dogmanXの小説
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りふれいん-5-

「天狗ー?」
健太が高い声を上げ露骨に驚いて見せた。
「馬っ鹿じゃねえの」
健太の声に呼応して何人かが苦笑した。いや、嘲笑と言う方が正確だった。ゲームが一段落し、みんなが世間話を始めたところだった。僕が由紀に小山の神社に連れて行かれたこと、参道の入り口で逃げて来たことを話したのだ。
「由紀ちゃんが『天狗が出る』なんて、何かあったのかな?」
真人が言うと別の何人かが「真人は由紀ちゃんが好きだからなあ」とからかい、真人が頬を紅く染めながら「違うよ!」と言い返した。が、真人へのからかいは簡単には終わらない。真人が怒ってその内の一人に掴みかかった。
「さあ、みんなおやつにしましょ」
そこへ淳司の母親が大き目の盆にケーキと紅茶を乗せてやってきた。お陰で真人達のいさかいは中断となった。
「でも、まさか本当に天狗が出るなんてこと無いと思うけど、由紀ちゃん一人で大丈夫かな?あの辺りって人通りが少ないじゃん」
「そうだな。それにその髭おじって怪しいんだろ。何かの罠だったりして」
「まさか」と僕は否定してみたものの、すぐ不安になった。まさか由紀が髭おじにさらわれるということもあるまい、第一、髭おじがさらっても、連れて行くとすればすぐ近所の家なのだ。しかし、考えれば考えるほど不安は募った。だいたい今日の由紀はいつもの由紀と違っていた。テレビドラマやマンガではいつもと違うことがあると、必ず事件が起きる。現実の世の中にはそうそうドラマは転がっていないだろう。が、それでも嫌な予感がした。
「おれさ、ちょっと行ってみるよ」
僕はそう言うと立ち上がった。いつもは囃し立てる悪友達が真面目な顔で頷いた。皆、僕と同様の不安に駆られているようだった。
 慌てて階段を降りると、ちょうど淳司の母が登ろうとしているところだった。
「あら!卓ちゃん。もう帰るの?いま、果物を持って行こうと思ったのに」
僕は淳司の母に頭を下げ、靴を履いた。
「何か急用が出来たのね。じゃ、これ持ってって。二つ上げる。両方のポッケに入れてね。いつも一緒の妹さんにもあげて」
淳司の母はそう言って僕のポケットに一本づつバナナを押し込んでくれた。
「気を付けてね」
そう言う彼女に、僕はもう一度頭を下げ淳司の家を飛び出した。
 淳司の家から全力疾走してきた僕は、そのままの勢いで山門を潜り抜けた。淳司の家に向う時、僕を睨み付けているように見えた仁王が、何故か笑っているように見えた。僕は仁王に馬鹿にされたいるような気がしたが、そのまま山道を駆け上がった。
 神社に着いた時にはひどく息切れがした。自然に肩に力が入り、上下する。それを必死で押さえながら僕は由紀の姿を探した。しかし見付からない。まさか、とは思うが、日頃目にする髭おじのそのあだ名のごとく髭モジャの異様な風貌を思い浮かべると、また由紀が心配になった。その時突然、
「ほら、こっちこっち」
という由紀の声がした。境内を見下ろすように建つ古い社の裏手から顔が半分だけ覗いた。
「こっちに隠れるのよ」
由紀が社の裏手から手招きした。
「早くしなさい」
と命令口調で言われた僕は「何で隠れるんだよ?」と食って掛かった。
「馬鹿ねえ。私たちがいたら天狗が出て来にくいでしょ」
もっともらしいようならしくないような理屈だったが取りあえず僕は「ああそっか」と答えて由紀の後に従った。
 虫食いだらけ柱の陰に、由紀と二人で隠れることになった僕は率直な疑問を口にした。
「本当に天狗なんて来るの?」
「来るわ」
「だって由紀、かれこれ二時間くらい待ってたんでしょ?」
「ふん、天狗は薄暗くなってから出てくるのよ」
「えー?じゃ、まだ当分じゃないか!」
「そんなこと無いわよ。もうじきよ」
まるで由紀がそう言うのを合図にしたように、辺りが薄暗くなり始めた。秋も深まると、一度薄暗くなり始めてから暗闇になるのは早い。それは空に毛布を被せたように一度に暗くなるのだ。僕は背中に寒いものを感じた。本当に天狗が現れる予感がした。天狗ならずともムジナとか妖怪の類が現れそうだった。さっきくぐった山門の仁王が歩き出してきても不思議が無いな、などと余計な想像をしたお陰で、すっかり肝が冷えてしまった。
 僕は、由紀の後ろから、すっかり薄暗くなった境内の真ん中を走る石畳の辺りをじっと見詰めていた。すると、何かが動いた気がした。僕が目を凝らすより早く、由紀が声を上げた。
「天狗だわ」
驚いたことに本当に天狗が出て来た。僕は心臓がドキドキと音が聞こえるほどに打つのを感じた。しかしよく見るとそれは明らかに人間が天狗の面を被っているだけだった。
「行ってみよ」
と由紀が言った。僕が「何しに?」と問う前に
「正体を暴くのよ」
と言った。僕は「ええー」と声を上げて否定した。きっと青年団の誰かに決まってる。秋祭りの練習に来たのに違い無い。そんなのに一々構っていられない。それに、人間と分かっても面を被っているだけで気味が悪い。
 そんな風に躊躇している僕を置いて、由紀は勝手に駆け出した。あっという間に天狗の前に由紀、足を広げ仁王立ちした。僕は相変わらず社の裏手でその様を眺めていた。由紀が何か言ったのが聞こえたが、よく分からなかった。すると、由紀の言葉に呼応したように天狗が面に手を掛けた。そしてあっさりと面を脱いでしまったのだ。
 髭おじだった。
「幾ら何でも仕掛けが単純過ぎだよ」
と由紀が笑いながら言った。髭おじは「あん?ああごめん」と言いながら頭を掻いていた。僕は社の裏手から歩き出し、二人のいる境内の真中まで行った。「ほら見ろ!天狗なんている訳無いじゃないか。髭じいだ」と言おうと思って由紀を見ると、由紀は顔をきらきらさせて髭じいを見詰めていた。
「あー面白かった」
なんだ?と僕は思った。初めから由紀はそれが髭じいと分かっていたらしい。一瞬でも本気で怖がっていたのは僕だけだったらしい。
「次はもう少しましな変装してきてよ」
由紀はそう言ってから僕に同意を求めるように目配せしてきた。僕は、自分だけが怖がっていたことを誤魔化す為もあって、首を何度か縦に振った。

