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サッカー小説!「相撲ストライカー」-14-

 ベンチに監督が現れ、選手が全員集合した。
「今日のメンバーを発表する。といっても十一人ぎりぎりしかいないからな。ま、ポジションを発表するから」
監督はゴールキーパーから始まりデフェンダー、ミッドフィルダー、フォワードの順番にポジションと名前、そして注意事項を一人一人に伝えた。市太郎はいつまで経っても中山の名前が出ないのに首を傾げた。何となく、このまま彼の名前は最後まで出てこないのではないかと思われたのだ。
「最後に、中山。お前のワントップだ」
静かに監督が言った。市太郎は素人だったから、中山が花形のポジションに抜擢されたと内心悦んだ。中山のたゆまぬ努力を監督は見ていたに違い無い。しかし、その後に続いた監督の言葉は市太郎を愕然とさせた。
「中山!とにかく相手のデフェンダーとぶつかれ!で、ファールされろ。ボールには一回も触らなくていい。いや、触るな。お前が触ると邪魔だからな。おーい、他の者は全員、中山目掛けて思い切りボールを蹴るんだ。まかり間違って当たり所が良ければ一点くらい入るかも知れん」
なんと中山は噛ませ犬として扱われたチームの中でも噛ませ犬の役割を負わされたらしい。市太郎は身体に震えが走るのを感じた。なんという屈辱、中山の長年の努力はどう報われるというのだ!そう考えると市太郎は体内から怒りが溢れ出し、叫び出しそうになった。
 それから監督は全員を見回し
「分かったな!」
と大声で言った。全員が「おー」と一斉にそれに答えた。市太郎は中山に声を掛けようとしたが、ベンチの屋根が邪魔をし中山の姿を見つけられなかった。そのうちグラウンドの中央に審判が現れると両チームの選手が一斉にグラウンドに向って走り出した。市太郎はその中に中山の小さな身体を見付けた。他のメンバーに遅れないよう必死で走る中山の後姿を見詰める市太郎に気付いたのか、中山は突然振り向いた。それから市太郎に合図を送るように小さく右手を上げた。
 スポーツニュース専門の深夜番組を見ていた時、サッカーはボールを使った格闘技だと表現していた解説者がいた。最強の格闘技である相撲出身の市太郎は、それを鼻でせせら笑ったものである。しかし、試合開始のホイッスルが鳴って以降、市太郎は考えを改めた。
 試合は国立浜川が一方的に攻め、開始十五分で既に十本のシュートを放っていた。そのいずれもがコース、威力ともに完璧。入ってもおかしくないものばかりだった。しかし問題はシュートではない。国立浜川は、プロの試合などで目にするフェイントなどを一切使わなかった。にも関わらず星雲高校イレブンはボールに触れることが出来ないのである。星雲の選手がボールに触れに行くやたちまち国立浜川選手の屈強な身体に跳ね飛ばされた。まるで圧倒的な身体能力の差を誇示するかのように、国立浜川はプレーしたのだ。
 それでも星雲高校は、ここまで監督の采配が見事に的中したと言っていい。完全に守勢に立たされたものの、キーパーの前に九人が立ちはだかり、まるでスクラムを組むようにゴール前に壁を作った。だから十本の強烈なシュートもキーパー+九人の身体に当たって跳ね返すことが出来たのだ。試合はそのまま進み、前半終了まであと五分というところで国立浜川のシュート数は四十本を数えた。実に一分に一本の割合である。しかし、さしもの国立浜川もゴール前を九人で固める星雲高校の戦術には手を焼いていた。
 その時、国立浜川ベンチの監督が立ち上がった。そして、無言のまま両手を振り、何やらジェスチャーで選手に指示を与えた。しかしポジションを替えるでもなく、特に国立浜川に動きは無かった。
 それから一分後、国立浜川の選手が放ったシュートを星雲高校のデフェンダーがクリア。その時、国立浜川の寄せが一瞬出遅れた。その隙に星雲高校は前線にロングパス。全員が攻撃に参加していた国立浜川の裏を付き、ボールが点々と転がった。国立浜川のデフェンダーを尻目に、唯一守備から外された中山がボールに追い付いた。星雲高校は千載一遇のチャンスを得たのである。
 中山は、その小さな身体が壊れそうなほど必死に走った。足が自分の限界を超えて激しく回転し、肩が抜けそうなほど腕が前後に振れた。目の前の光景は激しく揺れ、ボールが幾つもあるように見えた。それでもこの二度と来ないであろうチャンスを逃す訳にはいかなかった。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-13-

