聖
第四章 聖(神)の法則について ここで、甲斐よしひろの詞である『思春期』という唄を書きたいと思います。 追いかけても 追いかけても つかみきれない人の肩 つかまえても つかまえても 届くはずないからくりさだめ これは、何を意味するでしょうか? 人の肩はつかみきれません。 キリストのように人のために死ねばいうことないでしょうが――。 つかまえてもつかまえても届くはずないからくりさだめ J・POPでも答えとか出てきますが、人生の答えとはなんでしょう。 吉本隆明先生も僕が〈ほんとうのこと〉をいうと、といっておられます。 バグワンシュリラジニーシも真実は語り得たことがないし、これからも語り得ないだろう。 といっておられます。 僕のことばでいうと真実はへたなゴルファーのホールです。 ホールをかすめていろんなことばを使うけど、結局真実は語り得ないのです。 哲学でも、無神と有神、唯物と観念が対立してきました。 吉本先生のいう、ほんとうのことというのは、ことばがある限り、神があり、そのことは語れないが、ことばがないとあの世はないということでしょうか? しかし、こう書いているのもことばです。 無限後退がおこりそうです。 つかまえてもつかまえても届くはずないからくりさだめでしょう。 尾崎豊は、「ただ独り答えを打ち抜く」といって死にました。 食を断って、性欲/産欲もなくなり、ミイラ仏になるのが幸せでしょうか? 悟りというのは、釈尊も、煩悩を滅することでなくコントロールすることだ、と教えているというのがインドの聖典、仏典ではいわれているそうです。 悟りというか、「聡い」の動詞の「聡り」なのです。 人といいますが、人は一人だから人というのが語源だと思います。 つかまえても つかまえても つかみきれない人の肩 なのです。 キリストは人の心をつかみきったでしょうか? 全人類がキリスト教じゃないので、人のために死んでも、悟れないのです。 悟りと愛。知恵と愛。知識と経験を愛といいます。 若いうちはsexに悟りを求めることもあるようです。 不安の上に君を重ねて抱いた これが現実なら僕は何を奪い奪われるのだろう もう愛せない 答えなどなくていいその訳は 誰も皆、安らぎのその中で生きること と尾崎は歌っています(『時』から)。 しかし、年をとると、そんな女を抱くことで悟りを求めたのは、愚かだったと気付くようです。 甲斐よしひろの歌の続きにこうあります。 何の意味なく 何の意味なく 僕を抱きしめてくれた人 マンガ『博多っ子純情』のように、博多出身の甲斐が年上の人に抱かれたのでしょう。 男は女に許されることによって大人になる面はあるでしょう。 物質肉体苦楽と人間関係苦楽と為死苦楽とがあります。 人間関係は物質や言葉を通してなされます。 喫茶店なども人間関係がつくられる場として、その一例です。 sexは物質肉体楽と人間関係楽が男と女によってなされるものです。 物質肉体、所有物をあげたりもらったり(物質)、肉体では六官(ことばの意も入れて)による、美や芸で笑ったり、感動したり、興奮したりでしょう。 物質肉体を通す以外で、完全に純粋な人間関係の楽を与えること、善はないのでしょうか? 仏教に無財の七施というものがあります。それは、 ①眼施 やさしいまなざし ②顔施 笑顔 ③言施 おはよう、ありがとうなど ④身施 ボランティア ⑤心施 思いやりの心、悲しみを分ち合う ⑥座施 席を譲る ⑦舎施 宿を借す この七つです。 これが、実行できればいいですね。 しかし、宗教的善は自虐的、自己犠牲的になりやすいので気をつけましょう。 本当の善とは、どんなえらい哲学者でも分からないのです。 功利主義的に宗教をいえば、為死苦から逃れるためキリスト教は永遠の命をキリストの復活を信じたら得られるとか、風土論的にいえば人間関係苦が多いユダヤの地だったから愛の必要が説かれたとかいえます。 罪(人間関係苦)・汚れ(物質肉体苦)からいえば、アダムとイヴがリンゴを食べ(生欲/個体保存/汚れ)、sex(産欲/種族保存/罪)し、神に楽園を追放されたとし、人間を罪汚れとしています。快楽を得ることを罪汚れと思うのは、時間後の快楽を得ようとしないで、すぐ快楽を得られると努力がなくなるからでしょう。神道では罪汚れはみそぎ祓いでとれると単純にしていました。