コロナなるもの ~その20「ルール」のなかの『本音』と『建前』 虚実混交 重層構造 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

当ブログは「情報」をいち早く発信する性質のものではない。

もともと「読書レビュー」のために開設したものなので、「ニューズ」というよりは、「感想文」に近い。

さらには、自分のための「備忘録」も兼ねている。

書物に関しての「情報発信」はしているが、場合によっては百年前に書かれた書物を対象にしていることもある。

つまり、「情報発信の即時性」ということはあまり追及していなし、得意でもないので、その点はご了承いただきたい。

さて。


先日の週末、ある外出のついでに、その近辺で食事をして帰ろうということで、あらかじめ店を予約して家族で行った。

その地名+「グルメ」「居酒屋」「ディナー」といったワードで検索すると、かならず人気TOP10には入ってくる人気店だ。初めての店だったが、そこに決めたのはランキングではなく、価格と料理とサイトから感じられる「雰囲気」である。

当日、予約していた時刻に店にむかったのだが、店の前まで行ってギョッとした。
店頭に立てられた看板に、

 

「当店ではワクチンの接種証明、または陰性証明を提示いただいております」

 

という旨の案内が書かれていたからだ。「飲食時以外のマスクの着用にご協力いただいております」という言葉もあった。

 

もしかして、ガチガチの感染防止対策店舗なのか・・・。

「マスク着用のお願い」案内はよく見るものだが、予約の際に「接種証明」のことなどまったく尋ねられていなかった。それとも、接種証明を持っていてあたりまえ、という風土なのだろうか?

とにかく入ってみることにした。
接種証明を求められたら、「持ってないので帰ります」と言うつもりだった。予約していなくても、周辺に食べる店などいくらでもある土地柄だからだ。

おそるおそる扉を開けると、女性店員が笑顔で迎えてくれた。
 

「予約のお客様ですか?」
「はい。6時から予約している○○です」

 

そう言うと、店員は和やかに奥の席に案内してくれた。
接種証明を求められるどころか、ノーマスクで入店しても、まったく咎められる気配がない。

そのあとも何も制限がなかった。会話をするときはマスク着用を、と言われることもなく、トイレに立ったときもノーマスクでノープロブレム。

 

そういえば、店内には感染防止対策を「お願い」する掲示物もないし、見ると、店長(ご主人)自身、布製の鼻出しマスクだ。

客たちも、そういった店の姿勢を反映している。

なかには、しつこく顎マスクをしつづけている客も二、三いたが、ほとんどの客は、(おれの家族同様)入店から退店まで終始ノーマスク。

つまり、店頭の看板は「建前」なのだ。世間にむかっては、いちおう「当店はこれだけ気をつけていますよ」とアピールしているだけであって、実際はコロナなど怖れてはいないし、無意味で過度な対策など、すでにしていないわけである。

料理も雰囲気も良かったし、また来たいと思える店だった。


このように、とっくに「本音」と「建前」との重層構造になっているのである。
誰もが純真にコロナを怖れ、本気で感染防止対策を徹底し、そうしない者を心底責め立てているわけではなく、たんに、そのような「ふり」をしなくてはならない立場の人がいるというだけだ。

鉄道会社も、バス会社も、そして多くのコンビニも、マスク着用を「お願い」しているだけであって、基本的に着用を強制できないし、実際、ほとんどの公共交通機関も店舗も、本気で強制はしてこない。(だからといって、ラスト・ペンギン根性で、しつこく「お願い」しつづけるのもどうかと思っているのだが)

実は、10月の下旬に関西への出張があった(それで、その週はブログを更新できなかった)のだが、おれは東京から新大阪までの新幹線に乗っている間、最初から最後までノーマスクだった。車内でも、改札を入った構内でも。もちろん、東京駅までの電車内も。

なにも、ノーマスクを貫いたことを得意顔で自慢しているわけではない。


駅員や車掌から注意されることは一度もなく、JRはそういう「姿勢」だということが判明した、ということを言いたかったわけである。

 

もし本当にルールがあれば、必ず注意されたことだろう。


それでも、ただひとつ、一般論的に言えるのは、「店」にはいろいろ事情があり、客を選ぶ自由がある、ということだ。マスク着用を店のルールとし、着用していなければ入店させないという姿勢を貫く自由はあるのである。その場合、マスク着用は(入店したいのならば)「強制」となる。

今回のコロナ禍に関係なく、たとえば酒造工場の「見学」の際、見学希望客にマスクどころか、ヘア・キャップ等の着用を強制するのは合理的であり、意味がある。そうしてもらわなければ、醸造において実害が発生しかねないからだ。