りふれいん-4-

 今の記憶を大切にしようなどという考えは、未来が残り少ない人間の考えることだ。それは老人や、あるいは不治の病を患い短い余命を宣告された病人に違い無い。途方も無い未来、どころか使い切れぬ時間を毎日毎日持て余している僕にしてみれば、由紀の考えは理解出来なかったのだ。でも、後から考えるとこの頃の由紀は只ならぬ不安に苛まれていたのかもしれない。今の何気ない日常が、あっという間に消え去ってしまうという不安に。いや、由紀の散策癖は今に始まったことじゃない。僕達二人だけであちこち歩きまわれるようになった年頃にはもう毎日の学校帰りに僕を連れ回していた。つまり由紀は、僕の知らないところでいつも不安がって居たのかもしれない。父と母と僕らの四人の生活がいつか嘘のように胡散霧散してしまうということを。
「でもさ、今日はさ、特別なんだよ。淳司がさ、新しいゲームソフトを買って貰ったんだ。TVで宣伝してる奴。凄く面白いんだって。ほら、うちお金ないからゲーム機買ってもらえないだろ。だからさ、こういう機会に淳司の家でやりたいんだよなー」
由紀の顔が少し悲しそうに歪んだように見えた。僕がそう思った次の瞬間由紀が言った。
「分かった。いいわ、淳司の家に行って」
普段は僕が折れるまで自分の主張を通す由紀が、何故か今日は自分から折れた。僕は内心首を傾げた。特別な何かがあるのだろうか?という疑問が湧いてきた。が、次に僕の頭に浮かんできたのは淳司のゲームのことだった。もう卓巳の頭の中はゲームのことで一杯になってしまった。
「じゃあね、おれ淳司の家に行く」
僕はそう言い残して駆け出した。背中に由紀の視線を感じたが、敢えて無視した。山門をくぐる時、仁王が目の端に入った。何か仁王が自分を怒って睨み付けている感じがしたが心の中で目を瞑って無視した。由紀の気が変わる前に、由紀の前から姿を消そうと思ったから、僕は全力で駆け出した。このまま淳司の家まで全力疾走で行こうと決めた。しかし、百メートルくらい走ったところで、少し気になったので振り返ってみた。走りながら振り返ったそこに、こっちを向いて立っている由紀が見えた。いつもの由紀なら全力で僕を追ってきて、自分の探検に無理矢理付き合わせようとするのだ。それが今日は何故か追って来ない。それに、何故か由紀の立ち姿が悲しげに見えた。僕は走る速度を落とし、やがて立ち止まって由紀を見た。すると由紀が何か叫んだように見えた。しかし、道路と荒地の間を走る線路に電車が走ってきた。その音で掻き消され、まるで聞こえなかったし、この距離ではもともと聞こえなかったかもしれない。僕は少し迷ったが、今日が特別な日である根拠が無かった。きっと由紀は何か別のことで気を落としているだけだろう、くらいに思った。僅かに残った後ろ髪が引かれる思いを振り切るように僕は走った。走って走って気が付くと淳司の家の前にいた。

 玄関に着くと靴が五つ、いや淳司のも入れて六つあった。
「あら、卓ちゃん。どうぞ上がって。まあ、今日はお友達がいっぱい」
淳司の母親が優しそうな表情でにこやかに出迎えてくれた。上品で奇麗な母親だったが、僕は苦手だった。なにか堅苦しい感じがしたし、こんな清潔そうな感じの女性が住んでる家なんて自分が上がっただけで汚してしまうような気がした。僕はそそくさと頭を下げて階段を駆け上がった。広い二階の廊下を行った一番奥の扉を開けると、淳司の部屋にみんながたむろし、わくわくした表情でディスプレイを見詰めていた。

りふれいん-3-

 由紀の話はこうだ。昨日の夕暮れ、由紀が玄関の鉢に水を汲れてると髭おやじが後ろを通った。気付いたが気付かない振りをして水を汲れていた。すると彼はこちらも振り向かず独り言のように囁いたらしい。
「明日の五時くらいに、神社に行ったらいいなあ」
由紀は自分に言っているのかそれとも本当にただの独り言か分からなかったが、なんとなく気になったので、こっそり髭おじの方を振り返ろうとすると、驚いたことに髭おじは由紀のすぐ後ろにいたのだ。
「ひいい!」
「怖がらんでもいい」
怯える由紀の頭を撫でながら髭おじが見詰めてきたと言う。由紀はその時、初めて髭おじの顔をまともに見たが、よく見ると優しそうな感じだった、と思ったという。
「明日の五時くらいに、神社に行ったらいいなあ」
とまた髭おじが言った。
「面白いことがあるかもしれんよ」
「面白いこと?」
「ああ」
「何?面白いことって?」
「ああっと。そう、て、天狗。天狗だ、天狗が出よるぞ」
「天狗ー?」
「ああ、天狗だ」
「嘘!」
「嘘じゃない。本当に天狗が出る」
「だって髭おじ最初、なんて言おうか迷ってたじゃない」
「あ!ああーん。いや、そんなこと無いぞ。初めから天狗が出る、って教えてやろうと思ってた」
「へえー、信じらんない」
「信じるものは救われる。疑う前にどうだ?明日、行ってみたら」
「まあ確かにね。そうね。じゃ、行ってみるわ。他に行くとこも無いし」
「そうそう、モノは試しだ。子供のうちに色んなことを試しとくと立派な大人になるぞー」
「髭おじに言われても信憑性無いわ!」
「ったく!可愛くねえ娘だの!」
「大きなお世話ですー」

