不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

前回のブログで、台風7号の影響により予定していた日に帰省先から帰って来られず、4日間も足止めを喰らう、という話をした。

当初の「帰京」予定が16日(金)。


まさにその当日に台風が関東地方に影響をもたらし、羽田空港の発着便はほとんどすべて欠航となった。


欠航が決定する前に別の日への振替手続を行なっていたために、かろうじて20日(火)に帰京することができた。(欠航が決まってから変更しようとしたら、どの便も満席になっていて、帰ってくるのが木曜日くらいになったかもしれない)


なにはともあれ、おかげさまをもちまして無事帰着。ありがとうございました。


ところで、はるか地の果ての帰省先でも、19日(月)に都内を大規模な「ゲリラ豪雨」が襲ったというニュースが流れていた。翌、火曜日も心配し、羽田に到着してからも空模様を気にしていたのだが、かろうじて雨風に当たらずに帰ってくることができた。


余談だが、実家では年老いた母から「ゲリラ豪雨の『ゲリラ』ってどういう意味?」と尋ねられ、いざ説明しようとすると難しいなと思いながら、「ゲリラ」の辞書的な意味とイメージを伝えた。いちおう分かってくれたようだった。




@niboshi-works




さて、話は変わって本題に。


このブログでもたびたび出している単語なのだが、


「スパイト行動(spiteful behavior)」


と呼ばれる厄介な行動が存在する。

 


これは、たとえ自分が損をしたり、不快な思いをしたりしてでも、他人をより不快にしようとする心理と行動のことである。

語源となってるスパイト(spite)とは「意地悪・悪意」などという意味。

 

ニッチによる棲み分けとか、協調・調和を求める心理・行動とは対極にあるもので、無駄な対立・軋轢・(双方の)消耗をもたらすものだ。


日常の通勤電車のなかでも、この手の行動をする輩こそが厄介で、このようなひとは、他人が自然に、快適に、おとなしくすごしているのが「癪に障る」みたいで、わざわざパーソナルスペースに入りこんできたりする。ほかにいくらでもスペースはあるのに、あえて互いに窮屈な状況を作ろうとしているかのようだ。

たとえ自分が損をしてでも他人に得はさせないというスパイト人種の面目躍如だ。


おれは、スパイト行動をするようなひとのことを、端的に「呪い体質」と解釈することが多いのだが、これは表面的には、たんなる「無神経」と区別がつきづらい。


ほんとうに無神経で、なにも考えていない・なにも感じていないということであれば、それはスパイトとは呼べないかもしれないが、たとえそうであっても、「呪い行動=スパイト行動」が習い性となり、無意識で「悪意」が発動している場合もあるから、ことはそう単純ではない。


整理すれば、「スパイト行動」と「無神経」とのあいだには無段階のグラデーションがある、という解釈でよいかと思っている。


スパイト行動については、多くの心理学者などが、その心理的メカニズムを分析し、ときには日本文化の特徴や、日本人に多い遺伝子などともからめて解釈したりしている。


それとは別に、おれはスパイト行動の背景には、もっと単純に別の「理論」が存在すると考えている。


それは、他ならぬ「ゼロサム理論」だ。


ゼロサム理論とは、「プラス」と「マイナス」の総量(和=サム)が「ゼロ」になるという意味。

たしかに、限られたパイを奪い合うような限定的な条件であれば、誰かが「損」をした絶対数分だけ、誰かが「得」をすることになる。

 

アップルパイ @T.H




この、あくまで条件つきで成立する”唯物論”的な理論を、他の局面にまで拡大解釈して当て嵌めた場合、まとはずれ的な支障を生じてしまう。


スパイト行動をしてしまうひとというのは、人間の感情や感覚にも「ゼロサム理論」を当て嵌めているのではないだろうか?


