【おことわり】
当ブログは、「本レビュー」に設定されています。
ですが、読書とはべつに、生活のなかで思い立ったことを述べる回が多々あります。
というのも、読書レビューと実生活に関する所感が、自分のなかでは繋がっているからです。
みずからが関わっている実生活という「書物」を、どのように「読み解く」か。
それらを、怒りながら、楽しみながら、ときには懊悩しながら、投稿することもしばしばです。
なお思うところがあって、本文での一人称は「おれ」。文体も「です・ます」ではなく、「だ・である」体を使っています。
あらかじめご了承願います。
会社を退職後、平日の日中に街を出歩くようになって、本当に眼につく、鼻につくのは、やはり「スマホ歩き」である。
・・・ということを、これまで何度か当ブログで取りあげてきた。
かれら・かのじょらは、スマホを見ながらでなくては、呼吸もできず、一歩も歩けないかのようである。
そういえば、櫛木理宇の『世界が赫に染まる日に』のなかに、以下のような描写がある。
中学三年生の男子同士の会話————。
帰宅して自室へ戻ると、スマートフォンの着信ランプが瞬いていた。
履歴を見ると、亮介からだった。ほぼ十分おきに四度もかけてきている。折りかえしかけると、ワンコールで亮介は応答した。
「おせーよ、カイ。何回電話したと思ってんだ」
「あー、悪い」
櫂は苦笑した。
「どこ行ってたんだよ」
「ランニング行ってた。邪魔くさいから、スマホ置いてったわ」
「マジかよ。一時間スマホなしで平気とか、おまえ原始人?」
呆れたように亮介は言い(後略)
いまの若い子らは、このようなものなのだろうか?
一日のうちでスマホに触れていない時間のほうが圧倒的に長いおれからすると、まったく異世界の感覚だ。
この小説のこの描写がすべてとは思わないが、デジタルネイティブの諸氏というのは、ほとんど、
No Smartphone,No Life.
の境地であるようだ。
だからといって、デジタルネイティブの世代の少年少女が、全員スマホ歩きをしているわけではない。
やはりそこには、年代を別にした個人差があるようだ。
街なかを歩いているときもスマホを閲覧せずにいられないひとのことを、おれはこれまでジャンキー=中毒者という比喩を使って呼んできたが、タイプによっては、「スマホ教の信者」といったほうが、適当なケースも見受けられる。
薬物に溺れるのも、宗教に過剰に嵌まるのも、依存心や現実逃避を因とする点では共通しているが、あえて違いを挙げれば、スマホ信者の場合、どこかに「必死さ」を感じとることができる。
スマホにすっかり身を委ねて惑溺しているのが「ジャンキー」ならば、なにかの欠損や不安を埋めようと、スマホに縋(すが)ろうとしているのが「信者」である。
一生懸命、スマホのご加護を求めている。
信者にとって、スマホはなくてはならないものだ。
歩きながらスマホを見ることは、「NEED」ではなく「MUST」なのである。
「見たい」ではなく、「見なければならない」もの。
なぜなら、スマホから眼を離した途端、見たくない現実が見えてしまうからだ。
人混みのなかで前方や周囲を見てしまったら、「他人に気を遣わなければならないから!」である。
赤の他人に気を遣うなどという、自分になんのメリットもないことにエネルギーを費やすことは、耐え難いストレスなのだろう。
だから、ストレスフルな自分を守るためには、スマホを見ていることが最善策だ。
スマホは、見ていなくてはならないもの。
同時に、
スマホさえ見ていれば、ダイジョーブ! なのである。
おおおお、スマホはかくも霊験あらたかだ。
ほら〜、こうしてスマホを見ていれば、外界をみごとにシャットアウトできる!
他人とぶつからないように、こちらが気を遣う必要もない。
なぜなら私は「見えない」からだ。
見えない自分ではなく、見えている人が回避すればよいではないか・・・、と。
しかし、そうして懸命に帰依しながらも、どこかで不安も感じているようだ。
なぜなら、「スマホ歩きはいけないこと」という一般認識を頭の隅で把握しているから。
ジャンキーとちがって、信者はどこかで、自分の行動に引け目を感じている。
自分の信じているのが、本当は「邪教」であると認識している。
それでも帰依しなければ、生きていけない。
そこで、その帰依(行動)の免罪符となるのが、
「自分だって、ちゃんと前を見ている」
という自己正当化だ。
この「ちゃんと見ている」という認識が曲者である。
スマホを見ていなければけっしてそんなラインは通らないだろうという歩き方で、どんどんこちらに寄ってくる。かなり接近してからチラリと前方を一瞥し、そこで初めて「互いに避け合えばいいだろう」とばかりに、半身だけ身体をズラすのだ。
そのまえに、こちらが「このままぶつかってくるんじゃないか」という不安を覚えながら、身体ひとつ分以上迂回していたことなど、まったく想像していない。
そんなことなら、逆方向によければよかったのかもしれないが、それは結果論。
相手がどこまで寄ってくるのか。このまま来るのか、それとも軌道修正するのか。こちらの存在にどこで気づくのか、まったく予想がつかないからだ。
なのに、この確信的な自己正当化。
ところで、この「自分だって、ちゃんと見て、よけてるぜ!」というドヤ顔(ドヤ態度)は、なにかに似ていると思わないだろうか?
そう。
「たまに食器を洗っただけで『おれもちゃんと家事をやってるぜ!』とドヤ顔をする夫にムカつく」
という主婦の憤りをよく耳にするが、スマホ教信者の「自分もちゃんと前を見てるぜ!」という態度も、これと共通する。
すれちがおうとする相手に、そこまで心理的負担を与えて起きながら、すれちがう瞬間だけ切り取って「自分はちゃんとやってる」と都合よく解釈する。
かくも邪教の信者は救い難いが、だが、ここに秘策がある。
たまに食器を洗っただけでドヤ顔をする夫にたいしては、逆に「よくやったね〜。えらいわね〜。助かるわ〜。ありがと〜」と煽てるとよいらしい。
そうやって褒めてあげると、そのような(単純な)夫は、今後もよろこんで食器を洗ってくれるし、場合によっては他の家事をやってくれることも期待できるという。
なるほど、その手があったか!
今度から、わずかでも前を見て、わずかでも軌道修正をしたスマホ教信者に出喰わしたら、
「ちゃんと前を見てるんだね〜! えらいね〜! こちらに気を遣ってくれてありがとね〜!」
と、頭を撫で撫でガシガシしてあげることにしよう。
そうすれば、少しは「前を見る」時間が長くなるかもしれない、かな。
もう10年以上も前に発表された作品。
もちろん共産主義の話ではなく、広義の復讐譚である。
ちなみに、櫂少年はスマホを家に置きっぱなしにしていたとき、ランニングに出かけていたわけではない。