「と、いう訳よ」説明し終わったというように由紀はそう言った。
「という訳」も何もあるものか、ただでさえアテにならない髭おじから聞いた話はもっとアテになりそうも無いものだった。こんな話を真に受けて裏山に行くというのか?こんなことなら下駄箱から全力疾走で逃げれば良かった、と僕は思った。淳司の家まで逃げおおせれば一回や二回はゲームが楽しめたかもしれない。もっとも由紀はクラスでも一番足が速い、僕より何倍も足が速いのだ。だから校門を出るか出ないかのところで容易に掴まってしまったに違い無い。仮に校門から外に出れても、悪友達も面白がって由紀に逃げた方向を教えるに決まってる。
 それでも僕は淳司の家でゲームをやるのを諦めきれなかった。話のネタがあんまり馬鹿らしかったから、余計諦め切れなくなった。そんなインチキな話に付き合わされるなんてまっぴらご免だという思いが湧いてきたのだ。
「あんな奴の言うことまともに聞くんか?」
「いいじゃない。試しに行ってみれば。他に行くとこも無いし」
「やだよ淳司の家でゲームやるんだ!」
「何がゲームよ!いい?裏山の神社に天狗が出るのよ!」
「馬鹿じゃねーの。天狗なんている訳無いだろ!髭おじの出鱈目な話だよ!」
「出鱈目かどうか行ってみなきゃ分からないわ」
「分かるよ!みんな髭おじは怪しい人だって言ってる」
「卓巳は髭おじと話したことあるの?話したことも無くて何でそう決め付けるの?」
突然の由紀の鋭い攻撃に卓巳はたじろいだ。「だって、みんなが言ってる」などと口篭もっていると
「他人の話をそんなに簡単に信じていいのかな?自分で話してみて髭おじが本当に変な人かどうか自分で判断するべきだと思うな」
と畳み掛けられた。
「私は、意外といい人かもしれないと思ったわ。そうねえ、初めてちゃんと顔を見たけど髭を剃れば案外二枚なんじゃないかしら。それに目が優しそうで悪い人には見えなかったなあ」
「じゃ、何であんな生活してんだよ」
「さあ、大人にはいろんな事情があると思うのよ」
「ふん、騙されてんだよ」
「はは、私を騙してどうすんの」
たしかにそうだと僕が思った瞬間に勝敗が決した。僕は敗北感に打ちひしがれながら由紀の後を付いて行った。
 学校のある街中から、僕らはどんどん北の方に向って歩いて行った。街並が切れ雑木林が広がり始めた先に小山があるのだ。一時間もあれば小学生でも頂上まで登っていけるその山は、昔は杉の木を植林したりしていたらしい。それを二十年位前に山を削って団地にするという計画が持ち上がり東京の不動産会社が買収した。ところがそれからしばらくしてその会社が倒産してしまい、それっきり放ったらかし。今は雑木が生い茂り放題だ。
 そんな山の東の上り口に目的の神社は立っていた。境内に到る参道の入り口は街中から走ってくる道路に面していた。まるでそこがこの小山への入り口というようだった。道路の反対側は単なる荒地だった。ここも、かつては宅地開発用に切り開かれた土地らしいが、開発計画が頓挫したまま放り出された土地だ。そして道路と荒地との間を線路が走っていた。その電車に乗っていると参道の入り口が丸見えだった。
 そんな荒れ果てた感じの参道だったが、入り口には立派な山門があり、山門の左右の室にはそれぞれ由紀や僕の三倍は背が高そうな仁王が一体ずつ入っていた。由紀と卓巳はその山門の前に着いたのだ。仁王は恐ろしい顔をしたまま、二人を見下ろしていた。作り物とは分かっていても僕は肝が縮むのを感じた。 
「なんで由紀はこんなところに行きたがるんだよ」
僕は心の中の疑問を口に出してみた。
「ゲームとかやってた方が楽しいじゃないか」
「ゲーム?あんた知らないの?一日十五分以上ゲームやるとゲーム脳になって将来犯罪者になっちゃうんだよ」
「何オーバーなこと言ってんだよ。そんなら日本中の子供がみんな犯罪者だよ」
「だから世の中変な人が多くなっちゃじゃない。卓巳もゲームばっかやってると変な大人になるぞ」
いつもこうだ。僕が由紀に論争を挑んで勝った試しが無い。もっとも由紀はクラスでも一番元気が良いし勉強も出来るし頭もいい、僕はまあ普通といった所だからそもそも勝てる筈が無いのかもしれない。僕は溜息を付いた。
 由紀は、この街に住んでいたことをずっと忘れたくないから忘れないようにこの街を探って歩くんだって言うけれど、そんなずっと先の将来の為に今、苦行のようなことをする必要があるのだろうか、と僕は思った。今、楽しく生きる方がいい。その方がいい思い出にもなるじゃないかと。そして何よりその当時の僕は、ずっと先のことなんて考えることが出来なかった。毎日がとても長くて嫌な授業はなかなか終わらない、お気に入りのアニメの放送日なんていつまで待ってもやってこないのだ。僕は、この退屈な毎日が永遠に続くものと思っていたのだ。

