本来、多くの者が、『妖精の書』をつぐ家系でありながら、それを断念する理由は、妖精の書の序章のせいだろう。
妖精の書の序章には「妖精の正体」と題され、いきなりこうある。
「妖精とは、『妖精の書』を使って魔術を行う者のことだ。そして『妖精の書』の各章は、諷刺、冒険、道徳、空想など、その主たる目的は何であれ、妖精の国に触れ、それを扱う文言でできている。つまり、『妖精の書』に出てくる妖精の国がもたらす力は、魔術という言葉でくくられる。そして、文言を、諷刺してもかまわないが、その根本にある、魔術に関してだけは、唯一、諷してはならない。そして、妖精の国の魔術は、人の持つ根源的な願望のいくつかを満足させてくれる」と書かれています。
逆に、『妖精の書』の魔術さえ信じられれば、文言はおのずと開かれるということなのだろうか。
現代の我々にとって、『妖精の書』の序章は理性に反してとらえ難い。まず、理性的な我々の誰が、妖精や魔術を信じるというのか? ジルおじいさんはそれに対しての考えを、『おじいさんのノート』の最後から二番目の章に残している。それを記そう。
「昨今、もう、何もかもが理性に支配され、個人の主体性を求めるにしろ、この理性の上に、今更、何も築けない、という状況があります。もちろん理性を批判しているのではありません。大事な車の片輪です。もう一つの片輪である、『妖精の書』の文言にも耳をかさなくてはならない。そして、魔術は理性ではとらえられない。信じるしかないものだ」
「また、『妖精の書』の文言は「理性」を破壊するものではないことは確かだし、軽蔑するものでさえない。そしてまた、科学的真実への渇望を鈍らせることもないし、それに対する認識を曖昧にすることもありえない。事実はその逆なのである。理性が鋭く、明快であればあるほど、『妖精の書』の文言に鋭い解釈が生まれる。もし人が、真理を(事実)知りたいとは思わず、また、それを認識できない状態にあるとしたら、そのような状態がいやされないかぎり、『妖精の書』の文言の理解は衰えるだろう。『妖精の書』の伝導者が、もしそのような状態におちいるなら、お告げは絶えてなくなり、伝道者は「病的な妄想」に包まれるだろう」
コウには身に覚えがあった。コウはいまさらながらこの序章と向き合った。コウはただおじいさんに、跡継ぎを遺言されたから『妖精の書』を読解していただけだった。おじいさんが好きだったから『妖精の書』を信じていただけだった
「魔術ねえ…。そりゃ普通、避けたくなるだろうよ。この現代に…」自分はいつの間にか魔術を使っていたのだろうか?
そして改めて序章の文言を読んでみると、文言は何度読んでも光を放たなかったのに、初めて青い光を放った。序章は読解されたのだ。
やはりおじいさんは序章に関しても深く読み込んでいたのだ。『おじいさんのノート』が無ければ難航していただろう。
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今日は皆を連れて、久しぶりにおじいさんのお墓参りをした。こんなことをしたら罰当たりになるかもしれないが、墓石の隅に「今でしょ!」とマジックで書いてみた。おじいさんの幽霊が呪って、コウのもとに現れるかもしれない。でもかまわなかった。おじいさんに会えるのなら幽霊でもいいと思っていた。
仲間の内、コウ以外には生前のおじいさんを知るものがいないが、皆こころよくおじいさんの弔いに付き合ってくれた。
看護師のアンが言った。「これからは『妖精の書』の読解する人を妖精術師と呼びましょうよ。専門の知識と経験が必要な人だもの」アンはますますコウのことが増々好きになった。一方ヨナがどう思っているのかが気になった。
先代は合理が勝って術師の席は空いてしまった。おかげでコウはほぼ独学で務めを果たさなければならない。まだまだ本当の未熟者だ。しかし『おじいさんのノート』があれば、すぐにでも追いつくだろう。コウは幾代にもわたる妖精術師のお墓に祈りをささげた。現代は進歩しすぎたのではないか。勇気ある退歩が必要なのかもしれない。
コッコは商売柄、進歩を望んだが、世の中をコウと見つめてきた分、どうやって生きるべきかを肌で感じ取っている。自身の理性に聞けば、もっと便利なお店にしたかった。理性は大事だとコウは言っていた。ならば、そちらに、突き進んでも良かろう。行き過ぎたらコウに頼ればいい。
ヨナも教員として進むべき道を考えさせられた。ゆとりある教育を目指すべきなのだろうか。一方的に教育を押し付けるシステムはもういらない。最低限の教育は必要だが。後は自分で考えればいい。個々に任せてしまうのだ。
『妖精の書』の抽象的に感じられた序章が読解されたことで、コウは『妖精の書』全般が読解可能になった。理論上まだ読んでいない章も読解が可能なはずだ。これも『おじいさんのノート』のおかげである。ノートは難解だったが徐々に内容を理解した。
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どんどん村は便利になって行く。コッコの始めたスーパーマーケットはその象徴だ。ベル先生の病院だってそうだ。おじいさんは嫌な顔をするだろうけど時代の流れだ。一方、村には牧歌的な風景や雰囲気もまだまだある。ちょうどいいバランスだ。
村人も理性一辺倒の生活から『妖精の書』のお告げも大事にした。コウも、ひと頃のスランプから脱出し、お告げを次々に読解した。
例えばこんなお告げがあった。「人はいかにしたら幸せになれるのか」という、現代らしい問題に対して、『妖精の書』の、ある項目はこうお告げをする。
「人は何を幸せと思うのだろう。お金だろうか? いや、自由だろうか? 自由。それは自分が自分であるために主体的であること。これこそ幸せなことなのではないだろうか。」
主体性については、『妖精の書』の他の項目で、いくつか扱われている。
例えば一つのお告げにはこうある。
「人が追い詰められた時、「どんなことをしてでも生きてやる!」と誓ったとしよう。そんな時には、我にかまっている暇などない。それどころか、自分を完全に殺さなければならないかもしれない。それは究極の受け身だ。つまり小さな我を捨てて、もっともっと大きなものに溶け込む。すると、人は、予想外の出来事に出会ったりして、充実感を得たり、人として自分の考えに広がりをもったりする。そして、それに対して、ふと、幸せを感じるのではないだろうか。受け身と言うと消極的に聞こえるが、言ってしまえば、いい意味での開き直りの哲学だ。受け身と言いながら、結果は、主体的になる」
現代は理性によって、勝った、負けたと忙しい。そして負けた時、追い詰められた時が、本当の幸せを得るチャンスなのかもしれない。