格分析」を披瀝したのだ。
優秀なFくんなら、おれの批判内容を当然理解してくれると考えて。

そして、そのころにはすでに知っていた「自己愛性パーソナリティ障害者」という「病名」のことも口した。

かなり控えめで、冷静に分析してみせたつもりだったが、結果は、おれの予想と大きくちがっていた。

Fくんはおれにむかってこう言ったのだ。

「ひとのことをそこまで悪く言いますか?」


「パーソナリティ障害って、精神科の医者でもないのに病名をつけて人を診断するなんて、いきすぎですよ」


「あんまり熱心にHさんを批判するんで、ドン引きしました」

・・・・・・。

幸い、その後おれとFくんがそれほど険悪になることもなかった。

Fくんはまさにおれの「言いすぎ」に対して、ピンポイントで批判してくれたのだ。

おれは、たとえ理解してくれそうな相手のまえであろうと、Hをあからさまに批判するのはやめようと思った。
とくに、「パーソナリティ障害」という言葉は使わないようにしようと決めた。


しかしながら同時に、おれは、おれのHに対する分析が間違っているとは微塵も思っていなかった。



そのころおれは、身近にいる「自己愛性パーソナリティ障害者(以下「自己パー」という)」にさんざん悩まされてきている人が開設しているサイトを、共感とともによく閲覧していた。

そのサイトでは、「自己パー」にたいする観察記録と分析と悪態(しかも冷静な悪態)に満ちていたが、併せて、自己パーがパーソナリティ障害であることを認めない「性善説」のひとびとに対する不満も表明していた。

 

「世の中にそんな悪いひとがいるわけない」と信じて疑わないひとびと。

気づかない・認めない・実相が見えない・被害を被ってもそれを被害だと認識しないひとたちのことを「眼がひらいていない」という表現をしていた。

逆に、いったん「眼がひらいて」しまうと、ふつうの人になりすましているパーソナリティ障害者の正体も、早い段階で(もしくは即時に)見破ってしまうとも述べていた。

この状況は、なにかにそっくりだと思わないだろうか?

たとえば「コロナ禍」を取り巻く社会的病態に。

コロナ禍を演出したやつらが、感染症の恐怖を煽り、惑沈の必要性・正当性・安全性を偽りつづけた。

それに気づいて反旗を翻す「目覚めている人」が、逆に「惑沈を推奨するひとたちをそこまで悪くいいますか!」と批判されるアトモスフィア。

それはまさに自己パーと、反自己パー、それに自己パー擁護者との関係性そのものだ。

「悪人」より、その悪人にむかって「おまえは悪人だ!」と明言した者のほうが、「酷いこと言うよね」と非難される。
「ヒトゴロシー」と叫ぶ者より、本当に「人をコロした者」のほうが悪いに決まっているのに・・・。

「眼がひらいている者」「眼がひらいていないもの」との半永久的な対立。

すでに「ひらいている眼」が閉じることはふつうはあり得ないのだが、直近でいえば「マイナンバー法」や「LGBT法」、「食品表示法の改正」などによって、開眼している者たちの首を真綿で締めつけ、息の根自体を止めようとしてくる。結果として、その「優れた視力」を奪うように。

だが、首を絞められる危機に遭って、さらに眼がひらくこともある!

また、ひらいていなかった眼が、ある日突然ひらく可能性もゼロではない。


後日談だが、おれのH批判をたしなめたFくんは、なんとその後、仕事上でHと関わる時間が増大した。
ほどなくしてHの正体に開眼したFくんは、一転して口を極めてHを非難するようになったのである。


かつてのおれが生の感情を抑えて言葉を選び、どちらかというと「分析」に近い批判をしていたのに比べると、Fくんはまさに感情のおもむくまま、むき出しの罵詈雑言を重ねてHをクソミソに糾弾するようになった・・・のでした。

ただし、「あなたが言っていたことがようやく理解できました」という言葉は、残念ながら聞かれなかった。


自己パー=コロナ禍演出家=惑沈推奨派の「毒」に触れて、怒るべきときは怒りながらも正気を保てる人間は極めて少ない。