りふれいん-2-

 悪友達に囃し立てられながら僕らは校門を出た。由紀は僕を逃がさぬよう僕の腕をガッチリ握っていた。僕がまだ諦めきれずに逃げる隙を狙っているのを感じ取っているらしい。
「イタた。痛いよ」
僕は悲鳴を上げた。広い歩道を僕らは腕を絡めるようにして歩き出した。どうせまた街のあちらこちらを歩き回るだけに違い無い。由紀は、街の北側にある裏山とか、田んぼの東側を流れる川とか、合併して廃校になった古い小学校の跡地とか、そんなところを毎日毎日散策して歩く。「探検よ」と由紀は言うが、もうとっくに街中探検し終わってる、毎日のことだがそう僕は心の中でぼやくのだった。
 もっとも僕がそれらの全てを嫌だという思っている訳じゃない。楽しいことも沢山あるのだ。夏はカブト虫やクワガタを取りに行ったり、秋は街の北側にある小山に登り峰を彩る紅葉を見る、冬は雪が降った後、山の斜面に大き目のビニール袋を持っていってソリをする。春は晴れた日に小山の南西斜面の草地で昼寝をするのが気持ちいい。ただ、毎日のように付き合わされるのには閉口した。お陰で僕らは、今や街の隅々まで自分の家の中と同じくらいによく知っていたのだ。
 一度由紀に、何故そんなに毎日街中を歩くのか?と訊ねたことがあった。すると由紀は
「勿体ないんだもの」
と答えた。僕には分からなかった。僕はむしろゲームをしたり、街中のゲームセンターをうろつく時間がなくなる方が勿体無いんじゃないかって思った。
「小学校の時、この街に住んでいたんだってずっと憶えていたいの。だから、しっかり憶えていられるように、ずっと幾つになっても憶えていられるように何度も見ているの。歳を取った時この街を忘れてしまったら寂しいでしょ。いつまでも今のことを憶えていたいのよ」
僕には由紀が何を言っているのか理解出来なかった。「へえ」と相槌を打ってみたものの、まるで明日にも死ぬ年寄りのようなことを言う由紀が理解出来なかった。念のため僕は由紀の顔を覗いてみた。しかし特に昨日とは変わらない気がする。一昨日とも、多分半年前とも、去年とも違わないように見えた。違わず健康的に見えるから、きっと不治の病で死ぬなんていうテレビドラマみたいなことは無いだろうと思った。でも、変わらぬ毎日の幸福を気付かずにいたのは僕の方だったのだ。明日しか見ていなかった幼かった僕には、由紀の気持ちが分からなくて当然だったのかもしれない。
 その日、小学校の校門から出てから僕ら二人が向ったのは家と反対の方向だった。いつものことだが由紀が僕の腕を握って引き摺るように歩いた。僕は初めどこに行くつもりなのか訊いてみようという考えが浮かんだが、どうせまた大したことの無い所、街のはずれの何の面白みも無い所へ行くんだろうと思い、訊ねるのをやめた。今、歩いてる方向からすると街の北はずれにある裏山に向っているに違い無い。山道でも登るのだろう、と僕は推察した。そんな僕の心中を察したかのように由紀が口を開いた。
「今日は、裏山の神社に行くのよ」
「裏山?何しに?」
 僕にすればほぼ予想通りの目的地だった。まあ山のてっぺんまで登ることを考えれば、中腹にある神社までなら楽なものだと思った。ただ、あんまり予想通りだっただけにがっかりもした。やっぱり面白くなさそうだ。まったく由紀の奴は、よく飽きないものだと僕は半ば呆れていた。同級生たちは快適な部屋でゲームを楽しんでいるというのに。街中のゲームセンターにでも行くと言うならともかく、裏山とか街の南を流れる川沿いとか、そんな辺鄙なところばかり行きたがる。気候の暖かな頃ならそれでも良かったが、もう秋も終わりに近付いている。そろそろ風の中に冬の寒さが混じり始めたこの時期に、神社までとはいえ山登りは流石に勘弁してもらいたいと思った。
「えー?やだよう裏山なんてー」
「なんで?」
「だって暗いし陰気だし、昼間でもお化けが出そうじゃない」
「ふふふ、本当に出るのよ。それが」
 由紀が悪戯っぽく笑った。
「出るんだなー。これが本当に」
「出るって何が?まさかお化け?」
「馬鹿ね!お化けなんて出る訳無いでしょ」
「じゃ、何が出るの?」
「お化けよりもう少し現実的なものよ。天狗!」
「天狗ー?」
天狗がお化けより現実的だという理屈がよく分からなかった。
そう思うと僕はまた由紀に付いていくのが億劫になった。億劫になったというより、やっぱり悪友達の元に行きたくなった。今日は友達の一人、淳司の家で新しいゲームをやる計画だったのだ。淳司はこの間の日曜日、親に新しいゲームを買ってもらった。「それがすっごいんだぜ」淳司が自慢下にその話を披露すると、みんな羨ましがった。そこで放課後、みんなで淳司の家に行き、存分に楽しもうという計画が立案された。僕もその仲間の一人だった。僕はもう授業が終わるのが待ちきれないほど、それを楽しみにしていたのだ。その計画が由紀のお陰で無しになったのだ。その理由が天狗とは。僕は急に腹立たしくなってきた。
「天狗なんている訳無いじゃん」
「それがいるんだって。髭おじが言ってたのよ」
「髭おじ?」
髭おじとは近所の得体の知れないオッサンだ。顔中髭だらけの汚らしい中年男。働いているのかいないのか、いるとしてもどんな仕事をしてるのか近所の誰も知らなかった。分かっているのは怪しいということだけだった。だから近所の誰も彼に構わない。いつもは家の中に引っ込んでいるが、たまに天気がいいと、今時珍しい着流しで散歩している。角の家の婆さんは「ありゃ、作家くずれかね」と馬鹿にしていた。そんな髭おじから由紀は天狗の話を聞いたのだという。

