今は昔のこと、左近衛府(<さこんえふ>舞楽を奏ずることを主な任とする役所)の主典(<さかん>第四等の官)で泰武員(はだのたけかず)という近衛舎人(<このえとねり>近衛の官人で将監以下の総称)があった。
この男が、ある時禅林寺の僧正の壇所(<だんしょ>僧侶の就学の場所)にうかがったところ、僧正は中庭に招き入れて、話し相手をなさっていたが、武員(たけかず)は僧正の御前にうずくまった姿勢で、長いことしゃがんでいるうちに、誤って、えらく大きな屁を一発放った。
僧正もこれをお聞きになり、また御前にいた大勢の僧侶どもも、皆この音を聞いたが、その人の恥なので、僧正も無言、多くの僧侶どもも内心のおかしさをこらえて、じっと互いに顔を見ていた。こうして、しいんとしてしまたところに、武員は、両の手を開いて顔を隠し
「ああ、死にたい」
と言ったので、その声とともに、御前にいた僧侶どもが、いっせいに笑い出した。その笑い声にまぎれて、武員は、早々に立ち上がって、走って逃げた。
こんなことは、やはり聞いた時こそ面白いのだが、時間がたつと恥ずかしいものである。そののち、武員は、久しく僧のところへは顔を出さなかった。
それはともかく、もともと面白いことを言う、近衛舎人の武員なればこそ、このように「ああ、死にたい」などと言って、その場の気まずさを破ったのだ。
そういう才のない者ならば、もじもじするばかりで口もきけず、さぞお気の毒なことになったであろう、と人々が噂した、という話である。
(巻28第10話)
あらたまった場所で、誤って放屁をしてしまう。しかしこれを機会に、場を和ませる才を持った男。短いお話です。