長らく懸案事項だったブログの「テーマ」を、先日ようやくのことで整理し終えた。
整理には想わぬ「効用」もあった。
これまでのように「筆者名=テーマ名」にしている限り別々に存在していた筆者Aと筆者Bが、ジャンルで分類することによって、互いに接近し、連携し合うようになったのだ。
また、いまから10年以上前のおれを、その修辞法や「ユダヤ的思考」で魅了した内田樹に関しては、あるとき(コロナ禍のころ)を境に、おれのフェイバリットの地位から離脱した。その現実認識能力に疑念をいだくようになったからだ。
そんな内田樹をどう分類しようかと、最後の最後まで思案していたのだが、結局「リベラル・左翼」と分類することで落ち着いた。
ただし、春日春彦と対談した『健全な肉体に狂気は宿る』や、名越康文と対談した『14歳の子を持つ親たちへ』を「警鐘・評論・コラム」に分類したように、対談本はその内容に応じてテーマを変えている。
さて、次は、本そのものの整理だな・・・。
以前にも話題にしたが、定年退職後、少しずつ書棚の整理をしていると、その奥から「若き日の残光」とでもいうべき作品が、おびただしく湧き出てくる。
おれの住まいにある木製の本棚は、高さ170cm × 幅80cmの5段構え。
奥行きは40cmほどで、おれはその棚に、文庫本であれば、たいてい3層に本を納めている。
背表紙を見せて並んでいる本の奥の奥にも、本が並んでいるのである。
文庫本の幅というか奥行きはどれも11cmほどなので、充分に3層に納められるのだ。
その他ハードカバーや新書版、マンガ、雑誌、地図、ポケット図鑑なども並べているので、均一に3層になっているわけではないのだが、ちょっと整理すると、奥や、奥の奥から、懐かしい、あるいは読むことなく蔵書に甘んじていた本が、次から次へと出てくるわけだ。
そのなかでも「懐かしい」部類に属する一冊が、
ヘンリー・ジェイムズ著『ねじの回転』
である。
アメリカでの初版は、1898年。
おれの手元にある(手元に現れた)のは、昭和37年(1962年)7月初版発行の新潮文庫34刷(1985年7月発行)。
訳者は、蕗沢忠枝である。
これはたぶん、古書ではなく新書として購入したものだが、例によってページの周辺部はすでに茶色に変色しており、文字も小さい。
学生のときアメリカ文学を専攻していたおれは、当時、アメリカの古典に属する小説を、とにかくひと通り読んでやろうと意気込んでいた。
その意気込み虚しく、さほどの分量を読破できたわけでもないのだが、『ねじの回転』はそのなかにあって、かろうじて眼を通していた作品である。
幽霊譚のホラーであり、小説に「意識の流れ」を導入した先駆者であり、多くの研究者によってさまざまな解釈が可能な作品である、という予備知識が自然に頭に入ってくるほど有名な古典だったが、とりあえずストーリーを把握するだけの拙速な流し読みをしたせいか、「ふふん、こんなもんか」と思うだけで、初読の際はさほどの感銘は受けなかった。
それを今回じっくり、腰を据えて読んでみようと考えたのだ。
前置きはこれくらいにして、本文に触れる。
ヘンリー・ジェイムズはアメリカの作家だが、小説の舞台はイギリスである。
導入部は、とある冬に古い邸の暖炉のまわりで行われた「怪談会」。
日本でいう「百物語」みたいなものか。
参加者のひとりのグリフィン氏が、子どもの前に幽霊が出たという、“すさまじい”恐怖譚を披露したらしい(この恐怖譚の内容自体は具体的に語られていない)。
誰かが、〝しかし、こんな風に、幽霊が子供に出たという怪談には初めてお目にかかった〟と言った(P5)
だが、そこにいたダグラスという男が、幽霊がふたりの子どもに出る話を知っている、と告げるのだ。
「(前略)子供ということが、〔怪談としての〕ねじの回転(ひねり)を一段と利かせているというのなら、では、ふたりの子供では、(中略)ふた回転の効果になる」(P6)というのである。
ここでいきなり、現代のわれわれ(と言っていいのか)とは、異なる感覚が示される。
現代では、子どものまえに幽霊が出る、悪霊が子どもに取り憑くというストーリーは、特別珍しいものではないからだ。
とくに映画では、「無力でいたいけな子ども」を「悪辣で無慈悲な霊」が襲う恐怖を狙った展開は、いまや常套手段となっているほどである。
だが、本作品が発表された19世紀末のアメリカでは、幽霊と子どもの取り合わせは前例がなく、そこに禁忌のにおいを窺わせるほど、おぞましい着想であったのだろうか。
本書で語られる「ねじをふた回転」させた怪談というのは、かつてダグラスの妹の家庭教師を務めていた10歳年上の女性の“体験談”である。