誰かが喜べば、その陰でおなじ分だけ悲しんでいる人がいる。


たしかに、そのように思える局面もある。
例えば、「合格者数」が決められている試験などに於いては、喜ぶ人の陰に、泣く人もいるだろう。


しかし、喜ぶ人と「同数」の悲しむ人がいるかといえば、そうではない。
いわゆる「競争率」に応じて、両者の割合は大きく異なる。


つまり、人間の快適・幸福・自由・喜びの総量など計測不能で、同様に、人間の不快・不幸・不自由・悲しみも限りがあるわけではない。


「不幸な人々」をあえて創らなくても多くの人間をそれぞれ「幸福」にすることは可能だし、逆に言えば、世界の人間の全員を(核兵器などによって)一斉に「不幸」にすることは、もっと簡単だ。


そうなれば、「幸福度のサム」は「マイナス無限大」で終わりである。


現実には「サム」が「ゼロ」になることなど、むしろ稀と言ってもよい。


このような、ちょっと考えれば解かるような理屈を理解できないひとが、他人を「利己的に」不快にしてくるわけである。


「眼の前にいるこいつを不快にすれば、その分わたしが幸福になる(にちがいない)」と無定見にとらえて。

せまい、せまい視野のなかで。


さらに言えば、世界中のほとんどの人間を「不幸」にすることによって、限られた「一族」だけを「裕福」にしようとしているグローバリスト(=唯物論の権化)も、ある意味、

 

愚かなゼロサム思考に骨の髄まで蝕まれている

 

のだろう。



不幸な民が多ければ多いほど、その苦痛が深ければ深いほど、自分たちは「神」の領域に近づけるという歪みきった思考。


スパイト行動のみみっちい心理は、そういった罪深いグローバリスト的選民思想から剥がれ落ちようとしている「垢」みたいなものであることを、スパイトのみなさまには、是非、自覚してもらいたい。





・・・ところで、三島由紀夫の小説のなかに、「この世には幸福と同量の不幸が存在する」と考えている登場人物がいた憶えがあるのだが、どの作品のなんという人物だっただろうか・・・。

(もちろん、作者である三島由紀夫は、その登場人物の考えを批判的に描いている)


おぼろげながら当たりはついているので、今度確認してみようと思う。


 

今週は、毎年恒例の帰省中。

昨年父が逝去したあと、実家では基本的に母がひとりで生活している。

いざ帰省すると、まさに、てぐすね引いて待ち構えている母から、家の中のことや、役所や銀行の手続きなど、息つぐ暇もないほどミッションを承り、おれは嫌な顔ひとつ見せずに(←ホントか?)畏まりながら、それらをひとつひとつこなしていく。

予定されていた務めを終え、本日16日が帰京の日だったのだが、2〜3日前から、


台風7号!


が日本列島をかすめそう、という報道を受けていた。

 

予報では当日に関東に接近して、空の便にも影響があるだろうとされていた。



迷った。



さっさと予定を変更して、別の日の便に振替えるべきか、


それとも、


台風が逸れることを期待して、座して待つべきか。(14日から15日にかけて北に進路を変えず、そのまま北東方向に進んでくれれば、影響は少ないと思われた)


実は昨年も、帰京予定日に関東に台風が接近予定だったのだが、まるで「奇跡」のように、関西方面に逸れてくれて、予定の変更は不要となった。



その記憶もあった(なんと言っても、最近の台風は“信用”できない)ので、今回も、もしや、と期待してたのだが、




でも、昨年とはちょっと勝手が違うような気がしたし、他からのありがたいアドバイス等もあったので、便を別の日に変更した。

 

翌日も翌々日もすでに満席(もともとその日に予約していた人も多数いるだろう)だったため、大幅に日程を延期せざるを得ず、帰京は20日(火)の予定である。

 

 

それからほどなくして、当日の欠航が正式に決まった! 

