不快速特急「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速特急「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

旧タイトルは「不快速通勤」。読書の大半が通勤の電車内だった時期に開設しました。退職後、通勤電車から解放され、読書の時間が増えた点は喜ばしいのですが、私を含め日本人の多くは、無駄に急かされた「特急電車の乗客」です。不快との闘いは続きます。

みなさんは、「子ども」は好きだろうか?

 

年齢的には、物心のつく4〜5歳くらいから、おおよそ18歳くらいまで。

乳幼児を除く、小・中、高校生くらいまでをここでは「子ども」と呼ぶことにする。

 

 

また、ここで言う子どもとは、自分の実子のことではない。

 

養子は本質的に実子と同等として、その他、甥、姪、友人知人の子、あるいは孫、弟、妹、従弟、従妹、教え子、塾生、同じ劇団に所属している子役、隣近所の子どもなどなど、個人的に近しい、あるいは親しくしている子どものことも除くことにする。

 

 

というのも、これからおれが展開する「子ども論」に対して、「いやいや、ウチの息子はそんなことはない」とか「私は自分の教え子をそんなふうに見たことはない」とかと反論してもらっても詮無い(無意味だ)からだ。

 

 

そういう個人的に「思い入れ」のある子どものことは、ここでは対象外だ。

 

 

個人的にも社会的にも自分とは「無関係」な、通りすがりの、「子ども」一般が対象である。

 

 

もっと言えば、あなたにとって思い入れのある〔たとえば〕息子が、赤の他人であるおれにたいしては、おれがこれから批判するような「行動」を取ることもあり得るのだ。

 

 

ここで冒頭の質問にもどる。

 

 

あなたは、子どもが好きだろうか?

 

 

おれは・・・、正直、苦手なのだ。

 

 

「好き」か「きらい」かで言えば、「どちらでもない」「ニュートラル」より、やや「きらい」の方向に傾くかもしれない。

 

 

「快・不快」を多くの判断指標にしているおれからすると、「子ども一般」の存在は、多くの場合、「不快」をもたらす。

 

 

子どもというのは、だいたいに於いて、こちらが「こうすればいいのに」と思うことの逆をしがちだ。

 

 

多くの人間のなかに子どもが1人、または数人混じる。

 

そうすると、たいてい、こうすれば全体の「調和」が整うという行動の、逆を行く。

 

 

会社に通勤していたとき、混んでいる電車に乗車せざるを得ない場合は、どこも同じような人口密度であれば、子ども(小・中・高校生)がいない、あるいは少ない車両や乗車口を無意識のうちに選んでいたように思う。

 

子どものほうが「和」を乱す・・・、というか、他人に不快を与える行動を平気でする確率が、「大人」よりかなり高いと見ているからである。

 

 

ここに「個人差」があるのは否定しない。

 

年齢・学年にかかわらず、すでに大人並みの分別を身につけた子どももいる。

一方で、未だ「人間」になっていないのではないかというレベルに留まっている子どもが少なくないのだ。

 

 

一般的に、子どもに「和」を求めても期待はずれに終わりがちである。

 

 

しかし、誤解してもらいたくないのは、おれはここで「道徳」の話をしているわけではないということだ。

 

 

そうではなく、あくまでも「和」「調和」の問題なのだ。

 

 

たとえば、次に挙げる例を、道徳的な見地から見て批判しても的外れだろう。

 

 

先日の午後、野暮用からの帰宅途中、家まであと100メートルというところで、突然、ほんとうに突然のにわか雨に見舞われた。

 

なんだか雲行きが怪しいなとは思っていたが、家に着くまでは保つだろうと楽観視していた。

 

だが、いきなり降ってきた。

 

さほど大粒の雨ではないが、このまま濡れて帰ろうと悠長に構えるほどの小雨でもない。

 

 

バッグには折りたたみ傘が入っていたが、それを取り出してひろげるよりは・・・、

 

(走ろう!)

 

と、咄嗟に思って駆け出した。

 

 

家に至る最後の角を曲がったところで、前方から数人の小学生(3〜4年生といったところか?)が、こちらにむかって走ってきていた。

近くの小学校からの下校途中の子どもたちで、その子らも傘はさしていなかった。

 

「こういうの、にわか雨っていうのかな?」などと話しながら駆けてくる。

 

 

タイミング的に、おれが自宅の敷地への入り口に差し掛かったあたりで、その小学生の一団とすれちがいそうだった。

 

ここで一段スピードをあげて、小学生たちの前方を突っ切って敷地に駆けこんでもよかったのだが、おれは逆に、小学生たちをやりすごして、小学生たちが通りすぎたあとでに敷地に入ることを選んだ。

 

だが、なんということだろう。

 

その数人の小学生たちは、ちょうどその敷地への入り口に辿りついたあたりで駆けるのを止め、ほとんど立ち止まらんばかりのペースで歩き出したのだ。

 

 

雨は弱まることなく降っている。

 

 