りふれいん-1-

◇記憶◇
「たくみー!どこー?」といつものように由紀が僕を呼ぶ声がした。
 どうして小学校の天井はこんなに声がこだまするのだろう?不思議というより迷惑に感じながら僕は由紀の声を聞いていた。コンクリートを打ち放っただけの壁や天井は灰色で、木造であれば天板に当たる部分はコンクリートに混ぜた玉石まで露出している。それらはの一種の造形美を表しているらしいのだ。この小学校の卒業生にあたる有名建築家の設計だというが、その頃の僕はまるでこだまを増幅する為に作られた洞窟のような印象しか受けなかった。
「たくみー!うん!もう!どこ隠れたのよー!」
由紀の甲高い声が分厚いコンクリートの洞窟にこだました。由紀の声はとてもよく響く声だった。高音なのにとても厚みがあるのだ。それは彼女の自信に満ちた姿とよくマッチした。その声は洞窟の天井や壁にぶつかり螺旋を描いて僕を追い掛けてくるようだった。。
 その頃の僕は毎日、由紀から逃れるのに必死だった。だから由紀の声が聞こえると慌てて身を隠したものだ。由紀は、僕を自分の自由にしようとしていたのだ。由紀の女の友達はみな毎日のように塾通いしていたから、放課後、彼女は一人になってしまう。その意味では僕も塾通いはしていなかったし、僕の男の友達も皆塾通いをしていたので、僕も一人だった。でも僕は僕なりにやりたいことがあったのだ。例えば街場のゲームセンターに行ったり――お金が無かったから、人がやっているのを眺めているだけだったが、それでも楽しかった。ところが由紀はそんな僕を許してくれないとでも言うように、自分のしもべのごとく連れ回した。何をするという訳でもなく、ただこの街の中を散策するだけのことにだ。
 これが憧れの女の子であれば僕は嬉しかったに違い無い。しかし由紀は真っ黒に日焼けして男の子みたいだったし、何より僕の妹だったのだ。同級生だったが由紀と僕は兄妹だった。
「早く出てきなさいー」
玄関にいた僕は、下駄箱の陰に身体を隠した。あんなに高いと思っていた下駄箱が、いつの間にか自分の背丈と同じになっていたことに気付いた僕は、慌てて身を屈めた。すると、一緒にいた悪友達が一斉にニヤニヤ笑いを浮かべ始めたのだ。
「卓巳くん、返事してやった方が良いんじゃないの?」
と悪友達の一人がにやけながらお節介を言った。しかし彼らがそう言って愉しんでいるだけなのを、僕はよく知っていた。だから右手を左右に振って拒否した。しかしそんな遣り取りをしている様子が廊下の向うから見えたらしい。由紀らしい足音がこっちに近付いて来た。
「ナオ!そこに居るんでしょ!」
詰問するような由紀の声が間近でした。しかし僕は諦めず、一層背を丸めて下駄箱の陰に隠れた。僕は、どうしても今日だけは由紀から逃れたかったのだ。
 今日は淳司の家でみんなでゲームをする約束をしたのだ。そのゲームというのも、今テレビでコマーシャルをやっている新製品で、すっごく人気があって予約しても三ヶ月は手元に届かないというシロモノだ。それを発売当日、淳司は手に入れた。正確には父親が仕事のコネを使って買ってくれたらしい。そんな貴重なゲームを淳司はやらせてくれるという。僕はこんな良い友達を持って幸せだと思い、大袈裟にも神に感謝した。友達もみな塾をさぼって淳司の家に行くことになった。僕は今日一日、ゲームをする様を想像しただけでわくわくし、ぼーっとして過ごした。気付くと全ての授業が終わっていた。もっとも小学校の授業のことだから一日くらい聞いていなくても大したことはない。それよりぼーっとしていたお陰で、もう淳司の家に行けるのだと小躍りしていたのだ。
 それが由紀に捕まってしまうと淳司の家に行けなくなってしまう。だから今日だけは由紀に捕まる訳にはいかなかった。
 その様を見て、また悪友達がにやにや笑っている。まったく友達甲斐の無い連中だ。そんなにやけた顔をされたら由紀が気付いてしまうじゃないか、と僕は腹立たしく思った。彼らは僕が由紀に見付かる様を見て愉しんでいるのだ。僕は心の中で舌打ちしながら、人差し指を唇の前に立てて「しーっ!」と悪友達をけん制した。
「早く出てきなさい!」
由紀が怒ったような声を出した。すっかり由紀に見付かってしまったらしい。由紀が歩く方向とは逆に動いて上手く下駄箱の陰に隠れていたつもりだったのに、由紀の方が一枚上手でいつの間にか僕の後ろから近付いていたのだ。僕が「しまった」と思った瞬間には、由紀に首根っこを摘まれていた。
「早く行くよ!」
そう言うと由紀は、まるで泥棒猫を摘み出すように僕を引き摺って行った。
 幾ら兄妹とはいえ、こう年がら年中一緒にいる必要は無いではないか、そう僕は思った。僕は男の友達とゲームをして遊ぶ方がずっと楽しい年頃なのだ。由紀だって何か別の愉しみ方を見つければいい、僕は心の中でそう思ったが強引な由紀には逆らえなかった。僕は恨めしそうに、小学校の玄関から 僕らを見送る友達を見た。しかし、悪友達は薄情な奴らばかりで
「いやー、ご両人!熱いねえ!」
などと囃したてながら由紀と僕の姿を見送るのだった。僕は半ば諦め肩を落として由紀の言うなりに付いて行った。
 兄妹なのに「ご両人」も無いものだ、と僕は思った。が、由紀と僕は二人とも親達の連れ子だったのだ。小学校に上がるのと同時に、由紀の母と僕の父が結婚したのだ。だから由紀と僕は小学校に上がった年に兄妹となった。つまり、二人は血が繋がっていなかった。だから、兄妹で同級生だったが双子ではない。ちなみに僕の方がたった一ヶ月誕生日が早かったので、兄ということになった。
 そういうことを悪友達はみんな知っていた。そして、小学校も六年生といえば、大人びた関心を持つようになる。二人を見る同級生たちは、由紀と僕の兄妹だが血の繋がりが無いというところに大人の際どさを感じ取っていたらしい。だから僕が由紀に連れ去られるたびに囃し立てるのだった。
 しかし僕はといえば由紀に異性を感じたことなど無かった。まるで本当の双子の妹、男の子のように真っ黒で同い年とはいえ兄の僕を見下したように呼び捨てにする生意気な妹だと思っていた。六年間、寝起きを共にしただけでなく、風呂だってずっと一緒に入っているのだ。けれど僕は皆にからかわれるのが恥かしくて仕方なかった。そろそろ僕も回りの女の子の目が気になる年頃になっていたのだ。『由紀のお陰で他の女の子に相手にして貰えないよ』などというお門違いの不満も持っていた。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-28-