 

 

結果的に、振替えていて正解だった。

 

 

さらには、本日16日は台風 台風 の影響が実際に関東地方を直撃した。

 

 

そして、予定外に実家に滞在中の今、こうしてブログを書いている。

 

 

実家にはパソコンがないので、慣れないスマホでの入力だ。

 

 

はっきり言って、おれの実家のある「大空と大地」の街までは、台風7号による暴風雨の影響は伝わってこない。

 

はるか遠く離れた、実感のない台風のために、予定を大幅に変更せざるを得なかったのだ。

 

愚痴を言えば、(実家なので宿泊費がかからないとはいえ)延長したレンタカー代もバカにならないし、会社に有給休暇の申請連絡もしなくちゃいけない。

 

 

まぁ、それはよしとしよう。

 

 

余談ながら、ちょっと気になるのは、つい先日観たテレビ番組で、猛暑日になったことのない千葉県勝浦市より、もっと快適な街があるんですよ、という話題が提供されていた。

 

夏に涼しく、冬に暖かいという住み良い街。

 

 

近年、その魅力に惹かれて、移住者も増えているとか、いないとか。

 

夏でもクーラーをつけるより、外の風の方が涼しくて快適らしい。

 

 

その街とは!?

 

 

勝浦市と同じ千葉県の銚子市である!

 

銚子市が夏涼しく、冬に暖かな快適な街であるということを否定するわけではないが、こと台風となると、真っ先に暴風雨の渦中となる街ではないか!

 

「快適な街ですよ」という放送の中では台風の「た」の字にも触れていなかったし、その放送からわずか2日後くらいに台風の影響にさらされる流れになるとは、これいかに。

 

 

念の為に申し添えると、おれが実際に銚子市に住んでいる方をどうこう言っているわけではないことはお分かりいただけると思う。

 

マスコミって無責任だな、とあらためて感じたという話である。

(たとえ台風の影響は激しくても「夏に涼しく・・・」のほうがいい、ということはあるだろうが、でも一面だけ取り上げるのはフェアではない)

 

 

また、末筆ながら、関東に台風が近づいているという報道の中で、いつまでもいつまで八丈島の暴風雨の様子を中継しているのは、ほぼ無駄なので、やめたほうがいい。

 

八丈島のほうが、いかにも台風という「いい絵」が撮れるのかもしれないが、その映像を見せられても、ほとんど誰の参考にもならないと思う。八丈島に住んでいる人にとっても、ね。

 

 










 

このところ水曜日に東京都から埼玉県にかけてを襲ってくる集中豪雨。しつこい雷。

帰りの通勤時間帯の襲来というのが厄介だ。

そのスコール(のイメージ)にも似た降りかたを見て、


「日本は温帯気候のはずなのに、これじゃ亜熱帯だよ」

「地球が温暖化してるってことだよね」



という「紋切り型」の意見を口にするひとは多い。

 

が、しかし、そもそも地球は温暖化していないということを知らないし、知ろうとも思わないひとが、いまだ浜の真砂並みなのだ。


頻発する集中豪雨、最近の言い方の「記録的短時間大雨」は、「地球温暖化」とは無関係だ(なにしろ温暖化していないのだから)。


しいていえば、都市部の家屋密集化と、その家屋のエアコン室外機から排出される膨大な熱量と湿気が、天候に影響を与えていることは考えられる。


あくまでも熱と湿気であって、二酸化炭素ではない。


暑いときには外出を控えて冷房の効いた室内にいるようにしましょう、という某放送局の呼びかけなどもあってか、排出される熱は増大する一方だ。


暑いから冷房をつける。冷房をつけるから(屋外は)ますます暑くなる、という悪循環。


都心で作られた熱が風向きと地形の関係で埼玉県の熊谷方面に流れるので、熊谷市が日本でも最高記録レベルに暑いのだ、というのはよく知られた話である。

その熊谷市で41.1度の最高気温を記録したのは、2018(平成30)年の7月23日なんだよね。
(2020年8月17日に、浜松市も同一記録を樹立(?)し、日本最高記録に並ぶ)


