第4回 春日武彦 『顔面考』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

「顔」に関心のない人は、まずいないだろう。



自分の顔。他人の顔。想像上の顔、あるいは顔らしく見えるもの・・・。

人間は過剰なまでに「顔」に関心を寄せ、
過剰に思い入れを籠めてしまう。

とくに、顔はその人の「内面」と密接なつながりがある、
という「信念」からは、なかなか抜け出すことができない。


美しい脚の持ち主はその「心」も美しい、
と考える者はあまりいないだろうが、
(ある種の脚フェチは別かもしれないが)
美しい「顔」の持ち主はその「心」も美しい、
と「感じてしまわない」者のほうが逆に少ないだろう。
一般的に。

「顔」と「内面」は、切っても切れない関係があるのだろうか?
隠されている「考え」「性格」「正体」を
「顔」から読み取ることは可能なのだろうか?

そのあたりを、多面的に考察したのが、

春日武彦の 「顔面考」!!!



他の著書では快刀乱麻を断つ切れ味の春日武彦だが、
この『顔面考』は、やや歯切れが悪い。

それもそのはず。

「顔」というのは、
これこれこうだから、こう、というように、
「法則性」を示すのが極めて困難な考察対象であるからだ。

精神科医である著者は、職業上、
多くの「精神病患者」の顔と対峙することが多いが、
そういった顔面観察の「プロ」でも、
「顔」のみで患者の「精神状態」を正確に把握するのは、
至難のわざだという。

とくに「無表情」。

著者は言う。

「顔は饒舌であり、たとえ無表情という形で超然たる立場を守ろうとしても、それがひとつの謎めいた情報として作用してしまうことは免れ得ない。無表情であるとは、実は一種の緊張した表情を持続するということである。緊張した表情は、緊張した精神状態を示唆する。」

「無表情であるとは、何も映っていないテレビ画面とは異なる。無表情であるからこそかえって、理解し難い精神の働きを察知させる。しかもなぜそんな精神状態にあるかの説明を拒む姿勢が、無表情であることによって揚げられている。」


精神医学には、
「この人は『精神分裂病』ではないか」と推測させる
「プレコクス感」という一種の無表情的な「顔つき」があるそうだが、
これも、その患者の発する全体的な雰囲気・印象が関わっており、
「顔」だけを切り離して判断できるものではないようだ。


「顔」と「内面」がいかに一致しないか、
という「事実」を踏まえたうえで、
それでもなんとか「本質的な性質」を「顔」から把握しよう
という壮大な試みが歴史上存在した(する)ことを
本書では紹介している。

それがいわゆる「観相術」であり「観相学」だ。

ルネサンス期の著作には、
額の狭い人間は「ブタ」に似ているから愚か、
と断定するような「動物観相学」なるものもあり、
その他にも古今東西の珍妙なる「観相術」が紹介されている。

しかし、現代の我々も、そういった「観相学」を
「愚か」と嗤うことはできない。

現代日本人にしたところで、
「こういう顔つきの人はこういう性格」という
あまたの「俗説」から完全に脱却しきれていないのだから。


「まったくのところ、顔というものの特別さは、特定の表情を浮かべていればそれが意味するとおりの(ときにはその正反対の)、また眠っていたり死んでいたりすればその無防備な表情の向こうにあるものを我々が読み取らずにいはいられないといった、まさに「意味」のもたらす押しつけがましさへと帰するに違いない。」

本書には、ほかにも、顔にまつわるエピソードが目白押しだ。

(自分に「そっくりな」顔という意味で)
ドッペルゲンガーの「実例」に触れているかと思うと、
整形、醜形恐怖症、カプグラ症状(替え玉妄想)、
変装、顔にまつわる犯罪、
はたまた「人面犬」「人面疽」にも言及し、
「顔」をモチーフにしたマンガ、小説、写真を含んだ現代美術なども
多数俎上にあげている。