 犬川が待ち望んだシュチエーションは程無く到来した。味方が攻め込んでいた星雲ゴール前からクリアされたボールは、星雲の中盤を経由し鋭いロングボールがこちらに向って飛んできた。すかさず室井が指示を出した。一斉に星雲のデブを取り囲む。フォワードのコンビを組むチビが
「ミナトくん!囲まれた!気を付けて!」
などと叫んでいる。その時、犬川はそのデブがミナトという名前だと知った。
『ふふ、せいぜい気を付けるんだな。ミナトくん』
一人呟き顔を上げると室井と目が合った。室井は無言で抗議するように厳しい視線を向けていた。
『何だってんだ。あのオカマ野郎!すぐに分かるさ、監督におべっか使ってキャプテンの地位に就いた貴様と俺様の才能の差がな!』
犬川は室井を無視するように横を向いた。
『このデブの押さえどころは完全に分かった。もう俺一人で十分だ。俺はな、一対一じゃあ高校ナンバーワン!いや、近い将来、日本のナンバーワン!いやアジア、いいや世界ナンバーワンになるんだ!』
ボールが迫ってきた。犬川を中心とする3バックと室井を中心としたダブルボランチは、星雲の太ったフォワードを前後から挟み込み、ボールの近付くに連れ、徐々に包囲を狭めて行った。ふと犬川が室井を見ると、室井が首を左右に振った。
『まだだ』
という合図だった。
『糞!室井の野郎、その人の心の中を見透かしたような態度はなんだ!お前の言うことなんか聞いてやるものかー!』
その時3バックが作っていた直線のラインが崩れた。真中にいた犬川が一人飛び出したのだ。室井が顔色を変え、両手を振って犬川を制しようとしたが血気にはやった犬川は止まらなかった。むしろ獲物を見つけたハイエナのように、口元を歪めた微笑みを浮かべていた。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-27-

 途中交代で入ってきた星雲高校の太ったフォワードが只者ではないことを、犬川は身に沁みて分かっていた。そのデブが交代で入ってきた際、その身のこなしからズブの素人であることは容易に推察できた。犬川は軍用犬の如きデフェンダーの本能から、執拗に彼を付け回した。ハイエナもどきの執拗さでである。こちらの陣地に、殊に大本営といえるペナルティエリア内に不用意に踏み込むと大変なことになる、という警告をする為である。更に犬川は、強者が弱者に対して行う一種のマウンティング行動を行った。強いサルが弱い猿を屈服させ、尻の上に立ち上がるあの行動である。すなわち犬川は星雲のデブフォワードに、玄人の恐ろしさを味わわせてやろうとチョッカイを出したのだ。結果は、自分も含めた3バックの三人が一からげに吹き飛ばされたのだ。
 いかなる強力フォワードをも押さえ付けてきた自慢の3バックがいとも簡単に吹き飛ばされたのは、犬川ばかりでなく、強豪国立浜川にとって大変なショックだった。今年初め、つまり二年の末に行われた新人戦で、鹿児島工業の大山、平久保の2トップを相手にしても怯まなかったのだ。大山、平久保の2トップは近い将来、日本代表担う逸材である。一メートル九〇を超える長身でありながらテクニシャンの平久保、小兵ながら瞬間移動するほどのスピードを誇る大山は、ともに十代のレベルではアジア最高の、いや世界でも有数のゴールマシンといえる。その二人を国立浜川の3バックは二点に押さえたのだ。それは国立浜川のデフェンスラインが、少なくも国内最強であることを意味するのだ。
 国内最強である筈の自分達がいとも簡単に吹き飛ばされたのだ。それもこんな只のデブに。ポジショニングを見る限り、このデブはやはりズブの素人だ、と犬川は思った。こんな素人に吹き飛ばされたことも腹立たしかったが、それ以上に犬川は、同じチーム内でキャプテンの地位を争う室井の指揮下に入ったことが悔しかった。
『守備の要はセンターバックの俺の筈だと言うのに、なぜ室井にコントロールさせる?室井はいつも自分ばかりが正しくて、悪いことは全部周りだと主張しているような奴だ。なんであんな奴を監督は評価するんだ!』
犬川は思わず歯軋りした。それは自分でも驚くほど大きな音がして、ふと隣を見ると3バックを組む木下が怯えたような顔でこちらを見詰めていた。
『守備で一番重要な一対一は俺が一番強い。更にラインコントロールだって俺は天才だ。先週のサンデーサッカー誌にだってそう書いてあった。なのになんで監督は俺じゃなくて室井をキャプテンにする?日本代表だってセンターバックがキャプテンじゃないか』
犬川はベンチの国松監督を睨み付けたが、国松はまるで犬川を無視するようにフィールドの一点を見詰め、時折大声で指示を出していた。その一点にいるのは他でもない室井であった。
「ふん!もう監督なんてどうでもいいもーん。俺は俺のやり方でやらせて貰う。取り合えずあのデブを押さえりゃあいいんだろ。最初の時は奴を見くびり過ぎて不覚をとったが、さっきの五人でワッショイで押さえどころが完璧に分かった。もう俺一人で十分だ」
犬川は、熱心にサインを交わす国松監督と室井キャプテンを交互に見詰めながら、一人小さくほくそえんだ。
『あんた達なんてもう、勝手に乳繰り合ってなさい!』
犬川は、嫉妬深いオカマのような口調で呟いた。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-26-