おれの知り合いの年配者のなかには、わずか2、3年後には日本は暑くて人間が住めなくなると心底心配している人もいるんだけど、急激な「温暖化」「灼熱化」「沸騰化」などしていないということは、最高気温の記録が、もう6年も更新されていないことでもあきらかだ。


都心部におけるエアコンの過剰使用を抑制したいと思うなら、東京をせめて江戸時代並みの「水の都」にして、自然の冷却機能を復活させるべきである。


そうしないと、都市部のゲリラ豪雨はいつまでもつづく。


いくら二酸化炭素の排出を抑制しても、焼け石に水ならぬ、焼け石に吐息だ。


・・・なんて思っていたら、今度は宮崎の地震である。


8月8日。

1月1日の能登につづき、ぞろ目がお好きなようである。


さらには、被害の実態よりも、「南海トラフ地震」の警告を鳴らすのに熱心なようだ。


あれ? 頭のなかにこの言葉が自動的に涌いてきた。


「今年は、最後の悪あがきをするカバールの醜態を、じっくり見守っていきましょう!」(西森マリー)


悪あがきのとばっちりを受けないように、最低限の備蓄は心がけていきましょう。



・・・といった言葉などまったく届きそうにもない、昆虫脳のスマホ・ジャンキー。



かれら自身が他人を認識していない(虚無化している)というのは、もはや言うに及ばず。

その対話拒否・関係性断絶の「意思」はまたたくまに血肉と化し、かれらの肉体自体が沈黙化するようになる。


つまり、

 

かれらが周囲を見ないようにするのと呼応して、周囲の人間からもかれらが「見えなく」なってくる

 

のである。


どういうことか。


かれらは周囲を見ていない。これは、文字どおりの現実だ。


一方、周囲の人間にとっては、物理的に見えないということではない。


物理的には見えている。かれらが近づいてくるのは見えている。


しかし「見えない」。


なぜなら、かれらの身体からは、なんの「メッセージ」も出ていないからだ。




「無表情」の不気味さは誰もが感じることであろうが、スマホ・ジャンキーの歩いている姿はまさに「無表情」そのままなのだ。

 

全身が「無表情」。


(デザイナーがAIで作成した画像らしい)


なにを考えているのか。

どこへ向かおうとしているのか?

状況に関係なく急に方向転換しないのか?


人々が往来を行き来する際、各々の全身から無意識に発している「メッセージ」によって、調和と均衡がとれている。


しかるに、かれらからはメッセージが皆無なので、まったく、その「先」が見えないのだ。


哲学的に言えば、人間は「今の一瞬」だけを見て世界を認識しているわけではない。「今より一瞬前の過去」と「今より一瞬先の未来」を含めて見ることで、対象を認識していると言えるだろう。


どこから来て、今どこで、これからどこへ行くのか。


しかし、身体からなんのメッセージも発せられていない場合、相手の「一瞬先の未来」が見えないので、姿そのものが「見えなく」なってしまうわけだ。


一方、物理的に見えていないと、周囲からも「見えなく」なってしまうかいうと、必ずしもそうではない。

たとえば、白杖をついている人からは、ちゃんとメッセージが発せられている。
少なくとも、白杖の人が急に方向を転換することは、まず無いといえる。物理的に見えないがゆえに、そんな危険な行動には出ないだろう、と周囲の人に「予測」させてくれる。


その意味で、共存に必要なメッセージを発しているといえるのだ。


ところが、みずからブラインデッドとなっているスマホ・ジャンキーは、そういった必要最低限のメッセージすら出していない。


もちろん、自分が「なにも発していないがゆえに相手から見えなくなっている」とは想っていない。


自分は見ようとしないくせに、「周囲からは自分はちゃんと見えてるから問題ない」と想っている。


ボクのこと見えてるでしょ? だったら、ちゃんと対処してね。ぶつかりそうになったら、そっちからどけてね、と無限の自己中心的思考で言い訳をしている。


でも、暗闇で無灯火の自転車が見えないように、たとえ明るい場所でも、身体からなにもメッセージを発していないにんげんは「見えない」のだ。


予測ができない。信用できない。相手の善意を期待できない。

なにをしでかすか窺い知れない、不気味な存在。
 

平気でぶつかってきたり、無駄に動線を塞いだりして、物理的に邪魔になることだけは一丁前の透明人間。

 