その女性は、ダグラスの妹の家庭教師を務めるより10年ほど前、イギリス南東部のサセックスにある邸で、幼い兄妹の家庭教師を務めており、そのときの恐怖の体験を手記にまとめていたのである。
その女性は、すでに20年前に亡くなっていたが、臨終がせまった時に、その手記をダグラスに託していたのだった。
その手記を怪談会の場で朗読するという体裁で物語は始まるのだが、恐怖譚としての布石は、物語の開始早々から(いや、すでに導入部においても)あまた散りばめられている。
家庭教師の募集広告を出した富豪(幼い兄妹の伯父)はロンドンに住んでいるのだが、彼は甥と姪の家庭教師となるその女性に、サセックスのブライ邸でどんな面倒なことが起ころうとも、そのことを自分にはいっさい知らせてこないように釘を刺してくる。その不自然さ。
他の応募者はその怪しさに二の足を踏んで断るのに反して、広告主の美貌と魅力にすっかり心を奪われてその不気味な仕事を引き受けてしまう主人公の危うい気質。
初めてブライ邸を訪れたときの不吉な印象。
幼い妹・フローラ(正確な年齢は明記されていないが、たぶん5〜6歳)の可愛らしい美少女ぶり。
それに輪をかけて魅惑的な兄・マイルズ(8〜9歳)の、この世のものとは思われぬほどの端麗さ。
言動も態度も非の打ちどころがなさそうなマイルズが、学校から退学処分になった理由。
前任の女性家庭教師の死因。
女中頭のグロース夫人の「鈍重さ」は生来の性質なのか、それとも意図的な「空とぼけ」なのか。
などなど・・・。
ブライ邸に来てまもなく、主人公である家庭教師は、邸の周辺を散策している折に、男の幽霊を初めて目撃する。
もちろん、初めから幽霊と思ったわけではなく、邸の敷地に無断で立ち入った闖入者であると解釈する。
だが、それが生きた人間ではなく、幽霊なのではないかと恐怖しはじめたところで、後日、女の幽霊も目撃してしまう。
そして、グロース夫人の言葉などから、男の幽霊がかつての従者だったピーター・クイントであり、女のほうは、前任の家庭教師であるミス・ジェスルであることを知る。
当初は、邸に幽霊が出たという事実を知ったら、幼い兄妹が動揺してしまうのではないかと心配していた主人公だったが、その後、子どもたちの言動から、実は子どもたちにもそれが見えているのではないかという疑念が湧き起こる。
そんな家庭教師の疑念を覆すように、兄妹は、「亡霊なんか知らない」「見たことがない」といわんばかりにしらばっくれるのだが、その完璧なまでの糊塗の言説が、すでに亡霊の入れ知恵なのではないかと、推察する主人公。
そこからさらに紆余曲折を経て、子どもたちは亡霊を見ているどころか、すでに悪霊に取り憑かれ、支配されている、という恐るべき事実を突きつけられる。
妹のフローラはミス・ジェスルの亡霊に。
兄のマイルズは、クイントの亡霊に。
本作品が文学史上画期的なのは、先述したように、「怪談」のなかにいわゆる「意識の流れ」「心理の流れ」を導入したことである。
ことさら「意識の流れ」と表現すると難しそうだが、いまや(現代の小説においては)、さほど珍しい技法ではない。
こういうときに、こう感じて、さらに相手がこういう態度を見せたときに、こう悩んで、こう考えて、こう話した・・・、という意識や発言、ときには行動の繋がり、シークエンスを、順を追って説明・描写していく手法である、
幽霊に出っ喰わして「ギャー! 怖い!」という単発の反応を描いて事足れりとするのではなく、見たものが亡霊だと知って恐怖におののきながらも、このことを可愛い子どもたちに知られてはいけないと保護意識を奮いたたせたり、周囲の人間の賛同を得られて勇気づけられたり、反対に、期待していた反応を得られずに落胆したり、亡霊が見えているのはもしかしたら自分だけなのではないかと疑心暗鬼に陥ったり、孤独感に苛まれたり、亡霊が子どもたちや自分に害をもたらすのではないかと怯えたり、にもかかわらず、子どもたちの予想外の言動に戦慄したり・・・、という心理描写が、事細かに綴られているのである。
そして、その描写こそが徐々に読者の「恐怖」を紡いでいくのだ。
じっさい、もし少女がほんの一寸でも昂奮していたら、それだけでも、わたしの驚愕はずっと少なかったであろう。もちろんわたしは、フローラが、あらわに周章狼狽の様子を見せようなどとは、初めから期待してはいなかったから。だが彼女は、わたし達に追われているうちに、すっかり身構えができ、油断も隙もなくなっていたのだろうか、そのしゃんと取り澄ました顔には、一抹の動揺のかげさえない。しかも、いままでかつて見たことのない特殊なものが、少女の顔に現われているのを一目見たとたんに、わたしははげしい衝撃をうけたのだった。(P192)