仏教では、釈尊は輪廻転生してヘビや蟻に生まれかわるのを止め、解脱という独特の境地に罪汚れのない悟りを得ると、為死苦のとれる解脱が得られるとしました。大乗仏教になると、罪(人間関係苦)、汚れ(物質肉体苦)、為死苦はとてもとれないと思い、あの世の極楽往生や、仏にすがることとなりました。道教では人間関係、物質肉体楽について桃源郷のような理想と、死苦については漢方で永遠の命が得られることを理想としました。宗教も物質肉体苦(生欲)、人間関係苦(産欲・殺欲)、為死苦の快楽、苦痛のワクを外すものではありません。おわりに 摩訶冷夕陰心経というが、般若心経で知られる、摩訶般若波羅蜜多心経は知っているがという方が多いかもしれない。 私は、冷夕陰というペンネームで二冊、自費出版の本を出しているが、冷夕陰というのは、私は、幼き日、京都の社宅に住んでいたのだが、そこで社宅の塀が冬の夕日に陰を作っていたのを思い出して、こういう俳句を作ってみた。 冷たきし 夕くれの塀 陰寒し というものだ。 これの冷と夕と陰でペンネームの冷夕陰とした。 幽霊かとも言われるが、いいのだ。 尾崎豊は、二十六で死んだ。 私は、同い年だが、三十七まで十一年も長く生きた。 この世代の者が、哲学のことを書くのは、稀かもしれないが、私は学園粉争を知っている。 こむづかしい時代だった。 それを、私は京大で、尾崎は東大で見ていたんだと思う。 尾崎も、そういうことがないと『米軍キャンプ』みたいな唄は生まれないと思う。 私の世代は、明治や大正や昭和初期のように、文学に傾倒する世代ではない。 どちらかというと音楽の世代だ。 尾崎は、それをやった。 私の小さい頃は、まだアメリカに馬鹿にされていると言ってはおかしいが、戦争に負けたコンプレックスが満ちていた。 しかし、自動車産業で抜き、なにか変わってきた。 そして、思春期を、バブルで過ごした。 ネクラ、ネアカなどといわれ、まじめな人は駄目だという風潮だった。 そして、校内暴力が尾崎の『卒業』のように流行った。 私の学校には、一人しっかりした先生がいて金八先生のようなことはなかった――。 しかし私は金曜日の夜八時に、金八先生ではなく猪木のプロレスを見ていて、尾崎自体も、「こんな豊かな時代に、人生だなんだかんだと歌って」と思っていた。 しかし、尾崎が、「ただ独り答えを打ち抜」いてから、不況となり、K‐1などが流行った。 尾崎が「覚えたての煙草をふかし 星空を見つめ乍ら」と旋律的跳躍で歌うとき、どんな煙草のCMよりも、未成年の喫煙をおし進めただろう。 吉田拓郎は、一つの時代を作ったと思う。 そして、甲斐よしひろに私は傾倒し、影響をうけ、作詞作曲をしていた。 それが『聖歌集』だ。 あの頃のシンガー・ソングライターが、コンサートで風に吹かれてマイクを握っているとき、 人間なんて とか、 ヒーロー ヒーローになる時 とか、 歌うとき、みんなをひっぱっていくカリスマ性を感じた。 私は、クラシックに転向して、作曲を主に考えるようになり、J・POPの作曲でなら、大沢誉志幸をその能力において評価し認めている。 テロ、世界不況で世相は暗い。 しかし、「摩訶冷夕陰心経」を唱えることで、乗りきっていって頂きたい。なぜなら、現在の学者は自分の研究領域が、どこらへんにあるのか分からなくなってきています。そのためにも「冷夕陰心経」を毎日唱え、暗記し、どこらへんの研究領域かすぐ分かるようにする必要があるからです。 芸術科学にしても物理学にしても質を量に変換したいのでしょうが、物理学で、この世の物質を「物質」と書いたが、物の質、質を量に変換できるでしょうか? 現代物理学は、観測者によって、見られる世界が異なってくるなどといっています。しかし、素粒子の性質を量に変える超ひも理論の「ひも」にも性質があります。この世の性質のあるものを完全に量に変えてしまうことは不可能でしょう。あえていえば、この世の物質の究極は神? 否、永遠に小さい物質であるという理論が発見、構築されるでしょう。そうです。究極の物質も無限に小さくなっていくでしょう。著者プロフィール高見 昌宏(たかみ まさひろ)昭和40年9月 京都市にて出生昭和50年ごろ人相の、昭和55年ごろ曲相の研究を始める昭和58年9月 鈴鹿工業高等専門学校中退現在、喫茶店の店員『受感論と占い新世紀』(文芸社)平成13年5月出版