自分がそんな不可視の存在になっていることなど夢にも想像していないやつが、ときどき一転しておれに突っかかってくることがある。


この前の休日、通勤経路とは別の電車に乗ったとき、降りる際におれの踵を軽く踏んだ歩きスマホの若い男がいた。

降りてからホームをほぼ併行して歩いているとき、おれが斜め後ろを振り返ると、一丁前にそいつは顔をあげて、おれを見た。もしかしたら、すぐ前の乗客の踵を踏んだという自覚はあったのかもしれない。だが謝るでもなく、逆におれを睨んできた。


自分の行動が相手を怒らせたのではないかという自覚はあるが、そんな細かいことで文句を言ってきたら怒っちゃうぞ、という態度である。昆虫脳にはよくあるパターンだ。


しかめっ面をして、装着していたワイヤレスイヤフォンの片方を外して、「文句があるなら言ってみろ」とういう表情をした。途端に、いたずらに「メッセージ」を発する存在になったというわけだ。


おれは日常生活でもけっこう言いたいことはズケズケ言うタイプなのだが、そのときのおれは、あえて対話を拒否してやった。

対話をする価値もないということもたまにはあるのだ。

連れもいたので、なおさら、かかずらっていられなかった。


おれは聞こえよがしに(ホームはそれほど混んでいなかった)、


「前を見てないからぶつかる。それだけ」


と言ってやった。


たぶん、(イヤフォンをはずしていたので)聞こえたと思うが、反論はなかった。


別に「勝った」とも思わず、そもそも「勝負」するような問題ではないのだが、なに気ない、ふだんはっきり認識していないような微妙な営みの集積で人間社会が成り立っていることを、ジャンキーたちは意識したことすらないのだろう。


ジャンキー(junkie):ドラッグ中毒者の語源は、ジャンク(junk):ゴミである。


スマホにジャンク化されてしまった不可視の物体は、今後しばらく、増えることはあっても、減ることはないだろう。


だが、いずれ減る。


減ったときの減り方こそが見ものだと思う。


かれらの末路をじっくり見守っていくつもりだ。

 

 

 

「無表情」というと、やっぱりこの書を連想してしまう。

 

 

東京の異常な暑さ(熱さ)に警鐘を鳴らしている傑作。

おもしろい話だ。

 

佐藤守氏の著作は未読だが、戦中戦後を通じた陸軍中野学校の動きからしても、信憑性はある。

 

おれは常々「北朝鮮が日本にミサイルを撃ちこむことなどあり得ない」「北朝鮮が飛翔体を発射したというニュースはフェイクだ」と考え、周囲にも言い、ブログにも書いてるけど、こういうことだよね。

 

 

 

 

2009/10/1 講談社より発売

前回のブログで、自己増殖型レプリコン惑沈と、それを開発した明治製菓ファルマのことを批判する言葉を述べたのだが、それからすぐに、10月1日に開始予定だったレプリコン惑沈の接種が「延期」されたという情報を得た。

mRNAレプリコン惑沈は、接種者本人の被害はもちろん、接種者からのシェディングの影響が従来の惑沈とは桁違いになるという推測だったので、もしそれが事実になったら、日本人の身体は、全体として大きく損なわれる惧れがあった。

志ある者たちがいくら危険だと警鐘を鳴らしても、まったくの馬耳東風で、打ってしまうひとは打ってしまうのだろうし、たとえ打つひとが少数であっても、(シェディングの理論が正しければ)周囲への悪影響は甚大になり、その影響は無制限に拡大していくことになる。