文庫本巻末の訳者による解説を参考にすると、作者ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の没後の評価は、現在ほど高らかなものではなかったという。
ところが、その後ジェイムズ・ジョイス(1882-1914)、マルセル・プルースト(1871-1922)、ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)フランツ・カフカ(1883-1924)などが、「意識の流れ」の手法を駆使して作品を発表し、さらにはフロイドによって“心理分析”がひろめられ、世間が「意識の流れ」を認識できるようになってから、そういえばヘンリー・ジェイムズという先達がいたではないか、と再評価されるようになったらしい。
しかし世界は、この大先駆者ヘンリー・ジェイムズを理解するために、まず彼の影響をうけた後代の大作家たち、つまり、ジョイス、プルースト、カフカ、ウルフ、フォークナー等を消化して、そのまなこを肥やす必要があったのだ。(P241「解説」より)
一方、さまざまな解釈を恕す『ねじの回転』の研究家のなかには、亡霊を見たのは主人公の「妄想」であると唱える者もいる。
亡霊を“目撃”したのは主人公だけで、実際は亡霊など存在しないのだ、という説である。
しかし、主人公が初めて亡霊を見たと告げる前から、グロース夫人の態度は不自然だった。
告げられたあとも、「見たことがない」と主張するわりには、亡霊に関して察しが良すぎるように思われる。
グロース夫人も実はクイントやジェスルの亡霊を目撃しており、にもかかわらず、たぶん自己防衛や邸内の平和のために見てみぬふりをして、口を噤んでとぼけている、と解釈するほうが諸々腑に落ちるのだ。
だが、グロース夫人の不自然な態度や言葉も、主人公の思い込みや虚言であると解釈すれば、むりやり妄想説にもっていくことも可能だろうが、それは解釈というより曲解だ。
一人称の小説を評する場合、記述を妄想だと断じてしまうとキリがなくなる。
辻褄が合わくても、それは主人公の精神がくるっているからだ、意図的な嘘だ、と言い出せば際限がない。
そこまでして妄想説を採択する理由はないだろう。
妄想説はわきにどけても、本作がさまざまな解釈の余地があるとされる理由のひとつは、その「具体性」の回避だろう。
以前のブログで、『フランケンシュタイン』の怪物、『ジーキル博士とハイド氏』のハイド氏、そして『天人五衰 ー豊饒の海・第四巻ー)』に登場する醜女の外見描写に具体性がないことを、だからこそいいと評したことがある。
本作においては、醜さの描写ではなく、美しいマイルズとフローラの外見描写が、意外なほどあっさりしている。
耀くばかりの、天使のような、神々しい、妖精の王子様然、といった抽象的な形容はあるものの、具体的な像を結べるような描写がない。
(むしろ亡霊である、ピーター・クイントについては「大した美男子」というほかに、「細かくカールした赤毛」であるとか、「弓形の眉」とか、「髪の毛と同じ赤い口ひげ」とか、「薄い唇」といった具体的な描写がある)
そしてなにより、手記の書き手である主人公の「わたし」の名前が、最後までいっさい出てこないのである。
前任の女家庭教師の名が「ジェスル」であることは示されているのに、登場人物の誰もが主人公の女性のことを「先生」と呼ぶばかりで、一度もその名前を口にしないのだ。
(マイルズ少年は、主人公のことを「ねえ先生(my dear)」と呼ぶことが多いようだ)
最初に出てくるダグラスさえ、恋した年上の女性の名前を口にしていない。
そこに作者の意図があるのか、ないのか。
生前、クイントとジェスルがただならぬ関係にあったことは明示されているが、このふたりと、ロンドンに住む雇い主(マイルズとフローラの伯父)との関係性はいかなるものであったのか。
金輪際関わりたくないと思わさせるなにかが、あったのか、なかったのか。
あったとしたら、それはクイントとジェスルの生前なのか、没後なのか。
伯父は甥と姪を守ろうとしていたのか、それとも、その逆なのか。
そもそも、クイントとジェスルの亡霊がマイルズとフローラにそこまで執着して取り憑く理由は、いかなるものなのか?
「謎」は尽きない。
最後に、主人公はマイルズに取り憑いているクイントの亡霊を払いのけようと奮闘するが、悪霊を失ったことによってマイルズが絶命してしまうラストシーンは、演出次第では現在でも多大な衝撃をもたらすにちがいない。
おれの手元にあるのはこの版。
これを機会に、こちらも読んでみようかと思っている。
まったく蛇足的な余談だが、我が家には、本をおよそ3層に収めた同サイズの本棚が、全部で4架並んでいる。
その奥からどんな本が出てくるか、「謎」は尽きない。



