歴史のことば劇場83 




江戸時代の学習は、素読(そどく)に始まり、

まず、師匠が『孝経』や『大学』の一字一句を字突(じつき)で指しながら訓読し、それを子供が復唱する付読(つけよみ)が行われます。

それを家に帰って何度も復習し、次回は前の箇所を正確に暗唱できるかどうかの点検に始まります。

わずかでも間違えれば次に進むことは許されず、一日百字、これを百回もくり返せば、誰でも一年半で四書( ししょ)を読めるようになり(貝原益軒)、

ある一節を聞けば次の節が流れるように口に出るようになる。 

 素読とは、孔孟の言葉を身体にそのまま埋め込む「テキストの身体化」であり、これにより古典の文体にもとづき思考し、行動する、共通の型や慣習がつくられた(辻本雅史)。

次の段階の「講義」の場も、個人的主張の場ではなく、注釈書にもとづく講釈が中心で、

講義の次は「会読(かいどく)」といって、共同で読書し、解釈や議論を自由に交わす共同学習の段階へと進む。

この会読や輪講は、全国の私塾や藩校で行われ、

伊藤仁斎や荻生徂徠、国学や蘭学が出現する教育的な基盤となり、

有名な解体新書の共訳も、吉田松陰による教育も、

いわば会読の輝かしい成果(前田勉)でした。 

 西欧でもJ・S・ミル『自伝』(1873)によれば、

経済学の学習方法に関して、

彼の父ジェームズは、わずか10歳のミルに、毎日ある一定の理論的思考過程を話して聞かせ、翌日に同じことを文章で再現することを求めた。

これを十分にものにしたと父が判断するまで、文章による再現は繰り返されなければならない。

ミルの友人たちも同様な訓練を行い、

毎朝仲間の一人のところに集まり、理論的な議論のために一時間を費やし、その時彼らが基礎にしていたのは、老ミルの『経済学要綱』でした。 

 シュンペーターによれば「実際この道が正しい道だった」。

「メンバーは、基本的な失策を不可能にする平均的な水準に立脚し…時代の大きな問題を明確にしっかりと直視した」。

近頃の教科書は、多くの社会問題を内容豊富に概括するが、それでは基礎をマスターできず、本質的な理論的見解が血となり肉となることはない。

これを飛び越して現実の経済政策問題へと向かえば、永続的なものは入手できない。 

 そうではなく、先行者の論述についていき、彼といわば一緒に議論し、全ての論拠をじっくり検討し、思考過程や結論に際して用いた手段に絶えず注意を払えば、理論的に正しく考えることが身につく、と。

その際、

用語の使用法は、可能な限り過去の伝統と調和させねばならない。先行者たちの経験が我々に教える間接的な示唆や、微妙な隠された警告に気づきやすくするためである(A・マーシャル)。

 要するに、

江戸期の偉才たちも、近代経済学を形成した人々も、学習方法には共通性がありました。

古典的テクストの全ての思考過程に気を配り、自分の力でそれを再構成し、また皆で再確認すること。

それにより、先行者と同様に時代の制約や困難を乗り越え、新しい境地を共に切りひらく「永続する力」を得たのであり、

これらは教育の本来あるべき姿を我々に指し示しているのではないでしょうか。