「遠慮しとくよ。みんなずっとサッカーをやってきた人たちばかりだろ。そんな中に俺みたいな素人が混じっても邪魔しちゃうだけだよ」
「そう言わずに練習に顔を出してみない?」
「いや、ちょっと」
「そっか。じゃ、三年生にとって最後の大会の一回戦が今度の日曜日にあるんだ。出来れば応援に来て欲しいな。弱いからさ、あんまり応援に来てくれ貰えないんだ」
そう言うと中山は美しく澄んだ目で市太郎を見つめた。今時、これほど一途な瞳に会った事は無かった。市太郎はその目に気圧され、思わず首を縦に振ってしまった。
「ありがとう」
中山は深々と頭を下げると、爽やかな一陣の風のように去って行った。
 その予選の日が今日である。開始時刻は一時だった。その時、突然声がした。
「おい、そろそろ用意しねえと中山の約束に間に合わねえぞ!」
いつの間にか窓拭き用のゴンドラが、再び市太郎の部屋の窓の外にあった。開いた窓から真奈美が顔を入れ、市太郎に叫んだのだ。
「なんでお前が知ってるんだよ!」
「だって、この間の昼休みに話してたろ。後ろで聞いてたんだよ」
「人の話を勝手に聞くなよ!」
今度は窓から妹の留美子が顔を出した。
「お兄ちゃん、そんなこといいから早く着替えなさいよ。間に合わなくなっちゃうよ!」
仕方なく市太郎は着替えることにした。
「ちょっと窓閉めて」
「なんで?」
「ズボンを履き替えるんだよ!」
「早く履き替えろよ」
「だから窓を閉めろよ」
「恥かしがるなよ。小学校の頃うんこ漏らしてみんなの前でパンツ脱いだじゃねえかよ」
それを聞いて留美子が「ええ!」と驚きの声を上げ、それから「ププッ」と噴出すのが聞こえた。間違い無く真奈美は自分の恥を妹の留美子に教えて悦んでいるのだ。相変わらずのいじめっ子だ、と市太郎は心の中で呟くと怒りで目に涙が浮かんで来るのが分かった。窓際まで行き、思い切り窓を閉めた。薄いカーテン越しに真奈美と留美子が一瞬、驚いた顔をしたのが見えた。それから二人は薄笑いを浮かべながら下がって行った。ゴンドラを降下させていったのだ。
 二人の姿がすっかり見えなくなったところで、市太郎は出来るだけ早く中山君の試合を見に行こう、と思った。早く、家から外へ出てあの二人のいないところへ行きたかったのだ。すっかり着替え終わって時計を見るとまだ十二時前だ。途中で昼食を食べて行けばちょうどいい。市太郎は巨体を揺らしながら家から駆け出した。

 ハンバーガーは三個だけにした。飲み物もコーラではなくウーロン茶。一応、市太郎はダイエットを心掛けていたのだ。しかし、そんな程度の量などブラックホールのごとき市太郎の腹の中にあっという間に消えていってしまった。まだ店に入って三分も立たないというのにだ。このまま店にいると追加注文したい欲求に負けてしまいそうだったので、早々に席を立った。出口に向う。しかし、ファーストフード店の出入り口は昼食時ということもあり混雑していた。市太郎の巨体は順番待ちする人々から迷惑そうな視線を向けられた。出掛けに、
「あ!や、やっぱりお持ち帰りにしてくれ!」
という声が順番待ちの列の一番先頭から聞こえた。どうやら注文品が揃った段階で、持ち帰り用に変更して欲しいと言っている迷惑な客がいるらしい。市太郎はその客の声に聞き覚えがあるような気もしたが、確認するのも面倒だったので、そのまま中山たちが試合をするグラウンドに向った。
 予選会場となった市営グラウンドには、応援団が大挙して駆け付けていた。といってもほとんど敵の応援団である。芝生を敷き詰めた観客席は片側だけ観衆に埋め尽くされたいた。相手は優勝候補に上げられる強豪校らしい。市太郎の通う青雲高校のように弱小チームは強豪校の噛ませ犬として扱われている訳だ。噛ませ犬という表現が悪いなら、練習相手とでも言おうか。いずれにせよ相手チームは監督はじめ選手達もリラックスしまくっている。
「やあ、来てくれたんだね」
ユニホーム姿の中山が、芝生席に立ち尽くして相手応援団の迫力に身を固くする市太郎に声を掛けてきた。声に気付いて市太郎が振り返ると、中山は華奢な身体に不釣合いな肩幅の広いユニホームを重そうに着ていた。まるで大人の服を無理矢理着させられた子供のようである。小柄な彼が普段以上に小柄に見えた。よく見ると中山の膝が震えていた。その為に膝が曲がり猫背になり、必要以上に小さく見えたらしい。
「ふふ、市立浜橋って凄く強いんだ。全国でも有名な高校さ。なんとか惨めな負け方だけはしないように頑張らなくっちゃ」
中山は笑顔を作って見せたらしいが、市太郎には泣き顔にしか見えなかった。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-13-

