さて、畑仕事が一段落すると、ヨナはコウを約束通り自分の家に連れて帰りました。ヨナの家は、村の北東部を流れる川のほとりに、河原の大きな石を積み上げて造った、頑丈なものでした。

 ヨナはコウに、先ほど味見させようとしていた、ジャムの試食をさせました。コウはその味に大変満足の様子です。

 おやつをつまみながら、ヨナはコウに言いました。

「仕事も一段落したし、あしたは休んで港町へ買い出しにいきましょう。そろそろ備蓄の食料が底をついてきたし、雑多な入用なものもあるでしょ」と。

 彼らの村は、畑ばかりで、お店のようなものがありませんでした。そこで村の人々は、時々港町に買い物に出かけたのです。

 コウは例によって、時間さえ空けば『妖精の書』を読みたかったので、できれば遠出をしたくありませんでした。しかし、ヨナの言う通り、家の蓄えが切れかかっていたので、そうもいかず、承諾せざるを得ませんでした。

 コウは言いました。「そうだね。それに、久しぶりにコッコとも会いたいしね」と言いました。

 コッコとは、コウが学校を卒業して、お爺さんの村に住み着いた時以来の、隣の港町に住む、彼の良き話し相手でした。今ではヨナとも仲良くしていました。

 ヨナは「それじゃ決まりね。あした、朝八時にコウの家に向かうから。必ず起きていなさいよ」と彼女はコウに釘を刺すように言って、彼を自分の家に帰しました。

 そう、コウは朝を苦手としていました。コウの日常は、畑仕事が済むと、例の『妖精の書』のさらなる解読にのめり込み、夜遅くまで起きていることもままありました。そんな日の翌日は決まって昼まで寝ていたのです。

 

         *

 

 翌朝になりました。ヨナはコウの家に迎えに行きました。コウは、村の南西部の森の中にある一本の大木に、その木の洞を利用した簡素な家に暮らしていました。

 案の定、コウは、まだ寝ていました。ヨナは不機嫌にコウを起こすと、眠たげなコウの尻を叩いて身支度をさせます。そして彼が港町へ出かけるための準備を手伝いました。

 そしてふたりの用意が整うと、その大きなリュックを背負って出発です。

 ふたりは歩きました。道の両脇に茂った、背の高い夏草の間から見える入道雲を横に見ながら村を抜け、ようやく空の半ばまで登っていた、夏の眩い太陽をキラキラと反射する小川を渡ると、視界の開けた、海が見渡せる場所に出ました。

 そして一時間ほどかけて港町に着きました。

 

 「着いた!」とヨナは嬉しそうです。久しぶりの港町です。ヨナは、コウを連れて、馴染みの店を回りました。コウが欲しかったものは、コーヒーとパンぐらいのものだったので、それを買うと、後はヨナの荷物持ちに徹しました。

 コウはなぜそれだけしか買わないのかって? 食事は少しのパンだけで足りるの? 

 コウの食事は、ヨナが畑仕事を手伝いに来た時に持ってくる多めの弁当を、おすそ分けしてもらい、それで、ほとんどをまかなっていたのです。ヨナが来ない時には、手持ちのパンを少しかじるだけで済ませていました。

 それに、こまごまとした必要なものは、皆、誰かに借りていました。

 そう、コウは『妖精の書』を読む以外のことは、皆、お座なりなのでした。

 やがてふたりのリュックは、ヨナの荷物で一杯になります。辺りは夕日が差してきました。コウが「そろそろコッコを訪ねよう」と言うので、ふたりは、いつものように、この町でコーヒーや軽食を出す、友達のコッコの店に立ち寄ることにしました。

 

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 コッコの店は港から少し離れた丘の上に、海を一望できる場所にありました。彼の店は開いていました。

 店の玄関には、まめ犬のサムが座っています。わざわざ店が開いていましたというのも、この店は不定休で、たまにしか開けていないからです。そんな商売ですから、あまり繁盛はしていませんでした。今日もコウとヨナの貸切です。

 まあ、コッコにとっては、料理好きが高じて始めた店なので、趣味で続けているといってもいいでしょう。本業は漁師をしていました。

 漁師と言っても、釣り人たちに船のチャーター便を出すことで、コッコは生計を立てていたのです。この仕事の利点は、普通の漁と違って、魚が取れても取れなくても一定の収入が見込めることです。

 以前は普通の漁をしていたのですが、どういうわけでしょう、魚が取れなくなってきたのです。漁業用のレーダーなど機器は近代化したというのに本末転倒でした。

 

