コロナなるもの ~その13「避けられた理由」 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

コロナワ○チン接種後に死亡した方に初めて死亡一時金が支給されることになった、というニュース。

 

これを、「一歩前進」と単純に楽観視してはならないと思う。

 

この救済認定は、惑沈接種の心理的なハードルを下げることが狙いなのではないかと、どうしても勘繰ってしまう。

 

つまり、「万一のときは、ちゃんと国が補償してくれる(ようになった)!」と思わせ、安心して(!)接種させようとしているわけだ。

 

補償なんかされてもしょうがない。

 

そんな「リスク」を負うだけの価値なんかないんだから、惑沈に!

 

 

さて、おれはそもそも、よく「失敗」し、その判断ミスをのちのち深く後悔する、ということを繰り返してきた。人様に誇れるような「成功体験」などほとんど無い。つくづく「愚かな人間」だと、自分のことを思っている。人生の数ある分岐点に於いて「首尾よく」行動・思考できなかったことなど数知れず。「あのときこうしていれば・・・」と臍を嚙むこともしばしばだ。

 

それなのに、今回の騒動で「惑沈接種」を避け、家族や友人・知人たちの接種を押し止めることができたのは、おれにとっては珍しい「白星」だと思っている。大袈裟にいえば、おれの人生経験は「惑沈接種を避けるために積み重ねられてきた」のではないかと思えるほどだ。

 

この「コロナ騒動」を真に受けることなく、惑沈にも最初から懐疑の眼を向けることができた要因として、(以前のブログでも述べたように)おれがもともと「ウイルス」や「感染症」、それに付随して「遺伝子」について、人並み以上に関心を抱いてきた、ということが挙げられよう。

 

コロナが騒がれるようになって初めて、にわかに「ウイルス」について語り始めた方々とは、年季がちがうのだ。

 

だからね、騒がれている「コロナ型ウイルス」の毒性など大したことがなく、そんなウイルスにはいわゆる自然免疫でおつりが来るくらいで、その免疫の要である「腸内環境」にも、もう20年以上留意しつづけてきている。ワ○チンなど必要が無いと、初期段階で判断が可能だったわけである。

 

ワ○チン? なにを言ってるんだ? しかも治験が済んでいない? 正気か? という感想だ。

 

さらには、大元となる「健康観」も重要だろう。

 

つまり、人間の身体をどうとらえているか。

 

東洋医学的・西洋医学的と大別することもできるのだが、それとはちょっと別の視点、

 

「人体は完全か? それとも不完全か?」

 

という認識基準だ。

 

「人体は完全なものである」というのは、なにも「完璧」という意味ではない。

どんなに無茶なことをしても、例えば高いところから飛び降りても、いっさい損なわれることのない「不死身の存在」という意味ではない。

 

水や栄養は補給しなきゃならないし、休養も必要。体力に応じた身体の動かし方も考えなきゃならない。そのような「メンテナンス」や「配慮」は必要だけど、基本的に「何かを外から足さなければならない」という存在ではない、という考え方だ。

 

一方、「人体とはもともと不完全なものである」という考えに基づくと、発熱すれば「解熱剤」というように、その都度何かを足さなければ身体は壊れてしまうという認識に至る。

 

「発熱=身体の故障・異常=修理(解熱剤)が必要」という考え方か、「発熱=免疫を上げるための身体の正常な反応=回復のための休養が必要」という考え方か、ということだ。

 

おれがどちらの考え方をしているかは、言うまでもないだろう。

※あまりの高熱により脳などが損なわれる危険がある、という緊急の場合は、これに当てはまらない。背に腹は代えられない、というケースもあるのだ。

 

「人体は不完全」、放っておいたら壊れてしまうもの。維持していくには、その都度人工的な措置が必須。伝染病という脅威には自前の免疫力になど頼れないので薬が必要、という健康観・人体観の持ち主は、そうでない者より惑沈に対するハードルが低い、と言うことができるし、単におれはそうではなかったということだ。

 

そのように「人体」のことは信頼しているおれだが、一方で信頼できないモノもある。

 

それが「マスメディア」だ。

 

学生時代、西部邁の『マスコミ亡国論』なども読んだが、これを読むまでもなく、この認識はもう「感性」の問題で、とくにTV報道の内容(というか姿勢)になんら違和感をおぼえなかったり、TVの言うことに間違いはないはず、とピースフル・ハイもろだしで楽観視・信頼したりしているひとは、「人」としての感性が(TVによって)狂わされてしまっているとしか思えない。