 こんな下品な女のどこがいいのだろうと思うのだが、留美子は真奈美と大の仲良しだ、それどころか尊敬している節すらある。最近は真奈美の下品な言葉遣いを真似したりする始末だ。
「おい、なんか部活でもやった方がいいんじゃねえのか?」
真奈美が薄ら笑いを浮かべながら言ってきた。
「少しは痩せるぜ」
「もう三年生だもの。今更入部しても他の部員の迷惑だよ」
「試合に出ようっ言ってんじゃねえんだ。ただ、一緒に練習させて貰うだけだよ」
「それなら一人だって出来るじゃないか」
「一人じゃやらねえだろ。こうして毎日ごろごろごろごろしてると本当に豚になっちまうぞ」
「大きなお世話だよ!勝手に人の部屋に入ってきて。それも窓からなんて不法侵入じゃないか!」
「だって、窓拭きやってたんだよ」
言われて見ると、屋上から窓拭き用のゴンドラが吊るされてた。
「とにかく出てってくれよ。留美子!お前も出てけよ」
留美子と真奈美は顔を見合わせどちらからともなく「行くか」と声を掛けると窓の方へ向った。途中、留美子が「せっかく心配してるのに」と聞こえよがしに呟いたが市太郎は無視した。窓の閉まる音がしたのでそっと見ると、留美子と真奈美がゴンドラに乗って降りて行くのが見えた。
「部活かあ」
二人が消えた部屋で市太郎はポツリと呟いた。あてが無い訳では無い。実は今日、同じクラスの中山君から誘いを受けたのだ。
「サッカー部に入らない?いや、入ってくれないかなあ」
「え?サッカー部?俺みたいなデブなんかとっても無理だよ」
「そんなことないさ。湊くんなら、そうだね、身体が大きいからデフェンダーに向いてるよ」
「そ、そう?でも自信ないなあ。サッカーなんてやったことないもの。あれって運動神経のいい人がやるスポーツじゃないか」
「そんなことないよ。楽しくやればいいのさ。幸いうちの高校のサッカー部は強豪じゃないからね。楽しくやるのが一番の目的なんだ」
「へえ。でも、人気スポーツだから部員なんて沢山、いるんだろ?僕なんて足手まといになるだけだよきっと」
「あ、ああ、そうだね。幸い強豪じゃないから、実は一年生まで入れて十一人しかいないんだ」
「へ?サッカーって何人でやるんだっけ?」
「イレブンだから十一人だよ」
「じゃ、ぎりぎりかあ」
「そ、そうなんだけど。あの、僕がさ、ほらこの通り身体が小さいでしょ。それに運動神経も鈍いから、結構みんなの足手まといなんだよね。それで、いつも僕が狙われて点取られてるから、誰か代わりの選手を探して来いって」
「え?探して来いって言われたの?」
「う、ううん。違う。違うよ。探して来ようって僕が思ったんだ。三年間に一度くらい勝ってみたいからね」
 確かに中山は背が低い上に痩せていて華奢である。体育の授業を見ても、足は遅いしとても運動神経が良いとは思えない。しかし、中山が練習熱心なのは市太郎も知っていた。市太郎ばかりではない、学校の誰もが知っていた。朝、登校すると必ず中山がボールを蹴っている姿を見た。昼休みも、必ず校庭で練習する中山を見た。夕方も勿論だ。彼のカバンの中にはいつもサッカー雑誌が入っているのが見えた。それも有名選手が表紙を飾るミーハーなものではなく、まるで文芸誌のように地味な拍子のサッカーに関する教本と思われるものだ。そんな中山が、自分の代わりの選手を探していると思うと市太郎は胸が痛くなった。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-12-

 という訳で留美子と市太郎は異父兄妹だった。彼女が生まれた時、母は美容院を始めたばかりだった。成功の予感すら感じられないほど小さな店だったが、それでも家賃や、設備類の購入費は馬鹿にならなかった。借金の返済に四苦八苦していたのだ。思い返せば貧乏のどん底。更に父親のいない子である。到底、赤ん坊を育てる余裕など無かった。そこで留美子は生まれてすぐ、母の実家にあずけられた。母の両親の元で育ったのだ。それからずっと母は忙しく、実家に戻る余裕は無かった。だから市太郎と留美子は一度も会ったことが無かったのだ。それがこの数年で母が有名カリスマ美容師となり、全国チェーンが大成功を収め、晴れて親子三人、一緒に暮らせることとなったのだ。
 留美子は母親似で、兄の市太郎から見てもなかなかの美少女だったが、口煩いのが玉に瑕だった。父親と言うのが、よほど神経質な人物だったに違いない、と市太郎は思った。
「ああ!なんでこんなデブなの。お兄ちゃんがいるっていうから、スリムで背が高くてスポーツマンの爽やかな人だったらいいなあ、って期待してたのに!」
市太郎はムッとした。その顔を見て留美子は更に続けた。
「背が高いっていうより、ただデカイだけだし、スポーツっていっても相撲じゃあね。格好悪くて友達に紹介出来ないよ」
などと好きなことを言い放った。
「お前さ、勝手に人の部屋に入ってくるなよな!」
「だって私が言わなきゃ、お兄ちゃんずっとそうして寝転んでるでしょ!少しは動かないとますます太るよ!」
などという会話を幾度か繰り返しているうち
「こんちわー」
という声がした。しかし入り口を見たが誰もいない。首を傾げるうち窓が開く音がした。見ると、ベランダから作業着姿の男、いや女が侵入してきた。
「あ!真奈美さんだ」
窓から入ってきたのは市太郎の家の使用人一家の一人娘、真奈美だった。
 本宮真奈美は、子供の頃から隣の家に住んでいた。市太郎とは保育園も小学校も中学、そして高校とずっと同級生である。ほんの数年前まで真奈美の父は三代続く建設会社の社長だった。この近辺の道路や橋、高速道路、ビルなど主だった工事現場にはみんな本宮組の看板が立っていたものだ。だから真奈美の家は、大金持ちだった。屋敷も、当時の市太郎の家の五倍くらい大きかった。車も外車で、運転手までいた。そんな真奈美を、貧しかった市太郎は羨ましく思ったものである。それが、この数年間に何があったのか、突然倒産した。二年ほど前のことである。外車や使用人はすぐにどこかへ消えてしまった。巨大な屋敷も売りに出されたのだ。
 世の中というのは不思議なもので、ちょうど時を同じくして市太郎の母が突如大成功を収めた。すると本宮家の屋敷も含め周辺の家々を全て買収、そこに巨大な城の如き家を建築したのだった。そして、ついでのように広大な庭の一角に小さな家を建てた。本宮真奈美の家族は、市太郎の家の使用人としてそこに住むことになったのだ。
 真奈美は何の遠慮も無く、窓から侵入してきた。
「おう留美ちゃん。こんな空気の悪い部屋で何やってんだ。折角の美少女が台無しだぜ」
「真奈美さんいらっしゃーい。真奈美さんからも言ってあげて!お兄ちゃんずっとテレビ見ながら寝転んでるの」
「何?お兄ちゃん?どこに?」
言いながら真奈美はわざとらしく市太郎の腹を足で踏んだ。
「おお!なんだそこにいたのか。てっきり豚のクッションかと思ったぜ」
 真奈美は、金持ちだったくせに小さい頃から見た目も性格も、喋り方は勿論、まるで男の子のようだった。金持ちだったといっても土建会社の娘だから大雑把というか粗雑に育ったのかもしれない。気の小さい市太郎は、小さい頃から真奈美が苦手だった。そして市太郎が苦手に思えば思うほど真奈美は市太郎にちょっかいを出してきた。そうして市太郎は小さい頃からずっと苛められてきた気がしていた。だから、身体が真奈美よりずっと大きくなった今でも真奈美には抵抗できなかった。
「ひひひ」
真奈美はまるで酔っ払った中年男のような下品な笑いを浮かべると、市太郎の腹の上に乗せた足をぐるぐると回した。
「おーい、このデブ。このまま寝てると本当に豚になっちまうぞー」
それからまた
「ひひひ」
と品無く笑った。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-11-