 コッコは、漁師らしいといえばそうなのでしょう。普段から海の脅威をまのあたりにしていたので、自然に起こることなら、その見えざるものの力を信じていました。コウの話す妖精の話にも大いに興味を示しました。

 それに気性のさっぱりした男でしたので、あまり人の好き嫌いがないのです。コウのような、ある意味、変わり者にも、分け隔てがありませんでした。

 また、コッコは、コウといつも行動を共にするヨナに、自分にない知性を感じて、憧れにも似た恋心を抱いていました。彼女のことをあれこれ考えると、夜も眠れなくなるほどです。きょうもなんだかそわそわしていました。

 

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 コッコは開口一番、コウにこっそりと静かな声で尋ねました。「聞いてくれたかい?」

 コッコは密かにコウにある約束事を頼んでいたのです。それはコッコのヨナに対する恋心をそれとなく彼女に伝えてくれという約束でした。その結果を尋ねたのです。

 しかしコウは、すっかり約束を忘れていました。今尋ねられて思い出したようです。コッコは話が話だけに、妙な勘ぐりを入れました。コウは、もしかしたらヨナに気があるのかも知れないと思ったのです。しかしコッコは思い直しました。

 コウの考えることは、どうも世間の人々と違う方向に向いていました。これだけヨナと長く生活をともにしていても、友達以上の関係には発展しなかったようです。

 コッコもコウのそんな人となりを、最近になって思い知っていたのです。コウはなにも薄情なわけではありません。彼の愛情を大げさに表現するなら、博愛という言葉が近いのかも知れません。

 ヨナが今までにコウに惹かれたことがあったとしても、彼女は彼のそんなところを察して、自分から身を引いてしまったことがあったのかも知れません。

 それはともかく、コッコは、今再び、忘れられていた約束をコウに再び取り次ぎ直しました。

 

 そして彼らは積もる話に花を咲かせていました。特にコッコとヨナの料理の話は尽きることがありませんでした。コウは食べるのが専門なので、話の合間、合間に「それ食べたい」とお気楽なことを言っています。

 コウとコッコの『妖精の書』の話もはずみましたが、その話にはヨナは口を挟みませんでした。幼い頃から散々聞かされてきたので、もうなにを話すのか分かっていたのです。

 

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 そしてそれらの話がひと通り済むと、やがて話は、最近、町や村で暗躍すると噂される、『コード』という名の組織の話に移りました。

 

この組織に目をつけられると、人はわけもなく追い詰められ、果ては虚ろな目をして、生きる気力を無くしてしまうというのです。この話がもし本当なら確かに脅威です。

 しかし、コウとコッコは、自然の脅威ならともかく、そのにわかに現実味の伴わない話に、「そんな馬鹿なことがあるものか」と、まるでよそごとのように笑い合いました。

 ところがヨナは、その時、密かに不安に思っていたのです。実は彼女は、『コード』という名のサインの入った手紙を、何者からか、複数、送りつけられていたのです。

 三人の、話がひと通り済むと、コウとヨナはコッコの店を後にしました。まめ犬のサムがしばらくの間、お見送りです。遠くから「また来いよ」と言うコッコの声が聞こえました。長く見送ってくれていたのです。ふたりは振り向いてコッコに手を振りました。

 

          *

 

 帰り道にヨナは、『コード』という名の謎の組織の話についての先程の不安を、コウに告白しようと思いましたが、馬鹿にされそうなのでやめてしまいました。しかしサムはなにかを察したのでしょう。心配げにヨナに鼻をくっつけてきて、クンクンと鳴くのでした。

 ヨナは犬が好きでした。彼女にとっては犬という動物は、話さなくてもこちらの気持ちを無条件に察してくれて、一緒に喜んだり悲しんでくれる不思議な存在なのです。

 それにあの愛らしい姿、ヨナはぜひ犬と一緒に暮らしたいと思っていたのですが、これまでは金銭的な余裕がなく、今は学校の先生という忙しい身の上で実現できていませんでした。

 しかし将来は、ぜひ犬のいる生活を望んでいました。ヨナはサムに抱きついて、自分の不安な胸の内を癒やそうとしました。そしてサムはコッコの元へ帰ってゆきました。

 

 コウは、ヨナがなにか話をしたがっていることに気づきましたが、ふと自分にも話をしなければならないことを思い出して口を開きます。「コッコが君とお付き合いしたいと言ってたよ」

 ヨナは顔を赤らめて言葉をなくしました。