おれも、どうしてくれようかな、と憂慮していた。


しかし、一方で、日本人をそこまで徹底的に破滅させるような「動き」にはなるはずがない、とも思っていた。日本人を(眼醒めている者もふくめて)根絶やしにしたいと希求している勢力は存在するだろうが、その勢力の影響力は、もはやそれほど強くはない(逆に言うと、日本人をギリギリのところで救おうとしている勢力のほうが強い)はずだ・・・、というのがおれの見立てだった。


その答えが「延期」だった

 

というわけだ。



延期によって、とりあえず破滅を喰い止めている間に、事態がさらに好転するという希望がある(つまりは永久的な中止)。


いまや、日本国民の認識は3重構造。



眼醒めていないシープルは、警鐘も馬耳東風で惑沈を接種。



眼醒めている者は惑沈の危険性を理解できるのでみずからは非接種を貫くが、さらに、周囲に警鐘を鳴らす人、接種を押し止めようと実際に行動する人たちがある程度以上いることで、国民を取り巻く「ストーリー」が変わってくる。


今回の「延期」も、非接種を貫いている人が一定数存在していることに加え、周囲に警鐘を鳴らした人、接種を押し止めようと実際に行動した人たちのお蔭だと思っている。

そうやって騙されず、騒ぎ立て、抵抗・抗議する人がいなければ、「日本人はシープルばっかりだからさっさと接種(とさつ)してしまえ」というおそろしい流れになっていたはずだ。


現在はまだ戦時下である。今後「ストーリー」が好転し、いずれ遠くない将来に平和な世の中が訪れるとしても、シープルのままですごしていれば、その平和が訪れる前に「戦死」してしまうかもしれない。


せめて「致命傷」を負わずにサーヴァイヴするためには、アンテナを張り、「裏」の動きを読み、「悪意」と「毒」から心身を守っていかねばならない・・・。


さて。


今回取り上げるのは、前回と同じ西森マリー著、副島隆彦監修による

『帰ってきたトランプ大統領 ~アメリカに“建国の正義”が戻る日』

だ。


前回取り上げた『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか?』とは内容が地続きになっていると申し上げたが、まさに両著とも、あまりにも酷い現状のなかで、多くのアメリカ人がトランプの当選(今回は再選)を願っているという表面的な事象は共通している。


併せて8年前であっても、「アメリカ軍部の有志たち」によってトランプがリクルートされているという裏事情があったわけなので、「真相の構造」は変わっていない。


だが、8年前とはあきらかに「流れ」が違っている。


一期目のとりあえずの目的が惨状からアメリカを「救う」ことだったとすれば、今回は未だ眼醒めていないひと(ノーミー)を眼醒めさせるとともに、Deep・S、鹿婆褸を解体することを目指しているのだ。



無知で無力な大衆を救うだけでは、将来、新たな「敵」が出現したとき、また同じ惨状に陥ってしまう。だからこそ、大衆に「眼醒めて」もらうことが必要だ。

2020年の不正選挙をわざと見逃して(同時に不正の証拠もすべてつかみ)、偽バイデンに政権を譲ったふりをして、やりたい放題に、愚策の限りを展開させた。

トランプ政権でいったん「まとも」な状況を味わっていたがゆえ、アメリカ国民はトランプ政権とバイデン政権とのはなはだしい落差を「肌身をもって痛感することにな」ったのだ。

 

これは、濃度の違う10個のサングラスを、薄い色のものから濃い色のものへと徐々に掛け替えていった場合には濃度の差が気にならないのに対し、一番薄いものから一番濃いものに一気に掛け替えた場合は濃度の差がはっきり分かるのと同じです。(P-70)

 

著者の言葉を使えば、未だ眼醒めていないひとは、「臨死体験」を経て初めて、鹿婆褸のおぞましさを骨身に染みて理解し、真実を知ることができるのである。


現在まさに、その「作戦」が進行中というわけである。

2017年発刊の『・・・なれたのか?』の時点では登場してしない有害事象が、本書では多数登場している。


デジタル通貨、「15分都市計画」、パンデミック、惑沈、過剰なウクライナ援助、昆虫食、過剰なLGBTQ洗脳教育・・・。


むろん、『・・・なれたのか?』のなかでも言及していた、言論統制、不法移民優遇政策、過剰環境保護、銃規制、白人差別教育などもバイデン政権となってぶり返し、さらに規模を増大させている。