「あなた細かいわねえ。お相撲さんってもっと豪快だと思ってたわ」
「誤魔化すな!いったい留美子って誰だ?」
「あなたの血を分けた妹よ」
「じゃ!」
「お父さんは、別の人です」
市太郎は膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。すると、頭上から母の声が降り注いだ。再び、天井に、館全体に母の声が響き渡り、その振動が市太郎の耳ではなく身体を通して聞こえてくるようだった。
「やっぱりね!だから言わなかったのよ。あんたがショックを受けるんじゃないかって思ったから。でもね。私だって生身の女です。ですからあの人が死んだ後、ずっと一人でいるなんて出来ないの」
「じゃ、誰がお父さんなの?」
「それは秘密」
「なんで?なんでその人と再婚しないの?」
「だって、あなたが『お母さん再婚してもいい?』って訊いたら『やだ!』って言ったじゃない」
「いつの話だい!?そんな憶えないぞ」
「えーっと、幼稚園の年中さんの頃かな?」
「そんな!まだ父さんが死んでから一、二年しか経ってないじゃないか!」
「でも、あなたに駄目って言われたから、その時の人とは別れたの。だって彼、独身だったから私と結婚したがったんだもの」
「ええ!じゃ、その時はまた別の人?」
「そ、そうよ。それから六人目よ。留美ちゃんのお父さんとお付き合いするようになったのは」
「な、な、ところでその男は誰だ?」
「駄目。言えないわ。言ってはいけないの」
「何故だ!」
「彼は家庭のある人だから」
「ええ!じゃ、不倫って奴?」
「ち、違うわ!純粋な恋愛よ。これだから子供は困るわ!だから内緒にしてたのよ。まったく世間知らずのお子ちゃまに大人の話に首を突っ込んで欲しくないわ!」
母は明らかに逆切れしていた。市太郎は「ううっ」と小さくうめくしかなかった。
 市太郎は子供の頃から「お前の父親は優秀だった」とか「超・格好いい人だった」とか「スポーツ万能&大学一流」と聞かされて育ってきたのだ。それがコンプレックスにもなっていたし、既に記憶に無い父の姿は市太郎にとって完全無欠な男の理想像と化していた。その父を、母はいとも簡単に忘れ去り、あろうことかその後六人もの男達と恋愛していたというのだ。
「まさか、その後も色んな人と付き合ってきたの?」
「まさかあ!あなた、母さんを恋愛依存症だとかって勘違いしたんじゃないでしょうね。留美ちゃんのパパと出会って以来、ずっと彼一筋です」
他の男と一筋だなどと言われてもあまり嬉しいものではない。
「その人、そんなに格好いいの?それともお金持ち?」
「え?馬鹿ねえ。男の良さは見てくれじゃないわよ。お金でも無いわ。優しさが一番なの。この人は私を大切にしてくれる、って思う人に女は恋するのよ」
母の瞳が乙女のように輝いた。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-10-