ご愛嬌として、「顔面拷問」なるAV作品についての「感想」も述べている。
(ちなみに著者は、これのどこがおもしろいのか理解できない、
と述べている)


・・・と、その日「顔」についての一筋縄ではいかない
「考察」を吊革につかまって読んでいるおれの前に、
よく見かける年配の男性(推定年齢58歳)が座っていた。

朝の通勤時、同じ時間帯の同じ車両に乗ると、
そのオジサンは、6~7割の確率で、
同じような場所に座っている。

で、見かけるときは100%座っていて、
そして、100%眠っている(少なくとも眼を閉じている)。

このオジサン、顔立ち自体は妙に整っているのだが、
どうも、寝顔(眼を閉じた顔)に「険」のようなものが感じられて、
「君子危うきに近寄らず」をモットーにしているおれは、
可能な限り「距離」を置くようにしてきた。
立つ場所が他にあるときは、
極力、そのオジサンの正面には立たないように心がけていた。

取り越し苦労かもしれないけど、
なんか、「ピン」と来るものがあったんだろうね。

じつをいうと、そのオジサン、
(座っていることからして)
乗ってくるのはおれよりはるか手前のようだが、
降りる駅は同じ。

そして彼は、降りる駅に電車が停まる○・五秒前まで座って眠っているくせに、
ドアが開いた途端、かっと眼を見開いて、
まっしぐらに電車を降りようとする。

おれは、その行動のあまりの「クールさ」「ちゃっかりぶり」に
漠然とした不快感をいだいていた。
寝顔を見て「なんかいやだな」と感じていた印象は、
あながち的外れではなかったのかもしれない。

座って眠っている彼の前では大勢の人が立っていて、
その立っている人の大半も同じ駅で降りようとしているのに、
それを半ば掻き分けて、
我れ先に電車から降りようとするのだ。

「眼の前に立っている人も降りるのかもしれない」
という意識もないようだし、
「この駅では実際に多くの人が降りる」
ということに気づく学習能力もないようなのである。

ちょっとでも自分の前方にいる客がもたもたしてると、
無言で押しのけようとする。

実際、おれも、「たまたま」彼の正面に立っていた日、
降りるときに露骨に背中を押され、割りこまれたことがある。
おれも降りるというのに・・・。

彼からすると、
おれがもたもたしているように見えたのかもしれんが、
おれから言わせれば、
おれの前方にいる人波が全員遅いのだから仕方がない。

分別のある人間ならこう考えるだろう。
「かりに、ちょっと遅いなと思ったとしても、
たぶん、二秒後には全員降り切ってしまう。
なにも前の人の背中を押してまで急かせる必要はない」
と。
(だから行儀よく、黙って順々に降りていく)

でも、そのオジサンは押したがる。
押せば早く進むと思ってるらしい。

そんなに早く降りたいんだったら、
奥まった場所に座って眠ってないで、
降車駅に着くのを、ドア付近に立って待ってりゃいいんだ。

実際はそこまでしなくてもいいけど、
その「あるべき姿」とは対極の行動を、
その「顔立ちの整ったオジサン」はしているのだ。


直前まで眠っているのに、
いきなり「マイペース」で行動しようとするのは、
ワガママってもんだろ?

で、いざホームに降りてからは、
それほど急ぐ様子もないし、歩くのが特別速いわけでもない。


ホント、わがまま。
それとも、早く降りないとドアが閉まってしまう、
という恐怖心にでも駆られているのか?

降りる前にドアが閉まってしまった苦い経験でもあるのか?

傍から見ていると、そう思わせるくらい「余裕」がない。

クールに、無駄無く行動しているように見えて、
逆に余裕のなさ、さもしさ、が透けて見えてしまうのだ。
さらに言えば、「陰険さ」も。

以来、おれは彼の前には極力立たないようにしている。


顔立ちが整っているだけに、
かえって「残念さ」が際立ってしまうオジサンだ。

 


 


 
不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

顔面考 (河出文庫)
 春日 武彦 著