本書のなかでも、「眼醒め」の度合いによる「3重構造」が、なにかにつけて表現されている。

 

 2023年12月には、“トランプ大統領が仕組んだ目覚まし作戦”としか思えないような出来事が続出しました。シープルが唖然とし、目覚めかけた人々が激怒し、すでに目覚めた人々が大爆笑した出来事を、いくつかおさらいしておきましょう。


 12月2日、地球温暖化防止のためにアラブ首長国連邦のドバイで行われた国連の気候変動サミット(気候変動枠組条約締結国会議)に行く予定のプライヴェート・ジェットが、寒波で大雪に見舞われたドイツの空港で雪に埋もれて地面に凍り付き、動けなくなっていた。(P-54-55)

 

温暖化防止のための会議にむかっている途中で大雪に見舞われるという皮肉。

 

さらには(著者も批難しているように)、

 

気候変動サミットにプライヴェート・ジェットで行くなよ!

 

ということである。


かように、環境保護に関わる事例だけでも半ダースを超える「マヌケ」が挙げられているが、ページをさかのぼると、環境保護の観点から開発された「電気自動車」がらみのニュースも紹介されている。

 

 2022年9月、石炭の産地として知られるウェスト・ヴァージニア州のタッカー・カウンティで、バッテリーが切れて動かなくなった電気自動車を5人の炭鉱夫が押している映像がローカル・ニュースで話題になりました。
 ワシントンDCから来たツーリストが乗った電気自動車が、バッテリーが切れて立ち往生し、援助を求める電話をかけたものの、車体がプラスチックで牽引車が使えなかったため、近くの炭鉱で働いていた5人の炭鉱夫が炭鉱会社まで車を押していき、そこで充電した、ということなのです。
 動かなくなった電気自動車を、環境保護派が敵視している炭鉱夫が押す、というアイロニーは、保守派の間で大ウケして、(中略)大きな話題になりました。(P-48)

 

 

バイデンの愚策と、それによって多くの人が眼醒めたという事例のオンパレード。

愚かさのパターンには限りがないという言葉そのままに、次から次へと「まさか」と疑うほどの愚策・失策が繰りだされる。

これも「作戦」の一環なのだが、といっても、例えばトランプ陣営が特定の電気自動車のバッテリーを切って立ち往生させるよう工作した、ということではない。そうではなく、バイデン政権にやりたい放題をやらせ、バイデン側がみずから墓穴を掘るように仕向ける、というのが作戦なのだ。もちろん、墓穴を掘るように、的確に布石を打った上で。

本書には「ウォウク」という概念も登場する。

 

これは、『・・・なれたのか?』刊行の当時は、表に出てきていなかったものだが、オバマ政権で美徳とされたPC(ポリティカル・コレクトネス)をさらに過激にした概念で、バイデン政権で最大の美徳として奉られるようになった。
 

CIAの宣伝塔、ウィキペディアの日本語版は、ウォウクwokeを、こう定義しています。「目覚めた/悟った」を意味する「wake」の過去形からきた黒人英語(AAVE)に由来する。「人種的偏見と差別に対する警告」を意味する英語の形容詞。

 

だが実態は、「『アメリカはキリスト教の白人が他者を差別・酷使して建国した差別的な国である、という事実に目覚めた』という意味で使われてい」(P-69)る。


オバマ政権以前からあった、リベラル派 VS 保守派の対立構造に、極リベラルともいうべきウォウクが加わったという図式だが、このウォウクの(認識違いで自虐史観的な)過激思想は、保守派は言うに及ばず、リベラル派の眉をも顰ませているのである。
※リベラル派は、差別反対という大義名分をもとに黒人やヒスパニックの犯罪者すらを過剰に保護しようとしているのだから、すでにウォウクの白人否定の思想を内包していたともいえる。