 普通の高校生活をエンジョイする為には、少し太り過ぎているような気がしていた。ダイエットしなければと思うのだが、相撲部屋に居た頃のドカ喰い癖はなかなか直らない。
「このデブ!少し動かないとますます太るよ」
妹の留美子が罵るように言った。勝手に市太郎の部屋に入ってきたのだ。
「毎日テレビばっか見てごろごろしてる!」
まったく小学生だというのに可愛げが無い奴だ、と市太郎は留美子を睨み付けた。しかし留美子はそんなことお構いなしに続けた。
「まったくパソコンにはまって引き篭もりになるんなら分かるけど、テレビにはまって引き篭もる人なんて初めて聞いたわ!」
二年間、相撲部屋にいた市太郎は、毎日の修行から解放された結果、暇になった。することが無いのでテレビを付けたところ思いのほか面白くてはまってしまった、という浦島太郎のような状態だったのだ。
「まだ、六時前だよ。全然明るいんだよ。その辺でも走ってきたら。本当は運動部にでも入ってしごいて貰った方がいいよ」
なんてことまで言った。
 市太郎だってダイエットの為にも運動部にでも入ろうかと思った。が、もう三年である。同級生たちは皆、最後の大会に向け頑張っている。今更、入れてくれる部などありそうも無いのだ。そう思うと起きる気にもなれなかった。
 留美子はまだあーだこーだと文句を言っている。無口な自分に比べこいつは酷いお喋りだ、と市太郎は思った。だいたいある日突然やってきた留美子を、市太郎は妹だとは思えないのだった。

 留美子は、市太郎がこの家に戻った週の日曜日やってきた。朝食を食べていると突然、母が
「今日、留美ちゃんが来るから」
と言ったのだ。市太郎が誰のことか分からず首を傾げていると
「あなたの妹よ」
と涼しい顔で言った。もしや相撲部屋でぶちかましの練習中に何度か失神し、その時の後遺症で妹の記憶を無くしたのか?と心配してみたが、どう考えても自分に妹がいたなど考えられない。食事の後、部屋に戻って子供の頃のアルバムや日記を見てみたが、妹のいた形跡はなかった。
 しばらくすると玄関で祖母の声がした。
「玄関に置いておくから、市太郎が部屋に運んでおくれ」
留美ちゃんという妹の荷物を運んできたらしい。市太郎は自分の部屋から出て階段を降り、玄関に行ってみると荷物はランドセルや画板。あとは衣類が主なものだが、どう見ても小学生の荷物である。父は市太郎が三歳の時に死んだのだから妹がいたとすれば、最低十四歳の筈。計算が合わないではないか。そんなことを考えていると突然、背後から
「ボーっとしてないで、力があるのだけが取り柄でしょ!さっさと手伝って」
どこからともなく母の声がした。相撲部屋に入っていた二年と少しの間に粗末な家は、周囲にあった十軒ばかりを飲み込むように巨大な城に建て替えられていた。まるで少女漫画から飛び出してきたような洋館である。それが趣味が良いのか悪いのか市太郎には分からなかったが美容業界のカリスマである母が陣頭指揮を取って設計したというのだから、認めざるを得ないだろう。
 再び
「何やってるの?もう、さっさと手伝って。留美ちゃんのお荷物を二階のお部屋に上げて頂戴!」
 館の天井は高く、広い。さながら音楽ホールのように声が響いた。声はすれどどこにいるのか分からない。まるで館そのものが母のようでもあるし、館の天井を通して天上界から母が語り掛けてきているような錯覚に襲われた。しかし話の中身は神々しいものなどではなく、声の調子から苛立っているのは感じ取れた。市太郎は小さく
「はいはい」
と呟きながら腰を上げた。
「はいはい、じゃ無いでしょ!まったく返事の仕方も教えて貰わなかったの?だからお相撲なんて嫌なのよ。野蛮で粗野で、その上Tバックみたいの履いて、なんて破廉恥なのかしら!」
相撲部屋とプロレス道場ほど、礼儀に厳しいところは無いと言うのに、と思いながら市太郎は玄関に行き、祖母が持ち込んだと思われる荷物を二階に持ち上げた。
 母が朝、妹の部屋と呼んだ部屋は、市太郎の部屋の隣だった。兄妹だから当然なのだろうが、見知らぬ女の子が隣に寝起きすると思うと仲良くやれるか心配になった。相手が小学生で良かったと思うが、今時の小学生は高校生よりタチが悪いかも知れない。
「何ボーっとしてんの!早くこっちへ持ってきて」
母は妹の部屋にいたのだった。市太郎が荷物を持って覗いてみると、ベッドカバーを直したり、カーテンを引いたり、せっせと娘が来る準備をしていた。
「ああ、適当にその辺に置いといて」
と母は市太郎の方も見ずに言った。どうもおかしい。朝、何の前触れも無く「おまえの妹が来るから」と言い出したのもおかしいが、それから今までずっと市太郎の顔を見ない。まるで避けているかのようである。今だって、ベッドカバーもカーテンも昼間掃除に来てくれる高村さんが昨日のうちに準備してくれたように見える。母はただカーテンを開けたり閉めたり、ベッドカバーを摩ったりしているだけである。
「母さん。ちょっと訊いていいかな?」
「駄目よ!今、急がしいの」
「何が?」
「何が?って見れば分かるでしょ。お部屋の掃除よ」
「もうさっきから二0回もカーテンを開けたり閉めたりしてるよ」
市太郎に指摘されると、母は初めて気付いたようにカーテンから手を離した。
「ほほほほほほほほ。レールの滑りが悪いかも、なんて思ったの」
「苦しいいい訳はよしなよ。それより、何がなんだか分からないんだ」
「何が?そんなに難しい宿題が出たの?」
「誤魔化さないでくれ。どう考えてもおかしい。だって、父さんは僕が三歳の時に死んだんだろ。なら、僕に妹がいたとするなら最低十四歳の筈だ」