 

10年以上前にこのブログでも取り上げた和田秀樹著『テレビの大罪』も是非読んでいただきたい。(最近は『テレビの重罪』という続編も出ている)

2011年1月18日投稿 第15回

 

 

さらに今なら「マスメディアはDeep・Sの支配下にある」とあらためて認識できるが、仮にそんな認識などなくても、マスメディアのことを「変だ」と思わないのか? ということである。

さらには、今触れた「Deep・S」が存在していることを「知って」いること。
未だに、そんな属性のものは存在しない、と思っているひとが大半のようだが、呼び名は別にしても、金の力で政治経済を牛耳っている「超富裕層」が存在しているのは、疑いようのない「事実」だ。

 

これだって、「マスメディアではDeep・Sのことなど報道しないではないか」という反論があり得るのだが、この反論については「なんともはや」というしかない。(仔細にチェックすればメディアからも漏れ出てきているのだけれどね)

この「Deep・Sの存在を知っている」かどうかは、惑沈接種をするしないの判断に、大きく影響したのではないかと思う。

Deep・Sがこれまでこの世界で何をやってきたか、そしてこれから何をやろうとしているか、を考えれば。


・・・以上が主な「柱」であると思うのだが、細かいことを挙げれば、「世間の全員が同じ方向を向いているときは、たいていそれは誤った方向である」とか、「理解は能力ではなく、願望である」といった“教訓”もなんらかの影響をもたらしただろうか。

冒頭でおれは「失敗」ばかりしてきたと言った。
その失敗のなかには、おれを「大勢」「メジャー」から遠ざける結果になったものも少なくない。
だが、もしそれらの分岐点でいわゆる「最適解」を選択し、あるいは分岐点の通過に備えて充分な準備をしていれば、おれは「世間で主流になっている価値観」により近い立場に立っていたのではないか、と想像する。穿った見方をすれば、世間的に成功していればしているほど、世間の「主流」に取り込まれ、肩入れし、賛同し、その方向性の是非を疑わず・・・という「思考」が自然に出来上がってしまったのではないか、と。

もちろん、「社会的にも成功しているけど非接種者」という本物の「賢者」も多くいる。

だが、おれの周囲にいる、おれよりも「優秀」で、世間的・社内的評価も高いひとたちが、なんの疑いもなく接種してしまうのは、まさに「主流」に近い「秀才」「優等生」たちだからではないかと思うのだ。その手のひとの多くは、「お上」のいうことに疑念をもつ習性がない。なにしろ「自分を認めてくれた」尺度なのだから、感情的に否定はしたくないでしょう。

「かれら」はおれよりも記憶力に長け、計算力も高く、業務遂行に必要な分析・情報収集能力も抜群だ。そういった点では、逆立ちしても敵わないと思わせる人たちだ。だが、平和な局面では存分に発揮される能力も、今回のように「主流」が「真実」と大きく乖離しているケースでは、残念ながら無効となる。それどころか、かえって裏目に出てしまう。マスメディアのことも疑わない。Deep・Sの存在も見ようとしない。まさかそれらがタッグを組んで、自分たちを「損なうべく」動いているとは想像もしない。・・・ということなのだろう。

 

もちろん、接種・非接種のどちらを選ぶにしても、持って生まれた「感性」という要因は否定できないが、それを言ったら、他に何も言えなくなる。

しかし、つらつらつらつら思うに、今回の「風潮」に流されなかった最も大きな要因は、やはり「読書の習慣」ではなかったろうか。
なにも「成功」や「利益」のためにつづけてきたわけではない。だが、高校時代に読書を通じた「知的興奮」に目覚め、大学生時代より、(呉智英などにも影響されて)「賢者」「インテリゲンツィア(интеллигенция)」に近づくべく、20年、30年と読書に励んできたことが、おれの思考・感性・知識の基礎を形作ってくれたことはまちがいない。その基礎があってこそ「ネットからの情報収集」も有効化するのだ、と考えている。

 

 

永井荷風 著『墨東忌憚』作者贅言より

 

「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情と云う意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕の流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。(後略)」

「(前略)何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓する電車に飛乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。(後略)」

 

このような人々の「慾望」を、他ならぬ慾望の権化であるDeep・Sは、驚くほど巧妙に利用してくるのです。