ほんの3、4秒とはいえ、おれは小学生たちに敷地への入り口を塞がれ、事実上の「通せん坊」をされてしまったのだ。

 

 

小学生たちは、おれがその敷地に入ろうとしていることを知らない。

 

 

よって、「意地悪」ではない。

 

 

そこになんら悪意や、不道徳はないのである。

 

 

だから結果的におれの進路を塞いだとは言え、それを道徳的に非難することは適当ではない。

 

 

だがそのとき、

 

 

「子どもは、どういうわけか、相手が望んでいないような行動をとる」

 

「子どもは、どういうわけか、相手がそうしてくれるな、と思っていることをする」

 

 

という、常から抱いている認識を新たにしたおれに、突如、電光のような直観が訪れた。

 

 

家に入ってタオルで髪を拭きながら、その認識がそれまでおれが子ども一般に抱いていた、そこはかとない「不快感」と結びつき、さらに多くの点と点が繋がって、まるで「悟り」を得たかのように大いに合点したのである。

 

 

おれは、心理学のなかのフロイト学説はインチキ臭いと思っているのだが、それよりはユングの学説のほうが合理的だと考えている。

 

有名な「集合的無意識」というのも、おれは「ある」と思う。

 

 

そして、(おれの拡大解釈かもしれないが)その集合的無意識というのが、社会の調和の「核」なのだと捉えている。

 

 

眼に見えるもの以外は「ない」と考えている人間は、「霊性」とも「運」とも「和」とも「道」とも無関係に生きていけばよろしい。

 

 

だが〔霊性のある〕人間が古来より絡合(らくごう)を築いて生きていくなかで、「知恵」というか「合理性」というか、「こうして生きていくと自分も他人もうまくいく」という「集合知」みたいなものが人類の「共有物」として〔どこかに〕堆積していき、その「人類が共有している叡智」が個々人の無意識の底と繋がっているのではないだろうか。

 

 

その「集合的無意識=人類共有智」にアクセスできるようになることがすなわち「成長」であり、「大人になる」とは、その集合的無意識に、より精密に同調できるようになることなのだ。

 

それを「洗練」と言い換えてもいい。

 

 

人間の趣味(グウ)は、どんな人でも、必ず洗練へ向かって進むものだからだ。(三島由紀夫『作家論』所収「森鷗外」より)

 

 

「大人」は、無意識のうちに(!)集合的無意識にアクセスできており、それはアクセスというより「同期(シンクロ)」と言ったほうがよいのかもしれない。

 

 

しかるに「子ども」とは、人類・社会の調和の「核(コア)」である集合的無意識にまだ充分にアクセスできず、未だ同期できていない“状態”のことである。

 

 

このように行動したほうが周囲と動きが調和して、ものごとがより円滑に進むという状況下で、見事に逆の行動をとる。

 

 

まるで年長者に手間と面倒をかけることこそがレーゾンデートル(存在意義)であるかのような振る舞いの数々。

 

 

やることなすこと、すべてが裏目に出るようなちぐはぐな感じと、自分が世界の外側にいるような疎外感をいだきつづけていた「子ども」時代のおれを顧みても、「子ども=未同期の状態」という見立てはそれほど筋ちがいな話ではないように思うのだ。

 

 

たしかに、個々人の「脳内」の知識の質や量とも無関係ではないが、それ以上に人類共有の「コア」と同期しているかどうか。

 

 

その観点で見ると、やはり「子ども」には「未同期」ゆえの危うさがある。

 

未熟だから未同期というより、未同期だから未熟というほうが当たっているかもしれない。

 

 

一方、いっぱしの年齢に達していながら「コア」と同期していなさそうな大人も少なくない。

 

 

おれがこのブログでたびたび批難しているような行動をとる大人のことだ。

(スマホ・ジャンキーとか、呪いモードに入っているひと、とか)

 

これなどは「未同期」というより、なんらかの(多くはエゴイスティックな)要因による「非同期」といったほうが正確で、ある種、エラーとしての非同期である。

 

いったん同期していながらも、なにかの契機でそこから外れてしまったケースも多々あるだろう。

 

 

大きな喩えを出すなら、Deep・S、グローバリストたちによる施策は非同期の最たるものだ。

 

それは、人類智とは逆方向にむかって構築された不自然で歪な「バベルの塔」であり、その肥大した金銭欲、権力欲、支配欲に憑かれた策謀によって地球上に多くの不協和音をもたらしてきた。

 

 

それに巻きこまれて、グローバリストの価値観を「範」とすれば、同期から外れていくばかりである。

 

 

それを思えば、子どもたちの未同期ははるかに微笑ましい。

 

すべからく、同期の邪魔をする数々の非同期の罠に損なわれることなく、コアに近づき、晴れて同期に至らんことを。

 

 

子どもを批判するつもりが、最後に「エール」になってしまった。

 

 

 

 

この著書のなかで、ユングは「集合的無意識」について論じている。

 

 

最近あちこちを拾い読み(拾い再読)しては、その叡智に痺れている。