サッカー小説!「相撲ストライカー」-9-

「それとおいらを追い出すこととどんな関係があるんだい?」
「おれはあの日、自分に誓いを立てちまったんだ。一生結ばれなくても麗を幸せにするってな。だからおめえを・・・」
親方の言葉を遮るように市太郎は立ち上がった。その身体からは湯気が立ち上っているかに見えた。目、鼻、口、耳と身体の穴という穴から憤怒が蒸気となって噴出しているように見えた。
「い、イチ!落ち着け!この三年間、おめえはよく頑張った。今はすっかり角界の星だ。あの、無敵の魁座亜皇をぶっとばすなんて、おめえ以外の誰も出来ねえ。そんなおめえを手放す俺は本当に駄目な奴だ」
しかし市太郎は鬼のような形相で親方を睨み付けると「信じられねえよ」とだけ言った。
「もう親方の何もかもが信じられねえんだ!」
言うなり市太郎は走り出した。背中に親方の呼ぶ声が聞こえたが聞こえたが、両耳に手を当て聞こえないようにして走った。目は開いていたが何も見えなかった。見えてくるのは親方の部屋に入門してからの三年、その間の色々な思い出ばかりだった。父を知らず、母も物心付いた時には仕事の鬼となっており、家に帰っても誰も居ない毎日だった。暖かい家庭というものを知らなかった。そんな市太郎にとって親方と女将さんはまるで父母のように思えたのだ。毎日の練習は厳しかったけれど、何かと面倒を見てくれたり、お節介を焼いてくれたり、小言を言ったり、時には叱ってくれたり、そして何よりいつも家にいてくれることが嬉しかったのだ。そんな日々が全部嘘っぱちだったと思うと涙が溢れてきた。でも本当のところ嘘っぱちなんかじゃなかったと思うともっと涙が出てきた。聡明な市太郎は、そうした日々が嘘じゃないことくらい分かっていたのだ。
 一方で相撲部屋を出なければいけないことも事実だった。そしてそれは親方が母への愛に殉じた為なのだ。
「『誓い』ってさ。自分で勝手に誓っただけだろおい。昔だったら許されない話だよな」
市太郎は一人呟いた。何度も親方の話を頭の中で反芻しながら市太郎は夕闇が辺りを支配するまで歩き続けた。歩き続けた後、市太郎はなんだか馬鹿馬鹿しい話に付き合わされた気がしてきた。三年も、いや初めて公園で会った時から考えると六年もこんな話に突き合わされたのかと思うと損害賠償くらい請求したい気にもなったが、幸い部屋から高校に通わせてもらっていたのでここらで普通の高校生になるのもいいかもしれない、などとも考えた。
 気付くと市太郎は家の前にいた。何時の間にか建て替えられ、すっかり立派になった玄関のドアを開けた。
「ただいま」
と言って中に入ると
「おかえり」
という母の声がした。

