コロナなるもの ~その28「謎ルールからの解放後、どこにむかうか?」 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

3月13日が近づいてきている。

例えばサプリメントですら「効果」が謳えないというのに、単なる「雑品」であるマスクに感染症防止「効果」があるなどという、あきらかに医薬品医療機器等法に抵触する「推奨」をしつづけていた奴等と、その「推奨」になんら違和感を抱かず、むしろそれを自己の裡でルール化して承諾していたひとびとのことを、おれは、生きている限り忘れない。

医薬品医療機器等法、大勢で破れば怖くない、か。

これはなにも、薬機法に違反しているからダメ、とピンポイントで批判しているわけではなく、ここまでルール、ルールとこだわっているのに、法律は守らなくてよいのか、という意味だ。

 

「お願い」とか「推奨」とか「(謎)ルール」は遵守しても、その上位の「法律」には極めて無頓着という、歪みの一例として俎上にあげてみた、というわけだ。

 

だからといって、これを執念深く、怨みを以って忘れない、ということではなく、ひとというものが内包する「迷妄さ」を、深く心に刻んで生きていこうと、あらためて思った次第である。喉もとすぎれば・・・、で終わらせてはいけない。

今回の「コロナ禍」をいわゆる額面通りに受け止め、「コロナが怖い」だけですごしてしまったひとびとは、結局「株式会社ニッポン」の「社員」でしかないのだと思う。日常の価値観と行動基準が全て株式会社。「会社」の外のことは見ようとせず、薬機法という「国」のルールよりも「社訓」を優先する社員たち。

現在のアメリカが、Deep・Sに牛耳られた「株式会社アメリカ」と、建国の精神に基づいた「アメリカ共和国」に分かれようとしている動きと同様、今後あきらかに「株式会社ニッポン」「日本国」に分かれていくのではないだろうか。



マスクの着用が個人の判断に委ねられ、そこでマスクを外しても、結局は「株式会社ニッポン」の社員として外すのであれば、根本的な問題はなにも変わらないということだ。


前回のブログで、個人の判断に委ねるという告示のことを「とりあえずはポジティブにとらえようと思う。」と書いたが、「とりあえず」を取っ払ったおれの本音は、やはり「憂慮」だ。


つまり、3月13日に同じようにノーマスク=素顔で電車に乗っていたとしても、とっくに「個人の判断」で外していたのと、「個人の判断に委ねる」という告示に基づいておもむろにマスクを外したのとでは、その意識に天と地ほどの差があると思う。

後者は本質的に会社の「指示」に従っただけなのだ。

「外したきゃ、外せ」という広義の指示に。

とっくに外している「秀弩羅」は、政府の「個人の判断に委ねる」という告示そのものを鼻で笑っているのである。

あくまでも「コロナ感染対策としてのマスク着用」の観点からの話だが、敢えて断定すると、「秀弩羅」以外は株式会社ニッポンの社員なのだ。
罵裸悶などは、もっとも搾取しやすい「奴隷社員」でしかない、と言ったら言いすぎだろうか。

さらには、「3月13日になったらマスクを外す人がたくさん出てくるよ~。怖いよね~。感染者、増えちゃうよね~。だから、その対策として惑沈打ちつづけましょうね~」という、恭順なる社員を対象にした、“会社”としてのフォローアップ体制も万全だ。


ところで、きょう10日(金)の通勤電車内。

 

ノーマスクのおれを見て、ぎょっとして場所を移動していった若い女性客がいたのだが、かのじょは週明けの月曜日からどうするのか。
13日以降もマスクを着用し、ひきつづきノーマスクを怖れるというなら、首尾一貫していてよろしいと思う。
 

だけど、たいへんだよ。さすがにノーマスクは確実に増える。

そのなかで、どうやってすごすつもりなんだろう。

あるいは、

 

12日までは感染が心配だが、一転して13日以降は心配ではなくなる

 

と考えているならば、「社訓」を遵守する「模範社員」として賛辞を送ろう。科学とも、論理とも、合理性とも、そこまできっぱりと無縁ならば、むしろ天晴れと評すべきだ。

 

一方、狭量で個人的な懸念で恐縮だが、すでに電車内でノーマスクでいるのを、13日を待たずしてマスクを外してしまっている「フライング行為」と見られているのではないか、と考えてしまう。

フライングじゃないから。
奴等がよこしまな意図で想定した「スタートライン」など、はなから眼中にないというだけだから。

違いは「気負い」の有無である。

 

昨日今日、一大決心とともにマスクを外した者たちからは、「文句があるなら言ってみろよ」と言わんばかりの構えが窺える。それでいて必死になってスマホを凝視していたりと、極力「現実」を、「他人」を、見ないようにしているかのようだ。

 

それに比べて、ノーマスクが板についているおれのような者たちは、すでにして自然体。「殻」に閉じ籠もることもなく、周囲にも普通に気配りをしながら、リラックスしてすごしている。たとえ文句を言われたとしても、相手を一刀両断にする想定問答は万全なので、不自然に身構えておく必要もないのである。


あと、これは13日とは関係ないのだが、ノーマスクだからといって、必ずしも賢いとは限らない。
たとえノーマスクであっても、周囲のことを考慮していないスマホ歩きをしていれば、台無しである。

ここにきてノーマスクを金科玉条するのは、マスク着用を至上とする罵裸悶と同様、愚かの極みだ。


いうまでもなく、13日以降にマスクをするのも自由である。

 

巷で一部懸念されている「反マスク警察」
仮に、そんなものが本当に出現したとしたら、逆もまた真。

そいつの思考も、間違いなく「株式会社ニッポン」の幹部級である。
 

ちなみに、おれの知り合いのなかに花粉症に悩んでいる者がいて、それまでずっとノーマスクで外を歩いていたのに、スギ花粉の飛散が始まった2月上旬(だったかな?)から屋外と公共交通機関のなかではマスクを着用し始めた。ヒノキの症状もあるらしいので、たぶん3月いっぱいくらいはマスクを着用しつづけるだろう。

 

 

 

 

 

GHQに汚染されていない、戦前の教科書は、こんなにも気高く、楽しかった。

小中学校でおれに教えてくれていた先生のなかには、このような戦前教育を受けた世代の教師もいて、そういった教師からは「戦後教育」を教えなければならない葛藤と、「戦前教育」に基づく「高見」が漏れ出ていた(ような憶えがある)。