繰り返すが、そういった場合、「店の自主規制上、マスク着用は強制」なのだ。
強制する理由は店によってさまざまだろうが、強制すること自体は店の自由だ。

それなのに、事実上の強制を「お願い」と言い換えるから、話がややこしくなるのである。

「お願い」であるならば、強制はできない。
「店に入りたいなら、マスク着用は強制です。それが当店のルールです」と言えばいいものを、そこで下手に忖度精神を発揮して「お願い」と言ってしまえば、強制することはできなくなる。


先日の銀座三越デパートの件も、このひずみが生んだ「騒動」だろう。
「お願い」したらそれが即「ルール」になるということでは、決してない。

 

 

 

 

※主要メディアのニュースには、ニュースの論調と同じ方向性の「コメント」が意識的に集められているので、惑わされてはいけない。

 

 

「お願い、お願い」と言っていながら、どこまでも客を追いかけて強制するという「腰のひけた」姿勢が、むしろ問題を引き起こしたのだと思う。言ってることと、やってることが違うからだ。

 

強制なら強制と言えばいいのに、「強制するような暴君ではありませんよ」「お客様に強制なんかできません」という偽善的な体裁をとろうとするから、かえって反発・混乱を招いてしまうのだ。

 


そのようすを動画として投稿する是非についてはあえて触れない。


だが、その投稿を受け、いまだに少なくないひとが「マスクを着用しないなんて許されない!」という観点から批判を述べているのは驚き以外のなにものでもない。


「感染を防止するためにマスクを着用すべし」という危機意識に基づいた認識と、「ルールとしてのマスク着用を厳守すべし」という道徳に基づいた認識とは、厳密には別のものだ。だが、個人単位で見た場合、このふたつの認識が密接に結びついているケースも少なくない。そのため、「マスクを外すなよ!」という意見と「ルールを守れよ!」という意見が、渾然一体となってしまっている。

でも、そのどちらの認識も、そろそろ疑ってみてはいかがでしょうか? と言いたいのだ。
ふたつの認識に共通している、「マスクに効果あり=着けたら安心=外せば感染」という未開人的認識もそろそろ検証してみるべきだ。

さらに、そのデパートは「ルール」を「お願い」と言い換えているのだが、その「お願い」を店側の隠れた意図通りに「ルール」として認識する多くの客。その双方の「ゆがみ」が共鳴し合って、現実を見えにくくしているのは確かなようだ。

話をルールに絞ってみても、金科玉条のように扱っているその「ルール」が、本当に機能させるべきルールなのか、という問題がある。
見かけ上のルールにも、すでに建前と本音、白と黒の逆転、リスクヘッジと責任回避がややこしく交錯してしまっている。

その現実を、見るのか? 見ないのか?

冒頭の店を例に挙げると、「マスク会食」を建前上「お願い」している飲食店に入り、実は店主はそこまで求めていないにも関わらず、「いや、お願いされたということはその店のルールなのだから」と言って「マスク会食」を遵守する客がいたとしたら、果たしてその客は「賢にして善」なのか? ということである。

それは「賢」でも「善」でも「真」でもない。それは無知から来る未開人的蒙昧か、または事大主義というだけではないだろうか?

マスク着用の是非がいまだSNSの「炎上」の原因になることがじつに不可思議で、しかも、「そろそろ外そうよ」ではなく、「ちゃんと着けろよ」という論調がいまだ主流であることが、さらに不可思議に感じられる。

 

もし、これがメディア側の操作ではなく、本当に「炎上」しているのだとしたら、事大主義でピースフル・ハイのシープルたちがこぞって奏でる集団ヒステリーと呼んでもいい。


もう一歩踏みこんだことを言うと、「ルールは守るべきだ」という主張を、どれだけ深刻に、鹿爪らしく(あるいは顰めっ面をして)誇示しても無意味なのだ。原則、ルールは守るべきに決まっている。だが、「ルールは守るべき」と真面目に考える、本来なら望ましいはずの性情を逆手に取られているという現状を、そろそろ認識しなければならないと思う。逆手に取ってきているのが「誰」なのか、という点もふくめて。

さらには、ルールの正当性についてはあまり深く考えず、事大主義的に、盲目的にしたがうという性情も、同じ「誰」かによって、きっちり利用されているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お願い」=「ルール」だというなら、「時差出勤」もルールなのですか? 駅構内の放送で結構お願いされてますよ。

 

「コロナ(感染)禍」以前と同じ時間帯の電車で通勤している客や、混雑のピーク時に電車に乗っている客は、すべて「ルール違反の悪人」ということになるのではないですか? なぜ、「お願い=ルール」の方程式を「マスク着用」のみに当てはめて、恬としているのでしょうか?

 

ほらほら、”歩きながらスマートフォンを操作しないでください”って「お願い」されてますよ~。コロナよりずっと以前から。

 

それには従わなくていいのですか? 従っていないひとを糾弾しなくていいのですか?

 

そっちのほうがはるかに「実害」があるとおもうのですが、非難しないのでしょうか? 「ルール違反だ!」って。