サッカー小説!「相撲ストライカー」-8-

「言い訳がましい言い方はしないでくれよ」
「そう言わずに聞け。まずな、おめえの言う通り最初に会ったあの日、おめえに声を掛けたのは、おめえが美久ちゃんの子供だったからだ。おめえは忘れちまっただろうが、おれはおめえをもっと小せえ頃から知ってる。でな、おめえが今にも自殺しそうな顔してたから放って置けなかったんだ。で、聞いてみれば足が遅いの何のって、それなら俺が教えてやりゃあ少しは速くなるんじゃねえかってな。相撲取りはみんな足が速えんだよ。でな、教えた訳よ」
「やっぱりな、母さん目当てか。そうしておいらと仲良くなれば母に取り入れるとか思ったんだろ」
「そうだ。その通りだ。でもな、ここからが肝心なんだ。それで教えているうち、おめえの走りがみるみる見違えるのが分かった。どころか日本最高のランニングバックって言われたおめえの父親にそっくり走り方になってくるじゃねえか」
父がラグビーの選手だったって話は以前、酔った親方から聞いたことが合った。親方が母を諦めた理由が父なのだそうだ。
『学校出るまで喧嘩じゃ負けたことがねえ力自慢の俺が、大物新人として名門赤砂部屋に入門し、意気揚揚としてたころだ。肩で風切って歩いてた俺様が、道端で擦れ違った男に一捻りにされちまった。「てめえ!俺様を誰だと思ってやがる!」なんて素人相手にぶちかました俺を、見事なほどに腰を落としがっしりと受け止めやがった。その上「この野郎!」と叫びながら押しまくる俺を、簡単にいなしやがった。それがおめえの父親。大学一年坊主にして初の全日本代表ラガーメン。パワーは相撲取りだけの専売特許じゃねえ、って思い知らされた。以来、俺は技の研究にいそしんだのだ』
『それで親方は小技専門だったんですね』
『小技とは何て言い草だ!テクニシャンと呼んでくれ』
『でも立会いで変化し過ぎて協会からクレームが出たって』
『そんなこたあいいんだ。それより俺は、その時点でこの男には叶わねえ、って悟ったんだ。人生とは不思議なもので、そいつが俺の一等大切な美久ちゃんと恋に落ちちまったんだよ。泣いたなあ、あの時は、朝まで泣き明かした。生まれてこの方あんなに泣いたのは初めてだ。でも、あんな凄い奴と結婚すれば、美久ちゃんは間違い無く幸せになるって、そう思って身を引いたんだ』
などという会話を思い出した。
「でさ、たった三年でクラスで一番速くなって陸上部からも誘われたろ」
「だって初めから『俺の言う通りにすれば一番速くなれる』って言ったじゃないか」
「馬鹿言うねえ。相撲取りだって魔術師じゃねえんだ。才能の限界を超えることは簡単じゃねえ。第一、おめえ以外の生徒だって野球やったりサッカーやったり、毎日鍛えてんだからよお」
「じゃ、嘘だったってこと?」
「励ます為に言ったのさ。嘘も方便って言うだろ」
「酷すぎる」
「でもさ、中学を卒業する頃のおめえは、すっかり見違えるような走りをしやがった。ただ早えだけじゃねえ、父親譲りの力強え走りだ。相手のデフェンダーを三人くれえは楽に引き摺ってトライしたあの走りにそっくりになりやがった。俺じゃなくてもスカウトしてるよ。間違えねえ」
親方は禿頭の頂きに乗せた手拭いを取ると「ちょっくら絞ってくらあ」と言い、再び水のみ場の水で手拭いを濡らした。戻りながら丁寧にたたむ。図体がでかい割に几帳面なのだ。きちんと四ッ折にされた手拭いをさっきと同じように頭に乗せると「よっこらしょ」と言ってベンチの一太郎の隣に座った。
「おめえの親父が突然、くたばった時には、本当に驚いた。だけじゃねえ、俺はおめえの親父を憎んだ。だってそうだろ。結婚してまだ三年だぞ。そんなんで死ぬなら初めから結婚するな、ってんだ。その時、美久ちゃんはまだ二十五だぜ。あと何十年、未亡人として生きるってんだ。今だから言うが、おれは本気で美久ちゃんと再婚しようと考えたんだ。だがな、美久ちゃんは俺なんざ相手にしてくれなかった。『馬鹿言わないで。あなたには清美さんがいるじゃない』って、貰ったばかりの女房の名前を出されちまったんだ。『あれは間違いだったんだ!俺が本当に添い遂げてえのは美久ちゃんなんだ』って言ったら『やめて!それ以上言ったら寛さんのとこ嫌いになってしまうよ』だとよ。おれは完全にふられちまったのさ」

サッカー小説!「相撲ストライカー」-7-

「毎朝早起きしちゃあ稽古して、それから高校に行って、帰ってきてからまた稽古、それから全員の飯を作って、後片付けをしたら勉強だ。よくやったよ」
「勉強は親方がやれって言ったんだよ」
「そうだ。今時、馬鹿じゃあ相撲は取れねえ。それにしてもよくやった」
親方は市太郎の頭に手を置いた。それは父親が息子に対するような力強さを伴っていた。
「おめえの成績なら、そこそこの大学なら楽に受かるだろう」
それから親方は恐れていた言葉を口にした。
「イチ。一度お母さんのところへ帰れ」
市太郎は自分の予感が正解だったことを確認してから、親方の言うところを理解した。それから親方に質問した。
「魁座亜皇関に怪我をさせてしまったから?」
「そんなんじゃねえ。怪我をした方が未熟なんだ」
「じゃ、僕に才能が無いから?」
「何言ってる!おめえの立会いはいつ見ても惚れ惚れするぜ。カイザーを吹っ飛ばした時なんざ全盛期の千代の富士と見紛ったぜ。あのぶちかましで吹き飛ばねえ奴はいねえ」
「じゃ、何で?」
聞かれた親方は少し方をすぼませると、叱られた子供のように小さな声で答えた。
「美久ちゃんはな、想像を絶する苦労をして、仕事が大成功してみたらおめえはいねえ。一人ぼっちだったって気付いちまったんだ。それで突然、返せ、と言ってきた。息子を相撲取りなんぞにする気は無いともな。監禁だなんて言って警察連れて来たり、弁護士立てて裁判に訴えるなんて言ってきたりした。が、おめえがあんまり熱心だったもんで、全部撥ね付けてやったんだが・・・」
「だったら何で今ごろ?」
親方は急に泣きそうな顔になると両手の平を市太郎の顔の前で拝むように合わせた。
「済まねえ!」
地面に着きそうなほど頭を下げた。
「美久ちゃんは寂しいんだよ。そんな美久ちゃんからおめえを引き離せねえんだ。情けねえ俺を許してくれ」
親方はもう一度頭を下げた。その拍子で乗せておいた手拭いが落ち、禿頭が露になった。さっきまで鞭打たれたような蚯蚓腫れが幾重にも折り重なり、奇妙な絵を描いたようであったにも関わらず、すっかり引き、僅かに赤い線が現れているだけだった。その様を見ながら市太郎は自分の心が凍り付いていくのを感じていた。すると、ずっと感じていた疑問が顔を出してきた。それは何年もかけて心の底に追いやったものだった。しかし一度顔を出すやたちまちに市太郎の心に広がり、あっというまにいっぱいに満たしてしまった。そしてそれは悪魔のように市太郎の耳元で囁いたのだ。市太郎は囁かれるままを口にした。
「僕が母の子供だったから。親方は目を掛けてくれたんだ。これって縁故ですよね。実力の世界にはあってはならない」
「な、何言ってやがんだ!?」
「尊敬する親方を疑いたくないけど、あの日、親方は母に近付く為に僕に声を掛けたんでしょう」
「え!?そ、そ」
親方は慌てて市太郎を見た。が、市太郎の視線は憎しみで満ち満ちているかのごとく凍えるような冷たさを放っていた。その視線に親方は一瞬で気圧されてしまった。それでも勝負の世界で生きてきた親方である。一度目を外し小さく咳払いをして気持ちを取り直してから、
「あ、あのな、市太郎」
と、そこまで言いそれからもう一度腕組みをして十分に間合いを取ったところで市太郎に向き直った。
「お前の言うことは、一面では正しいが、また間違ってもいる」