 しかし百戦錬磨の国立浜川守備陣は安易に飛び掛ったりはしない。勇み足こそ獲物を取り逃がす最大の原因であることを知り尽くしているのだ。彼らは指揮官・室井の指示に従い、慎重にフォワードを囲み始めた。それは真綿で包めるような繊細な動きで、その先に真綿で首を締めるような地獄を用意していようとは、見るものの誰も気付かなかった。
 ボールが遂に市太郎の頭に接触しようとしていた。というよりサッカーに関する技術をまるで持ち合わせていない市太郎だから、正しくは顔面にぶち当たろうとしていた、と言った方が正しい。味方からのロングボールが正確だったこともあるが、自分の周りにいる国立浜川の守備陣に押され、いつの間にかボールの真下に連れて来られたような気もした。いずれにせよ顔面のすぐ間近にボールはあった。市太郎は歯を食い縛った。顔のどこに当てようが中山のいる方向、右斜め前にボールを落とそうと考えていた。しかしその時、異様な感触に全身が包まれたのだ。それは生暖かい湯に入ったかのような一種異様な暖かさだった。更に神経をその感覚に向けると、強い触感もあった。ヌルヌルとした何物かが全身を覆い尽くしているようだ。まるで地獄から這い出た魔物が全身にまとわり付いている様である。慌てた市太郎は自分の身にまとわり付く異様な物を見極めようと俯いた。俯いた先には男達の顔が並んでいた。前に二つ、後ろに三つ。国立浜川のダブルボランチ&3バックらだった。全員が身体をべったりと市太郎の身体にくっ付けていたのだ。生暖かさは彼らの体温、そしてヌルヌルは、彼らの全身から噴出す汗だった。更に、汗臭い臭いも漂ってきた。
「ひいいーっ」
市太郎が悲鳴を上げた瞬間、ボールは市太郎の耳元をかすめて行った。そのまま国立浜川ゴールまで点々と転がって行ったボールをキーパーが楽々と拾い上げた。
「ミナトー!どうした!」
味方から声が掛かり市太郎は我に帰った。国立浜川のダブルボランチと3バックの5人は既に市太郎の周りから去っていた。
 去りながら室井は誰にもそれと分からないほど小さく微笑んだ。マシンのごとく冷静な彼にとって微笑むこと自体珍しかった。更に驚いたことに、彼は自賛気味に呟いたのだ。
『ふふふ、早く鹿工の大山、平久保のツートップにも味わって貰いたいものだ』
その小さな微笑に気付いたダブルボランチの相方、金村は小さく震えた。

「五人がかりじゃね、流石の湊君でも突破できないか」
中山に慰められ、市太郎は首を振った。
「違うんだ。あいつらが気持ち悪いことを・・・」
言いながら市太郎は、それは単なる言い訳であることに気が付いた。
 ふと市太郎は相撲部屋時代のことを思い出した。皆、汗っかきで体温が高かった。夏ともなれば互いの汗で手が滑って稽古にならないほどだった。先輩力士の体臭の強さと言ったら、組み合った瞬間、意識が飛んでしまいそうになるほどだった。しかし、相撲の世界でそれは常識。臭いから負けていいという理由にはならないのだ。
「あれに比べれば大したことではない」
と市太郎は気を取り直した。それに気付いた市太郎は、思わず四股を踏んだ。思いがけぬところで相撲部屋のあの感覚を思い出したのだ。
『そうだ。肝に力を入れて息を吐きながら、こうだ!』
目の前の空に向って、ぶちかましを一閃。それを見ていた国立浜川の守備陣が静まり返った。
『ふん!ふん!次は全員、弾き飛ばしてやる!』
市太郎は国立浜川守備陣を睨み付けながらにんまりと微笑んだ。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-25-

『交代で出てきた星雲のフォワードが只者ではないのはたしかだ。少なくともパワーでは、全国一の屈強さを誇る我が3バックを子ども扱いした。しかし、かといってあれを使わずとも十分星雲には勝てる。国松監督は何を考えているのか?』
室井の疑問はもっともだった。これは公式戦である。まして高校選手権の地区予選の地区予選。強豪国立浜川にしてみれば、こんなところで苦労せずにあっさりと避けたいところなのだ。しかし国松にそんな理屈は通用しない。国松にとって一戦一戦が真剣勝負なのだ。いや、ワンプレーワンプレーが真剣勝負。大会全体を見渡すなど論外なのだ。それどころか今、国松の関心は敵のフォワード湊市太郎に向いていた。国松があれをやるよう指示したのは、市太郎の実力を試してみたくなったからなのだ。こういう考え方をしてる限りは、もしかしたら三十年前のワールドカップアイルランド大会アジア一次予選パラフスタン戦のように在り得ぬ敗北を喫してしまうかもしれないなー、と心の中で少し思うところはあったが、国松は我慢できなかった。
 ”一人攻め達磨”の異名を取った国松だったが高校サッカーの監督になってからはすっかり守備の鬼になっていた。三年間無失点、百試合連続無失点など守備の記録を続々と塗り替えてきたのだ。その国松が今年になって考え出した究極の守備術が”五人でワッショイ”である。将来自分の教え子達が日本代表の中核を担った時、海外の大型ストライカーを封じる為の秘策でもある。名前の通り、五人でやるもので、五人とは3バックの三人とダブルボランチの二人である。まず3バックの三人がゴールに突進する敵ストライカーを通せんぼする。前に進めなくなりながらも、パワーで押し切ろうとする大型ストライカーをダブルボランチの二人が後ろから羽交い絞め、いやブロック。身動きが出来なくなった敵ストライカーを押し競饅頭のように五人でギュウギュウと押し、ワッショイワッショイとペナルティエリアの外に運び出してしまう、というものだ。その間に圧死させないまでも気絶くらいさせられれば最高だ。という恐ろしい技なのだ。
 監督の考えが変わらないのを確認すると、室井は小さく右手を上げて合図した。同時に3バック、室井ともう一人のダブルボランチの五人が、何気なく市太郎の周りに集まった。ちょうどそこへ星雲の最終ラインから鮮やかなロングボールが入ってきた。市太郎は再び中山を探した。中山の位置を確認すると、ボールの落下を待った。
『いくぞ!ストライカー殺し”五人でワッショイ”』
室井を始めとする国立浜川の守備陣五人がキラリと目を輝かせた。
 戦術サッカーの忠実な体現者である室井に失敗の文字はない。名門・国立浜川のキャプテンは攻守に渡る傑出したゲームメーカーであるとともに、戦術サッカーの申し子と言えた。いかな複雑な戦術をも瞬時に理解するコンピュータのごとき頭脳。それは、時として漫画の技か?と思われるほど奇妙奇天烈な国松の発想すら受け入れ、見事に現実のプレーに再現してしまうのだ。そもそも”五人でワッショイ”などという技そのものが、ほとんど反則。良く言って現実味に欠けるものであるのは明らかなのだが、室井の超の付く戦術頭脳がそれを現実のものとした。
 室井は、彼がいつもそうするごとく、まるで精密機械でも扱うように一ミリの狂いも許さぬポジショニングとタイミングを味方に要求した。国立浜川の3バック&ダブルボランチは、サッカーど素人の市太郎になぞまったく気付かれぬまま市太郎を取り囲んだ。すっかり準備万端になったところへ星雲デフェンスラインからロングボールが舞い降りてきた
 市太郎がヘッドというより顔面全体でボールを受けようとしたその瞬間、「今だ!囲め!」という声が聞こえた。それは一軍を率いる指揮官のそれに似て、無感情にして冷徹な響きを持っていた。ボールを頭に受ける刹那、市太郎が目だけで下を向くと、眼下の男と目が合った。男の目は市太郎を静かに見据えていた。それはスポーツマンの目ではない、と市太郎は感じた。狩猟者の目だった。その瞬間、市太郎は自分が罠に掛かった獲物になったような気がした。この狩猟者は罠を掛け、じっと自分を待っていたに違い無い。そして罠に掛かった獲物を慎重に捕獲すべく体勢を整えているのだ、市太郎の本能がそう告げていた。
 司令塔と呼ぶにはあまりに現実主義者の室井は、まさにピッチの指揮官と呼ぶに相応しい。そしてチームメート達は彼の有能な部下に過ぎないのだ。3バック、ダブルボランチを構成する部下達は今、室井の指示に寸分違わぬ正確さで敵の大型フォワードを取り囲んだ。弱小チーム星雲など眼中になかったせいか、湊などという選手、誰も耳にしたことはなかった。更に彼のサッカー選手とは思えぬ太った体型に、少なからず侮ってしまったことを反省していた。しかし体型からは想像出来ぬほどにフォワードの足は速く。そして体型が連想させるとおりの尋常ならざるパワーを発揮され、思いも寄らぬゴールを許してしまったのだ。もはや失態を取り戻すには、このフォワードを叩き潰す以外にない、と誰もが思っていた。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-24-