鹿婆褸からすると、自分たちの理想とするワンワールドを実現するためには、伝統を破壊し、家族を壊し、正常な性差を否定し、といった精神・文化的な破壊活動をどんどん過激にしていかなければ、なかなか功を奏しない。だが活動を過激化することは、現実として逆効果にしかならない。


私はウォウク(目覚めた者)だと勘違いしている輩の過激活動が、真の覚醒者を増やしてしまうという皮肉。


その他、次々に暴露されていくエリートたちのペドフィリア。


ウクライナ戦争の欺瞞。


さらには、ロスチャイルドの家宝がオークションにかけられ、同一族が所有していたマンハッタンの面積に匹敵するオーストラリアのハンティング場も売却されているという。

また、デンマークのマルグレーテ女王が、死去のまえに83歳で退位して、王座を息子に譲位している。

そういったことなどからも瞭らかなように、鹿婆褸たちも着実に追い詰められているのである。

 

 今まで何世紀にも渡って、偽旗作戦、ハニーポットと賄賂によるブラックメール、不正選挙をいう同じ手を繰り返し使って楽勝してきたカバールが、負け知らずだった故に潰しがきかず、トランプ大統領とホワイト・ハットに太刀打ちできないのです。(P-286)

 

本書ではもちろん、鹿婆褸側の悪辣・醜悪・愚昧エピソードだけではなく、トランプがいかに有能で、魅力的で、人望があり、情に篤いか、というエピソードもちりばめられている。


『・・・なれたのか?』でも紹介されているスケートリンク改修のエピソードは素晴らしく、著者と同様、おれにとってもお気に入りだ。

ただし、長くなるので引用はせず、要点を述べるだけに留めたい。

ニューヨークのセントラル・パークにあるスケートリンクは1949年に建設され、老朽化のため1980年に閉鎖された。
当時のNY市長は、900万ドルの費用をかけて2年で再建すると発表したが、1300万ドルと7年を費やしても再建されずにいた。
当時39歳だったトランプは、自分のオフィスビルから見た非効率な仕事ぶりに呆れかえり、市長と交渉して「300万ドル・6ヶ月で仕上げる」と約束し、実際は225万ドル・4ヶ月で完成させた。


この顛末を、トランプは選挙戦のスピーチで取り上げ、「その後、トランプ大統領の魅力の象徴となり、まだ目覚めていない人々をMAGA支持者が勧誘するときにたびたび引用されてい」(P-67-68)るということだ。


また、トランプはスピーチやトゥルース・ソーシャルで繰り返しこう言っているという。
 

「彼らが狙っているのは、僕じゃなくて、きみたちなんだ。僕は、ただ彼らを阻んでいるだけだ。(I just happen to be standing in the way.)」(P-217)

 

 

I just happen to be standing in the way.

 

直訳すれば、「僕はたまたま彼らと君たちとの間に立ち塞がっているだけだ」となる。

 

トランプ支持者たちは、この一言を聞く度に、(中略)ペルシャ軍の侵入を阻止したスパルタ王、レオニダスを思い浮かべ(中略)、身体を張ってカバールの攻撃から民衆を守ってくれるトランプ大統領に心から感謝しているのです。(P-217-218)

 

 

 

 

映画『300』のレオニダスをモチーフにしたトランプ大統領のイメージ。MAGA派の大のお気に入りだという。

※本書に掲載されている画と同一のもののほかに、異なるものも載せた。

 出典はこちら。

 




最後に、著者の言葉に同調して、本投稿を締める。

 

今年は、最後の悪あがきをするカバールの醜態を、じっくり見守っていきましょう!(P-287「あとがき」より)

 

おれが、「レプリコン接種ということにはならないはずだ」と思っていたことと、本書の内容とは相通じているのである。