サッカー小説!「相撲ストライカー」-6-

 すっかり母の引っ掻き傷だらけになった親方とともに市太郎は帰路に着いた。歩くほどに太陽に照らされ親方の禿頭には脂汗が滲んだ。まだ春とはいえ今年は日差しが強い。まるで夏まっさかりのようなきつい日差しが照っている。おかげで親方の禿頭からは止め処無く脂汗が湧いて出た。その上、親方の脂汗はとても濃くて塩気の強いらしい。
「い、つつつつ、痛!」
案の定、母に引っ掻かれた傷口に濃い脂汗が沁みるらしい。腰のベルトから下げた手拭いを手に取り静かに、軽く叩くように慎重に汗を拭き取ったが、それでも痛いらしい。
「おいイチ!走って帰るぞ」
と親方は言った。痛みに耐えかねたのだろう。親方と市太郎はマラソンの練習でもするように恐ろしい早さで走った。実家から部屋まではわずかに一キロ。しかし、走るほどに親方の禿頭は塩っ辛い脂汗を噴出すらしく、見る間に禿頭は幾重にも蚯蚓腫れが浮き出た。
「ああー!もう駄目だ!」
「親方!公園に水飲み場がある。そこで洗ったらいい」
「ナイスだ!」
二人は道路脇に見えた公園に一目散に掛けこんだ。親方は水のみ場の蛇口を捻り思い切り水をじゃあじゃあ流すと引っ掻いた線上に幾重にも火脹れした頭をその中に突っ込んだ。豊富な水が親方の腫れ上がった頭を覆うと、真っ赤なみみず腫れが次第に引いてくるのが分かった。
「はふー。生き返るー」
「良かった。親方の頭、どうかなっちゃうかと思いましたよ」
「まったくだ。拷問みてえだったぜ」
親方は蛇口から迸り出る水に頭を晒したまま答えた。
「それにしてもおめえのおっかあは爪が長過ぎるぜ!」
「本当。相撲の親方っていうよりデスマッチ専門のレスラーみてーです」
まったくだ、と親方は呟きながら手拭いを水で洗い出した。頭の腫れはなんとか収まったようだ。不思議なもので、さっきまであれほど凪いで直射日光が親方の頭から塩っ辛い脂汗をたっぷり噴出させていたというのに、それが収まると同時に緩やかな風が吹いてきた。親方は水に濡らした手拭いを丁寧に畳むと、銭湯にでも入っているような調子で、その禿頭の上に乗せた。そうして水のみ場の近くのベンチに座った。市太郎も隣に座った。二人のほかには人っ子一人いなかった。
「まったく今時の子供らは公園で遊ぶより家の中でゲームやってる方が好きときてる」
ふーっと親方は大きな溜息を付いた。
「戦争にでもなったら日本は終わりだぜ。みんな脳味噌ばっかり発達して身体が出来てねえ。おっと俺は戦争がいいって言ってる訳じゃあねえ。戦争は無いに越したことはねえ。ものの例えだよ」
親方が何かを言おうとしていることは市太郎にも分かった。しかし何を言おうとしているのかは分からなかった。市太郎は親方につられて遠くを見たが、何も見えなかった。公園の向こう側の住宅街の背が見えるだけだった。
「ここを卒業してから何年になるかな?」
この市太郎の家の近くの公園で、三年間、親方に百メートル走の練習をしてもらったのだった。ここを卒業してからと言えばイコール入門してからの年数となる。市太郎は二年と一ヶ月と答えようとして口をつぐんだ。それを言ってしまえば、親方がとんでもないことを言いそうだったからだ。しかし親方は市太郎の返事を待たず「二年と一ヶ月か」などと呟くように言った。