 パラフスタン共和国は、人口一万人の小国である。前年、大国ソビエト連邦から独立したばかりだった。通常、ソ連は独立など認めないが資源も産業も無いこの地域からの税収は限りなくゼロに近い上、失業保険や年金などお金ばっかり掛かったのだ。そんな時、欧州やアメリカ、日本などの民主化運動に影響を受けた一部の若者が起こした独立運動はソビエト政府にとってみれば渡りに船だった。ソビエト政府はほんのちょっとだけ、格好付け程度に軍隊を派遣して鎮圧するふりをしてみせた後、あっさり独立を認めてしまったのだ。
 そうやって出来たパラフスタン共和国だから当然、サッカーも弱い。日本の国立競技場に来るだけで、一年分の国家予算を全て使ってしまったのだ。だからパラフスタンの政府も選手も国民も、参加することに意義がある、とだけ思っていた。しかし試合が始まってみると日本のエースと司令塔が、どうやら二日酔いらしかったのだ。おかげで日本チーム全体がちぐはぐだった。東洋のコンピュータと謳われた指令塔・田伏のラストパスは全てカシミに渡り、エース国松のキャノンシュートは日本側ベンチを直撃した。そしてそれにも増してパラフスタンのエース・カシミのプレーが神掛かっていた。蹴れば入る。国内の草サッカー以外ではノーゴールのエース・カシミがアジア新記録の一試合六得点を上げた。試合が終わってみると六対〇。パラフスタンは遂に成し遂げた国際試合初勝利に歓喜した。日本代表はというとワールドカップどころかアジア最終予選トーナメント進出も逃したのだ。
 国松はその日の屈辱を生涯忘れはしない。いや田伏を一生許してやらない、と思っていた。だから彼がチェアマンを勤めるJリーグになんて行ってやるものかと固く誓っていたのだ。
 そんな国松の心が揺れた。遂にワールドクラスのストライカーを発見した感動に国松は目の前の試合を忘れ、身体を震わせたのだ。、いや正しくはまだワールドクラスとは言えない。ポジショニングに無駄がある上、足元の技術が低い。しかしこれまで日本人が世界に撥ね付けられた最大の障壁、ワールドクラスのパワーをその選手は有り余るほど有していたのだ。国松が手塩に掛けた国立浜川のデフェンダーはアジアレベルではプロを含めてもトップクラスの筈だった。その自慢の3バックが軽々と吹き飛ばされた。それも竜巻に巻き込まれたように一瞬でだ。
『あいつは誰だ?』
執着心の強い国松の脳味噌には、日本中の選手の情報が入っていた。あるく選手名鑑を自認している。しかしその太った巨漢の高校生を国松は知らなかった。
『もっと見てみたい。底知れぬパワーの底を覗いてみたい!』
国松の執着心は押さえきれぬほどに燃え滾り、遂に国松を動かしたのだ。
 国松はベンチを立ち上がり、両手を上げて合図した。ボールをセンターサークルまで運んでいる最中だった国立浜川イレブンは、国松監督のサインに凍り付いた。
「あれをやるのか?」
国立浜川のキャプテン、ボランチの室井は小さく呟いた。
「こんなチーム相手に」
もう一度確認するように国松監督の表情を窺った。厳格な監督の表情に迷いは無かった。室井は3バックとダブルボランチの相方に目配せした。
『あれをやる』
『本当に?』
『本当だ』
五人の間に合図が交わされた。そして五人同時にゴクリと唾を呑み込んだ。
 それにしても、こんな弱小チームにあれを使うとは思わなかった。本来であれば全国大会で、強豪にいる突出したフォワード相手に使うものだ。例えば鹿児島工業の大山や平久保のような天性のストライカーを相手にすることを想定していた。
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